2025年7月27日主日礼拝説教 ローマ人への手紙3:9~20 「すべての口がふさがれてキリストのもとへ」

2025727日主日礼拝説教

ローマ人への手紙3920

「すべての口がふさがれてキリストのもとへ」

序.いい人でありたいという願いの行き止まり

 皆さんは「正しく生きたい」あるいは「善く生きたい」と願ったことがありますか。きっと、自分の意志で教会に来ている方であるならば一度は思ったことがあるのではないでしょうか。誰かのため、家族のため、兄弟姉妹のため、きっとあなたは「善い人でありたい」「自分なりに正しい生き方をしたい」としてきたのではないでしょうか。

 でも今日の個所でパウロは淡々と、はっきりと言いきります。「義人はいない。ひとりもいない。」これは神様の前で、神様の基準に照らして、罪が一つもない、完全な義人であると言われる人は一人もいないということです。あなたもわたしも、世界中のありとあらゆる人間が一人の例外もなく、神の前で罪のもとに生きているという宣言なのです。

 この聖書の言葉を、あなたはどう受け止めるでしょうか。こんなに頑張って来たのに正しくないと言われるのかとがっかりするでしょうか、あるいはなんでそんなことを言うのかと不服に思うでしょうか。聖書を読んで聖書に従って生きようとする人たちに向かって、どうしてパウロは「義人はいない」、誰一人として神の前で正しくはないなどと言ったのでしょう。そこにはどんな目的があるのでしょう。私たちはこの宣言を聞いて、どんな感情を持ち、どんな思いで自分の人生に取り組めばいいのでしょうか。自分が義人ではないという自覚と、そこから始まる生き方をともに考えたいと思います。

 

1.すべての人が罪の力のもとで生きている(全的堕落:total depravity

 もう一度9節をお読みします。「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪のもとにあるからです。」ユダヤ人は、旧約聖書を与えられ、律法を守り行い、割礼という神の民のしるしを身に着け、神とともに生きる特権にあずかる者たちでした。しかしだからと言って、彼らが救いにおいて特別扱いでえこひいきされるかというとそうではありませんでした。パウロ自身もユダヤ人でしたが、「私たちユダヤ人に、救いにおいてなにか優れているところはあるのでしょうか」と自問したうえで、全くないと答えます。

 すべての人が罪ものもとにある。すなわち、すべての人が罪に支配され、罪の影響下で生きているということです。神学的な表現では、これを「全的堕落」といいます。英語だとTotal depravityです。全的、トータルに堕落しているというのは、私たちの生活のあらゆる領域に、罪の影響が表れているということです。しかし、これはあらゆる領域が完全に罪に染まっているということではありません。こんなふうにたとえることが出来ます。コップの中に入った泥水を考えてください。泥水は時間が経つと沈殿して、そこには泥がたまっていますが上の方はだんだん透き通ってきます。では、上の方が透き通っているからといってきれいな水と同じように飲むことが出来るでしょうか。それは無理でしょう。きれいに見えても、その水全体は泥によって汚染されています。また完全に濁りきっているわけでもありません。同じように、私たちの心も生活も、一見すると正しく見えるときや優しさに満たされているように見えるときがあります。しかしそれでもどこかに罪の汚れが入り込んでいて、神様に反抗していて、自己中心な思いが入ってしまっているのです。

・あらゆる領域に罪の影響がある(舌、口、足、道、目)

 「義人はいない。一人もいない。」10節の言葉は有名です。六つの聖書箇所が引用されていますが、私たちのあらゆる領域に罪の問題が入り込んでいることを説明するのに十分な引用が選ばれています。13節以降の聖書箇所には、一つずつ体の各部分の名前が入っています。13節「彼らののどは開いた墓。彼らはその舌で欺く。」14節も同じく口の罪です。私たちの巻き起こす悲しみや争いのほとんどは、口、舌によって生み出されます。高慢な言葉、冷たい言葉、愛のない言葉、理解のない言葉、陰口、中傷、言い訳、嘘、不平不満。ヤコブの手紙3章は、口の使い方がどんなに危険であるかをよく述べています。ヤコブ35「舌も小さい器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあって体全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。」言葉の用い方において、一度も神様に罪を指摘されない人などがいるでしょうか。これだけでも十分な罪の指摘となります。

 15節は罪による争いと悲惨な結末についてです。「彼らの足は血を流すのに早く、彼らの道には破壊と悲惨がある。」日本は世界的に見て大変治安のいい国であると言われます。一方でびっくりするような事件のニュースも飛び込んできます。身勝手な無差別通り魔事件、猟奇的ないじめ、家族や親族間の殺人。またそのような目に見える攻撃だけでなく、パワハラ、モラハラ、セクハラといった目に見えない攻撃に苦しんでいる人は少なくないのではないでしょうか。世界に目を向ければ、2025年になってもなお、世界は戦争をやめることが出来ていません。人類の道には今日も破壊と悲惨があります。さらには、悲惨な結末を迎えながらも、自分は正しい、間違っているのは相手だと主張しながら、その争いをやめることが出来ないのです。このような争いと破壊と悲惨のループを、だれも他人事だとすることはできないでしょう。大なり小なり、私たちも同じような問題を抱えているのではないでしょうか。

 そしてすべての根本的な問題は18節です。「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」神を恐れることはすべてのはじめです。神に対する恐れがないところには、打ち砕かれた謙遜は生まれません。いつまでも自己正当化と他者批判、責任転嫁の穴から抜け出ることが出来ないのです。そもそも自分が神の目の前に生きているということを信仰によって認めることが出来ないからです。

 この聖書の言葉は、ここに座っているすべての人に当てはまる真実です。私たち一人ひとり、神の前にあって、ただ自分の行いだけで救われる可能性は万に一つもありません。国民性、性格の良しあし、努力、道徳性、生まれ、どれも神の前でも無力です。神の前で、あなたは何も自分を誇るものを持っていません。神に言い訳できません。神に私はこの点で頑張って来たんですと主張して救われるための交渉をする余地はないのです。まずは聖書のこの言明を静かに受け入れることが大切です。そこから、新しい生き方に進む道が開かれるからです。

 

2.神の前ですべての口はふさがれる

 聖書を読んで、それを真剣に実行しようとした人が直面するのは「私の力では、このみことばを守り行うことが出来ない」という自分の罪の問題なのです。それが正しい反応。正しい結果なのです。19節にはこうあります。「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法のもとにある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するためです。」すべての口がふさがれる。それは自己中心な罪をやめられない事実に直面して、黙るほかないからです。私はこんなに頑張っている、私も正しいんだ、そういう言い訳が浮かんできても、だからといって自分に問題がないとはだれも言えない。そのことに気が付かされて、神の裁きの前に罪を自覚して口をふさがれる。その静寂の中で、初めて神の声が響くのです。罪を悔い改めた、打ち砕かれた魂が整えられた時、神の恵みの言葉がしみこむからです。

 

3.罪の意識と悔い改めが、イエス・キリストへと導く

 そういう意味で、私たちが罪びとであることを示す律法と、救い主によって贖われ御霊によって生きるよう教える福音はセットなのです。罪を悔い改めないところに救いはありません。自分の努力で正しく生きてきたんだと自分を誇っている人にも救いは届かないのです。今日の最後の個所20節はこうあります。「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」聖書を真剣に読み、真剣に実行しようとした人は、神に頼らなければこのような生き方は到底行えないと悟るようになります。そうしてイエス・キリストの十字架を求め、御霊の力によって生きることを追い求めるように導かれていくのです。律法は、あなたを神の前に立たせ、あなたの足りなさを自覚させます。「私は足りない。欠けている。愛がない。聖さがない。その自覚もない。どうしても足りない。」でもその自覚こそが、福音の始まりなのです。

 

むすび.神の義を受け取ったものは、御霊の力によって律法を満たす生き方を始める

 自分のなかにあるどうしてもぬぐえない罪深さを悲しんだその時、私たちの口は神の前で沈黙し、そして初めて神が私たちの心に語り掛けてくださるのです。今日のメッセージで罪の悔い改めに導かれた人だけが、2223節のキリストの福音を受け取る道へと入れられるのです。神は、イエス・キリストの義によって、あなたを赦し、あなたを義とする。律法ではなく、ただ父なる神の愛と御子キリストの恵みによって、あなたは赦されるのです。

 神の義は、私たちが行いによって獲得できるものではありません。神の義は、神が恵みによってキリストが私たちに与えてくださる贈り物なのです。そしてこの恵みを受け取ったものは、キリストに霊が結び合わされることによって、必ず律法を守り行う者へと変えられていくというのが福音の神髄です。救われるために律法を守るのではなく、救われたからこそ律法を行う者へと変えられていく。このキリストにある恵みを、罪の悔い改めとともに体験していくものでありますように。

 

祈り

天のお父様。私たちは皆、神であるあなたの前に口を閉じて、沈黙します。自分の誇りを振りかざし、自分の正しさを主張する愚かさを手放します。どうかあなたの義を、イエス・キリストによって私たちにお与えください。

悔い改めの沈黙の中に魂を沈め、深くあなたの恵みの中で平安を頂くことが出来ますように。

救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

2025727日主日礼拝説教

ローマ人への手紙3920

「すべての口がふさがれてキリストのもとへ」

序.いい人でありたいという願いの行き止まり

1.すべての人が罪の力のもとで生きている(全的堕落:total depravity

・あらゆる領域に罪の影響がある(舌、口、足、道、目)

2.神の前ですべての口はふさがれる

3.罪の意識と悔い改めが、イエス・キリストへと導く

むすび.神の義を受け取ったものは、御霊の力によって律法を満たす生き方を始める

 

 

Sermão da missa dominical de 27 de julho de 2025

Carta aos Romanos 3:9-20

Todas as bocas serão fechadas e todos se curvarão diante de Cristo”

Introdução. O beco sem saída do desejo de ser uma boa pessoa

Vocês já desejaram “viver corretamente” ou “viver bem”? Se vocês vêm à igreja por vontade própria, certamente já pensaram nisso alguma vez. Por alguém, pela família, pelos irmãos e irmãs, vocês certamente já desejaram “ser uma pessoa boa” e “viver da maneira correta, à sua maneira”.

Mas, na passagem de hoje, Paulo afirma com clareza e serenidade: “Não há justo, nem um sequer”. Isso significa que, diante de Deus e à luz dos padrões de Deus, não há ninguém que possa ser considerado um justo perfeito, sem nenhum pecado. É uma declaração de que você, eu e todas as pessoas do mundo, sem exceção, vivemos em pecado diante de Deus.

Como você interpreta essas palavras da Bíblia? Você fica desapontado por ter se esforçado tanto e ainda assim ser considerado injusto, ou fica indignado por alguém dizer isso? Por que Paulo disse “não há justo” e que ninguém é justo diante de Deus para aqueles que leem a Bíblia e tentam viver de acordo com ela? Qual seria o objetivo disso? Ao ouvir essa declaração, que sentimentos devemos ter e com que pensamentos devemos encarar nossa vida? Gostaria de refletir sobre a consciência de que não somos justos e sobre o modo de vida que isso implica.

 

1. Todos vivem sob o poder do pecado (depravação total)

Vamos ler novamente o versículo 9. “Então, o que dizer? Temos alguma vantagem? De modo algum. Como já apontamos, tanto os judeus como os gregos, todos estão sob o domínio do pecado.” Os judeus receberam o Antigo Testamento, guardavam a lei, usavam a circuncisão como sinal do povo de Deus e tinham o privilégio de viver com Deus. Mas isso não significava que eles recebiam tratamento especial na salvação. O próprio Paulo era judeu, mas, depois de se perguntar: “Nós, judeus, temos alguma vantagem na salvação?”, respondeu que não.

Todos estão sujeitos ao pecado. Ou seja, todos são dominados pelo pecado e vivem sob sua influência. Em termos teológicos, isso é chamado de “depravação total”. Em inglês, é “total depravity”. Ser totalmente depravado significa que a influência do pecado se manifesta em todas as áreas da nossa vida. No entanto, isso não significa que todas as áreas estejam completamente contaminadas pelo pecado. Podemos comparar isso da seguinte maneira. Pense em um copo com água barrenta. Com o passar do tempo, a água barrenta se deposita no fundo, acumulando lama, mas a parte superior fica cada vez mais transparente. Então, só porque a parte superior está transparente, será que podemos beber essa água como se fosse água limpa? Isso seria impossível. Mesmo que pareça limpa, toda a água está contaminada pela lama. Além disso, ela não está completamente turva. Da mesma forma, nosso coração e nossa vida podem parecer corretos à primeira vista ou cheios de bondade. No entanto, ainda assim, em algum lugar há a sujeira do pecado, a rebelião contra Deus e pensamentos egocêntricos.

O pecado afeta todas as áreas (língua, boca, pés, caminho, olhos)

 “Não há justo, nem um sequer.” A frase do versículo 10 é famosa. Seis passagens da Bíblia são citadas, mas as citações escolhidas são suficientes para explicar que o problema do pecado está presente em todas as áreas da nossa vida. A partir do versículo 13, cada parte do corpo é mencionada individualmente. Versículo 13: “A garganta deles é um túmulo aberto. Com a língua enganam.” O versículo 14 também trata do pecado da boca. A maior parte da tristeza e das disputas que causamos é gerada pela boca, pela língua. Palavras arrogantes, frias, sem amor, sem compreensão, calúnias, difamações, desculpas, mentiras, reclamações e queixas. A carta de Tiago 3 descreve bem como o uso da boca pode ser perigoso. Tiago 3:5: “A língua é um órgão pequeno, mas se gaba de grandes coisas. Veja só. Uma pequena chama pode incendiar uma grande floresta. A língua é um fogo. É um mundo de injustiça. A língua está entre os nossos órgãos e contamina todo o corpo, incendeia a roda da vida e é queimada pelo fogo do inferno.” Existe alguém que nunca tenha sido repreendido por Deus pelo uso das palavras? Isso por si só já é motivo suficiente para ser repreendido pelo pecado.

O versículo 15 fala sobre as disputas causadas pelo pecado e seu fim trágico. “Seus pés são rápidos para derramar sangue, e em seus caminhos há destruição e miséria.” O Japão é considerado um país com uma segurança pública muito boa em comparação com outros países do mundo. Por outro lado, também ouvimos notícias surpreendentes sobre incidentes. Incidentes de violência indiscriminada por motivos egoístas, bullying bizarro, assassinatos entre familiares e parentes. Além desses ataques visíveis, não são poucas as pessoas que sofrem com ataques invisíveis, como abuso de poder, abuso moral e assédio sexual. Olhando para o mundo, mesmo em 2025, o mundo ainda não conseguiu acabar com as guerras. Ainda hoje, há destruição e miséria no caminho da humanidade. Além disso, mesmo chegando a um fim trágico, as pessoas continuam a afirmar que estão certas e que o outro está errado, sem conseguir parar a disputa. Ninguém pode considerar esse ciclo de disputas, destruição e miséria como algo alheio. Em maior ou menor grau, não será que nós também enfrentamos problemas semelhantes?

 E o problema fundamental está no versículo 18: “Não há temor de Deus diante dos seus olhos”. Temer a Deus é o princípio de tudo. Onde não há temor de Deus, não nasce a humildade quebrantada. Não é possível sair do buraco da autojustificação, da crítica aos outros e da transferência de responsabilidade. Isso porque, em primeiro lugar, não é possível reconhecer pela fé que estamos vivendo diante dos olhos de Deus.

 Essas palavras da Bíblia são uma verdade que se aplica a todos os que estão aqui sentados. Cada um de nós, diante de Deus, não tem a menor possibilidade de ser salvo apenas por suas próprias ações. A nacionalidade, o caráter, o esforço, a moralidade, a origem, nada disso tem valor diante de Deus. Diante de Deus, você não tem nada de que se orgulhar. Não há como dar desculpas a Deus. Não há margem para negociar a salvação, alegando que você se esforçou nesse aspecto. Primeiro, é importante aceitar calmamente esta afirmação da Bíblia. A partir daí, abre-se o caminho para um novo modo de vida.

 

2. Diante de Deus, todas as bocas serão fechadas

Ao ler a Bíblia e tentar levá-la a sério, as pessoas se deparam com o problema do próprio pecado: “Não tenho força para guardar e cumprir esta palavra”. Essa é a reação correta. É o resultado correto. O versículo 19 diz: “Sabemos que tudo o que a lei diz é dirigido àqueles que estão sob a lei, para que toda boca se cale e todo o mundo seja reconhecido culpado diante de Deus”. Toda boca se cala. Isso porque, diante do fato de não poder deixar de cometer pecados egocêntricos, não resta outra opção a não ser ficar em silêncio. Mesmo que surjam desculpas como “Eu estou me esforçando tanto, eu também estou certo”, ninguém pode dizer que não há problema algum em si mesmo. Ao perceber isso, reconhecemos nossos pecados diante do julgamento de Deus e ficamos calados. É nesse silêncio que a voz de Deus ressoa pela primeira vez. Quando nos arrependemos dos nossos pecados e nossas almas quebrantadas são restauradas, as palavras da graça de Deus penetram em nós.

 

3. A consciência do pecado e o arrependimento nos levam a Jesus Cristo

Nesse sentido, a lei que nos mostra que somos pecadores e o evangelho que nos ensina a ser redimidos pelo Salvador e a viver pelo Espírito Santo são um conjunto. Não há salvação sem arrependimento dos pecados. A salvação também não chega àqueles que se orgulham de ter vivido corretamente por seus próprios esforços. A última passagem de hoje, versículo 20, diz o seguinte. “Porque ninguém será justificado diante de Deus pela prática da lei. A lei produz consciência de pecado.” Quem lê a Bíblia com seriedade e tenta colocá-la em prática percebe que não é possível viver assim sem a ajuda de Deus. Assim, é levado a buscar a cruz de Jesus Cristo e a viver pelo poder do Espírito Santo. A lei coloca você diante de Deus e faz com que você perceba suas insuficiências. “Eu sou insuficiente. Estou em falta. Não tenho amor. Não tenho santidade. Não tenho consciência disso. Sou inevitavelmente insuficiente.” Mas é justamente essa consciência que é o início do evangelho.

 

Conclusão: aqueles que receberam a justiça de Deus começam a viver de acordo com a lei pelo poder do Espírito Santo.

Quando nos entristecemos pela pecaminosidade que não podemos apagar de dentro de nós, ficamos em silêncio diante de Deus, e é então que Deus fala ao nosso coração pela primeira vez. Somente aqueles que foram levados ao arrependimento do pecado pela mensagem de hoje podem entrar no caminho para receber o evangelho de Cristo dos versículos 22 e 23. Deus, pela justiça de Jesus Cristo, perdoa você e o torna justo. Você é perdoado não pela lei, mas somente pelo amor do Pai e pela graça do Filho Cristo.

A justiça de Deus não é algo que podemos obter por nossas obras. A justiça de Deus é um presente que Deus nos dá por meio da graça de Cristo. E aqueles que recebem essa graça são transformados em pessoas que guardam e cumprem a lei, por meio da união com o Espírito de Cristo. Essa é a essência do evangelho. Não guardamos a lei para sermos salvos, mas somos transformados em pessoas que guardam a lei porque fomos salvos. Que possamos experimentar essa graça em Cristo, juntamente com o arrependimento dos nossos pecados.

 

Oração

Pai Celestial. Todos nós ficamos em silêncio diante de Ti, que és Deus. Abandonamos a tolice de exibir nosso orgulho e afirmar nossa retidão. Por favor, concede-nos a tua justiça por meio de Jesus Cristo.

Que possamos mergulhar nossa alma no silêncio do arrependimento e receber profundamente a paz em tua graça.

Oramos em nome de Jesus Cristo, nosso Salvador. Amém.

 

Sermão da missa dominical de 27 de julho de 2025

Carta aos Romanos 3:9-20

Todas as bocas se calarão diante de Cristo”

Introdução. O beco sem saída do desejo de ser uma boa pessoa

1. Todas as pessoas vivem sob o poder do pecado (depravação total: total depravity)

O pecado influencia todas as áreas (língua, boca, pés, caminho, olhos)

2. Todas as bocas serão caladas diante de Deus

3. A consciência do pecado e o arrependimento levam a Jesus Cristo

Conclusão. Aqueles que receberam a justiça de Deus começam a viver de acordo com a lei pelo poder do Espírito Santo

  Sermão da missa dominical de 27 de julho de 2025

Carta aos Romanos 3:9-20

“Todas as bocas serão fechadas e todos se curvarão diante de Cristo”

Introdução. O beco sem saída do desejo de ser uma boa pessoa

Vocês já desejaram “viver corretamente” ou “viver bem”? Se vocês vêm à igreja por vontade própria, certamente já pensaram nisso alguma vez. Por alguém, pela família, pelos irmãos e irmãs, vocês certamente já desejaram “ser uma pessoa boa” e “viver da maneira correta, à sua maneira”.

Mas, na passagem de hoje, Paulo afirma com clareza e serenidade: “Não há justo, nem um sequer”. Isso significa que, diante de Deus e à luz dos padrões de Deus, não há ninguém que possa ser considerado um justo perfeito, sem nenhum pecado. É uma declaração de que você, eu e todas as pessoas do mundo, sem exceção, vivemos em pecado diante de Deus.

Como você interpreta essas palavras da Bíblia? Você fica desapontado por ter se esforçado tanto e ainda assim ser considerado injusto, ou fica indignado por alguém dizer isso? Por que Paulo disse “não há justo” e que ninguém é justo diante de Deus para aqueles que leem a Bíblia e tentam viver de acordo com ela? Qual seria o objetivo disso? Ao ouvir essa declaração, que sentimentos devemos ter e com que pensamentos devemos encarar nossa vida? Gostaria de refletir sobre a consciência de que não somos justos e sobre o modo de vida que isso implica.


1. Todos vivem sob o poder do pecado (depravação total)

Vamos ler novamente o versículo 9. “Então, o que dizer? Temos alguma vantagem? De modo algum. Como já apontamos, tanto os judeus como os gregos, todos estão sob o domínio do pecado.” Os judeus receberam o Antigo Testamento, guardavam a lei, usavam a circuncisão como sinal do povo de Deus e tinham o privilégio de viver com Deus. Mas isso não significava que eles recebiam tratamento especial na salvação. O próprio Paulo era judeu, mas, depois de se perguntar: “Nós, judeus, temos alguma vantagem na salvação?”, respondeu que não.

Todos estão sujeitos ao pecado. Ou seja, todos são dominados pelo pecado e vivem sob sua influência. Em termos teológicos, isso é chamado de “depravação total”. Em inglês, é “total depravity”. Ser totalmente depravado significa que a influência do pecado se manifesta em todas as áreas da nossa vida. No entanto, isso não significa que todas as áreas estejam completamente contaminadas pelo pecado. Podemos comparar isso da seguinte maneira. Pense em um copo com água barrenta. Com o passar do tempo, a água barrenta se deposita no fundo, acumulando lama, mas a parte superior fica cada vez mais transparente. Então, só porque a parte superior está transparente, será que podemos beber essa água como se fosse água limpa? Isso seria impossível. Mesmo que pareça limpa, toda a água está contaminada pela lama. Além disso, ela não está completamente turva. Da mesma forma, nosso coração e nossa vida podem parecer corretos à primeira vista ou cheios de bondade. No entanto, ainda assim, em algum lugar há a sujeira do pecado, a rebelião contra Deus e pensamentos egocêntricos.

・O pecado afeta todas as áreas (língua, boca, pés, caminho, olhos)

 “Não há justo, nem um sequer.” A frase do versículo 10 é famosa. Seis passagens da Bíblia são citadas, mas as citações escolhidas são suficientes para explicar que o problema do pecado está presente em todas as áreas da nossa vida. A partir do versículo 13, cada parte do corpo é mencionada individualmente. Versículo 13: “A garganta deles é um túmulo aberto. Com a língua enganam.” O versículo 14 também trata do pecado da boca. A maior parte da tristeza e das disputas que causamos é gerada pela boca, pela língua. Palavras arrogantes, frias, sem amor, sem compreensão, calúnias, difamações, desculpas, mentiras, reclamações e queixas. A carta de Tiago 3 descreve bem como o uso da boca pode ser perigoso. Tiago 3:5: “A língua é um órgão pequeno, mas se gaba de grandes coisas. Veja só. Uma pequena chama pode incendiar uma grande floresta. A língua é um fogo. É um mundo de injustiça. A língua está entre os nossos órgãos e contamina todo o corpo, incendeia a roda da vida e é queimada pelo fogo do inferno.” Existe alguém que nunca tenha sido repreendido por Deus pelo uso das palavras? Isso por si só já é motivo suficiente para ser repreendido pelo pecado.

O versículo 15 fala sobre as disputas causadas pelo pecado e seu fim trágico. “Seus pés são rápidos para derramar sangue, e em seus caminhos há destruição e miséria.” O Japão é considerado um país com uma segurança pública muito boa em comparação com outros países do mundo. Por outro lado, também ouvimos notícias surpreendentes sobre incidentes. Incidentes de violência indiscriminada por motivos egoístas, bullying bizarro, assassinatos entre familiares e parentes. Além desses ataques visíveis, não são poucas as pessoas que sofrem com ataques invisíveis, como abuso de poder, abuso moral e assédio sexual. Olhando para o mundo, mesmo em 2025, o mundo ainda não conseguiu acabar com as guerras. Ainda hoje, há destruição e miséria no caminho da humanidade. Além disso, mesmo chegando a um fim trágico, as pessoas continuam a afirmar que estão certas e que o outro está errado, sem conseguir parar a disputa. Ninguém pode considerar esse ciclo de disputas, destruição e miséria como algo alheio. Em maior ou menor grau, não será que nós também enfrentamos problemas semelhantes?

 E o problema fundamental está no versículo 18: “Não há temor de Deus diante dos seus olhos”. Temer a Deus é o princípio de tudo. Onde não há temor de Deus, não nasce a humildade quebrantada. Não é possível sair do buraco da autojustificação, da crítica aos outros e da transferência de responsabilidade. Isso porque, em primeiro lugar, não é possível reconhecer pela fé que estamos vivendo diante dos olhos de Deus.

 Essas palavras da Bíblia são uma verdade que se aplica a todos os que estão aqui sentados. Cada um de nós, diante de Deus, não tem a menor possibilidade de ser salvo apenas por suas próprias ações. A nacionalidade, o caráter, o esforço, a moralidade, a origem, nada disso tem valor diante de Deus. Diante de Deus, você não tem nada de que se orgulhar. Não há como dar desculpas a Deus. Não há margem para negociar a salvação, alegando que você se esforçou nesse aspecto. Primeiro, é importante aceitar calmamente esta afirmação da Bíblia. A partir daí, abre-se o caminho para um novo modo de vida.


2. Diante de Deus, todas as bocas serão fechadas

Ao ler a Bíblia e tentar levá-la a sério, as pessoas se deparam com o problema do próprio pecado: “Não tenho força para guardar e cumprir esta palavra”. Essa é a reação correta. É o resultado correto. O versículo 19 diz: “Sabemos que tudo o que a lei diz é dirigido àqueles que estão sob a lei, para que toda boca se cale e todo o mundo seja reconhecido culpado diante de Deus”. Toda boca se cala. Isso porque, diante do fato de não poder deixar de cometer pecados egocêntricos, não resta outra opção a não ser ficar em silêncio. Mesmo que surjam desculpas como “Eu estou me esforçando tanto, eu também estou certo”, ninguém pode dizer que não há problema algum em si mesmo. Ao perceber isso, reconhecemos nossos pecados diante do julgamento de Deus e ficamos calados. É nesse silêncio que a voz de Deus ressoa pela primeira vez. Quando nos arrependemos dos nossos pecados e nossas almas quebrantadas são restauradas, as palavras da graça de Deus penetram em nós.


3. A consciência do pecado e o arrependimento nos levam a Jesus Cristo

Nesse sentido, a lei que nos mostra que somos pecadores e o evangelho que nos ensina a ser redimidos pelo Salvador e a viver pelo Espírito Santo são um conjunto. Não há salvação sem arrependimento dos pecados. A salvação também não chega àqueles que se orgulham de ter vivido corretamente por seus próprios esforços. A última passagem de hoje, versículo 20, diz o seguinte. “Porque ninguém será justificado diante de Deus pela prática da lei. A lei produz consciência de pecado.” Quem lê a Bíblia com seriedade e tenta colocá-la em prática percebe que não é possível viver assim sem a ajuda de Deus. Assim, é levado a buscar a cruz de Jesus Cristo e a viver pelo poder do Espírito Santo. A lei coloca você diante de Deus e faz com que você perceba suas insuficiências. “Eu sou insuficiente. Estou em falta. Não tenho amor. Não tenho santidade. Não tenho consciência disso. Sou inevitavelmente insuficiente.” Mas é justamente essa consciência que é o início do evangelho.


Conclusão: aqueles que receberam a justiça de Deus começam a viver de acordo com a lei pelo poder do Espírito Santo.

Quando nos entristecemos pela pecaminosidade que não podemos apagar de dentro de nós, ficamos em silêncio diante de Deus, e é então que Deus fala ao nosso coração pela primeira vez. Somente aqueles que foram levados ao arrependimento do pecado pela mensagem de hoje podem entrar no caminho para receber o evangelho de Cristo dos versículos 22 e 23. Deus, pela justiça de Jesus Cristo, perdoa você e o torna justo. Você é perdoado não pela lei, mas somente pelo amor do Pai e pela graça do Filho Cristo.

A justiça de Deus não é algo que podemos obter por nossas obras. A justiça de Deus é um presente que Deus nos dá por meio da graça de Cristo. E aqueles que recebem essa graça são transformados em pessoas que guardam e cumprem a lei, por meio da união com o Espírito de Cristo. Essa é a essência do evangelho. Não guardamos a lei para sermos salvos, mas somos transformados em pessoas que guardam a lei porque fomos salvos. Que possamos experimentar essa graça em Cristo, juntamente com o arrependimento dos nossos pecados.


Oração

Pai Celestial. Todos nós ficamos em silêncio diante de Ti, que és Deus. Abandonamos a tolice de exibir nosso orgulho e afirmar nossa retidão. Por favor, concede-nos a tua justiça por meio de Jesus Cristo.

Que possamos mergulhar nossa alma no silêncio do arrependimento e receber profundamente a paz em tua graça.

Oramos em nome de Jesus Cristo, nosso Salvador. Amém.


Sermão da missa dominical de 27 de julho de 2025

Carta aos Romanos 3:9-20

“Todas as bocas se calarão diante de Cristo”

Introdução. O beco sem saída do desejo de ser uma boa pessoa

1. Todas as pessoas vivem sob o poder do pecado (depravação total: total depravity)

・O pecado influencia todas as áreas (língua, boca, pés, caminho, olhos)

2. Todas as bocas serão caladas diante de Deus

3. A consciência do pecado e o arrependimento levam a Jesus Cristo

Conclusão. Aqueles que receberam a justiça de Deus começam a viver de acordo com a lei pelo poder do Espírito Santo


Traduzido com a versão gratuita do tradutor - DeepL.com