2024年3月24日受難節主日礼拝説教 ガラテヤ人への手紙5:24~26

 

2024324日受難節主日礼拝説教

ガラテヤ人への手紙524~26

『罪の生き方は十字架で死に、今や御霊によって生きている』

 

序.キリストの十字架の贖いは、罪という莫大な借金を肩代わりしてくれた

 本日は受難節の主日礼拝です。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったことの恵みを覚えて過ごす一週間としたいと思います。

 受難というのは、苦難を受けると書きます。神のひとり子であるイエス・キリストが、十字架の上で苦難を引き受けてくださったという意味です。本当ならば、神に背いて生きている人間が自分で受けるはずであった裁きを、キリストが身代わりに引き受けてくださった苦難です。

 

 この出来事は、例えるならば莫大な借金を肩代わりするためにイエス・キリストがお金を払ってくれたというような状況です。キリストはすでに全人類の罰を身代わりに引きうけて支払ってくださっているのです。しかし、どんな大きな借金の支払い契約でもそうであるように、契約にはサインが必要です。その支払いをするのは私ですという証明が必要だからです。私自身が罪を犯しているのは確かであり、罪の罰という借金があるのは間違いありません。それを支払うために、キリストはすでに十字架で身代わりに聖いいのちを捧げてくださいました。その後、必要なことは、私たちが、キリストの身代わりのいのちは、私の罪の罰を引き受けるためのものでしたと契約書にサインをすることなのです。これが救いを自分のものとして受け入れる、信仰の告白です。

 自分の罪を認め、キリストの赦しを受け取ることを告白したなら、その時からもはやその人は罪の罰を恐れながら生きる必要はなくなります。しかし、それだけではありません。罪に向かう生き方からも救い出されるのです。それは、ただ罪の借金が支払われただけではなく、支払ってくれたイエス・キリストとの深い結びつきが生まれることで、私たちが神様に向かう生き方に方向転換するからです。神様に愛され、神様を愛して生きる生き方こそ永遠のいのちの性質であり、救われた人はその時からこの性質を輝かせながら、天国に向かって成長していくようになります。これが聖書の教えている救いの全体です。これが、罪の赦しであり、聖められることであり、そして天国で栄光のうちに変えられ、永遠に生きることです。

 

 しかし、現実的な感覚として、私たちは信仰によってこの出来事を新鮮に感謝したり喜んだりすることが難しい時があります。私たちは、普通ただでもらったものを大事に出来ません。ただでもらったポケットティッシュは、どこかでなくしても悲しくなりません。ただ入って来るチラシは、ゴミ箱に簡単に捨てられます。しかし高いお金を払って購入したドレスや靴、大変な努力をして作った作品などであれば大切に取り扱います。

 私たちにとって、キリストによって罪赦され、永遠のいのちを与えられた出来事は、目に見えないのでその価値を忘れてしまいやすいところがあります。今日読んだ箇所は、救われた人が受け取っている永遠のいのちというものが、どのような時に輝くのかということを教えています。救いは、ただ天国行きになるという遠い将来のことだけではありません。むしろ今ここ、今日、明日の私たちの生き方から、永遠にまで続く神様との関係の出来事なのです。

 

三つのポイントでお話ししようと思います。

 信仰というのは目には見えないものですが、しかし現実に、目に見える変化をもたらすものです。そのために、救われた人は自分がどのようなものであるのかを正しく理解する必要があります。自己認識は、その人の生き方と深く関わっているからです。

1.欲望に動かされて罪に向かう古い生き方を、キリストとともに十字架につけた

第一に、キリスト・イエスについた人は、欲望に動かされて罪に向かう生き方を捨てたということです。まずそのことが24節に書かれています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望ともに十字架に着けたのです。」これは、罪の罰が支払われたと言うだけではなく、私たちが罪を好み、罪を願い、実際に罪を行う生き方から救い出されたということです。パウロは、そういう罪に振り回される古い生き方はキリストとともに十字架に架かって死んだのだと明言しています。

クリスチャンが今日しっかりと握りしめるべき自己認識は、罪を犯し続ける私はキリストと共に十字架に架かって死んだんだということです。私たちがすでに十字架に架けて死んだ古い生き方とはどんな生き方でしょうか。16節から知腰読んでみましょう。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」飛んで19節「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」

淫らな行い、汚れ、好色というのは情欲です。神様が良い物として与えてくださった性の贈り物を、結婚関係以外のところで欲望のままに扱うことによって、世界は今日も罪と悲しみと混乱を増し加えています。私たちは、そのような誘惑から守られ、節度のなかで祝福を受けとる道が与えられています。

偶像礼拝、魔術というのは、神でないものを神とすることの愚かさです。

敵意、争い、そねみ、憤りは、罪人が罪人を憎んだり、妬んだりする、今も昔も変わらない人の世の悲しみです。

それが高まると、党派心、分裂、分派へと進みます。これは自分が正しくて相手が間違っているという自己中心な考え方で突き進んだ結果です。謙遜と忍耐のない所には、必ず仲たがいが生まれ、気に食わないのでさようならと離別が生まれます。

また、泥酔、遊興も、度を越した飲食や遊びによって人の心が荒れていき、道を踏み外すことを指しています。

 このような肉の性質、行いの列挙は、私たちに自分の行動を吟味させる力を持っています。指摘されないと、私たちは自分の生活の中に罪のシミが付いていることに鈍感になってしまうからです。「自分の人生なのだから自由にやって何が悪いのか」と人は考えます。しかし、それは肉の欲に振り回されている、古い人の生き方なのです。情欲、偶像礼拝、憎しみ、争い、バカ騒ぎ。嘘で塗り固めて、このような生き方を選んだ先にあるのは、空しさではないでしょうか。神様に造られた人間は、肉の欲を満たしても結局は本当の満足や平安には至らないのです。聖書のことばによって自分の生活の中に罪が入り込んでいることに気づくとき、私たちは何度も自覚しなおす必要があります。私は、自分の肉を、情欲や欲望と共に十字架につけたのだ、と。聖霊なる神様は、少しずつ私たちの心の目を開いてくださるので、クリスチャンは罪を鋭く自覚できるようになります。そうすると、自分の人生の問題は、他人のせいではなく、確かに自分の罪の生き方の問題であるということが分かるようになるのです。キリストとともにその肉の欲を手放す道に進めることは、何にも代えがたい宝となります。最初の借金のたとえで言うなら、ただ借金を帳消しにしてもらっただけでなく、もう借金をする生活には戻らないようになったということです。キリストがともにいて下さるので、何が問題であったのかに気が付き、その問題に対処できるからです。

 

2.御霊によって生き、御霊によって進むようになった

第二には、御霊によって生き、御霊によって進むようになったということです。これは、ただ借金をしないようになったと言うだけでなく、きちんと働いて生活費を稼ぐようになり、さらに節約しながら賢く使う知恵を身に着けさせてもらったということです。マイナスからゼロへ、ゼロからプラスへと進んだということです。

罪に気が付いてそれを捨てることと、神様の言葉に従って愛と聖さに向かっていくことは、クリスチャンの成長の両輪です。罪の悔い改めと愛の実践は、いつも私たちに必要なことだからです。御霊によって生きる人はどのような生き方を選ぶのでしょうか。22節からです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」人は意識しているものを追い求めるものです。自分の罪深さに敏感になることも大切ですが、このような御霊の実が人生でみのっていくようにと意識していくことはもっと大切です。何より、このような取り組みは楽しいことだからです。

愛すること。まずは身近な人から実践しましょう。親、兄弟、子ども。特に夫婦が互いに愛し合うことは人間関係の土台です。そこから、教会の兄弟姉妹、また友人や同僚などにも広げていきましょう。愛は、好きというような移り変わりやすい一時的な感情のことではありません。むしろ、行動を伴う誠実さであり、忍耐強い関り方をとして育んでいくものです。イエス様がどのように弟子たちに関わり、十字架までの道を歩まれたのかを思い起こせば、愛するということがどんなかかわり方であるのかが分かるでしょう。

また、愛するということだけでなく、愛されるということも追い求める価値があります。自分の弱さを告白し、話しを聞いてもらい、悲しみや辛さを分かち合うことは、信頼関係を強くします。誰かに助けを求めるというのは、謙遜でないとできません。愛せないという弱さ、忍耐できないという問題を素直に告白すれば、それは誰かが寛容や親切を学ぶための良い機会となります。これらは、孤独な修行のような努力ではなく、神の家族の交わりの中で育まれていく生き方です。それも、相互のかかわりのなかで、です。孤立した人は、この恵みを経験することが出来ません。肉のわざのリストだけでなく、この御霊の実のリストも、ぜひ大切に取り上げたいものです。特に、自分と周りの人の関係の中で、お互いにこのような御霊の果実が実っているかを考えてみましょう。実っていないなら、どのような働きかけをすることが有効でしょうか。

自分が正しくて、相手が間違っているという考え方では、決して喜びや平安は生まれません。むしろ敵意、争い、憤りが生まれます。自分の目の梁にも気が付けない高慢さをまず気が付かせてくださいとイエス様に求める時、私たちは御霊によって進む最初の準備をすることが出来るのではないでしょうか。

 

3.「自由を勘違いしないこと」と「うぬぼれないこと」

最後、第三のポイントは、自由を勘違いしないこととうぬぼれないこと、です。第三と言っておきながら二つあるじゃないか、と思うかもしれませんが、この二つは密接につながっているのです。うぬぼれていると自由を勘違いしてしまうのです。自由を勘違いしているのは、うぬぼれているからなのです。

 13節から読みましょう。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、『あなたの隣り人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです。気を付けなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。」

 「自由」というのは、救いを受け取ったクリスチャンにとって重要な考え方です。自由の反対は束縛された奴隷です。しかし、聖書が私たちに教えている自由と奴隷という考え方は、実は逆であることに気が付く必要があります。私たちは、普通自由と言うとなんでも自分のやりたいことをやりたいだけやりたいようにすることで、やりたくないことはやらないことだと考えます。それが自由です。しかし、聖書はその様な自由こそ、「罪の奴隷」になっている生き方なのだと教えてくれます。確かに、私たちが自分の目に正しいと思うことを選んだ結果、しばしば敵意、争い、そねみ、憤り、分裂、分派といったものが生まれるのではないでしょうか。罪人であった私たちが自由だと思い込んでいるのは、欲望に突き動かされて罪に向かっていく「罪の奴隷」状態だったのです。

 では、神様が与えてくださる自由とは何なのでしょう。それは心から喜んで、愛をもって互いに仕え合う「自由」です。これが神の子どもの自由なのです。ともすると、身勝手な考え方に振り回されて、互いに愛し合い、仕え合わなきゃいけないなんて、窮屈で息苦しい、それこそ束縛された奴隷に感じてしまうかもしれません。しかし、キリストの救いが与えてくれた永遠のいのちは、この愛するために仕え合う生き方がしたいと心から願えるようになる、新しい生き方なのです。愛を行いたいと思う自由。パウロはこのような神様が下さった「愛をもって仕え合う自由」を勘違いしないようにと警告します。何と勘違いしてしまうのでしょうか。それは「肉の働く機会」と勘違いしてしまうのです。つまり、罪が赦されたのだから、もう小さい罪を怖がる必要は無いだろうというように考えることです。あるいは、愛し合わなくてはいけないという束縛は嫌だとか、聖書の言葉に従う必要はないんだとかも、勘違いです。それは、せっかく借金を帳消しにしてもらったのに、その感謝もなく、再び借金を重ねる愚かな生活に戻っていくようなことです。

 神の子どもに与えられた自由は、罪を犯し続ける自由などではありません。私たちが持っているのは、喜んで愛をもって互いに仕え合う自由です。そのような新しい生き方、考え方、感じ方が与えられたのです。

 注意して考えたいのは、この手紙はガラテヤにある教会に向けて書かれたパウロの手紙であるということです。つまり、救われたクリスチャンの兄弟姉妹が読むように書かれたのです。気を付けないと、互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしていると、互いの間で滅ぼされてしまいますよと警告されています。その警告を26節でもう一度繰り返します。26節「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。」このうぬぼれというのが曲者なのです。親切心でいっている事、良かれと思ってやっている事、つまり自分が正しいと思ってやっていることの中に罪が入り込んでいる時、そのうぬぼれが争いにつながるからです。愛の実践がうまく行かない時、私たちはどうしても自分は正しいのに、相手が間違っているんだと考えてしまいます。しかし、そのような自分の目の梁が見えてないことこそが問題の原因となっていることがあります。

 ここにいる誰一人、罪のない人はいません。争いが生まれるなら、両方に問題があります。そして相手に謙遜を要求しながらいつまでも争うのではなく、御霊の実を生むために自分は何が出来るかと考えることが出来るのです。自分を正当化して争い続けるのは罪の奴隷です。どうしたらこの関係の中に御霊の実をもたらすことが出来るだろうかと謙遜に考えるのは神の子どもに与えられた自由です。この真に価値のある自由が与えられたことを、何度も確認して、御霊の実を追い求めていきたいと思います。

 

むすび.人生に御霊の実をみのらせる喜びを!!

以上、三点で、イエス・キリストの十字架の赦しが与えてくれる新しい生き方を確認してきました。罪の罰という借金が赦されたというだけでなく、借金を繰り返す古い罪の生き方を捨てたこと、さらには賢く天に宝を積む愛の生き方に進んだこと、そしてうぬぼれず、神の子どもの自由を愛するために用いること。イエス・キリストの十字架の死は、私たちがこのような生き方に進んで行くための神様の御業なのです。罪に支配された古い生き方はキリストとともに十字架で死んで、今や御霊によって生きている。うぬぼれずに、御霊の実をみのらせる愛の生き方を謙遜に追い求めていきたいと思います。

 

2024324日受難節主日礼拝説教

ガラテヤ人への手紙524~26

『罪の生き方は十字架で死に、今や御霊によって生きている』

 

序.キリストの十字架の贖いは、罪という莫大な借金を肩代わりしてくれた

1.欲望に動かされて罪に向かう古い生き方を、キリストとともに十字架につけた

2.御霊によって生き、御霊によって進むようになった

3.「自由を勘違いしないこと」と「うぬぼれないこと」

むすび.人生に御霊の実をみのらせる喜びを!!


 

Sermão de adoração do Domingo da Paixão, 24 de março de 2024

Gálatas 5:24~26.

"A vida do pecado morreu na cruz e agora vive pelo Espírito

 

Introdução. A expiação da Cruz de Cristo pagou a enorme dívida do pecado sobre nossos ombros.

 Hoje é o culto do Domingo da Paixão. Queremos passar a semana lembrando a graça da morte de Jesus Cristo na cruz como substituto de nossos pecados.

 A palavra Paixão é escrita para sofrer. Isso significa que Jesus Cristo, o único Filho de Deus, assumiu o sofrimento na cruz. É um sofrimento no qual Cristo tomou o lugar do julgamento que um ser humano que vivesse em desobediência a Deus teria que sofrer.

 

 Esse evento é uma situação que, por analogia, é como se Jesus Cristo pagasse uma dívida enorme. Cristo já assumiu e pagou a punição de toda a humanidade em nosso favor. Mas, como em qualquer contrato para o pagamento de uma dívida enorme, o contrato precisa ser assinado. Tenho de provar que sou eu quem está fazendo o pagamento. Não há dúvida de que eu mesmo pequei e há uma dívida, a penalidade do pecado. Para pagá-la, Cristo já ofereceu Sua vida santa como substituto na cruz. O que é necessário, então, é que assinemos um contrato dizendo que a vida substitutiva de Cristo foi para assumir a penalidade do meu pecado. Essa é a confissão de fé, aceitando a salvação como nossa.

 Uma vez que a pessoa tenha reconhecido seus pecados e confessado para receber o perdão de Cristo, a partir desse momento ela não precisa mais viver com medo da penalidade por seus pecados. Mas isso não é tudo. Ela também pode ser salva de uma vida voltada para o pecado. Isso porque não apenas a dívida do pecado é paga, mas uma união mais profunda com Jesus Cristo, que a pagou, nos redireciona para uma vida voltada para Deus. Viver uma vida amada por Deus e amá-Lo é a natureza da vida eterna e, a partir desse momento, a pessoa salva começa a crescer em direção ao céu, deixando essa natureza transparecer. Essa é a totalidade da salvação conforme ensinada na Bíblia. Esse é o perdão dos pecados, ser santificado e, em seguida, ser transformado em glória no céu e viver para sempre.

 

 No entanto, em um sentido prático, às vezes achamos difícil apreciar e nos alegrar com esse evento de uma maneira nova pela fé. Geralmente não conseguimos valorizar o que recebemos de graça. Os lenços de bolso que nos são dados de graça não ficam tristes quando os perdemos em algum lugar. Um folheto que chega de graça pode ser facilmente jogado no lixo. Mas se for um vestido ou um calçado pelo qual pagamos muito dinheiro, ou um trabalho no qual nos esforçamos muito, nós cuidamos bem dele.

 Para nós, é fácil esquecer o valor do fato de que Cristo perdoou nossos pecados e nos deu a vida eterna, porque não podemos ver isso. As passagens que lemos hoje nos dizem quando a vida eterna que uma pessoa salva recebe brilha. A salvação não se refere apenas ao futuro distante de ir para o céu. Em vez disso, é um evento em nosso relacionamento com Deus que dura desde aqui e agora, hoje e amanhã, até a eternidade.

 

Vou falar sobre isso em três pontos.

 A fé é algo invisível aos olhos, mas que provoca uma mudança real e tangível. Por esse motivo, uma pessoa salva precisa ter uma compreensão adequada de quem ela é. Isso porque o autoconhecimento é profundamente importante para a vida de uma pessoa. Isso se deve ao fato de que o autoconhecimento está profundamente ligado à maneira como a pessoa vive.

1. o antigo modo de vida, movido pela cobiça do pecado, foi crucificado com Cristo

Em primeiro lugar, aqueles que seguiram Cristo Jesus abandonaram seu modo de vida movido pela luxúria e pelo pecado. Em primeiro lugar, isso é afirmado no versículo 24. Aquele que segue a Cristo Jesus crucificou a sua carne com as suas paixões e desejos. Isso não quer dizer apenas que a penalidade pelo pecado foi paga, mas que fomos libertados de um modo de vida que gosta do pecado, deseja o pecado e de fato peca. Paulo deixa claro que esse antigo estilo de vida movido pelo pecado morreu na cruz com Cristo.

O autoconhecimento ao qual os cristãos precisam se apegar hoje é que eu, que continuo pecando, morri na cruz com Cristo. Qual é o antigo modo de vida para o qual já morremos na cruz, vamos ler do versículo 16 até a cintura do conhecimento. "Eu lhes digo. Andem pelo Espírito. Assim vocês nunca satisfarão os desejos da carne." Pule para o versículo 19: "As obras da carne são evidentes. Digo-vos que andeis pelo Espírito, e jamais satisfareis as concupiscências da carne: lascívia, impureza, libertinagem, idolatria, feitiçaria, inimizade, porfia, ciúme, ressentimento, facciosismo, divisão, cisma, inveja, bebedeira, folia e coisas semelhantes". Como já disse antes, digo-lhes agora com antecedência. Aqueles que praticam essas coisas não herdarão o reino de Deus."

A lascívia, a impureza e a libertinagem são luxúria. O mundo está aumentando o pecado, a tristeza e a confusão hoje em dia ao lidar com luxúria com o dom do sexo, que Deus nos deu como algo bom, fora do relacionamento conjugal. Estamos protegidos contra essas tentações e temos o caminho para receber bênçãos com moderação.

A idolatria e a feitiçaria são a loucura de tomar como Deus o que não é Deus.

A hostilidade, a contenda, a inveja e o ressentimento são as tristezas do mundo dos homens, onde os pecadores odeiam e invejam os pecadores, agora e sempre.

À medida que cresce, progride para o partidarismo, a divisão e a fragmentação. Esse é o resultado de seguir em frente com uma mentalidade egocêntrica de que você está certo e a outra parte está errada. Onde há falta de humildade e paciência, é provável que haja divisão, e onde há falta de paciência, é provável que haja separação e despedida.

A embriaguez e a folia também se referem ao fato de o coração das pessoas se tornar áspero e desobediente devido ao excesso de comida, bebida e jogos.

 Essa enumeração da natureza e dos atos da carne tem o poder de nos fazer examinar nosso próprio comportamento. Isso ocorre porque, se não for apontado, nos tornamos insensíveis às manchas do pecado em nossa própria vida. As pessoas pensam: "É a minha vida, então o que há de errado em ser livre para fazer isso?" Mas esse é o antigo estilo de vida das pessoas, movido pelos desejos da carne. Luxúria, idolatria, ódio, contenda e insensatez. O que nos espera quando escolhemos viver dessa forma, envoltos em mentiras, é o vazio. Os seres humanos criados por Deus podem satisfazer os desejos da carne, mas, no final, nunca alcançarão a verdadeira satisfação e paz. Quando percebemos que o pecado entrou em nossa vida por meio das palavras da Bíblia, precisamos nos conscientizar disso repetidas vezes. Crucifiquei minha carne com minhas paixões e desejos. Deus, o Espírito Santo, gradualmente abre os olhos de nosso coração para que o cristão se torne profundamente consciente do pecado. Então, ele verá que os problemas em sua vida não são culpa dos outros, mas são de fato o resultado de seu próprio modo de vida pecaminoso. Estar no caminho de abandonar essa luxúria carnal com Cristo é um tesouro insubstituível. Na primeira parábola da dívida, não se trata apenas do fato de a dívida ter sido cancelada, mas de você não voltar mais para uma vida de dívidas. Cristo está conosco, então percebemos qual era o problema e somos capazes de lidar com ele.

 

2. agora vivendo pelo Espírito e avançando pelo Espírito

A segunda é que eles passaram a viver pelo Espírito e a andar pelo Espírito. Isso não significa apenas que eles não estão mais endividados, mas que agora estão trabalhando para ganhar a vida e adquiriram a sabedoria para economizar e gastar com sabedoria. Isso significa que passei do negativo para o zero e do zero para o positivo.

Tomar consciência do pecado e abandoná-lo, e avançar em direção ao amor e à santidade de acordo com a palavra de Deus, são duas rodas do crescimento cristão. O arrependimento do pecado e a prática do amor são sempre necessários para nós. Que tipo de vida a pessoa que vive pelo Espírito escolhe viver, começando no v. 22? "Mas o fruto do Espírito é: amor, alegria, paz, tolerância, benignidade, bondade, fidelidade, mansidão e domínio próprio. Não há lei contra essas coisas." As pessoas buscam aquilo de que estão conscientes. É importante ser sensível à própria pecaminosidade, mas é ainda mais importante estar ciente de que esses frutos do Espírito devem florescer em sua vida. Acima de tudo, esse tipo de compromisso é agradável.

É amoroso. Vamos começar praticando isso com as pessoas mais próximas a nós. Pais, irmãos e filhos. Especialmente os casais casados, o amor mútuo é a base dos relacionamentos humanos. A partir daí, estenda-o aos irmãos e irmãs da igreja, bem como aos amigos e colegas. O amor não se trata de sentimentos mutáveis e temporários, como gostar de alguém. Em vez disso, é uma fidelidade que envolve ação e é cultivada como uma forma paciente de relacionamento. Se nos lembrarmos de como Jesus se relacionava com seus discípulos e de como ele percorreu o caminho até a cruz, entenderemos o que significa amar.

Também vale a pena buscar não apenas amar, mas também ser amado. Confessar sua vulnerabilidade, ser ouvido, compartilhar sua tristeza e dor fortalece a confiança. Pedir ajuda a alguém só pode ser feito com humildade. Se você confessar honestamente sua fraqueza de não ser capaz de amar ou seu problema de não ser capaz de perseverar, essa é uma boa oportunidade para alguém aprender tolerância e bondade. Esses não são esforços solitários e ascéticos, mas um modo de vida que é cultivado na comunhão da família de Deus. Isso também ocorre no envolvimento mútuo. Pessoas isoladas não podem experimentar essa graça. Além da lista de obras da carne, essa lista de frutos do Espírito também deve ser analisada com muito cuidado. Em particular, considere se você e as pessoas ao seu redor estão produzindo esse fruto do Espírito em seus relacionamentos uns com os outros. Se eles não estiverem produzindo frutos, que tipo de trabalho você pode fazer para ajudar?

A ideia de que você está certo e a outra pessoa está errada nunca produzirá alegria e paz. Em vez disso, surgirão hostilidade, discórdia e ressentimento. Quando pedimos a Jesus que primeiro nos conscientize do orgulho que nos impede de perceber a trave em nosso próprio olho, podemos fazer os primeiros preparativos para seguir em frente pelo Espírito.

 

 

3. "Não confundir a liberdade" e "não ser presunçoso

O terceiro e último ponto é não interpretar mal a liberdade e não ser presunçoso. Você pode estar pensando que são dois pontos, mas esses dois estão intimamente ligados. Se você for vaidoso, não entenderá a liberdade. Você confunde liberdade com vaidade.

 Vamos ler o versículo 13. "Irmãos. Vocês foram chamados para ter liberdade. Mas não usem essa liberdade como oportunidade para a carne trabalhar, mas sirvam uns aos outros em amor. Toda a lei se cumpre em uma palavra: 'Ame o seu próximo como a si mesmo'. Tenham cuidado. Se vocês se morderem e se devorarem uns aos outros, serão destruídos entre si."

 A liberdade é um conceito importante para os cristãos que receberam a salvação. O oposto da liberdade é a escravidão no cativeiro. No entanto, precisamos perceber que a ideia de liberdade e escravidão que a Bíblia nos ensina é, na verdade, o oposto. Geralmente pensamos em liberdade como fazer o que quisermos, tanto quanto quisermos, e não fazer nada que não queiramos fazer. Isso é liberdade. Mas a Bíblia nos diz que essa liberdade é um modo de vida que é "escravidão ao pecado". De fato, a nossa escolha de fazer o que é certo aos nossos próprios olhos muitas vezes resulta em hostilidade, discórdia, ciúme, ressentimento, divisões e divisões. Como pecadores, pensávamos que éramos livres, mas estávamos em um estado de "escravidão ao pecado", movidos pela cobiça em relação ao pecado.

 Então, qual é a liberdade que Deus nos dá? É a liberdade de servirmos uns aos outros com amor e alegria em nosso coração. Essa é a liberdade dos filhos de Deus. Às vezes, pode parecer apertado e sufocante, um escravo em cativeiro, ser movido pelo egoísmo, amar e servir uns aos outros. Mas a vida eterna que a salvação de Cristo nos deu é um novo modo de vida no qual podemos realmente desejar viver essa vida de amar e servir uns aos outros. Liberdade para querer amar. Paulo nos adverte para não confundirmos essa "liberdade dada por Deus para servirmos uns aos outros em amor". O que podemos confundir com isso? Ela pode ser confundida com uma "oportunidade para a carne trabalhar". Ou seja, pensar que, pelo fato de nossos pecados terem sido perdoados, não precisamos mais temer os pecados menores. Ou é pensar erroneamente que não queremos a escravidão de ter de amar uns aos outros, ou que não precisamos obedecer às palavras da Bíblia. É como voltar a uma vida insensata em que você teve suas dívidas canceladas e depois voltar a se endividar, sem nenhuma gratidão por isso.

 A liberdade dada aos filhos de Deus não inclui a liberdade de continuar pecando. O que temos é a liberdade de servir uns aos outros de boa vontade e em amor. Recebemos uma nova maneira de viver, pensar e sentir.

 É importante observar e considerar que essa é a carta de Paulo à igreja da Galácia. Em outras palavras, ela foi escrita para ser lida por irmãos e irmãs cristãos salvos. Ele nos adverte que, se não tomarmos cuidado, seremos destruídos uns pelos outros, mordendo e devorando uns aos outros. Essa advertência é repetida novamente no versículo 26: "Não sejamos vaidosos, nem nos desafiemos ou invejemos uns aos outros". Essa vaidade é uma coisa complicada. Quando o pecado entra no que fazemos por bondade, quando fazemos o que achamos que é certo, ou seja, quando achamos que estamos fazendo a coisa certa, essa vaidade leva ao conflito. Quando a prática do amor dá errado, inevitavelmente pensamos que estamos certos e que a outra pessoa está errada. Mas é essa cegueira para os raios de nossos próprios olhos que, às vezes, é a causa do problema.

 Nenhum de nós aqui está isento de pecado. Se surgir um conflito, há um problema em ambos os lados. E em vez de ficar brigando eternamente e exigir humildade da outra pessoa, você pode pensar no que pode fazer para produzir o fruto do Espírito. É escravidão do pecado continuar se justificando e brigando. É a liberdade dada aos filhos de Deus de perguntar humildemente como podem produzir o fruto do Espírito nesse relacionamento. Confirmarei repetidamente que essa liberdade verdadeiramente valiosa foi concedida a mim e buscarei o fruto do Espírito.

 

Conclusão. A alegria do fruto do Espírito em nossa vida!

Nos três pontos acima, confirmamos o novo modo de vida que o perdão da cruz de Jesus Cristo nos proporciona. Não apenas o fato de que a dívida da penalidade do pecado foi perdoada, mas também que renunciamos à antiga maneira de viver em pecado, que é uma dívida repetida, e passamos a viver uma vida de amor que sabiamente acumula tesouros no céu, e que não somos vaidosos e usamos a liberdade dos filhos de Deus para o amor. A morte de Jesus Cristo na cruz é a obra de Deus para que passemos a esse estilo de vida. O antigo estilo de vida, dominado pelo pecado, morreu com Cristo na cruz e agora vive pelo Espírito. Queremos seguir humildemente o modo de vida do amor, que não é vão, mas o fruto do Espírito.

 

Sermão para o Culto do Domingo da Paixão, 24 de março de 2024.

Gálatas 5:24~26.

"A vida do pecado morreu na cruz e agora vive pelo Espírito

 

Introdução. A expiação da Cruz de Cristo saldou a enorme dívida do pecado.

1. A velha maneira de viver, movida pela cobiça do pecado, foi crucificada com Cristo.

2. viver pelo Espírito e seguir adiante pelo Espírito

3. "Não confundam a liberdade" e "não sejam presunçosos"

Conclusão. A alegria do fruto do Espírito em sua vida!