2026年7月26日主日礼拝説教 聖書個所:ローマ人への手紙8:14~16 説教題:お父ちゃん!と呼べる恵み

2026726日主日礼拝説教

聖書個所:ローマ人への手紙81416

説教題:「お父ちゃん!」と呼べる恵み

 

序.安心して帰れる場所

子どもにとって、お父さんやお母さんは安心して帰れる居場所です。子どもにとっては、かなり長い期間、親の存在自体が子どもにとっての「世界」そのものです。失敗しても、泣いても、疲れて帰ってきても、「おかえり」と迎えてくれる安全な場所。その場所があるから、また外の試練の多い場所に出て行くことができます。

もちろん、現実にはそのような安心できる父親ばかりではないことがあります。それで、聖書が語る「父」という言葉に戸惑いやためらいを覚える人もいます。

しかし、神様がご自身を「父」と呼ばれるとき、それは決して人間の父親を大きくした存在ではありません。むしろ、私たちが本来「こういうお父さんがいたらいいな」と求めている「完全な父」の姿なのです。だからこそ、神様のことをお父さんと呼べることは、実際の父親と重なるので障害となるというよりも、むしろそこにこそ恵みの本質があるのです。今日の御言葉は、その愛の父のもとへ私たちが家族として迎え入れられた喜びを語っています。救われた私たちが迎え入れられている恵みの関係のすばらしさを一緒に確認したいと思います。

 

1.神は私たちを子どもとして迎えてくださった(14節)

ローマ814「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」ここでパウロは、「神の子どもになれるかもしれない」とは言っていません。「神の子どもです。」と断言しています。

この14節の宣言は、81から続く、救われたものが与えられている一連の恵みの立場と繋がっています。救われるとは、1節にあるように、キリスト・イエスにある者になることです。キリスト・イエスに結ばれた人は、二度と罪に定められることはありません。義認です。この義認の恵みを受けている人は4節にあるように、御霊に従って歩み、律法の要求を満たす生き方に進んでいきます。どうしてそのような聖化の道に進むかというと、11節にあるように、救われた人のうちには御霊が住んでいるからです。その人は復活の希望が与えられます。その人の生き方の実際は13節にあるように「御霊によって、からだの行いを殺す」という、古い罪の性質から離れ続けていく生活に進みます。

・キリストに属する 1節

・罪に定められない(義認) 1節

・御霊に従って歩み、律法を満たしていく 4節

・その人のうちに御霊が住む 9節

・からだが死んでのちによみがえらされる 11

・御霊によって、からだの行いを殺す 13

これらすべての恵みとともに、一緒に与えられているものが「神の子どもとされる恵み」です。この言葉の意味をどれだけ味わっているでしょうか。神様は私たちを、部外者としてではなく、家族として、子どもとして迎えてくださったのです。

罪が赦されるということと神の子どもとして迎えられるというのは繋がっています。私たちが神に背を向けていた時、私たちの犯す罪は常に神様からの裁きを受けるべき罪責として積みあがっていきました。しかし、キリストの贖いのいのちによって罪責が支払われ、さらに私たちは神様の子どもとして養子縁組されたので、もはや私たちの犯す罪は処罰の対象にならなくなったのです。子どもが親に犯す罪は、親を悲しませ、傷つけ、苦しめますが、親が子どもを刑罰に処することはありません。処罰されるのは常に部外者です。

神は、「あなたは私の大切なわが子だ」と言ってくださるのです。親は子どもが役に立つから愛するのではありません。誰かと比べて優れているからかわいがるのではありません。愛する理由は、わが子だからです。神様があなたを愛するのは、あなたが神の子どもだからです。さきほど113節までの救いのさまざまな側面を確認しましたが、そのすべては「私はいま神様の子どもになったんだ」という安心とありがたさと喜びの中で体験されるものなのです。どのような感情で、神様との関係性を生きるのかということにも大事な意味があります。私たちは、信じられないほどあたたかいお父さんの愛情に包まれて生きるように招かれているのです。続く十五節がそのことを明確に示しています。

 

2.恐れではなく、安心と信頼の中に生きる(15節)

815「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けました。」

奴隷は主人の機嫌をうかがいます。失敗すれば捨てられるかもしれないからです。恐怖の心で、いつか追い出されるのではないかとおびえながら、いやぁな気持ちで従うなら、それは奴隷です。奴隷根性。奴隷精神。

しかし子どもは違います。叱られることがあっても、家族であることには変わりません。そもそも、その土台には、愛と配慮が豊かにあふれています。だから何度でも父のもとへ帰っていきます。

私たちも知らず知らずのうちに、「もっと頑張らなければ神様は喜んでくれない。」「私はこんな罪を犯しているから、神様は私を見捨てているかもしれない」そんな思いを抱くことがあるかもしれません。

けれども福音は、その恐れを取り去ります。私たちを罪から救い出した神の御霊は、「子とする御霊」だからです。15節の表現を心に留めましょう。私たちの中に住んでいる御霊は「子とする御霊」なのです。この御霊によって私たちは神様のことを「アバ、父」と叫ぶのです。

「アバ」という単語はアラム語で、幼児が父親を呼ぶときの、お父ちゃんとかパパのような響きのある言葉です。神様は、御霊を私たちの中に送って、神様のことをパパー!おとうさーん!と呼ぶ関係に生きるようにと招いておられるのです。

 

皆さんは、生活の中で、このように天のお父さんと呼びかけることのできる安心、心強さ、慰めをすでにいくらか味わっていることでしょう。私たちは苦しいときにも、また嬉しいときにも、疲れた時にも、そのままの姿でお父さんのところへ帰っていいのです。これが神の子どもの特権です。天のパパが、今やあなたの安全な家。あなたの心の帰る場所。この世界ではいろんな厳しいことや辛いことがあっても、このお父さんのそばに行けば、おだやかになだめてもらえる。そういう恵みを味わうようにと、私たちは神の子どもになったのです。

個人的には、パウロが15節の最後で叫ぶと書いていることに心が留まります。「この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます」。どうして叫ぶのでしょうか。どうしてパパ!おとうさん!と私たちは叫ぶのでしょう。私たちの心に住んでいる御霊は、そのように叫ぶ心を与えてくださる。その人は、いつもお父さんにあって安心し、お父さんを頼りにし、お父さんによって慰められ、お父さんがいるから強くなれるからではないでしょうか。あなたのなかに住んでいる御霊も、あなたに働きかけて、「天のお父さん!」と叫んでもいいんだという心を少しずつ整えていってくださることを楽しみに体験していきたいと思います。

 

3.聖霊は「あなたは愛されている神の子ども」と証ししてくださる(16節)

最後に、16節は私たちの「確信」について教えてくれます。救われている確信、また神の子どもであるという確信についてです。16節「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」

私たちは弱いものです。大きな失敗をすると、「神様はもう私を見放したのではないか」と思ってしまいます。長い試練に遭うと、「神様は私の苦しみを知らないのではないか」と疑ってしまいます。

しかし、救いは私たちが自分に言い聞かせることで保つものではありません。無いものをあるように思いこもうとするものではないのです。むしろ確かなみ言葉の約束に信頼して、目に見えない神にすべてを委ねる信仰の中にあります。

私たちが不安になる時、聖霊ご自身が、「あなたは神の子だ」と証ししてくださいます。それは様々な方法を通してなされ明日。時に、一人で聖書を読むことを通して。祈っている中で。礼拝を捧げている中で。聖餐の恵みを味わうことを通して。兄弟姉妹の励ましを通して。

父なる神は何度でも、様々な方法で、あなたの心に住む御霊を通して「あなたは私の子だ」と語りかけてくださるのです。

 

結び.主イエスが御父を呼ぶ親しい呼びかけを、私たちも。「アバ、父よ」(マルコ1436

今日は、神の子どもとされた恵み。神様をお父さーん!と呼びかけることのできる恵みを確認しました。イエス様ご自身が今日の個所のように「アバ、父よ」と呼びかけられた箇所があります。それは、十字架にかかられる前の夜、ゲッセマネの園での祈りにおいてでした。

本来、神の御子だけができる親しい呼びかけを、今、私たちも口にすることができるのです。十字架にかかるような大きな試練の中でも、お父さん!と叫ぶ心が、神様との関係が与えられているのです。

それは、私たちが立派だからではありません。キリストにあって、神が私たちを家族にしてくれたからです。

 

この一週間も、失敗することがあるでしょう。不安になることもあるでしょう。葛藤することもあるでしょう。けれども、その度に思い出したいのです。私たちには帰る家があります。天に、私たちの帰る家があるのです。私たちの想像もつかないくらい深い愛の懐で迎えてくれるお父さんがいます。だから今日も、安心して神様に向かって祈ることができます。「アバ、父よ」天のお父ちゃん!と。この呼びかけの中に詰まっている、あふれるような福音の恵みを味わいながら、新しい一週間に進んでいきましょう。

 

祈り

天のお父さん。あなたが私たちの罪を赦されるだけでなく、あなたの子どもとして迎え入れ「お父さん!」と叫ぶことができる恵みを与えてくださったことをありがとうございます。

私たちは不安や恐れの中で、あなたの愛を疑ってしまうことがあります。しかし聖霊によって、あなたに愛されている子どもであることを、日々深く確信させてください。今週も、父なるあなたの愛と守りに信頼して歩むことができますように。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2026726日主日礼拝説教

聖書個所:ローマ人への手紙81416

説教題:「お父ちゃん」!と呼べる恵み

 序.安心して帰れる場所

1.神は私たちを子どもとして迎えてくださった(14節)

2.恐れではなく、安心と信頼の中に生きる(15節)

3.聖霊は「あなたは愛されている神の子ども」と証ししてくださる(16節)

結び.主イエスが御父を呼ぶ親しい呼びかけを、私たちも。「アバ、父よ」(マルコ1436

 


Sermão do Culto Dominical de 26 de julho de 2026

Passagem bíblica: Carta aos Romanos 8:14–16

Título do sermão: A graça de poder chamar “Papai!”


Introdução. Um lugar para onde se pode voltar com tranquilidade

Para uma criança, o pai e a mãe são um lugar seguro para onde voltar. Durante um período bastante longo, a própria presença dos pais representa, para a criança, o “mundo” em si. Mesmo que cometam erros, chorem ou voltem para casa cansados, é um lugar seguro onde são recebidos com um “Bem-vindo de volta”. É por ter esse lugar que podem voltar a enfrentar o mundo exterior, repleto de provações.

É claro que, na realidade, nem todos os pais são assim tão tranquilizadores. Por isso, há quem sinta confusão ou hesitação diante da palavra “Pai” usada na Bíblia.

No entanto, quando Deus se refere a Si mesmo como “Pai”, não se trata de uma versão ampliada de um pai humano. Pelo contrário, é a imagem do “pai perfeito” que, no fundo, sempre buscamos, pensando: “Seria bom ter um pai assim”. É por isso que poder chamar Deus de “pai” — em vez de ser um obstáculo por se sobrepor ao pai real — revela, na verdade, a essência da graça. A Palavra de hoje fala da alegria de termos sido acolhidos como família por esse Pai amoroso. Gostaria que, juntos, confirmássemos a maravilha dessa relação de graça na qual nós, os salvos, somos acolhidos.


1. Deus nos acolheu como filhos (versículo 14)

Romanos 8:14: “Todos os que são guiados pelo Espírito de Deus são filhos de Deus.” Aqui, Paulo não diz: “Talvez possamos nos tornar filhos de Deus”. Ele afirma categoricamente: “São filhos de Deus”.

Essa declaração do versículo 14 está ligada à série de posições de graça concedidas aos salvos, que se estende desde 8:1. Ser salvo significa, como diz o versículo 1, tornar-se alguém que está em Cristo Jesus. Quem está unido a Cristo Jesus nunca mais será condenado pelo pecado. Isso é justificação. Quem recebe essa graça da justificação, como diz o versículo 4, caminha segundo o Espírito e segue um modo de vida que cumpre as exigências da Lei. A razão pela qual segue esse caminho de santificação é que, como diz o versículo 11, o Espírito habita naqueles que são salvos. Essa pessoa recebe a esperança da ressurreição. Na prática, seu modo de vida, conforme o versículo 13, consiste em “matar, pelo Espírito, as obras da carne”, ou seja, seguir uma vida em que se afasta continuamente da antiga natureza pecaminosa.

・Pertencer a Cristo — versículo 1

・Não ser condenado pelo pecado (justificação) — versículo 1

・Andar segundo o Espírito e cumprir a Lei — versículo 4

・O Espírito habita nessa pessoa — versículo 9

・Será ressuscitado após a morte do corpo — versículo 11

・Mata as obras da carne pelo Espírito — versículo 13

Juntamente com todas essas graças, é-nos concedida a “graça de sermos considerados filhos de Deus”. Até que ponto estamos saboreando o significado dessas palavras? Deus nos acolheu não como estranhos, mas como família, como filhos.

O perdão dos pecados e o fato de sermos acolhidos como filhos de Deus estão intimamente ligados. Quando estávamos de costas para Deus, os pecados que cometíamos se acumulavam constantemente como culpas passíveis de julgamento por parte de Deus. No entanto, por meio da vida redentora de Cristo, essas culpas foram pagas e, além disso, fomos adotados como filhos de Deus; assim, os pecados que cometemos não são mais objeto de punição. Os pecados que um filho comete contra os pais entristecem, ferem e causam sofrimento aos pais, mas os pais nunca submetem o filho a uma punição. Quem é punido é sempre alguém de fora.

Deus nos diz: “Você é meu filho querido”. Os pais não amam o filho porque ele é útil. Não o mimam porque ele é superior a alguém. A razão do amor é simplesmente porque ele é seu filho. Deus o ama porque você é filho de Deus. Acabamos de examinar os diversos aspectos da salvação nos versículos 1 a 13, mas tudo isso é vivenciado em meio à segurança, à gratidão e à alegria de saber que “agora me tornei filho de Deus”. A maneira como vivemos nosso relacionamento com Deus, com quais sentimentos, também tem um significado importante. Somos convidados a viver envoltos no amor incrivelmente caloroso de um Pai. O versículo 15, que se segue, mostra isso claramente.


2. Viver em segurança e confiança, e não no medo (versículo 15)

8:15 “Vocês não receberam um espírito de escravidão, que os leva de novo ao medo, mas receberam o Espírito de adoção.”

O escravo fica atento ao humor do senhor. Isso porque, se cometer um erro, pode ser abandonado. Se obedecer com um coração cheio de medo, temendo ser expulso algum dia, e com um sentimento de relutância, isso é ser escravo. Mentalidade de escravo. Espírito de escravo.

Mas um filho é diferente. Mesmo que seja repreendido, continua fazendo parte da família. Acima de tudo, essa relação é fundamentada em amor e consideração abundantes. Por isso, ele volta para o pai quantas vezes for preciso.

Nós também, sem perceber, podemos ter pensamentos como: “Se eu não me esforçar mais, Deus não ficará satisfeito” ou “Como cometi esse pecado, talvez Deus esteja me abandonando”.

No entanto, o Evangelho afasta esse medo. Isso porque o Espírito de Deus, que nos salvou do pecado, é o “Espírito que nos torna filhos”. Vamos guardar no coração a expressão do versículo 15. O Espírito que habita em nós é o “Espírito que nos torna filhos”. Por meio desse Espírito, clamamos a Deus: “Abá, Pai”.

A palavra “Abá” vem do aramaico e tem um tom semelhante ao que uma criança usa para chamar o pai, como “papai” ou “pai”. Deus enviou o Espírito para dentro de nós, convidando-nos a viver em um relacionamento em que possamos chamá-Lo de “Papai!” ou “Pai!”.


Vocês certamente já experimentaram, em alguma medida, na vida cotidiana, a segurança, a força e o consolo de poder invocar assim o Pai celestial. Tanto nos momentos difíceis quanto nos momentos de alegria, e mesmo quando estamos cansados, podemos voltar para o colo do Pai exatamente como somos. Esse é o privilégio dos filhos de Deus. O Papai do céu é, agora, o seu lar seguro. O lugar para onde seu coração volta. Mesmo que haja muitas dificuldades e sofrimentos neste mundo, se você for até ao lado desse Pai, Ele o acalmará e consolará. Foi para saborearmos essa graça que nos tornamos filhos de Deus.

Pessoalmente, fico impressionado com o que Paulo escreve no final do versículo 15: “Pelo Espírito, clamamos: ‘Abá, Pai’”. Por que clamamos? Por que clamamos “Papai! Papai!”? O Espírito que habita em nossos corações nos dá esse desejo de clamar assim. Não será porque essa pessoa sempre se sente segura na presença do Pai, confia nele, é consolada por ele e se fortalece por causa da presença do Pai? Espero poder vivenciar com alegria como o Espírito que habita em você também age em seu coração, preparando-o pouco a pouco para que você sinta que está tudo bem em clamar: “Pai Celestial!”.


3. O Espírito Santo testifica que “você é um filho de Deus amado” (versículo 16)

Por fim, o versículo 16 nos ensina sobre a nossa “certeza”. Trata-se da certeza de que somos salvos e também da certeza de que somos filhos de Deus. Versículo 16: “O próprio Espírito, juntamente com o nosso espírito, testifica que somos filhos de Deus.”

Somos fracos. Quando cometemos um grande erro, acabamos pensando: “Será que Deus já me abandonou?”. Quando passamos por longas provações, duvidamos: “Será que Deus não conhece o meu sofrimento?”.

No entanto, a salvação não é algo que mantemos apenas repetindo a nós mesmos. Não se trata de tentar convencer-nos de que algo que não existe realmente existe. Pelo contrário, ela reside na fé que confia nas promessas seguras da Palavra de Deus e entrega tudo ao Deus invisível.

Quando ficamos ansiosos, o próprio Espírito Santo testifica: “Você é filho de Deus”. Isso acontece de várias maneiras. Às vezes, ao lermos a Bíblia sozinhos. Enquanto oramos. Durante o culto. Ao saborearmos a graça da Ceia do Senhor. Através do encorajamento dos irmãos e irmãs.

Deus Pai nos diz, quantas vezes for preciso e de diversas maneiras, por meio do Espírito que habita em seu coração: “Você é meu filho”.


Conclusão. Que também nós possamos usar o tratamento íntimo com que o Senhor Jesus se dirige ao Pai. “Abá, Pai” (Marcos 14:36)

Hoje, confirmamos a graça de termos sido tornados filhos de Deus. A graça de podermos chamar a Deus de “Pai!”. O próprio Jesus, assim como na passagem de hoje, chamou-O de “Abá, Pai”. Isso aconteceu na noite anterior à Sua crucificação, durante a oração no Jardim do Getsêmani.

O que, em princípio, só o Filho de Deus poderia fazer — essa forma íntima de se dirigir a Ele —, agora também nós podemos expressar. Mesmo em meio a grandes provações, como a da cruz, temos um coração capaz de clamar “Pai!”, pois nos foi concedido um relacionamento com Deus.

Isso não se deve ao fato de sermos dignos. É porque, em Cristo, Deus nos tornou parte de Sua família.


Nesta semana também haverá momentos de fracasso. Haverá momentos de ansiedade. Haverá momentos de conflito. No entanto, a cada uma dessas ocasiões, quero lembrar: Temos um lar para onde voltar. No céu, há o nosso lar. Há um Pai que nos acolhe nos braços de um amor tão profundo que ultrapassa nossa imaginação. Por isso, também hoje podemos orar a Deus com tranquilidade: “Abba, Pai!” “Pai celestial!”. Saboreando a graça transbordante do Evangelho contida nesse chamado, vamos avançar para uma nova semana.


Oração

Pai celestial. Agradecemos por não apenas perdoar nossos pecados, mas também por nos acolher como seus filhos e nos conceder a graça de podermos clamar: “Pai!”.

Às vezes, em meio à ansiedade e ao medo, chegamos a duvidar do seu amor. Mas, pelo Espírito Santo, faça com que tenhamos, a cada dia, a profunda convicção de que somos filhos amados por você. Que também nesta semana possamos caminhar confiando no seu amor e na sua proteção, ó Pai.

Oramos em nome de nosso Senhor Jesus Cristo. Amém.



Sermão do Culto Dominical de 26 de julho de 2026

Passagem bíblica: Carta aos Romanos 8:14–16

Título do sermão: A graça de poder clamar “Papai!”


Introdução. Um lugar para onde podemos voltar com tranquilidade

1. Deus nos acolheu como filhos (versículo 14)

2. Viver não com medo, mas com segurança e confiança (versículo 15)

3. O Espírito Santo testifica que “você é um filho de Deus amado” (versículo 16)

Conclusão. Que também nós possamos usar a forma íntima com que o Senhor Jesus se dirige ao Pai: “Abba, Pai” (Marcos 14:36)