2025年11月2日主日礼拝説教 ルカの福音書15:1~10 「神の喜び」

2025112日主日礼拝説教

ルカの福音書15110

「神の喜び」

序.神の愛と喜びは、どのような文脈で語られたのか

 今日読んだのはルカの福音書15章の前半部分です。ルカはこの15章に三つのたとえ話を連続して収めました。今日読んだのは二つです。一つ目が一匹の迷える羊を探しに行く話。二つ目が失われた一枚の銀貨を探す話。そして三つめが有名な放蕩息子の話。父のもとを離れてさまよったのちに帰ってきた息子を父親が喜んで迎え入れる話です。

 たとえ話を読むときに大切なことは、そのたとえ話が誰に対して何を教えようとしているのかという文脈を押さえることです。たとえ話だけを考えていると、イエス様が言おうとしてないことまでも読み込んでしまう恐れがあるからです。イエス様はこれらの話を誰に向けて話されたのでしょう。それはパリサイ人たち、律法学者たちでした。自分たちは神を信じていて、神の言葉を守り行っていて、救われていると思っている人たち。それだけではありません。イエス様が取税人たちや罪びとたちと食事していることに文句を言っている人々、でした。

そのことを踏まえて読むとき、彼らと私たちの共通点はどこにあるでしょう。そしてたとえ話の中心メッセージは、私たちに向けて、何を教えているでしょう。パリサイ人と律法学者を見つめるイエス様のまなざしが、私たちにも向けられていることを考えながらメッセージを受け取りたいと思います。

1.神の喜びとパリサイ人たちの心のギャップ

 イエス様がこの話をしている時に見つめているのは、パリサイ人たち、律法学者たちです。まずはその光景をしっかりと思い描いてください。イエス様は彼らの中に自分と同じ思いを持ってほしいという願いを抱かれたのです。

 彼らはイエス様に文句を言っていました。「この人は罪びとたちを受け入れて、一緒に食事をしている」。ここに彼らとイエス様の心のギャップがありました。ここでいう「罪びとたち」というのは直接的な犯罪者という意味ではありません。たとえば1節の取税人というのは税金を回収する職業です。しかし当時の取税人というのは、同じイスラエル国民から税金を集め、支配国であるローマに献上するという嫌われ者の職業でした。実際にも、税を集めるときに余分に取り立ててそれを自分の懐に入れるということがあったようで、嫌われていたのでした。そのほかにも旧約聖書の律法の規定に照らして汚れていると考えられている職業があります、たとえば売春や道徳的に非難される仕事をしていた人もそうでした。また、罪に該当することを行いながら生活している社会的な問題のある人々や病を抱えている人々のことも指していたようです。

 そのような人々と「食事をし、彼らのことを受け入れている」そのイエス様の行動と考え方に、パリサイ人たちは文句を言ったのでした。それはつまり、汚れている人とは関わるべきではないという考えを彼らが持っていたからでしょう。おそらく、律法の解釈を様々に広げていく中で、汚れた者に触れるということは自分自身も汚れるという考え方に進んでいったためだろうと思います。

 どうでしょうか。みなさんのなかにはこのような考え方がありますか。間違ったことをしている人と付き合うことは問題だ。罪深い考え方をしている人と仲良くすることは問題だ。あの人はクリスチャンなのに、どうしてあんな罪深いことをしている人たちとも仲良くしているのか。これはよく考えてみると、微妙な問題を含んでいることが分かります。確かに私たちは一緒にいる人から様々に影響を受けながら暮らしているからです。周囲の大半が何かをしていれば、それをすることが当たり前なのだと考えやすくなります。

 子育てを経験したことがある人なら、どこでこんな言葉を覚えたのだろうとか、誰の影響でこんなことをするようになったのだろう、ということを口にしたことがあるでしょう。悪い影響を受けないために、悪い人から離れるべきだという思考が、皆さんの中にはないでしょうか。まずここで取り組みたいのは、どんな人にも彼らと似たような考え方をする誘惑が潜んでいるという事実を考えてみることです。自分自身はまっ白で、ある人のことを悪影響のある人と考えて、だから彼らと関わるべきではないと考える排他的な思考。これは、そのような考え方のすべてが問題だというのではありません。ただ私たちの中には自分をよいものと考え、ある人を悪いものと考えて、関わらないようにすれば問題は解決すると考える誘惑があるという事実を認めて初めて、このたとえを読むことができるのです。

2.たとえ話からみる神の喜び

①迷える羊

 イエス様は彼らに三つのたとえ話をされました。今日はそのうちの最初の二つを読んで行きます。

一つ目は99匹の羊を残していなくなった1匹の羊を見つけるまで捜し歩く羊飼いの話です。4節「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹を失くしたら、その人は99匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」

 そして次の7節が要点です。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪びとが悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」

 羊飼いはもちろん神ご自身の思いを現わしています。そして中心テーマは神の喜びです。神は、ご自身のところから迷い出ている一人の人がその生き方の悲惨さに気が付き、罪を悔い改めて立ち返り、ご自身の群れに加わることを喜ぶということです。

 神の喜びは、家族や友達や近所の人たちと分かち合われる喜びとなります。本来であれば、この羊飼いの喜びを99匹の羊も共有して、良く帰って来たね!神様のもとで生きるのって本当に感謝なことだね!神に愛されていることがわかるって素晴らしいことだね!と歓迎することが望ましいところでした。課題は、失われていた罪びとが悔い改めて神の民となることを喜ぶ神の喜びが、神の民に共有されていないということでした。神が「一緒に喜んでください!」と言っているのに、「神はどうしてあんなひとと仲良くされるのだろうか」と嫌な顔をしているということでした。このメッセージは、私たちのどんな心に当てはまるでしょうか。

②失われた銀貨

 二つ目の譬えは8節から始まります。10枚の銀貨を持っている人が一枚失くしてしまいます。そのひとは「明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く探さないでしょうか。」

 みなさんは失くしものをするタイプでしょうか。あるべきものがあるはずのところにない。とても気持ち悪い感じがするものです。ましてや銀貨という高価なものが、10枚あったのに一枚ない。どこに行ったのか。ここにあるべきなのに。あるべきものがそこにないという違和感、悲しみや苛立ち。それを熱心に探すのは当然のこと。

 神にとっても、ご自分のもとにあるべき人間が神を離れて生きているのを悲しみ、探しもとめるのは当然のことでした。このたとえも要点は同じです。10節「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪びとが悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」神を離れ、罪の中をさまよっていて、失われていた人を探す神の熱心と、悔い改めた人を喜ぶ神の喜び。イエス様は、この熱心と喜びをあなたたちにも持ってほしいとパリサイ人たちに語りかけられたのでした。

3.神の喜びを、私たちの喜びとするために

 それでは、私たちがこのメッセージを聞くときに、どのようなことを教えられるでしょうか。二つ点で考えてみたいと思います。

①かつては失われた者であったこと、今も回復され続けていることの自覚

 パリサイ人たちが、罪びとたちと食事を楽しむイエス様の姿をともに喜べなかったのは、自分たちも彼らと同様に神に憐れまれ探しだされ喜びとともに見つけてもらった失われた羊、失われた銀貨であったということを忘れていたからではないでしょうか。私たちも皆、かつては迷い、道を見失っていた者たちです。そして神に導かれ救われた者たちです。それだけでなく、今も神に導かれ続け、罪から離れる成長の途中にある者たちです。この自覚があると、他人を軽蔑したり分け隔てたりする誘惑に気付きやすくなります。

罪びとが罪びと互いに責めて空しく争う姿は、神の目から見ればすべてはどんぐりの背比べです。私たちは正しさや聖さ、愛することを追い求めるのですが、そのせいで安易に分断や軽蔑の思いを持ちやすいものであることを反省し気を付けたいと思います。私たち皆、かつては失われていた羊であり、今もなお神に罪の問題を治療され続けている羊であるという自覚を持ち、分断を作るのでなく対話の架け橋を作るものになりましょう。

②神の愛と喜びの中で生きる力を周囲に映す

 一方で、あるテーマについて聖書が全体としてどのように教えているかというバランスを見ることも大切なことです。

ローマ12:1~2にはこうあります。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

イエス様は確かに罪のただなかにある人間を憐れんで罪人に近づいてくださる方ですが、それで罪の生き方に染まったのではありませんでした。罪のただ中で愛と聖さと信仰を伝えたのです。私たちがこのキリストの足跡にならうのです。

 神を知らない人たちのただなかにあって、神とともに生きる喜びや光を周りに映し出すこと。その生き方は、内側においても外側においても神を知らない人たちとは性質の異なるものであるはずなのです。

 神を愛し神を喜んでいない人がどうして失われた羊を探しだすことができるでしょう。神の群れに加わり、神の民として生きることの豊かさを味わい楽しんでいるからこそ、「神の民として生きる魅力」を失われた羊に伝えることができるのです。

結び.神の民として生きている喜びを生活の中で表す

 悔い改めて神に立ち返ったものを喜ぶ神の思いは、決してその一瞬だけのことではありません。立ち返った一瞬の出来事ではなく、神とともに生きることそのものを神は喜ばれるのです。神とともに生きる喜びは、聖書の言葉を聞くだけでなく実践して生きるその生き方の中で輝きます。

そのような視点をもって、どんな人に対しても愛と憐れみをもって関わっていく心を持ちたいと思います。これは神を知らない人たちと調子を合わせて、自分も神様を知らないような考え方に染まっていくためではありません。むしろ神の愛に生かされる生き方の力や光を現わすためです。そのためにこそ、私たち自身のうちには神の群れに加えられ、神に生かされている喜びや愛や聖さが必要なのです。神の言葉を求めて毎週集まってくる熱心、聞いたみことばを生活の中で実践する誠実さ、困難な人間関係の中で神の愛の実を結ばせようとする忍耐強さ。まさにそのような取り組みが、神の民の群れと失われた羊の両方を行き来しながら、神の栄光を現わすクリスチャンの使命ではないでしょうか。罪に馴染むのではなく、神の聖さと喜びに生きる。その生き方を携えて神を知らない人々の中にも架け橋を作る。その実践をする一週間となりますように。

 

2025112日主日礼拝説教

ルカの福音書15110

「神の喜び」

序.神の愛と喜びは、どのような文脈で語られたのか

1.神の喜びとパリサイ人たちの心のギャップ

2.たとえ話からみる神の喜び

①迷える羊

②失われた銀貨

3.神の喜びを、私たちの喜びとするために

①かつては失われた者であったこと、今も回復され続けていることの自覚

②神の愛と喜びの中で生きる力を周囲に映す

結び.神の民として生きている喜びを生活の中で表す


Sermão de domingo, 2 de novembro de 2025

Lucas 15:1–10

“A alegria de Deus”

Introdução: Em que contexto se falava do amor e da alegria de Deus?

Hoje lemos a primeira parte do capítulo 15 de Lucas. Lucas colocou três parábolas consecutivas neste capítulo. Lemos duas delas hoje. A primeira é a história do pastor que sai em busca da ovelha perdida. A segunda é a história da mulher que procura a moeda perdida. E a terceira é a conhecida parábola do Filho Pródigo. É a história do pai que recebe com alegria o filho que se afastou de casa e depois voltou.

 Ao ler parábolas, é fundamental compreender o contexto: a quem a parábola se dirige e o que ela procura ensinar. Concentrar-se apenas na parábola em si corre o risco de interpretar coisas que Jesus nunca pretendeu. A quem Jesus contou essas histórias? Aos fariseus e aos mestres da lei. Essas eram pessoas que acreditavam em Deus, guardavam Sua palavra e se consideravam salvas. Mas isso não era tudo. Eram essas mesmas pessoas que reclamavam de Jesus por jantar com cobradores de impostos e pecadores.

Lendo com isso em mente, onde encontramos pontos em comum com eles? E qual é a mensagem central que essa parábola nos ensina? Vamos receber essa mensagem, cientes de que o olhar que Jesus fixou nos fariseus e escribas também está direcionado a nós.

1. A distância entre a alegria de Deus e o coração dos fariseus

Quando Jesus contou essa história, Ele estava olhando para os fariseus e os doutores da lei. Primeiro, imagine claramente essa cena. Jesus desejava que eles compartilhassem o Seu próprio coração.

Eles estavam reclamando com Ele: “Este homem recebe pecadores e come com eles”. Aqui estava a distância entre o coração deles e o de Jesus. O termo “pecadores” aqui não se refere a criminosos diretos. Por exemplo, o cobrador de impostos mencionado no versículo 1 era um cobrador de impostos profissional. No entanto, os cobradores de impostos naquela época eram uma profissão desprezada, cobrando impostos de seus compatriotas israelitas e pagando-os ao Império Romano governante. Na prática, eles eram frequentemente odiados porque cobravam a mais ao coletar impostos e embolsavam o excedente para si mesmos. Outras ocupações também eram consideradas impuras de acordo com os regulamentos da lei do Antigo Testamento, como as relacionadas à prostituição ou trabalhos moralmente repreensíveis. Parece também ter se referido a pessoas com problemas sociais que viviam cometendo atos considerados pecaminosos ou àquelas afligidas por doenças.

Foram as ações e a mentalidade de Jesus — “comer com essas pessoas e aceitá-las” — que os fariseus questionaram. Isso provavelmente decorria de sua crença de que não se deveria se associar com os impuros. Presumivelmente, à medida que as interpretações da Lei se expandiram, desenvolveu-se a noção de que tocar os impuros tornaria a pessoa impura.

O que vocês acham? Algum de vocês tem essa opinião? Que se associar com aqueles que fazem o mal é problemático. Que ser amigo daqueles com mentalidade pecaminosa é problemático. Por que aquele cristão se associa com pessoas tão pecadoras? Ao refletir sobre isso, percebemos um problema sutil. De fato, vivemos influenciados de várias maneiras por aqueles que nos rodeiam. Se a maioria das pessoas ao nosso redor está fazendo algo, fica fácil pensar que fazer isso é normal.

Aqueles que já tiveram a experiência de criar filhos provavelmente já comentaram: “Onde eles aprenderam essa frase?” ou “A influência de quem os levou a começar a fazer isso?”. Não há uma tendência entre vocês de pensar que, para evitar más influências, deve-se distanciar-se das pessoas más? O que devemos abordar primeiro aqui é o fato de que a tentação de pensar assim existe em todos nós. A mentalidade exclusiva que nos vê como puros e brancos, considera os outros uma má influência e, portanto, conclui que não devemos nos associar a eles. Isso não quer dizer que todo esse pensamento seja problemático. Somente quando reconhecemos o fato de que dentro de nós existe a tentação de nos considerarmos bons, rotular os outros como maus e acreditar que evitá-los resolve o problema, é que podemos realmente entender essa parábola.

2. A alegria de Deus vista nas parábolas

① A ovelha perdida

Jesus contou-lhes três parábolas. Hoje leremos as duas primeiras.

A primeira é a história do pastor que deixa as noventa e nove ovelhas para trás e procura até encontrar a que está perdida. Versículo 4: “Se algum de vocês tem cem ovelhas e perde uma delas, não deixa as noventa e nove no campo e vai atrás da perdida até encontrá-la? E quando a encontra, com alegria a coloca sobre os ombros e volta para casa. Então convoca seus amigos e vizinhos, dizendo: ‘Alegrem-se comigo, pois encontrei minha ovelha perdida’”.

E o versículo seguinte, o versículo 7, é o ponto-chave. “Eu lhes digo que, da mesma forma, haverá mais alegria no céu por um pecador que se arrepende do que por noventa e nove justos que não precisam de arrependimento.”

O pastor, é claro, representa o próprio coração de Deus. E o tema central é a alegria de Deus. Deus se alegra quando uma pessoa que se afastou de sua presença percebe a miséria de seu modo de vida, se arrepende de seus pecados, volta atrás e se junta novamente ao seu rebanho.

 A alegria de Deus se torna uma alegria compartilhada com a família, os amigos e os vizinhos. Idealmente, as noventa e nove ovelhas deveriam ter compartilhado a alegria do pastor, recebendo a ovelha perdida com gritos de: “Muito bem por ter voltado! Como somos verdadeiramente gratos por viver sob os cuidados de Deus! Como é maravilhoso saber que somos amados por Deus!” O problema era que a alegria de Deus pelo pecador perdido que se arrependeu e se tornou parte do Seu povo não estava sendo compartilhada pelo Seu povo. Embora Deus diga: “Alegrem-se comigo!”, eles, em vez disso, franzem a testa, pensando: “Por que Deus se associa com essas pessoas?” Como essa mensagem se aplica aos nossos corações?

② A moeda perdida

A segunda parábola começa no versículo 8. Um homem que possui dez moedas de prata perde uma. Ele não “acenderia uma lâmpada, varreria a casa e procuraria cuidadosamente até encontrá-la”?

 Você é do tipo que perde coisas? Quando algo que deveria estar lá está faltando, é terrivelmente inquietante. Especialmente quando é algo valioso como moedas de prata — dez estavam lá, mas uma desapareceu. Para onde foi? Deveria estar aqui. Essa sensação de dissonância, essa tristeza e irritação quando algo que deveria estar lá está ausente. É natural procurá-lo diligentemente.

 Para Deus também era natural lamentar e procurar as pessoas que deveriam estar com Ele, mas estavam vivendo separadas Dele. Esta parábola transmite o mesmo ponto. Versículo 10: “Digo-vos que, da mesma forma, há alegria na presença dos anjos de Deus por um pecador que se arrepende.” O zelo de Deus em procurar aqueles que se afastaram Dele, vagando no pecado e perdidos, e a alegria de Deus pelos arrependidos. Jesus dirigiu-se aos fariseus, desejando que eles também possuíssem esse zelo e alegria.

3. Tornar a alegria de Deus nossa

Então, o que podemos aprender ao ouvir esta mensagem? Vamos considerar dois pontos.

① Consciência de que já estivemos perdidos e continuamos a ser restaurados

Os fariseus não conseguiam se alegrar com Jesus enquanto ele jantava com pecadores, talvez porque tivessem esquecido que também já foram ovelhas perdidas e moedas perdidas, procuradas pela misericórdia de Deus e encontradas com alegria. Todos nós também já fomos aqueles que se desviaram e perderam o caminho. E somos aqueles que Deus guiou e salvou. Não só isso, mas ainda estamos sendo guiados por Deus, ainda no caminho do crescimento, afastando-nos do pecado. Possuir essa consciência nos torna mais propensos a reconhecer a tentação de desprezar ou discriminar os outros.

A visão de pecadores culpando uns aos outros e envolvidos em disputas fúteis é, aos olhos de Deus, como bolotas comparando suas alturas. Buscamos a justiça, a santidade e o amor, mas devemos refletir e nos proteger contra a facilidade com que isso nos leva a nutrir pensamentos de divisão e desprezo. Tenhamos todos em mente que já fomos ovelhas perdidas e continuamos sendo ovelhas cujos pecados são continuamente curados por Deus. Sejamos pontes para o diálogo, não fontes de divisão.

② Refletindo a força para viver no amor e na alegria de Deus para com aqueles que nos rodeiam

Ao mesmo tempo, é vital manter o equilíbrio, considerando como as Escrituras como um todo ensinam sobre qualquer tema específico. Jesus realmente teve compaixão pela humanidade em meio ao pecado, amou-a e deu Sua própria vida para resgatá-la daquele modo de vida pecaminoso. O amor de Deus é derramado sobre todos os pecadores. É precisamente por isso que nós também somos salvos e continuamos a ser salvos até agora. No entanto, ao mesmo tempo, Deus não deseja que permaneçamos para sempre separados Dele, vivendo vidas acostumadas ao pecado. O que Deus se alegra é quando os pecadores se arrependem, se juntam ao Seu rebanho e começam a viver com Ele. Ele certamente não deseja que, depois de nos juntarmos ao rebanho, continuemos inalterados, vivendo como se não O conhecêssemos.

 Misturar-se com pecadores significa viver entre aqueles que não conhecem Deus, mas refletir a alegria e a luz de viver com Deus sobre aqueles que nos rodeiam. Tal vida deve ser fundamentalmente diferente em natureza, tanto interior quanto exteriormente, daquela daqueles que não conhecem Deus.

Como alguém que não ama a Deus ou não se deleita em Deus pode procurar a ovelha perdida? É precisamente porque provamos e desfrutamos da riqueza de nos juntarmos ao rebanho de Deus e vivermos como Seu povo que podemos transmitir a “atração de viver como povo de Deus” às ovelhas perdidas.

Conclusão: Expressando a alegria de viver como povo de Deus na vida cotidiana

O prazer de Deus naqueles que se arrependem e voltam para Ele nunca se limita a esse único momento. Não é o instante da conversão que O agrada, mas o próprio ato de viver com Deus. A alegria de viver com Deus brilha não apenas ao ouvir as Escrituras, mas ao vivê-las.

Com essa perspectiva, desejo abordar todos com um coração cheio de amor e compaixão. Isso não significa conformar-se com aqueles que não conhecem a Deus, adotando sua mentalidade. Significa, antes, manifestar o poder e a luz de uma vida sustentada pelo amor de Deus. Por essa mesma razão, nós mesmos precisamos da alegria, do amor e da santidade que vêm de fazer parte do rebanho de Deus e de ser mantidos vivos por Ele. O zelo de nos reunirmos semanalmente em busca da palavra de Deus, a sinceridade de praticar o que ouvimos na vida cotidiana, a firmeza de dar frutos do amor de Deus mesmo em relacionamentos difíceis. Não é precisamente esse esforço a missão do cristão – mover-se entre o rebanho de Deus e as ovelhas perdidas – para revelar a glória de Deus? Não se acostumar ao pecado, mas viver na santidade e na alegria de Deus. Levar esse modo de vida e construir pontes mesmo entre aqueles que não conhecem Deus. Que esta seja uma semana para colocar isso em prática.


Sermão de domingo, 2 de novembro de 2025

Lucas 15:1–10

“A alegria de Deus”

Introdução: Em que contexto se falava do amor e da alegria de Deus?

1. A diferença entre a alegria de Deus e o coração dos fariseus

2. A alegria de Deus vista nas parábolas

① A ovelha perdida

② A moeda perdida

3. Tornando a alegria de Deus nossa alegria

① Reconhecendo que já estivemos perdidos e estamos continuamente sendo restaurados

② Refletindo a força de viver no amor e na alegria de Deus para com aqueles que nos rodeiam

Conclusão. Expressando a alegria de viver como povo de Deus na vida cotidiana