2025年7月20日主日礼拝説教 ローマ人への手紙3:1~8 「神の真実に応えて」
2025年7月20日主日礼拝説教
ローマ人への手紙3:1~8
「神の真実に応えて」
序.無償で高価なものを受け取る難しさ
神様の愛は、ただ信仰によって、キリストの十字架を通して私たちに与えられています。私はこの福音の示している不思議な真実について、考えてしまいます。
愛と赦しといのちが、ただ信じるだけで与えられるということ。この世界をお造りになった聖なる愛なる義なる神様が、一被造物に過ぎない、自己中心で罪深くてその自覚もなく歪んだ愛しか知らない人間を、ご自身の子どもとして招き、罪を赦し、愛してともに歩んでくださるのです。ただキリストを信じる信仰によって、です。私たちはこの信じられないような恵みを十分に理解して受け取ることが出来ているでしょうか。
「ただより怖いものはない」などと言われます。ただのうらに悪意や支配があるのではないかと疑われるからです。
もし、「私に会いに来たらそれだけで一億円差し上げます」と言われたら、誰でも怪しむのではないでしょうか。きっと、信じて行った先で、何かとんでもないものを後で要求されるのではないか。仮に、もし信じて、本当にただで一億円を受け取ることが出来たとしましょう。さて、あなたはただで一億円をくれたその人を、とんでもなく私を愛してくれた人として感謝するでしょうか。おそらくできないと思います。一億円をただでくれるということをしてくれても、それが私を愛してくれていることにはならないからです。それこそ、ただ会いに行っただけで一億円をくれる変な人だったな、でもお金がもらえただけラッキーとなるかもしれません。
信仰による罪の赦しと永遠のいのちを考える時、このような勘違いというかとんでもない思い違いが人間の中に生まれるのではないかと気が付きます。ただ信じるだけで神に罪を赦され、神とともに歩み、永遠の神の国に生きるものとなる。こんな素晴らしい、一億円どころではない宝物を受け取っても、私たちはなおも神様への愛や感謝を新鮮に抱くことが出来ない。どこかぼんやりとしている。いやむしろ、神様が愛したくて私を勝手に愛したのだから、私は好きなように生きます、とばかりに罪に鈍感なままで生きているということがないでしょうか。ただでそんなに素晴らしいものをくれるというのなら、ただでもらっておきましょう。得になるのならもらいますが、だからと言って神を愛するかどうかはわかりません、と。
福音は、神とは無関係に生きたままで、ただ大金を受け取るようにして信じることは決してできないものです。むしろ自分の罪が分かり、神に愛されていることが分かり、神とともに生きていきたいと心から願うところから、神の子どもとしての生き方が始まります。
今日の個所は、「自分が罪から救い出された神の民である」という思いからくる高慢や勘違い、そして侮りについて、パウロがユダヤ人に詰め寄っているところです。八つの節の中で、全部で四つの質問と回答が記されています。ユダヤ人たちの反面教師を通して、私たちはそのような高慢や勘違い、侮りに陥っていないか、点検されたいと思います。
1.⑴ユダヤ人であることに、優れている点はあるのか
まずパウロは、ユダヤ人に与えられた特権について語ります。それは直前の2章の最後の部分で、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の割礼が割礼ではない」とパウロが書いていたからです。パウロのいう通り、ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで救われたのではありません。また律法に従って割礼を受けていたから、それで救われたのではありません。むしろ聖書が教えているところを真剣に守り行う中で、自分の罪深さに直面し、神の愛と赦しを信じて生きる信仰によって、彼らも救いに入れられたのです。それはユダヤ人もギリシャ人も同じことでした。だからこそ、3:1のこの質問があります。「それでは、ユダヤ人の優れている点は何ですか。」この問いにパウロは力強く答えます。「あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神の言葉を委ねられました。」言い換えれば、ユダヤ人に旧約聖書の教えが与えられたということです。彼らの使命は、この聖書を通して神を知り、罪を知り、神の贖いに信頼して生きるように召された人々でした。このことは大きな恵みであり、彼らに与えられた大きな使命でした。彼らは、聖書を持っているから、ユダヤ人であるから、割礼を受けたから救われたのではありません。むしろこれらのものを通して「神に愛され、神を愛する信仰の民」としての生き方を輝かせることが期待されていたのです。しかし彼らは、ユダヤ人であること、聖書を知っていること、割礼という神の民のしるしを持っていることが、まるで救われていることそのものであるかのように思い上がり、実質的に神を愛しておらず、信じてもいない生き方をしてしまっていたのでした。このようなユダヤ人たちの歩んだ道は、新約時代の神の民である私たちも同様に警告を受けるべきではないでしょうか。私は聖書を持っていて、知っていて、礼拝に出席していて、洗礼を受けている。だから救われている。しかし、そのような外側にあるものにより頼んでいて、この心が神を愛しておらず、信頼して生きていないとしたら、本当にキリストにより頼む生き方に急いで立ち返る必要があります。
2.⑵神の民の不真実は、「神が彼らを救う」という神の真実を無にするのか、⑶神の正義の裁きは不正なのか
第二の問は、神の民であるユダヤ人が不真実な生き方に進んだなら、神の真実は無になるのかという問いです。パウロは2章において、ユダヤ人の中に聖書を持っていながらも聖書に生きていない不信仰で不真実なものたちがいることを明らかにし、彼らの上には神の裁きがあることを明言しています。では、神が救うと約束したご自身の民イスラエルを、その罪のゆえに神が裁くのは、神の不真実になるのでしょうか。パウロは4節で「決してそんなことはありません」と述べます。
どうしてそう言えるのでしょうか。この個所の理解のカギは4節の鍵かっこの詩篇の引用にあります。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます。」と。これは詩編51:4で、ダビデがバテ・シェバとの罪を悔い改めたときに告白した歌です。ここでは省略されているので、詩篇51:4全文を読んでみるとそれがよくわかります。「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですから、あなたが宣告する時あなたは正しく、さばくときあなたは清くあられます。」重要な点は、ダビデがこの詩篇をうたったのは、神の裁きを受けた後で、神に対して「あなたは正しい」祈ったという点です。神は、不正を許可するお方ではありません。神が私たちを罪のゆえに裁かれるのは正しいことなのです。それによって神の正しさが明らかになり、私たちは罪の悔い改めへと導かれるからです。神様は、その裁きをもって人を悔い改めに導き、悔い改めたものを何度でも赦して受け入れてくださるのです。ですから、罪を裁くことにおいても、また悔い改めたものを許すことにおいても、常に神はご自身の救いの契約に真実なお方であり続けるのです。
三つめの問はこの点にあります。3:5「もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら(少し飛んで)御怒りを下す神は不義なのでしょうか。」もちろんそんなことはありません。神が人の罪を裁かれるのは正しいことです。そして神が人の罪を憐れみ、悔い改める者を赦されるのも神の正しさなのです。キリストの十字架において、神の義と愛が出会っているからです。裁きにおいても赦しにおいても、神はご自身の契約に真実であられるお方です。私たちの側に不真実があっても、いつも神は真実なお方です。
ただこのようにして神の救いを理解する時、私たち人間の心には高慢の誘惑が生まれるのです。それが冒頭に触れたことです。神は、救われるために正しい行いを要求されません。それは誰も救いを獲得できるほど正しい生き方などできないからです。しかし、神の愛に触れて救いを受け取ったものは、神の愛に応えて正しい生き方をしたいと心から願う者へと変わります。それこそがキリストに繋がれたすべてのものが経験する、聖化の恵みだからです。救いは魂の性質を変えて聖さをもたらし、聖さを追い求める歩みの先に栄光に包まれたすがたで天の御国に入ります。
3.⑷神の善がより現れるために、もっと悪を行うのがよいか
それなのに、ただで受け取った救いを、まるで当たり前の自分の権利であるかのように考えてしまうことがあるのではないでしょうか。3:7節は、パウロの説明を聞いたユダヤ人が投げかけた、飛んでもない問いが記されています。「では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人として裁かれるのですか。『善をもたらすために悪を行おう』ということになりませんか。」まさに、このようにしてユダヤ人からパウロは中傷されていたのです。しかしこれは中傷や反論というよりも、言いがかり、屁理屈です。神の愛というものを自分中心に考えているからこのような中傷が生まれるのではないでしょうか。「私が罪を犯せば犯すほど、神は私を赦し、神の愛と栄光はもっと大きく輝く。だから罪を犯そうとなるのではないか。」もしそうなるのだとしたら、なんと大きな勘違い、とんでもない高ぶった思い上がりでしょう。このような考えは、神の愛の信頼ではなく、むしろ神への裏切りです。
それは、人間同士のことを考えたらすぐにわかるはずです。あなたが誰かを心から深く愛しているとします。すると相手がこういいます。あなたが私を愛してくれていることが本当によくわかりました。私はあなたの愛を信頼しているので、これからもっとあなたを悲しませることをしようと思います。そうすれば、あなたがどれだけ私を深く愛しているかがわかるから、と。簡潔に言って、その人はただの人でなしの裏切り者です。愛されている喜びも、愛に応える誠実さも持ち合わせていない、愚か者です。神の愛を受けて救われた人が、こんな考え方をするはずがないのです。パウロはこれに対しては反論するまでもなく、「そのように中傷するものたちが、さばきを受けるのは当然です」と書いて終わるだけです。神の愛を踏みにじるものが、神のさばきをうけるのは確かに当然のことだからです。
むすび.こんな私でも、神様の愛に少しでも応えたい
以上四つの問と答えを見てきました。今日の聖書の箇所は、逆説的にですが、私たちに注がれている神様の真剣で憐れみ深いまなざしを明らかにしています。神の無償で与えられる愛と赦しがあまりに憐れみ深く気前が良いので、私たちはそれを当たり前と思い、軽く取り扱い、あろうことか神の愛を無視し、踏みにじって、逆の方向に進んでいくという愚かさがあるということを警告されるのです。
神の愛が現れるためにもっと罪を犯そうと考えるような人はいないと思います。しかし、「もう救われているのだから、多少の罪をやってみても勘弁してくれるだろう」とか「自分の弱さも、神さまは全部わかってくださるはずだからこれくらいは大丈夫だろう」そんな思いが、私たちの心のどこかにひそんでいるかもしれません。神の愛を信頼するというのは、赦されると思って罪を犯し続けることではありません。むしろ赦しを信頼して、愛することに精いっぱい取り組むことが真実なキリスト者の心です。
神さまはただ形式的に「救い」を与えようとはされません。もっと深く、もっと親しく、愛をもって私たちと共に歩むことへと導かれるのです。この神さまの「真実さ」とは、決して冷たい「裁判官のような正しさ」ではありません。愛する者を決して手放さず、真の命へと導こうとする熱くて優しい誠実さです。その点で、神が裁くときは正当であり、また悔い改めたものを赦すときにも神は真実なのです。
私たちに求められているのは、自分を責めたり、完璧になろうとしたりすることではなく、ただ素直に、自分の弱さや迷いを神さまの前に差し出し、「こんな私を導いてください」と心を開くことです。そこには感謝があり平安があり成長があり豊かさがあるのです。
「善をあらわすために悪をしてもいい」と開き直るのではなく、「こんな私でも、神の愛にこたえて少しでも良いことができたら」と願う心が、キリストとともに歩む者の姿なのです。その歩みは不完全でも、いつもキリストの愛の中に守られています。だから、安心して、今週もまた一歩、神さまのほうへ向かっていきたいと思います。
祈り
私たちを愛しておられるお父様。私たちはしばしば弱く、迷いやすい者です。あなたの愛の意味も、あなたの裁きの意味も、とんでもない勘違いをして孤独や寂しさや悲惨に向かってしまいます。
でも、あなたは変わらず真実でいてくださいます。どうか私たちが、あなたの愛の中に生きることを選び取れますように。キリストの恵みにすがりつつ、あなたに心から応答できますように。
イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。
2025年7月20日主日礼拝説教
ローマ人への手紙3:1~8
「神の真実に応えて」
序.無償で高価なものを受け取る難しさ
1.⑴ユダヤ人であることに、優れている点はあるのか
2.⑵神の民の不真実は、「神が彼らを救う」という神の真実を無にするのか
⑶神の正義の裁きは不正なのか
3.⑷神の善がより現れるために、もっと悪を行うのがよいか
むすび.こんな私でも、神様の愛に少しでも応えたい
Sermão da missa dominical de 20 de julho de 2025
Carta aos Romanos 3:1-8
“Respondendo à verdade de Deus”
Introdução. A dificuldade de receber algo valioso sem pagar nada
O amor de Deus nos é concedido apenas pela fé, através da cruz de Cristo. Eu penso sobre a verdade misteriosa que este evangelho nos mostra.
Que o amor, o perdão e a vida nos são concedidos apenas por acreditarmos. O Deus santo, amoroso e justo que criou este mundo convida como Seu filho um ser humano que é apenas uma criatura, egocêntrico, pecador, inconsciente e que só conhece o amor distorcido, perdoa seus pecados, ama-o e caminha com ele. Apenas pela fé em Cristo. Será que conseguimos compreender e receber plenamente esta graça inacreditável?
Diz-se que “não há nada mais assustador do que algo gratuito”. Isso porque suspeitamos que por trás da gratuidade haja malícia ou dominação.
Se alguém nos dissesse: “Se você vier me visitar, eu lhe darei 100 milhões de ienes”, qualquer um suspeitaria. Certamente, depois de acreditar e ir até lá, seríamos solicitados a fazer algo absurdo. Suponhamos que, por acreditar, realmente recebêssemos 100 milhões de ienes de graça. Bem, você agradeceria àquela pessoa que lhe deu 100 milhões de ienes de graça como alguém que o amava profundamente? Provavelmente não. Mesmo que lhe desse 100 milhões de ienes de graça, isso não significaria que me amava. Talvez pensasse que era uma pessoa estranha que lhe dava 100 milhões de ienes só por ter ido visitá-la, mas que teve sorte por ter recebido o dinheiro.
Quando pensamos no perdão dos pecados e na vida eterna pela fé, percebemos que esse tipo de equívoco ou pensamento errado pode surgir nos seres humanos. Basta acreditar para que Deus perdoe nossos pecados, para que possamos caminhar com Ele e viver no reino eterno de Deus. Mesmo recebendo um tesouro tão maravilhoso, que vale muito mais do que 100 milhões de ienes, ainda assim não conseguimos sentir um amor e uma gratidão renovados por Deus. Ficamos com uma sensação de vazio. Ou melhor, como Deus nos amou por vontade própria, vivemos como queremos, permanecendo insensíveis ao pecado. Se Deus nos dá algo tão maravilhoso de graça, vamos aceitar. Aceitamos se for vantajoso, mas isso não significa que amamos a Deus.
O evangelho não é algo que se pode acreditar simplesmente recebendo uma grande quantia de dinheiro, continuando a viver sem relação com Deus. Pelo contrário, é quando reconhecemos nossos pecados, compreendemos que somos amados por Deus e desejamos sinceramente viver com Deus que começa a vida como filhos de Deus.
Na passagem de hoje, Paulo repreende os judeus por sua arrogância, equívocos e desprezo, que vêm do pensamento de que “somos o povo de Deus, salvo do pecado”. Nos oito versículos, há quatro perguntas e respostas. Através do exemplo negativo dos judeus, queremos examinar se não estamos caindo em tal arrogância, equívocos e desprezo.
1. (1) Há alguma vantagem em ser judeu?
Primeiro, Paulo fala sobre os privilégios dados aos judeus. Isso porque, no final do capítulo 2, Paulo escreveu: “O judeu exterior não é judeu, e a circuncisão exterior não é circuncisão”. Como Paulo diz, os judeus não foram salvos apenas por serem judeus. Também não foram salvos por terem sido circuncidados de acordo com a lei. Em vez disso, ao seguirem seriamente os ensinamentos da Bíblia, eles enfrentaram seus pecados e foram salvos pela fé, acreditando no amor e no perdão de Deus. Isso era válido tanto para os judeus quanto para os gregos. É por isso que temos a pergunta em 3:1. “Então, qual é a superioridade dos judeus?” Paulo responde com veemência a essa pergunta: “Em todos os aspectos, ela é grande. Em primeiro lugar, eles receberam a palavra de Deus”. Em outras palavras, os judeus receberam os ensinamentos do Antigo Testamento. A missão deles era conhecer a Deus por meio dessa Bíblia, conhecer o pecado e viver confiando na redenção de Deus. Isso era uma grande graça e uma grande missão que lhes foi dada. Eles não foram salvos por terem a Bíblia, por serem judeus ou por terem sido circuncidados. Em vez disso, esperava-se que, por meio dessas coisas, eles brilhassem como um povo de fé amado por Deus e que amava a Deus. No entanto, eles se tornaram arrogantes, pensando que o fato de serem judeus, conhecerem a Bíblia e terem a circuncisão, que é o sinal do povo de Deus, era o suficiente para serem salvos, e acabaram vivendo de uma maneira que, na verdade, não amava a Deus nem acreditava Nele. O caminho que esses judeus trilharam deve servir de advertência para nós, que somos o povo de Deus na era do Novo Testamento. Eu tenho a Bíblia, conheço-a, frequento os cultos e fui batizado. Portanto, estou salvo. No entanto, se estiver confiando nessas coisas externas e meu coração não amar a Deus nem viver com confiança, preciso voltar rapidamente a uma vida em que confio verdadeiramente em Cristo.
2. (2) A falsidade do povo de Deus anula a verdade de Deus de que “Deus os salvará”? (3) O julgamento justo de Deus é injusto?
A segunda questão é se a verdade de Deus se torna nula quando o povo de Deus, os judeus, segue um modo de vida falso. Em 2 Coríntios 2, Paulo revela que há judeus que possuem a Bíblia, mas não vivem de acordo com ela, sendo infiéis e falsos, e afirma claramente que o julgamento de Deus recairá sobre eles. Então, será que Deus se torna falso ao julgar o seu próprio povo, Israel, pelo seu pecado, apesar de ter prometido salvá-lo? Paulo afirma em 4: “De modo algum”.
Como ele pode dizer isso? A chave para entender essa passagem está na citação do Salmo no versículo 4: “Por isso, quando você julgar, você será justo, e quando você condenar, você será vencedor”. Essa é uma canção de Davi em Salmos 51:4, quando ele se arrependeu do pecado com Bate-Seba. Como está omitida aqui, leia o Salmo 51:4 na íntegra para entender melhor. “Eu sou um pecador diante de ti. Eu fiz o que é mau aos teus olhos. Portanto, quando tu julgas, tu és justo, e quando tu condenas, tu és puro.” O ponto importante é que Davi cantou este salmo depois de receber o julgamento de Deus e orou a Deus dizendo: “Tu és justo”. Deus não é alguém que permite a injustiça. É justo que Deus nos julgue por nossos pecados. Isso revela a justiça de Deus e nos leva ao arrependimento dos nossos pecados. Deus usa o julgamento para levar as pessoas ao arrependimento e perdoa e aceita aqueles que se arrependem quantas vezes forem necessárias. Portanto, tanto no julgamento dos pecados quanto no perdão dos arrependidos, Deus permanece sempre fiel à sua aliança de salvação.
3. ⑷ É melhor praticar mais o mal para que a bondade de Deus se manifeste mais?
A terceira questão está neste ponto. 3:5 “Se a nossa injustiça revela a justiça de Deus (pulando um pouco), será que Deus, que manifesta a sua ira, é injusto?” É claro que não. É justo que Deus julgue os pecados das pessoas. E também é justo que Deus tenha misericórdia dos pecados das pessoas e perdoe aqueles que se arrependem. Isso porque na cruz de Cristo, a justiça e o amor de Deus se encontram. Tanto no julgamento quanto no perdão, Deus é fiel ao seu próprio pacto. Mesmo que haja falsidade do nosso lado, Deus é sempre verdadeiro.
No entanto, quando entendemos a salvação de Deus dessa maneira, surge em nossos corações a tentação da arrogância. É disso que falei no início. Deus não exige que façamos o que é certo para sermos salvos. Isso porque ninguém consegue viver de maneira tão correta a ponto de merecer a salvação. No entanto, aqueles que recebem a salvação ao entrar em contato com o amor de Deus se transformam em pessoas que desejam sinceramente viver de maneira correta em resposta ao amor de Deus. Essa é a graça da santificação que todos os que estão ligados a Cristo experimentam. A salvação transforma a natureza da alma e traz santidade, e aqueles que buscam a santidade entram no reino dos céus envoltos em glória.
No entanto, às vezes pensamos que a salvação que recebemos de graça é um direito nosso, como se fosse algo natural. O versículo 3:7 registra uma pergunta absurda feita pelos judeus que ouviram a explicação de Paulo. “Então, se minha falsidade contribui para que a verdade de Deus se torne ainda mais evidente e glorifique a Deus, por que ainda sou julgado como pecador? Isso não significa que devemos fazer o mal para que venha o bem?” Era exatamente assim que Paulo era difamado pelos judeus. No entanto, isso não era difamação ou contra-argumento, mas sim uma acusação infundada e um argumento falacioso. Talvez essas calúnias tenham surgido porque eles pensavam no amor de Deus de forma egocêntrica. “Quanto mais eu pecar, mais Deus me perdoará, e o amor e a glória de Deus brilharão ainda mais. Então, por que não pecar?” Se fosse assim, que grande equívoco, que arrogância absurda! Esse tipo de pensamento não é confiança no amor de Deus, mas sim traição a Deus.
Isso fica claro quando pensamos nas relações entre os seres humanos. Suponha que você ama alguém profundamente. Então, essa pessoa diz: “Eu percebi muito bem que você me ama. Como confio no seu amor, vou fazer algo que vai te deixar ainda mais triste. Assim, você vai perceber o quanto me ama profundamente”. Em resumo, essa pessoa é um traidor sem caráter. É um tolo que não tem a alegria de ser amado nem a sinceridade de retribuir o amor. Uma pessoa que recebeu o amor de Deus e foi salva não pensaria assim. Paulo nem sequer refuta isso, apenas conclui dizendo: “É justo que aqueles que difamam assim sejam julgados”. É claro que aqueles que pisam no amor de Deus receberão o julgamento de Deus.
Conclusão: Mesmo sendo assim, quero retribuir um pouco do amor de Deus
Vimos as quatro perguntas e respostas acima. A passagem bíblica de hoje, de forma paradoxal, revela o olhar sério e misericordioso de Deus sobre nós. O amor e o perdão que Deus nos dá gratuitamente são tão misericordiosos e generosos que nós os consideramos naturais, os tratamos com leveza e, pior ainda, ignoramos o amor de Deus, o pisamos e seguimos na direção oposta, o que é uma grande tolice.
Acho que ninguém pensa em cometer mais pecados para que o amor de Deus se manifeste. No entanto, pensamentos como “já que estou salvo, Deus vai me perdoar se eu cometer alguns pecados” ou “Deus compreende todas as minhas fraquezas, então isso não faz mal” podem estar escondidos em algum lugar do nosso coração. Confiar no amor de Deus não significa continuar pecando pensando que seremos perdoados. Pelo contrário, confiar no perdão e se esforçar ao máximo para amar é o coração verdadeiro de um cristão.
Deus não nos dá a “salvação” apenas formalmente. Ele nos leva a caminhar com Ele de forma mais profunda, mais íntima e com amor. Essa “verdade” de Deus não é uma “justiça fria como a de um juiz”. É uma sinceridade calorosa e gentil que nunca abandona aqueles que ama e os leva à vida verdadeira. Nesse sentido, Deus é justo quando julga e também é verdadeiro quando perdoa aqueles que se arrependem.
O que se espera de nós não é que nos culpemos ou tentemos ser perfeitos, mas que apresentemos nossas fraquezas e dúvidas diante de Deus com sinceridade e abramos nosso coração, dizendo: “Guie-me assim como sou”. Nisso há gratidão, paz, crescimento e riqueza.
Não é uma atitude de rebeldia, dizendo que “é permitido fazer o mal para manifestar o bem”, mas sim um coração que deseja “mesmo sendo assim, responder ao amor de Deus e fazer o bem, ainda que seja um pouco”. Essa é a postura daqueles que caminham com Cristo. Mesmo que esse caminho seja imperfeito, estamos sempre protegidos pelo amor de Cristo. Por isso, com tranquilidade, quero dar mais um passo em direção a Deus nesta semana.
Oração
Pai que nos ama. Muitas vezes somos fracos e facilmente nos perdemos. Compreendemos mal o significado do seu amor e do seu julgamento, e acabamos nos sentindo solitários, tristes e infelizes.
Mas você permanece sempre fiel. Que possamos escolher viver no seu amor. Que possamos responder a você de todo o coração, apoiando-nos na graça de Cristo.
Oramos em nome de Jesus Cristo. Amém.
Sermão da missa dominical de 20 de julho de 2025
Carta aos Romanos 3:1-8
“Respondendo à verdade de Deus”
Introdução. A dificuldade de receber algo valioso sem pagar nada
1. (1) Há alguma vantagem em ser judeu?
2. (2) A falsidade do povo de Deus anula a verdade de Deus de que “Deus os salvará”?
(3) O julgamento justo de Deus é injusto?
3. (4) É melhor praticar mais o mal para que a bondade de Deus se manifeste mais?
Conclusão. Mesmo sendo assim, quero responder ao amor de Deus, ainda que seja um pouco.