2025年6月22日主日礼拝説教 ローマ人への手紙2:6~16 「人々の隠された事柄を神がさばかれるその日」

 2025622日主日礼拝説教

ローマ人への手紙2616

「人々の隠された事柄を神がさばかれるその日」

序.他人に見せていない自分、自分でも認められていない自分

 ふとした瞬間に「自分って、本当はどんな人間なんだろう」と立ち止まるような経験があるでしょうか。誰しも自分とはこういう人間で、こういう考え方をして、こういう生き方をしているという自己理解があります。しかし人間の心、考え、思いというのはそれほど単純にはできていません。自分の中に自分の知らない自分がいることに気が付く瞬間というのがあります。

例えば、一日中誰かと一緒に話していて、その後ひとりで静かになったとき、あれ、本当の自分ってどこにあるのだろうと考えるようなことはないでしょうか。そこには、人と会う時に身に着ける役割と自分の心の動きにギャップがあるからでしょう。

あるいは、こういうのはどうでそう。悩み事にとらわれて悶々と過ごした後、自分の抱えている思いの自己中心的な醜さに、はっと気が付く。そういうことはないでしょうか。自分自身のなかにこんなに醜い思いがあったことに自分で驚く、という。

 

 私たちには、他人には見せていない面というものが多かれ少なかれあるものです。またそれだけでなく、実は自分自身でも気づかないようにしている、思い、動機、心の動きというものが私たちの中にはあるようです。こうしたことは、静かに自分を顧みたり、本当に正直に自分に向き合ったり、過去の出来事に向き合ったりしないと見えてこないものです。

自分がどのような信念に基づいて感じたり考えたりしているのか、その本当の心の在り方は、他者だけでなく自分自身からも巧妙に隠されていることがあります。そんな隠れたところにまで光を差し込むのが今日の聖書箇所となっています。神は私たちの心の隅々までをご覧になるお方だからです。いったい誰が、このような神様の前に立つときに、平安でいることが出来るのでしょうか。今日は「人々の隠された事柄を神がさばかれるその日」と題してみことばを取り次ぎます。

 

1.すべての人がえこひいきなく、その行いに応じて報いられる

 パウロはまず、神が「一人ひとり、その人の行いに応じて報いられる」と語ります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのち。利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤り。この神の裁きの原則は、ユダヤ人にもギリシア人にも区別なく等しく適用されます。

 忍耐をもって善を行うという生き方は、言い換えれば栄光と誉れと朽ちないものを求める生き方のことです。栄光とは、天の御国にはいる時にキリストの完全なきよさにあずかることです。誉れというのは人間的な栄誉ではなく神からの称賛のこと。朽ちないものを求めるとは、地上ではなく天に宝を積む生き方のこと。つまりは神の国とその義を第一にする生き方のことです。御霊によって新しく生まれた人は、御霊に従うこのような新しい生き方に進みます。その人は永遠のいのちの完全な祝福を受け取るようになります。

 一方で利己的な思いから真理に従わないもの。この利己的な思いという言葉は、以前の翻訳では「党派心を持ち」とか、新共同訳では「反抗心にかられ」とされているものです。唯一真の神を認めず、自分の信条にすがり、神の真理の言葉を拒む生き方です。そのような不義の生き方には、神の怒りと憤りが下ります。

 この個所の印象的な響きは「行いに応じて報いられる」という神様の視点ではないでしょうか。神は行動も心も両方みられるお方です。心がよければ行動が悪くても見逃してくれるというのではない。行いがよければ、心が悪くても見逃してくれるというのでもない。その思いと行いとが、つまり生きている全領域が神の前にどのようなものであるのかが問われると言っているのです。悪を行う者には苦難と苦悩が下り、善を行う者には栄光と誉れと平和が与えられる。そこに人種の区別はない。律法を与えられていたユダヤ人にも、えこひいきはされないという点が強調されるのです。

 

2.律法がなくても、すべての人に神が心の律法(良心)を書き記している(ただし…テモテ115

 しかし、そうするとユダヤ人が律法を知っていることは、何の役にも立たないことなのでしょうか。あるいは、こう言い換えてもいいでしょう。聖書を知らずに、律法を読んだこともない人たちは、どうして彼らと平等に裁かれるということがあるのでしょうか。

 その答えが12節にあります。「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によって裁かれます。」これは一見するとダブルスタンダード、不平等のようにも思われますが、よくよく考えてみるとこれが神の前にある公平であることが分かります。律法なしに罪を犯した者というのは、つまり聖書を読んだこともなく神について考えたこともない異邦人たちのことです。その人たちは律法を知らなかったけれども、滅ぼされます。どうしてでしょうか。それは神がすべて造られた人間の心に良心をお与えになっているからでした。1415節に書かれているところです。聖書を読んだことのない人でも、例えば十戒に書かれている事柄の正しさを理解できるはずです。人間関係について書かれている後半六つの戒めを知っていますでしょうか。「第五戒父と母を敬え、第六戒殺してはならない、第七戒姦淫してはならない、第八戒盗んではならない、第九戒嘘をついてはならない、第十戒他の人のものを欲しがってはならない」当たり前すぎて何をいまさら、というようなことではないでしょうか。しかし聖書を正しく理解すると、これらの言葉のより深い意味が分かり、私たちの誰一人、この戒めを十分には守れてはいないことが分かるようになっていくものです。

 いや、聖書を読んだことのない人であっても、父と母を敬えということがなんとなく大切なことだとわかりながら、心からそれを行うことが出来ていないのではないでしょうか。親にも子にも罪の問題があるからです。殺すな、姦淫するな、盗むなも、そんなのあたりまえのことでしょう。しかし心と行動のすべてをご覧になる神様は、心においても殺していないか、心の中でみだらな思いを抱いていないか、心の中で人をねたんだり蔑んだり攻撃したりしていないかと問われるのです。そして神を知らない人であっても、そのような心の問題がとても大切なんだとどこかで知っているのではないでしょうか。悪口を言っていなければ、悪い思いを抱いていもいいんだと、本当に思えるでしょうか。心の中は憎しみと軽蔑と怒りでいっぱいでも、暴力や暴言を吐いているわけではないから、この人間関係には問題がないんだなどと思えるでしょうか。信仰がなくても、聖書を読んだことがなくても、そんなわけがないと知っているはずです。どうしてかというと、神がそのような良心という基準を人の心にお与えになっているからです。

 しかしこの良心には問題があります。神から離れて生きる人間の良心は、罪の問題を抱えているので、歪んでしまっているのです。開かなくていいですがテトスの手紙115にはこう書かれています。「汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています」これは、クリスチャンでない人は特別に悪いということを言っているのではなく、生まれながらの人はすべてその知性と良心が罪によって汚染されているということを言っているだけです。御霊が働いて、私たちの知性と良心がみ言葉に従って機能するように回復されない限り、私たちは自分の良心さえも歪んだままなのです。その証拠に、皆さんはそれぞれに、ここにたどり着くまで、自分なりに正しいと思った道を歩んでこられたのではないでしょうか。しかし、実際にはあるときには正しいと思っていたことが、しばらくたつととんでもなく傲慢で独りよがりなものであったことに気が付いたことがないでしょうか。今日の個所でも、私たちが心の中でそのようなせめぎあいの中で生きていることを次のように描いています。15節「彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明しあったりさえするのです。」自分の中で会議が行われているのです。「あんなひどいことを言われたら言い返すべきだ、やられたらやり返せ、倍返しだ!」「いやいや、考えてみると自分にも言われて当然のことをしたのではないか。そもそも攻撃されるにはこちらに原因があるのじゃないだろうか」「いやいや、そうやっていつも弱気だから負けるんだ。ともかく強気で言い返すことが肝心なんだ。」などなど。悪い思い、悪い行いを正当化するためのさまざまな弁論大会が、すべての人の心の中で行われます。そしてその結果として良心はどんどん歪んでいき、自分で認めたくない醜さを自分自身の奥深くに隠し持つようになっていきます。そしてそのこと自体を忘れ、気が付いていないので、なおのこと罪を悔い改められず、業の深い生き方へと進んでいくのです。

 そういうわけで、律法を知っているから、律法を聞いたことがあるから、神の前に正しいのではありません。聞いているものは、聞いたうえでそれを心と行動において行ったのかが問われる。律法を聞いたこのないものも、その心の律法である良心に、真実に誠実に応答したかが問われる。すべての人が等しく神の律法によってその生き方が裁かれるということでした。

3.神は人々の隠された事柄を裁かれる→キリストの贖いによって与えられる「神の義」の必要

 ここまで一緒に真剣にみ言葉の意味を探求してきた皆さんはもうお気づきでしょう。いったい誰が、このような神の裁きと神の律法の基準を満たして、あなたは正しいと言われる人がいるでしょうか。一人もいないのです。パウロは16節で、裁きの日に行われることがどのようなものであるかを明言しています。「私の福音によれば、神の裁きは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄を裁かれるその日に行われるのです。」私たちが隠していることも、また隠していることさえ忘れているような自分の思いさえも、神は裁かれるのです。この裁きにおいて、神の聖なる基準を満たす人間は一人もいないのです。あらゆる時代のすべての人が失格であり、落第であり滅びの宣告を受けてしかるべきなのです。

 そうすると、一体なにが福音なのでしょう。すべての人が罪を犯し、すべての人が悪を行い、滅びに定められるのならどこに福音があるのでしょうか。

 まさに、この自分自身の心と行い、人生全体の救いようのなさを自覚するところに、神の福音は響くのです。私たちは自分で自分の人生をきよく保つことが出来ません。良心があっても弁明しながら真理を曲げてしまいます。しかし神はそのような私たちのために、イエス・キリストの贖いの十字架を通して「神の義」を与えてくださったのです。救いとは、自分の罪に歪んだ性質には何の望みもないことを知った人が、ただイエス・キリストにのみ救いの望みを見出し、キリストにある罪の赦しと神の義と永遠のいのちを受け取ることだからです。しかも、何のささげ物も必要とされず、キリストの贖いは私のためであったと信じるだけでこの赦しを受け取ることが出来るというのです。これが福音でなくて何なのでしょうか。パウロがここまで、私たちの行いそのものには何の望みもないことをこれでもかと論証してきたのは、自分に絶望したそこにキリストの義の光が注がれるからです。11617にはこの福音が定義されています。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」福音とは、すべての救いようのない罪びとに救いをもたらす神の力であり、キリストにある義であり、信仰によって栄光に至る永遠のいのちなのです。

 

むすび.神の前に心を開いて生きる

 神の裁きがその人の行いに応じて行われるならば、神を知っている人も知らない人も、信じている人も信じていない人も、みな罪を認められ、滅びに定められるのです。神の裁きが隠されたすべてのことを暴くことを思う時、私たちはみな謙遜にならざるを得ません。

 ここで私たちが立ち止まるべきなのは、「この神の前に自分の心を開いて生きているだろうか」という問いです。私たちは悔い改めようと思っていても隠れている罪があるのに、悔い改めようとすらしないのならいつまでも自分の罪の生き方に向き合うことが出来ないままです。神様が私たちを今日ここに招いてくださっているのは、私たちが悔い改めの中で罪を離れ、真実に神とともに歩み、神と人と和解して生きるようになるためです。神の慈しみ深さが、私たちを悔い改めに導くのです。それとも、神の豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじて、罪の悲惨を味わい続ける方がよいのでしょうか。すべてをご存じでありながら、私たちが御霊の助けの中で自ら悔い改め心を開くときを待ち望んでおらえる神様の前に、愛をもって応答するものでありたいと思います。

 

祈り

神さま、あなたは私たちの隠れた思いまでもご存じです。

それでもすぐに裁かず、私たちが自分の意志であなたに向かうのを待っていてくださることを感謝します。

裁かれることを恐れるからではなく、ただ計り知れない神さまへの信頼のなかであなたに心を開き、今日も誠実に歩むことができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 

2025622日主日礼拝説教

ローマ人への手紙2616

『人々の隠された事柄を神がさばかれるその日』

序.他人に見せていない自分、自分でも認められていない自分

1.すべての人がえこひいきなく、その行いに応じて報いられる

2.律法がなくても、すべての人に神が心の律法(良心)を書き記している(ただし…テモテ115

3.神は人々の隠された事柄を裁かれる→キリストの贖いによって与えられる「神の義」の必要

むすび.神の前に心を開いて生きる

 

Sermão da missa dominical de 22 de junho de 2025

Carta aos Romanos 2:6-16

“O dia em que Deus julgará as coisas ocultas dos homens”

Introdução. O eu que não mostramos aos outros, o eu que nem nós mesmos reconhecemos

Você já teve a experiência de parar por um momento e pensar: “Afinal, que tipo de pessoa eu sou?” Todos nós temos uma compreensão de nós mesmos, de que somos assim, pensamos assim e vivemos assim. No entanto, o coração, os pensamentos e os sentimentos humanos não são tão simples assim. Há momentos em que percebemos que existe um lado nosso que não conhecemos.

Por exemplo, depois de passar o dia inteiro conversando com alguém e ficar sozinho em silêncio, você já pensou: “Onde está o meu verdadeiro eu?” Isso ocorre porque existe uma diferença entre o papel que assumimos quando estamos com outras pessoas e os movimentos do nosso coração.

Ou então, que tal isto? Depois de passar um tempo preocupado com algo, você percebe de repente a feiura egocêntrica dos seus próprios pensamentos. Isso nunca acontece? Você se surpreende ao perceber que havia pensamentos tão feios dentro de você.


Todos nós temos, em maior ou menor grau, um lado que não mostramos aos outros. Além disso, parece que temos pensamentos, motivações e movimentos do coração que nem mesmo nós mesmos percebemos. Para superar isso, é preciso refletir calmamente sobre si mesmo, encarar-se com sinceridade e enfrentar os acontecimentos do passado.

Os verdadeiros sentimentos e pensamentos baseados em nossas crenças podem estar habilmente escondidos não apenas dos outros, mas também de nós mesmos. A passagem bíblica de hoje ilumina esses aspectos ocultos. Isso porque Deus vê todos os recantos do nosso coração. Quem poderia ficar em paz diante de um Deus assim? Hoje, transmitiremos a palavra intitulada “O dia em que Deus julgará as coisas ocultas das pessoas”.


1. Todos serão recompensados de acordo com suas ações, sem favoritismo

Primeiro, Paulo diz que Deus “recompensará cada um de acordo com suas ações”. Aqueles que praticam o bem com paciência e buscam a glória, a honra e as coisas que não perecem receberão a vida eterna. Aqueles que, por motivos egoístas, não seguem a verdade e seguem a injustiça receberão ira e indignação. Este princípio do julgamento de Deus se aplica igualmente aos judeus e aos gregos, sem distinção.

 Viver praticando o bem com paciência significa, em outras palavras, buscar a glória, a honra e as coisas que não perecem. Glória significa participar da perfeição de Cristo quando entrarmos no reino dos céus. Honra não significa honra humana, mas elogios de Deus. Buscar as coisas que não perecem significa viver acumulando tesouros no céu, e não na terra. Em outras palavras, significa viver colocando o reino de Deus e sua justiça em primeiro lugar. Aqueles que nasceram de novo pelo Espírito seguem esse novo modo de vida, obedecendo ao Espírito. Essas pessoas recebem a bênção completa da vida eterna.

Por outro lado, há aqueles que, por motivos egoístas, não seguem a verdade. A expressão “motivos egoístas” era traduzida anteriormente como “espírito partidário” e, na nova tradução comum, como “espírito rebelde”. É um modo de vida que não reconhece o único Deus verdadeiro, apega-se às próprias crenças e rejeita a palavra da verdade de Deus. Esse modo de vida injusto atrai a ira e o furor de Deus.

O que impressiona nesta passagem é a perspectiva de Deus de que “cada um receberá o que merece”. Deus é aquele que vê tanto as ações quanto o coração. Não é que, se o coração for bom, as más ações serão ignoradas. Se as ações forem boas, Deus não vai ignorar o coração ruim. O que está sendo dito é que os pensamentos e as ações, ou seja, toda a vida da pessoa, serão julgados diante de Deus. Aqueles que praticam o mal receberão sofrimento e angústia, enquanto aqueles que praticam o bem receberão glória, honra e paz. Não há distinção de raça. É enfatizado que nem mesmo os judeus, que receberam a lei, serão favorecidos.


2. Mesmo sem a lei, Deus escreveu a lei do coração (a consciência) em todos os homens (mas... 1 Timóteo 1:15)

Mas, então, o fato de os judeus conhecerem a lei não serve para nada? Ou, podemos reformular a pergunta: como é que aqueles que não conhecem a Bíblia e nunca leram a lei podem ser julgados da mesma forma que eles?

 A resposta está no versículo 12. “Todos os que sem a lei pecaram, sem a lei também perecerão; e todos os que sob a lei pecaram, pela lei serão julgados.” À primeira vista, isso pode parecer um duplo padrão, uma desigualdade, mas, pensando bem, percebemos que isso é justiça diante de Deus. Aqueles que pecaram sem a lei são os gentios que nunca leram a Bíblia e nunca pensaram em Deus. Essas pessoas não conheciam a lei, mas serão destruídas. Por que? Porque Deus deu consciência ao coração de todos os seres humanos que Ele criou. Isso está escrito nos versículos 14 e 15. Mesmo quem nunca leu a Bíblia deve ser capaz de compreender a veracidade do que está escrito nos Dez Mandamentos. Você conhece os seis mandamentos da segunda metade, que tratam das relações humanas? “A quinta mandamento: honra teu pai e tua mãe; a sexta mandamento: não matarás; a sétima mandamento: não cometerás adultério; a oitava mandamento: não roubarás; a nona mandamento: não mentirás; a décima mandamento: não cobiçarás o que é de outra pessoa”. Não são coisas tão óbvias que nem vale a pena mencionar? No entanto, quando entendemos a Bíblia corretamente, compreendemos o significado mais profundo dessas palavras e percebemos que nenhum de nós consegue cumprir essas mandamentos plenamente.

 Mesmo quem nunca leu a Bíblia sabe que honrar o pai e a mãe é algo importante, mas talvez não consiga fazer isso de coração. Isso porque tanto os pais quanto os filhos têm pecados. Não matar, não cometer adultério, não roubar... Tudo isso é óbvio. No entanto, Deus, que vê tudo o que há em nossos corações e ações, nos questiona se não estamos matando em nossos corações, se não estamos tendo pensamentos imorais em nossos corações, se não estamos invejando, desprezando ou atacando outras pessoas em nossos corações. E mesmo aqueles que não conhecem a Deus sabem, em algum lugar, que essas questões do coração são muito importantes. Será que realmente podemos pensar que, desde que não falemos mal, podemos ter pensamentos ruins? Será que podemos pensar que, mesmo que nosso coração esteja cheio de ódio, desprezo e raiva, não há problema algum em nosso relacionamento com os outros, desde que não cometamos violência ou proferimos palavras ofensivas? Mesmo sem ter fé, mesmo sem ter lido a Bíblia, sabemos que isso não é verdade. Por quê? Porque Deus deu aos seres humanos esse critério da consciência.

No entanto, há um problema com essa consciência. A consciência do ser humano que vive afastado de Deus está distorcida, pois tem o problema do pecado. Não é necessário abrir, mas em Tito 1:15 está escrito: “Não há nada puro entre os incrédulos impuros, pois tanto a sua mente como a sua consciência estão contaminadas”. Isso não significa que os não cristãos sejam especialmente maus, mas apenas que todos os seres humanos nascem com a mente e a consciência contaminadas pelo pecado. A menos que o Espírito Santo atue e restaure nossa inteligência e nossa consciência para que funcionem de acordo com a Palavra, nossa consciência permanecerá distorcida. Como prova disso, cada um de vocês provavelmente seguiu o caminho que considerava correto até chegar aqui. No entanto, vocês já perceberam que, na verdade, o que consideravam correto em determinado momento, depois de algum tempo, era algo extremamente arrogante e presunçoso? A passagem de hoje também descreve como vivemos em nosso coração com esse conflito interno. Versículo 15: “Eles mostram que as obras da lei estão gravadas em seus corações. A sua consciência também testemunha, e os pensamentos de seus corações se acusam e se defendem uns aos outros.” Há uma reunião acontecendo dentro de nós. “Se alguém diz algo tão ruim, você deve responder, retribuir o mal com o mal, dar o troco!” “Não, pensando bem, talvez você tenha feito algo que merecia ser dito. Talvez a causa do ataque esteja em você mesmo.” “Não, é por ser sempre tão fraco que você perde. O importante é responder com firmeza.” E assim por diante. Várias discussões para justificar pensamentos e ações ruins acontecem na mente de todas as pessoas. Como resultado, a consciência fica cada vez mais distorcida, e a pessoa passa a esconder no fundo de si mesma a feiura que não quer admitir. E, como esquece isso e não percebe, não consegue se arrepender dos pecados e segue vivendo uma vida de pecados profundos.

 Por isso, não é por conhecer a lei ou por ter ouvido falar dela que se é justo diante de Deus. Aqueles que ouviram a lei são questionados se, depois de ouvi-la, a colocaram em prática em seus corações e ações. Aqueles que nunca ouviram a lei também são questionados se responderam com sinceridade e honestidade à lei do coração, que é a consciência. Todos serão julgados igualmente pela lei de Deus.

3. Deus julgará as coisas ocultas das pessoas → A necessidade da “justiça de Deus” concedida pela redenção de Cristo.

Todos vocês, que até agora têm explorado seriamente o significado da Palavra, já devem ter percebido. Quem, afinal, pode satisfazer os critérios do julgamento e da lei de Deus e ser considerado justo? Ninguém. Paulo declara claramente no versículo 16 o que acontecerá no dia do julgamento. “Segundo o meu evangelho, o julgamento de Deus será realizado no dia em que Deus julgará as coisas ocultas das pessoas por meio de Cristo Jesus.” Deus julgará até mesmo as coisas que escondemos e os pensamentos que esquecemos que escondemos. Nesse julgamento, não há ninguém que cumpra os padrões sagrados de Deus. Todas as pessoas de todas as épocas são desqualificadas, reprovadas e merecedoras da condenação à perdição.

Então, o que é o evangelho? Se todas as pessoas pecam, todas as pessoas praticam o mal e todas as pessoas estão condenadas à perdição, onde está o evangelho?

É precisamente quando reconhecemos a impossibilidade de salvar nosso próprio coração, nossas ações e toda a nossa vida que o evangelho de Deus ressoa. Não podemos manter nossa vida pura por nós mesmos. Mesmo tendo consciência, acabamos distorcendo a verdade com nossas desculpas. No entanto, Deus nos concedeu a “justiça de Deus” por meio da cruz redentora de Jesus Cristo. A salvação é quando uma pessoa que reconhece que não há esperança para sua natureza distorcida pelo pecado encontra a esperança da salvação somente em Jesus Cristo e recebe o perdão dos pecados, a justiça de Deus e a vida eterna em Cristo. Além disso, não é necessário oferecer nenhuma oferta, basta acreditar que a redenção de Cristo foi para mim para receber esse perdão. O que mais poderia ser isso senão o evangelho? Paulo argumentou exaustivamente que não há esperança alguma em nossas próprias obras, porque é aí que a luz da justiça de Cristo brilha sobre aqueles que se desesperam. Em 1:16, 17, esse evangelho é definido: “Não me envergonho do evangelho, pois ele é o poder de Deus para a salvação de todos os que crêem, tanto judeus como gregos. O evangelho revela a justiça de Deus e leva à fé, que começa com a fé e avança na fé”. O evangelho é o poder de Deus que traz salvação a todos os pecadores sem esperança, é a justiça que está em Cristo e é a vida eterna que leva à glória pela fé.


Conclusão: Viver com o coração aberto diante de Deus

Se o julgamento de Deus for feito de acordo com as ações da pessoa, tanto aqueles que conhecem a Deus quanto aqueles que não O conhecem, tanto aqueles que crêem quanto aqueles que não crêem, todos serão reconhecidos como pecadores e condenados à perdição. Quando pensamos que o julgamento de Deus revelará todas as coisas ocultas, todos nós somos levados a ser humildes.

 O que devemos parar para pensar aqui é: “Estou vivendo com o coração aberto diante deste Deus?”. Mesmo que tenhamos a intenção de nos arrepender, se não nos arrependermos dos pecados que estão ocultos, nunca seremos capazes de enfrentar o nosso modo de vida pecaminoso. Deus nos convidou a estar aqui hoje para que nos arrependamos, abandonemos o pecado, andemos verdadeiramente com Deus e vivamos em reconciliação com Deus e com as pessoas. A misericórdia de Deus nos leva ao arrependimento. Ou será melhor continuar a provar a miséria do pecado, menosprezando a rica misericórdia, paciência e tolerância de Deus? Quero responder com amor a Deus, que sabe tudo, mas espera ansiosamente que nos arrependamos e abramos nossos corações com a ajuda do Espírito Santo.


Oração

Deus, você conhece até mesmo os nossos pensamentos ocultos.

Agradecemos por não nos julgar imediatamente, mas esperar que nos voltemos para você por nossa própria vontade.

Que possamos abrir nossos corações para você com confiança, e não com medo do julgamento, e que possamos caminhar com sinceridade também hoje.

Oramos em nome de Jesus Cristo.

Amém.


Sermão da missa dominical de 22 de junho de 2025

Carta aos Romanos 2:6-16

“O dia em que Deus julgará as coisas ocultas dos homens”

Introdução. O eu que não mostramos aos outros, o eu que nem nós mesmos reconhecemos

1. Todos serão recompensados de acordo com suas ações, sem favoritismo

2. Mesmo sem a lei, Deus escreveu a lei do coração (consciência) em todos (porém... 1 Timóteo 1:15)

3. Deus julgará as coisas ocultas das pessoas → Necessidade da “justiça de Deus” concedida pela redenção de Cristo

Conclusão. Viver com o coração aberto diante de Deus