2025年6月15日主日礼拝説教 ローマ人への手紙2:1~5 「裁く心と悔い改めに導く神の慈しみ」
2025年6月15日主日礼拝説教
ローマ人への手紙2:1~5
「裁く心と悔い改めに導く神の慈しみ」
序.他人をさばく者
パウロはここまでの手紙を読んできたローマ教会の人々に向かって呼びかけます。「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」他人を裁くのは、その人が間違ったことをしているからでしょう。しかしあの人は間違っている、正しくない、問題はあの人にあるとあなたが他人を裁くとき、その根底には「自分は正しい」という思いがあります。果たして人を裁くあなた自身の正しさは、本当に神の前に通用するのでしょうか。
正しさ、正義ということを皆さんはどれくらい大切に思うでしょうか。残酷なニュースを見て、こんなことがあってはならないと正義の憤りを感じる方もいるかもしれません。正義感といえば聞こえはいいですが、他人に向けて振り回している自分流の正義は、神の正義の前でも堂々と振りかざすことのできるものなのでしょうか。パウロが警告していることが、私たちに当てはまるのかどうか、じっくりと吟味して、耳を傾けたいと思います。
1.本当に「自分は正しい」と思って裁いてしまう問題
パウロは「すべて他人を裁く者よ」と呼びかけました。それはこれまでこの手紙を読んできただろうローマにある諸教会の兄弟姉妹のことだろうと想定できます。パウロが1:18以降でとりあつかってきたのは明らかに聖書の神を知らず、信じず、拒んでいる異邦人の罪でした。偶像礼拝、不道徳な性行為、神を知らない生活。ローマ教会には異邦人のクリスチャンもいればユダヤ人のクリスチャンもいただろうと思います。異邦人のクリスチャンたちはこの箇所を読みながらかつての自分たちの生き方を思い返して胸打たれていたかもしれません。一方でユダヤ人クリスチャンはこれらの個所を読んで、「そうだそうだ、神を知らずに生きている異邦人というのは何と汚れた生活をしていることだろう」と彼らを軽蔑する思いがあったのかもしれません。そもそもユダヤ人のうちには自分たちこそ神に選ばれた聖なる民という間違った選民思想がありました。真実な救いは人種によって与えられるものではありません。ましてや行いやルールに従っているかどうかによるのでもありません。もしユダヤ人が神のルールに従って正しく生きているので自分たちが救われていると思っているとしたら、その人は救われていません。なぜなら、だれ一人神の基準に行いにおいて到達することなどできないからです。神のことばを行おうとして私たちが見出すのは、私の中にはそれを心から喜んで行うことのできない自分自身の罪という課題だからです。
ですから、一章後半の議論を読みながら、あぁ私はそんな生き方をしていなくてよかった。私とは全く関係ない話だ。神を知らない人というのは汚れた人だなぁと思って読んでいたとしたら、私たちもまた今日のパウロの言葉を心して聞かなくてはいけません。「裁くあなた自身が、同じことを行っているからです」と。そもそも、いったい誰が罪と全く無関係に生きている人がいることでしょうか。悔い改めるべき罪をひとつも見出さない一日というものがあるでしょうか。救われていない人も救われた人も、行いとしての罪は程度問題であり、罪の課題を抱えています。
具体的に考えてみましょう。他人が怒っている姿を見て、こう思います。どうしてあの人はそんなことぐらいで怒るのか。まったく心の狭い短気な人だ、と。そのようにして他人を裁きます。しかし、今度は自分が怒っているときにはこう思います。「私がこれで怒るのは当然でしょう!?起こったってしょうがないでしょう」と。そして人からはこう思われます。「どうしてあの人はそんなことぐらいで怒っているのだろう」、と。私たちが誰かを裁くとき、それは自分の中にもある罪を映し出している鏡なのです。
恐いのは、私たちはこのような事実に本当に気が付けていないということなのです。本当の本気で、問題は他人にあり、自分には問題がないと思っているのです。そして神の目から見たときに、他人を裁いている私たち自身の中にそれと同じ性質の罪を見出されて、私たち自身が神に裁かれると警告されているのです。1:29~31に記された罪のリストに、自分自身がいくつ当てはまるか、真剣に考えてみたでしょうか。「不義、悪、貪欲、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、陰口、中傷、神を憎む、人を侮る、高ぶり、大言壮語、悪事の計画、親への逆らい、浅はか、不誠実、情け知らず、無慈悲」。神は私たちの行いだけでなく心までも見ておられるお方です。一体だれが、自分は正しいと棚に上げて、他人の罪を指摘できるでしょうか。人を裁く私自身が罪にまみれている。人を裁くまさにその基準であなた自身が罪に定められる。その通りではないでしょうか。
私たちは、人の罪に目が留まるときには、そこに目が留まるということはまさに自分自身に同じ罪の種があるからだということに気が付いて心砕かれるものでありたいと思うのです。マタイ7:3~4で、イエス様がこういわれました。「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気が付かないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」人には厳しく、自分には甘くなるのがまさに罪の真骨頂なのです。人を裁く私たちは、まさにその基準で自分も断罪される。人の罪に傷つけられる度、自分自身はより罪から離れていくものでありたいと思います。
2.悔い改めという高価な贈り物
⑴互いに戒め合うためにこそ、悔い改めが必要
さて、ではこれは現実的にどのように適用すればよいのでしょうか。明らかな不正をしている人を見ても、その不正は放置したままで、自分が反省していればよいということでしょうか。もちろんそうではありません。私たちは互いに戒めあい、教え合い、信仰の成熟へと向かうようにと教えられています。忠告を控えて罪を放置するのは真実な愛ではありません。ですから、愛をもって他人の罪を忠告するのは必要なことです。ただし、その時には他人の目のちりを取り除こうとしている自分の目に太い丸太がないだろうかと吟味しながら忠告するということです。愛をもって伝える忠告でさえ反発され争いの種になるのに、自分の罪の丸太で目が見えていない人から愛のない指摘を受けて、誰が悔い改めへと導かれるでしょうか。ひとを真実な悔い改めに導くためには、自分の罪を悔い改めつつ、愛をもって忠告するということを誰もが実践するならば、人間関係はどれほど誠実なものに変えられていくことでしょうか。
しかも、何より大切なことは、結局のところ真実な悔い改めの心というのは神様が与えてくださるとても大切な贈り物だということなのです。私たちは、悔い改めましたと言えば悔い改められるのではありません。口でごめんなさいといっても、その心が悔い改めていないのならそこに悔い改めの実は実りません。それは、聖霊がその人を新しく生まれさせていないのなら、ただキリストを信じますと言っても救われていないのと同じです。悔い改める心は、神が私たちに与えてくださる宝物です。
⑵罪の悲惨さと神の慈しみが、悔い改めをもたらす
では神様はどのようにして私たちを悔い改めに導かれるのでしょうか。一つはローマ1:21です。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」神の造られた世界で、神を拒み、罪をもって神と人に向き合うなら、その思いは空しくなり、感謝がなくなり、鈍い心は暗くなるのです。罪の悲惨の中をくぐることは人の心を真理に向かい合う備えとなります。神の導きの中で、その人は聖書の教えに耳を傾けるとき、自分の罪と救い主の必要を悟るようになるのです。
そして、このことを別の言い方にすると、今日のローマ2:4となります。「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」私たちが自分で選び取った罪によってその悲惨を経験するのは自業自得です。しかし、その苦しみの中で本当に神に立ち返るなら、その砕かれた魂を神はいつでも大切に抱きしめてくださるのです。私たちを悔い改めに導くのは神の恐ろしさではなく、むしろ神の慈しみの深さなのです。自分の罪に目が開かれていくと、私たちは神がどんなに長い間忍耐と寛容をもって私たちの罪を見逃し、悔い改めへと導き続けてくださったかに圧倒される思いに包まれます。そうすると、あの人のここが問題だ、この人はあれがダメなんだと裁いている自分が、お門違いの傲慢な人間に思えてきます。自分は、真実な悔い改めに導かれるまでにさんざん反抗し、言い訳し、他人に罪を擦り付け、自分はただし正しいと主張しわめいてきたのに、どうして自分は高慢にも他人を裁こうとしているのだろうか、と。
神の導きは、恐れによる屈服ではなく、愛に触れて心を変えられる悔い改めの体験なのです。神の憐れみがなければ、私たちは自分の罪に気づくことすらできません。神の愛に触れて、悔い改めに導かれ、その愛によって人を悔い改めに導く者になっていきます。自分の罪に気が付き、そのことを神の前に悲しんでいること。それは憐れみ深く兄弟姉妹を悔い改めに導く者になるために必要な神の備えとなります。
3.行いによって救われる人は誰もいない
もし私たちが自分の罪を悔い改めないでいるなら、他者を悔い改めに導けないだけでなく、神の怒りを自分のために積み上げているのです。私たちは自分の正しさのゆえに救われたのでなく、ただ神の憐れみのゆえに信仰によって救われました。そのことが本当にわかっているのなら、私たちは他者の罪を軽々しく裁いて自分は正しいなどと思いこむことが出来なくなっていくのです。もしキリストを信じる信仰によってではなく、自分が正しいから救われたのだと思っているのなら、その人はまだキリストを受け入れておらず、神の前に真の悔い改めへと導かれる必要があります。
結.自己吟味、日々の悔い改め、他者に慈しみと忍耐を
今日のみ言葉から、三つの取組を提案することが出来ます。
一つ目は自己吟味です。人を裁く思いが心に浮かんだ時、自分の中にも同じ罪の種がないかを問い直しましょう。その罪の問題に気が付けるように神に祈りましょう。
二つ目は悔い改めの祈りです。神が慈しみ深く私たちを導いておられることに気が付き、日々罪から離れるために、悔い改めの祈りを献げましょう。
三つ目。慈しみをもって接することです。神に憐れんでいただいていることに気が付いて、他者にもその慈しみと忍耐をもって接する人となりましょう。
自己吟味と悔い改めといつくしむことにおいてすべてのクリスチャンが富むものとなったなら、その教会、その夫婦、その親子関係はどれほど豊かに祝福され、愛に満ちたものとなるでしょうか。神の導きに従って、この祝福を受け取るものとなりたいと思います。
祈り
私たちをいつくしんでくださる天のお父様
今日、あなたの御言葉を通して、私たちの心を照らしてくださり、本当にありがとうございます。
主よ、私たちは時に、自分の正しさによりかかり、他人を裁いてしまう弱さを持っています。けれど、その背後に自分自身の罪や傲慢があることに気づかされました。
どうか私たちの心のかたくなさを砕いてください。あなたの豊かな慈しみと忍耐が、私たちを悔い改めへと導くためのものであることを、深く受け取ることができますように。
私たちの隠れた罪にも、静かに語りかけてくださるあなたの愛に、心から感謝します。
どうか日々、あなたの真実な光の中で生きる者とならせてください。
主よ、私たちが他者を裁くよりも先に、まず自分自身の心をあなたの前に差し出し、柔らかくされ、整えられますように。そして、あなたのあわれみを受け取った者として、他の人々にもそのあたたかさと寛容を分かち合っていけますように。
主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。
2025年6月15日主日礼拝説教
ローマ人への手紙2:1~5
「裁く心と悔い改めに導く神の慈しみ」
序.他人をさばく者
1.本当に「自分は正しい」と思って裁いてしまう問題
2.悔い改めという高価な贈り物
⑴互いに戒め合うためにこそ、悔い改めが必要
⑵罪の悲惨さと神の慈しみが、悔い改めをもたらす
3.行いによって救われる人は誰もいない
結.自己吟味、日々の悔い改め、他者に慈しみと忍耐を
Sermão da missa dominical de 15 de junho de 2025
Carta aos Romanos 2:1-5
“O coração que julga e a misericórdia de Deus que leva ao arrependimento”
Introdução. Aqueles que julgam os outros
Paulo dirige-se aos membros da Igreja de Roma que leram a carta até este ponto. “Portanto, todos aqueles que julgam os outros, não há desculpa para vocês. Ao julgar os outros, vocês estão julgando a si mesmos. Porque vocês fazem o mesmo que julgam.” Julgar os outros é porque eles estão fazendo algo errado. No entanto, quando vocês julgam os outros, pensando que eles estão errados, que não estão certos, que o problema está neles, no fundo vocês estão pensando que “vocês estão certos”. Será que a retidão de vocês, que julgam os outros, realmente é válida diante de Deus?
Quão importante é para vocês a retidão e a justiça? Ao ver notícias cruéis, algumas pessoas podem sentir indignação pela injustiça e pensar que isso não deveria acontecer. O senso de justiça soa bem, mas será que a justiça que vocês impõem aos outros pode ser defendida diante da justiça de Deus? Vamos examinar cuidadosamente se a advertência de Paulo se aplica a nós e ouvir com atenção.
1. O problema de julgar pensando que “eu estou certo”
Paulo se dirigiu a “todos os que julgam os outros”. Podemos supor que ele se referia aos irmãos e irmãs das igrejas de Roma que haviam lido esta carta até então. O que Paulo abordou a partir de 1:18 foi claramente o pecado dos gentios que não conheciam, não acreditavam e rejeitavam o Deus da Bíblia. Adoração de ídolos, comportamento sexual imoral, vida sem Deus. Acho que na igreja de Roma havia cristãos gentios e cristãos judeus. Os cristãos gentios, ao lerem este trecho, talvez tenham ficado comovidos ao relembrar seu antigo modo de vida. Por outro lado, os cristãos judeus, ao lerem esses trechos, talvez tenham sentido desprezo por eles, pensando: “É isso mesmo, os gentios que vivem sem conhecer a Deus levam uma vida tão imunda”. Em primeiro lugar, os judeus tinham uma ideia errada de que eles eram o povo santo escolhido por Deus. A verdadeira salvação não é concedida com base na raça. Muito menos depende de se alguém segue as regras ou não. Se os judeus pensavam que estavam salvos por viverem corretamente de acordo com as regras de Deus, eles não estavam salvos. Isso porque ninguém consegue atingir os padrões de Deus em suas ações. Ao tentarmos cumprir a palavra de Deus, descobrimos que dentro de nós existe o problema do pecado, que nos impede de fazer isso com alegria no coração.
Portanto, ao ler a discussão na segunda metade do capítulo, se pensarmos: “Ainda bem que não vivo assim. Isso não tem nada a ver comigo. Quem não conhece a Deus é uma pessoa impura”, precisamos ouvir com atenção as palavras de Paulo hoje: “Porque você, que julga, faz a mesma coisa”. Em primeiro lugar, quem é que vive sem cometer nenhum pecado? Existe algum dia em que não encontramos nenhum pecado pelo qual devemos nos arrepender? Tanto as pessoas que não são salvas quanto as que são salvas têm pecados em suas ações, que variam em grau, e enfrentam o problema do pecado.
Vamos pensar concretamente. Ao ver outra pessoa zangada, pensamos: “Por que essa pessoa se zanga por causa de uma coisa dessas? É uma pessoa mesquinha e irascível”. Assim, julgamos os outros. No entanto, quando é você que está com raiva, você pensa: “É claro que estou com raiva! Não tem como não ficar com raiva”. E as pessoas pensam: “Por que essa pessoa está com raiva por causa de uma coisa dessas?”. Quando julgamos alguém, isso é como um espelho que reflete os pecados que temos dentro de nós.
O que é assustador é que não percebemos realmente esse fato. Acreditamos sinceramente que o problema está nos outros e que não temos nenhum problema. E, aos olhos de Deus, quando julgamos os outros, Ele vê em nós os mesmos pecados e nos adverte que seremos julgados por Ele. Você já pensou seriamente em quantos dos pecados listados em 1:29-31 se aplicam a você? “Injustiça, maldade, ganância, malícia, inveja, homicídio, contenda, engano, malícia, calúnia, difamação, ódio a Deus, desprezo ao próximo, arrogância, fanfarronice, planos malignos, desobediência aos pais, insensatez, desonestidade, crueldade, impiedade”. Deus vê não apenas nossas ações, mas também nossos corações. Quem pode apontar os pecados dos outros, considerando-se justo? Eu mesmo, que julgo os outros, estou cheio de pecados. Você será julgado pelos mesmos critérios que usa para julgar os outros. Não é verdade?
Quando percebemos os pecados dos outros, devemos nos sentir comovidos ao perceber que é precisamente porque temos os mesmos pecados em nós mesmos. Em Mateus 7:3-4, Jesus disse o seguinte. “Você vê o cisco no olho do seu irmão, mas não percebe a trave no seu próprio olho. Como você pode dizer ao seu irmão: ‘Deixe-me tirar o cisco do seu olho’, quando há uma trave no seu próprio olho?” Ser severo com os outros e indulgente consigo mesmo é o cúmulo do pecado. Nós, que julgamos os outros, seremos condenados exatamente pelos mesmos critérios. Cada vez que somos feridos pelos pecados dos outros, queremos nos afastar ainda mais do pecado.
2. O dom precioso do arrependimento
(1) O arrependimento é necessário para que possamos admoestar uns aos outros
Então, como podemos aplicar isso na prática? Quando vemos alguém cometendo uma injustiça evidente, devemos simplesmente ignorá-la e nos limitar a refletir sobre nossos próprios pecados? Claro que não. Somos ensinados a admoestar uns aos outros, a ensinar uns aos outros e a amadurecer na fé. Abster-se de dar conselhos e ignorar o pecado não é amor verdadeiro. Portanto, é necessário admoestar os outros com amor. No entanto, ao fazê-lo, devemos examinar cuidadosamente se não há uma trave em nossos olhos ao tentarmos remover o cisco dos olhos dos outros. Mesmo os conselhos dados com amor podem ser rejeitados e causar conflitos. Então, quem vai se arrepender quando recebe uma crítica sem amor de alguém que não consegue enxergar por causa da trave do próprio pecado? Para levar as pessoas ao arrependimento verdadeiro, se todos praticarem o arrependimento dos próprios pecados e derem conselhos com amor, como as relações humanas se tornariam mais sinceras?
Além disso, o mais importante é que, no fim das contas, o coração verdadeiramente arrependido é um dom muito precioso que Deus nos dá. Não é porque dizemos que nos arrependemos que nos arrependemos. Mesmo que digamos “desculpe” com a boca, se o coração não se arrepender, não haverá frutos de arrependimento. É o mesmo que dizer que, se o Espírito Santo não regenerar a pessoa, mesmo que ela diga que crê em Cristo, ela não será salva.
A primeira é a autoavaliação. Quando surgir em seu coração o desejo de julgar os outros, questione se não há em você a mesma semente do pecado. Ore a Deus para que você possa perceber o problema do pecado.
A segunda é a oração de arrependimento. Percebendo que Deus nos guia com misericórdia, ofereçamos orações de arrependimento para nos afastarmos do pecado todos os dias.
A terceira é tratar os outros com misericórdia. Percebendo que Deus tem misericórdia de nós, tornemo-nos pessoas que tratam os outros com misericórdia e paciência.
Se todos os cristãos se tornarem ricos em autoavaliação, arrependimento e misericórdia, quão abençoadas e cheias de amor serão as igrejas, os casais e as relações entre pais e filhos? Seguindo a orientação de Deus, desejo receber essa bênção.
Oração
Pai celestial que nos ama
Muito obrigado por iluminar nossos corações hoje através da sua palavra.
Senhor, às vezes temos a fraqueza de confiar em nossa própria retidão e julgar os outros. No entanto, percebemos que por trás disso estão nossos próprios pecados e arrogância.
Por favor, quebre a dureza de nossos corações. Que possamos compreender profundamente que a tua rica misericórdia e paciência nos levam ao arrependimento.
Agradecemos sinceramente pelo teu amor, que nos fala silenciosamente sobre nossos pecados ocultos.
Por favor, que possamos viver diariamente na tua luz verdadeira.
Senhor, antes de julgarmos os outros, que possamos primeiro apresentar nossos corações diante de Ti, para que sejam suavizados e preparados. E, como aqueles que receberam Tua misericórdia, que possamos compartilhar essa bondade e tolerância com outras pessoas.
Em nome de Jesus Cristo, oramos. Amém.