2026年8月9日主日礼拝説教 聖書個所:ルカの福音書20:20~26 説教題:神のものを神に返す

202689日主日礼拝説教

聖書個所:ルカの福音書202026

説教題:神のものを神に返す

序.私たちは何に支配され、何のために生きているか

 聖書は、罪の中に生きる状態を「罪の奴隷」と表現しています。罪に突き動かされ、罪に導かれ、罪に至ってしまう。そのような状態であった私たちを、神様はキリストによって罪の支配から解放し、ご自分のものとしてくださいます。

 けれども、私たちの毎日の生活を考えてみると、何が罪で何が正しいことなのかという単純な二分法では判断できないことがたくさんあります。働くことや食べることのような毎日の出来事でも、何に支配されているかで変わってきます。神に従う者として働き食べるのか。それともただ生きるために働き、欲を満たすために食べるのかで変わります。

今日の個所で、イエス・キリストはそのような日常にそくした信仰の事柄を考えさせようとしています。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」このみ言葉から、神のものを神に返して生きるとはどういうことなのか、ともに考えていきたいと思います。

 

1. この世に生きる私たちは、誰に属して生きているのか

・カエサルに納税することは、神に背くことか

 律法学者たちは、真理を知るためではなく、イエスを陥れるためにこのことを計画しました。「義人を装った回し者」をわざわざ用意して遣わしました。イエスのことばじりをとらえて、ローマ総督の支配と権威に引き渡し、社会から抹殺しようと企んでいたからです。

 さて、その質問が22節にあります。「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」この質問のなにが難しいのでしょうか。ここには宗教的な問題と社会的な問題の視点から、イエスを陥れようとする罠が仕掛けられていました。第一に、イスラエルは神の民であり、究極的な主権者はただひとりの神のみです。ダビデ時代のイスラエル王国を理想と考える人々にとっては、ローマ帝国に支配されている現状が神の御心に反していると主張する人々もいました。そのような視点から考えると、ローマに税金を払うことが聖書的に正しいと答えればイエスはローマ寄りの人間なのかと人々に落胆される、あるいはそれは聖書的に間違っていると責められる可能性のある答えでした。そもそも、多くの群衆は、このイエスをローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的な救世主として期待していたので、聴衆もイエスの答えに耳をそばだてたことでしょう。

 第二に、そのような宗教的な前提や願いがあったとしても、現実にはローマ帝国の政治と支配の中でイスラエルの人々は生活しているという事情がありました。カエサルに税金を払う必要などないと主張するならば、反政府主義者ということで彼らはイエスを総督につきだそうとしたのでした。彼らが意図していたのは、この二つ目のほうだったようです。イエスはこれまでどんな人間的な権威にもおもねることなく、大胆に聖書の教えを主張してきたからです。その大胆さを利用して、彼をローマ総督の裁きのもとで抹殺することが彼らの狙いでした。

・この世の責任を、神にあって果たす

 カエサルに納税すべきといえば、神ではなくカエサルに従うのかと責められる。

 納税すべきでないといえば、ローマの反逆者として訴えることができる。

 このような罠に対して、イエスはこう答えました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」なんと意義深い答え方でしょうか。相手の土俵に立たず、むしろ相手に考えさせる答えです。

 カエサルに税を納めることと、カエサルを神として礼拝することは違うことだと示されたのです。

 ローマの支配の下で社会生活を営む者として、カエサルに納税することは、神への忠実さと矛盾するものではありません。しかしその行動は、もっと本質的でより大きな「神のものは神に返す」という生き方の中で実践されることでした。

 冒頭で、食事の例を出しました。私たちは食事をしなければ生きていけませんが、だからと言って食欲の奴隷となって生きるのではなく、神の子どもとして感謝して食事をします。納税も、法律を守ることも、働くこともそうです。私たちはそれらの市民・国民としての生活を行いますが、それによって支配されるのでなく、神に従いながらこれらのことを行うのです。

 

2.神のかたちとして、神のものを神に返す

・神に背くようなことを強いられたときは

 生きるために食べるのでなく、食べるために生きていたら、それは食欲の奴隷です。働かなければ生きられないから働くだけで、生きる喜びも生かされている感謝も見失ってしまえば、それはやはり仕事の奴隷です。時に、私たちはそのような落とし穴にはまる危険があります。神様に心と体を作っていただいた私たちは、神様の愛によって生かされている安心と喜びを楽しみながら過ごすようにと招かれているのです。このことを「神のかたち」という視点から考えてみたいと思います。

 主イエスは、納税の論理について24節でこう説明しています。「「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは「カエサルのです」と言った。すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルの物はカエサルに。」」神様は、この世界を無秩序の混乱ではなく、秩序と平和を保つために、不完全ながらも地上の為政者をお立てになるお方です。Ⅰペテロ21314にはこうあります。「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」その権威は、国民に監視されたり法に制限されたりすべきですが、神を信じているから法律を破ります、納税しませんというのは聖書に反しているのです。デナリ銀貨にはカエサルの肖像と銘が刻まれていました。だからイエスは「カエサルのものはカエサルに返しなさい」と言われたのです。信仰者は、神に従う者として、この社会の中で負っている正当な責任を果たしていきます。納税もその一つです。

 しかし、この原則は、そのあとに来る「神のものは神に返しなさい」という原則に反さない限りにおいて、です。もし為政者が、神に背くことを命じ、偶像を礼拝するように国民を強制するとしたら、私たちはその時には真の神のみを神とするために信仰によって戦わなければなりません。私たちは、人間の権威を絶対的なものとして恐れるのではなく、私たちの魂も人生も最終的に支配しておられる神様を恐れて生きる者だからです。

 

・神のかたちにつくられた私たち

では、神のものを神に返すとは、何を意味しているのでしょう。カエサルのものを返すというのは、納税を意味していました。彼が政治によって国を治めているので、税を納めるわけです。では、神のものを神に返すとは。何が神のものなのでしょう。

創世記一章には、人間が神に似せて、神のかたちにつくられたとあります。デナリ銀貨にはカエサルの肖像がありましたが、聖書を見るなら、私たちは神様のかたちにつくられたものです。私という存在そのものが本来神様のものなのです。

また人間だけでなく、神様がつくられたこの世界のすべてのものが神様のものです。神様が与えてくださった、私たちの時間も、仕事も、家庭も、人生も、すべて最終的には神のものなのです。

すべてのものが神のものであるならば、神のものを神に返すとは何をすることなのでしょう。明確に言えることは、七日のうちの一日を神様と親しく過ごす礼拝のためにささげること。与えられた恵みの一部を献金としてお献げすること。それは自分の時間もお金も、神様が恵みとして与えてくださったものです。ありがとうございますという思いを現すものです。ささげることを通して私たちの信仰が現わされ、私は主のもの、主とともに生きる者だということを自分でも確認します。

しかし、もっと深いところでは、「自分自身が神のものだと知って生きる」ということが本質です。私が私であることは、私が神様のものであるということ。そういう生き方のなかにいることです。あらゆる立場の前に、神の子どもという在り方があるのです。だから、働くときも、神様とともに働く。家庭にいても、御霊の中で生きる。どんな人といても、一人でいても、この心のうちには御霊が住んでいる。

「クリスチャンだからこうする」という、ある種のとってつけたような外側の生き方ではなく、「私は神様、あなたのものです」という生き方の結果として、ひとつひとつの行動を選び取っていく。頭だけでなく心で、口先だけでなく行動で選び取っていく。神のものを神に返すとは、私たちが神とともに今日の一日を生きるということなのです。

 

結び.神のものとして、この世に生きる

 イエス・キリストは、カエサルも納税も否定していません。しかしカエサルを神にしてよいとはいいません。「カエサルのものはカエサルに。しかし、神のものは神に、返しなさい。」私たちも、さまざまな立場や役目や義務を背負って生きています。国民として、社会人として、大人として、家族として。それらの役目は、神様の恵みの中で私たちに与えられているものであり、信仰によってその役割を果たします。しかし、神のものまでも明け渡してはいけません。生きるために働いていても、それがいつしか働くことが生きる目的になったなら、いつか私たちの人生は足元をすくわれます。家庭を大事にしていても、ひとが神様よりも最重要になっていくならば、ひとを生きがいにするというその生き方が人生のバランスを崩す要因になっていきます。どれも私たちの最終的な主人でも目的でもないからです。

 

 私たちの人生を最終的に所有しておられるのは神さまです。神様を中心にすることで、私たちは神様以外のものを神にせず、それぞれのものを本来あるべき場所において生きることができます。家族そのものを人生の中心にしてしまうのではなく、神を中心にして家族を愛する。そのとき、家族を神様にしてしまうことなく、一人の大切な人として、より自由にバランスよく愛することができます。仕事を中心に生きるのでなく、神を中心にして働くことで、よりよく働くことができます。

カエサルのものをカエサルに返しながらも、カエサルを神にはせず、神のものを神に返すのです。

私たち自身が神のもの、神に属する神の子どもです。この世に生きる責任を果たしつつ、神様のものは神様にお返して、今週も主とともに歩んでいきましょう。

 

祈り

天のお父さん。私たちが、この世の責任を果たしながらも、あなたのものとして生きることができますように。仕事も、家庭も、時間も、身体も、すべてあなたから与えられたものとして受け取り、あなたとともに歩ませてください。「私は神様のものである」ということを覚え、あなたに信頼して、今週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

202689日主日礼拝説教

聖書個所:ルカの福音書202026

説教題:神のものを神に返す

序.私たちは何に支配され、何のために生きているか

1.この世に生きる私たちは、誰に属して生きているのか

・カエサルに納税することは、神に背くことか

・この世の責任を、神にあって果たす

2.神のかたちとして、神のものを神に返す

・神に背くようなことを強いられたときは

・神のかたちにつくられた私たち

結び.神のものとして、この世に生きる

 

Sermão do Culto Dominical de 9 de agosto de 2026

Passagem bíblica: Evangelho de Lucas 20:20–26

Título do sermão: Devolver a Deus o que é de Deus

Introdução. O que nos domina e para que vivemos

 A Bíblia descreve a condição de viver no pecado como “escravidão ao pecado”. Somos impulsionados pelo pecado, guiados por ele e acabamos cometendo-o. De tal condição, Deus nos libertou do domínio do pecado por meio de Cristo e nos tornou seus.

 No entanto, quando refletimos sobre nossa vida cotidiana, há muitas situações que não podem ser julgadas por meio de uma simples dicotomia entre o que é pecado e o que é correto. Mesmo em atividades diárias, como trabalhar e comer, tudo muda dependendo do que nos domina. Trabalhamos e comemos como pessoas que obedecem a Deus? Ou trabalhamos apenas para sobreviver e comemos para satisfazer nossos desejos?

Na passagem de hoje, Jesus Cristo nos leva a refletir sobre questões de fé relacionadas a esse cotidiano. “Dai a César o que é de César, e a Deus o que é de Deus.” A partir dessa palavra, gostaria que refletíssemos juntos sobre o que significa viver devolvendo a Deus o que é de Deus.

 

1.    Nós, que vivemos neste mundo, a quem pertencemos?

Pagar impostos a César é desobedecer a Deus?

 Os doutores da lei planejaram isso não para conhecer a verdade, mas para fazer uma armadilha para Jesus. Eles prepararam e enviaram propositalmente “agentes disfarçados de justos”. Isso porque pretendiam apanhar Jesus em uma palavra, entregá-lo ao domínio e à autoridade do governador romano e eliminá-lo da sociedade.

 Ora, essa pergunta está no versículo 22: “É lícito, segundo a Lei, que paguemos impostos a César, ou não?”. O que há de difícil nessa pergunta? Aqui estava armada uma armadilha para incriminar Jesus, tanto do ponto de vista religioso quanto social. Em primeiro lugar, Israel é o povo de Deus, e o único soberano supremo é o próprio Deus. Para aqueles que consideravam o Reino de Israel da época de Davi como o ideal, havia quem afirmasse que a situação atual de domínio pelo Império Romano ia contra a vontade de Deus. Dessa perspectiva, se Jesus respondesse que pagar impostos a Roma era biblicamente correto, as pessoas ficariam desanimadas, pensando que ele era pró-romano; por outro lado, se respondesse que isso era biblicamente errado, corria o risco de ser criticado. Para começar, como grande parte da multidão esperava que esse Jesus fosse um salvador político que os libertasse do domínio do Império Romano, é provável que os ouvintes estivessem atentos à resposta de Jesus.

 Em segundo lugar, mesmo que houvesse tais premissas religiosas ou anseios, a realidade era que o povo de Israel vivia sob a política e o domínio do Império Romano. Se Jesus afirmasse que não era necessário pagar impostos a César, eles tentariam entregá-lo ao governador, acusando-o de ser um rebelde. Parece que era essa segunda opção que eles tinham em mente. Isso porque, até então, Jesus sempre havia defendido com ousadia os ensinamentos da Bíblia, sem se curvar a nenhuma autoridade humana. O objetivo deles era aproveitar essa ousadia para eliminá-lo sob o julgamento do governador romano.

Cumprir as responsabilidades deste mundo em nome de Deus

 Se dissesse que se deve pagar impostos a César, seria acusado de obedecer a César em vez de a Deus.

 Se dissesse que não se deve pagar impostos, poderia ser denunciado como rebelde contra Roma.

 Diante dessa armadilha, Jesus respondeu assim: “Dai a César o que é de César, e a Deus o que é de Deus.” Que resposta tão significativa! É uma resposta que não entra no terreno do adversário, mas, ao contrário, o leva a refletir.

 Ele demonstrou que pagar impostos a César e adorá-lo como deus são coisas diferentes.

 Como pessoas que vivem em sociedade sob o domínio romano, pagar impostos a César não contradiz a fidelidade a Deus. No entanto, essa ação devia ser praticada no âmbito de um modo de vida mais essencial e abrangente: “dar a Deus o que é de Deus”.

 No início, citei o exemplo da refeição. Não podemos viver sem comer, mas isso não significa que devemos viver como escravos do apetite; ao contrário, como filhos de Deus, comemos com gratidão. O mesmo se aplica ao pagamento de impostos, ao cumprimento da lei e ao trabalho. Levamos adiante essa vida como cidadãos e nacionais, mas não nos deixamos dominar por ela; ao contrário, realizamos essas atividades enquanto obedecemos a Deus.

 

2. Como imagem de Deus, devolver a Deus o que é de Deus

Quando somos forçados a fazer algo que vai contra Deus

 Se não comemos para viver, mas vivemos para comer, somos escravos do apetite. Se trabalhamos apenas porque não podemos viver sem trabalhar, e perdemos de vista tanto a alegria de viver quanto a gratidão por estarmos vivos, somos, de fato, escravos do trabalho. Às vezes, corremos o risco de cair nessas armadilhas. Nós, cujos corações e corpos foram criados por Deus, somos convidados a viver desfrutando da segurança e da alegria de sermos sustentados pelo amor de Deus. Gostaria de refletir sobre isso sob a perspectiva da “imagem de Deus”.

 O Senhor Jesus explica a lógica do pagamento de impostos no versículo 24 da seguinte forma: “Mostrem-me uma moeda de prata. De quem é a imagem e a inscrição?” Eles responderam: “De César”. Então, Jesus lhes disse: “Então, o que é de César, devolvam a César.” Deus é Aquele que, para manter a ordem e a paz neste mundo — e não deixá-lo mergulhado na desordem e no caos —, estabelece governantes terrenos, ainda que imperfeitos. Em 1 Pedro 2:13-14, lemos o seguinte: “Submetam-se a toda autoridade estabelecida pelo Senhor, seja ao rei, como soberano, seja ao governador, enviado pelo rei para punir os malfeitores e elogiar os que praticam o bem.” Essa autoridade deve ser supervisionada pelo povo e limitada pela lei; no entanto, alegar que se infringe a lei ou se deixa de pagar impostos por acreditar em Deus é contrário à Bíblia. A moeda de prata denário tinha a imagem e a inscrição de César gravadas. Por isso, Jesus disse: “Dai a César o que é de César”. Os crentes, como pessoas que obedecem a Deus, cumprem as responsabilidades legítimas que lhes cabem nesta sociedade. O pagamento de impostos é uma delas.

 No entanto, esse princípio se aplica desde que não contrarie o princípio que vem em seguida: “Dai a Deus o que é de Deus”. Se os governantes ordenarem algo que contrarie a vontade de Deus e obrigarem o povo a adorar ídolos, teremos, nesse momento, que lutar pela fé para reconhecer apenas o Deus verdadeiro como Deus. Pois não vivemos temendo a autoridade humana como algo absoluto, mas temendo a Deus, que, em última instância, governa tanto nossas almas quanto nossas vidas.

 

Nós, criados à imagem de Deus

Então, o que significa “dar a Deus o que é de Deus”? Dar a César o que é de César significava pagar impostos. Como ele governava o país por meio da política, pagávamos impostos. Mas e quanto a dar a Deus o que é de Deus? O que é, afinal, o que pertence a Deus?

Em Gênesis, capítulo 1, está escrito que o ser humano foi criado à imagem e semelhança de Deus. A moeda de prata denário trazia o retrato de César, mas, se olharmos para a Bíblia, vemos que fomos criados à imagem de Deus. A minha própria existência, em si, pertence, por natureza, a Deus.

Além disso, não apenas os seres humanos, mas todas as coisas deste mundo criadas por Deus pertencem a Ele. O tempo, o trabalho, a família e a vida que Deus nos concedeu — tudo isso, em última instância, pertence a Deus.

Se tudo pertence a Deus, o que significa, então, devolver a Deus o que é Dele? O que podemos afirmar com clareza é dedicar um dos sete dias da semana ao culto, para passar um tempo íntimo com Deus. É oferecer parte da graça que nos foi concedida na forma de dádiva. Tanto o nosso tempo quanto o nosso dinheiro são dádivas que Deus nos concedeu como graça. É uma forma de expressar nosso sentimento de gratidão. Por meio dessa oferta, nossa fé se manifesta, e nós mesmos confirmamos que pertencemos ao Senhor e que vivemos com Ele.

No entanto, em um nível mais profundo, a essência está em “viver sabendo que eu mesmo pertenço a Deus”. O fato de eu ser eu significa que pertenço a Deus. Trata-se de viver dessa maneira. Antes de qualquer outra posição, existe a identidade de ser filho de Deus. Por isso, quando trabalho, trabalho com Deus. Mesmo em casa, vivo no Espírito. Não importa com quem esteja, ou mesmo quando estou sozinho, o Espírito habita neste meu coração.

Não se trata de um modo de vida externo e forçado, do tipo “faço isso porque sou cristão”, mas sim de escolher cada ação como resultado de um modo de vida que diz: “Eu sou de Deus, sou Seu”. Escolhemos não apenas com a mente, mas com o coração; não apenas com palavras, mas com ações. Devolver a Deus o que é Dele significa vivermos este dia de hoje junto com Deus.

 

Conclusão. Viver neste mundo como pertencente a Deus

 Jesus Cristo não negou nem César nem o pagamento de impostos. No entanto, Ele não diz que é permitido fazer de César um deus. “Dai a César o que é de César. Mas o que é de Deus, devolvei a Deus.” Nós também vivemos assumindo diversas posições, funções e obrigações: como cidadãos, como profissionais, como adultos, como membros de uma família. Essas funções nos são concedidas pela graça de Deus, e as cumprimos por meio da fé. No entanto, não devemos entregar até mesmo o que pertence a Deus. Mesmo que trabalhemos para viver, se, em algum momento, o trabalho se tornar o propósito da vida, nossa vida acabará por desmoronar. Mesmo que valorizemos a família, se as pessoas passarem a ser mais importantes do que Deus, esse modo de vida — em que as pessoas se tornam o sentido da existência — se tornará um fator que desequilibrará nossa vida. Pois nada disso é nosso senhor ou propósito final.

 

 Quem possui nossa vida, em última instância, é Deus. Ao colocarmos Deus no centro, não transformamos nada além Dele em deus e podemos viver colocando cada coisa no lugar que lhe cabe. Não devemos fazer da família em si o centro da vida, mas sim amar a família tendo Deus como centro. Assim, sem transformar a família em deus, podemos amá-la com mais liberdade e equilíbrio, como uma pessoa querida. Não devemos viver tendo o trabalho como centro, mas, ao trabalhar tendo Deus como centro, podemos trabalhar melhor.

Devolvemos a César o que é de César, sem, porém, fazer de César um deus, e devolvemos a Deus o que é de Deus.

Somos de Deus, somos filhos de Deus que pertencem a Ele. Cumprindo nossa responsabilidade de viver neste mundo, devolvamos a Deus o que é de Deus e caminhemos com o Senhor também nesta semana.

 

Oração

Pai Celestial. Que possamos viver como Teus filhos, cumprindo nossas responsabilidades neste mundo. Que possamos receber o trabalho, a família, o tempo e o corpo como dádivas Tuas e caminhar contigo. Que possamos lembrar que “pertencemos a Deus”, confiar em Ti e trilhar esta semana. Oramos em nome do Senhor Jesus Cristo. Amém.

 

Sermão do Culto Dominical de 9 de agosto de 2026

Passagem bíblica: Evangelho de Lucas 20:20–26

Título do sermão: Devolver a Deus o que é de Deus

Introdução. O que nos domina e para que vivemos?

1. Nós, que vivemos neste mundo, a quem pertencemos?

Pagar impostos a César é desobedecer a Deus?

Cumprir as responsabilidades deste mundo em Deus

2. Como imagem de Deus, devolver a Deus o que é de Deus

Quando somos forçados a fazer algo que vai contra Deus

Nós, criados à imagem de Deus

Conclusão. Viver neste mundo como algo que pertence a Deus