2025年11月16日主日礼拝説教 ルカの福音書 15:11〜32 「憐れみ深い父と失われた二人の息子」

 20251116日主日礼拝説教

ルカの福音書 151132

「憐れみ深い父と失われた二人の息子」

序.主役は弟息子ではなくて……誰?

 ルカの福音書15章は、三つのたとえ話を収録しています。失われた羊、失くした銀貨、そして最後が今日の放蕩息子の話です。三つの譬えのすべてが同じ状況で同じ人々に向けかって話されました。この文脈を正しく押さえて読むことが大切です。

この話は「放蕩息子」の話として知られていますが、実は中心は弟ではなく兄です。なぜならイエス様はこの話を、パリサイ人と律法学者たちに向けて話されたからです。彼らの心の問題を映しているのが兄の姿だからです。

そういう理由で今日の説教のタイトルは放蕩息子ではなく「憐れみ深い父と失われた二人の息子」といたしました。私たちは、弟のようでもあり、また兄のようでもあるのです。父なる神は、どんな問題を抱えている私たちを憐れみ、受け入れ、愛しておられるかを、このたとえ話から学び取りたいと思います。

1.放蕩した弟の悔い改め

 弟息子は早々に自分の相続分を欲しがりました。いわゆる生前に行う相続分与ということになります。この父の家は大勢の召使がいたとありますのでとても裕福でした。しかし彼は父のもとで暮らす日々よりも、家を離れた自由を求めたのでした。まとまった大きなお金を受け取った弟はその持てる自由を快楽と欲望のために使い果たしてしまうのでした。

 ここに見出すのは、私たちの中にもよく見受けられるものです。当たり前のように与えられている家、家族、心や体のケア、安心、信頼。なによりも親からの深い愛情。そういったものを軽々しく思う心です。日常が安定していることの恵みは、それが奪い去られたときはじめて気が付きます。病気、事故、大災害などに見舞われたときはじめて、私たちの生活は守られていたのだと、その価値に気が付くことがあるのではないでしょうか。

弟が、父の生きている間に財産を分けてもらったのは、もう家族とは縁を切って自分の好きに暮らしたいという宣言でもあります。父親の恩を仇で返す行為でした。そうして弟はお金の続く限り楽しみのために遊び、ついにお金が底をついたときに飢饉に見舞われ、一文無しの乞食となってしまったのでした。

私たちも神様の愛と憐れみと恵みに囲まれていながら、神の言葉に従うなんて堅苦しいことは自分には不要だと思って身勝手な自由を追い求めることがないでしょうか。このような恩知らずな性質をすべての人が生まれながらに持っています。実際のところ、私たちはこの性質を押しとどめることができません。様々な方法で、ある人は具体的に、ある人は精神的に神に反抗し、神を侮り、神の恩を仇で返しています。違いがあるとすれば、そのことに気が付くという恵みが与えられたか、気づかないままに日々を暮らしているかというところです。

弟が、父の前に自分がなした恩知らずに目が開かれたのは、豚の餌であるいなご豆さえも食べたいのに食べられないという状況に陥った時でした。16節「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。しかし、彼は我に返って言った。」これが彼のいわゆる「悔い改め」のタイミングでした。これはまさに神の恵みです。彼は自由を求めて、父の家を離れたはずでした。父の愛を忘れ、父の言葉を捨て、家のための手伝いや奉仕から解放されて、気軽な友人たちとの快楽の日々を楽しんでいたのです。しかし、そのような日々の底にある虚しさを、彼はすべてを失った後で思い知ったのでした。でも、思い知ることができただけ感謝なことなのです。彼は、すべてを失った自分にも、まだ父の愛、父の家があると悔い改める思いがあったからです。

「我に返って」という体験が誰しもにあるのではないでしょうか。そのような瞬間が訪れるまでは、皆自分の考えが正しい、自由を楽しんで何が悪いのかと突き進むものです。もし彼が大飢饉に出会わずに何とか食いつないだとしたらどうだったのでしょう。父の愛の意味が分からない不幸のなかにとどまっていたかもしれません。彼は自分を見捨てた友人たちや、突然襲ってきた飢饉のせいで自分の人生は台無しだ!と文句を言ったのではなく、問題は愛情深い父の思いを捨てて自分勝手に生きた自分の罪にあると心から悔い改めたのです。彼は神様に対しても、お父さんに対しても罪を犯しましたと心から悔い改めたのです。私たちの心にもこのような恵みをお与えになる神様に感謝したいと思います。

2.帰ってきた弟息子を喜ぶ父

 さて、悔い改めて帰ってきた弟息子を、父親はまだ遠くにいるところから見つけて駆け寄りました。恩知らずな息子がのこのこ帰ってきたのか!と怒鳴って追い返しても当然のところ、この父親は一番良い衣を着せて、肥えた子牛でお祝いを始めたのでした。父の言葉はこうです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」人間に対する神の愛はまさにこの通りです。父なる神は、私たちに救われるためになんの要求もなさいません。ただ神の前にある自分の罪に気が付き、イエス・キリストにある十字架の犠牲が私のためであったと感謝して受け取るならば、神の家族の交わりの中に迎え入れてくださるのです。私たちはただ、向きを変えて父の家に帰ること。ずっと神に愛されていたんだと気が付いて、神の家に入ることです。神は、恩知らずだった放蕩息子が家に帰って来てくれたことを心の底から喜んでくださる父親なのです。

 弟息子の生き方は、私たちの生き方のある部分に当てはまるのではないでしょうか。信仰を告白したと言っても、なおも御言葉に従うよりも自分の思いを優先させて、神を忘れて過ごそうとする力に引きずられていないでしょうか。放蕩息子の姿は、神の祝福は受け取ろうとするけれど、神を忘れて生きて行こうとする者たちの生き方を現わしています。確かにこのような人が神とともに生きることに帰ってくるのを、神様は手放しで喜んでくださるのです。

 

3.父とともにいながらも暗い心の兄

 さて、話はここで終わらないのです。ある人は、話がここで終わっていたならば憐れみ深い父なる神の愛でハッピーエンドなのにと言います。しかしこのたとえ話の結論、中心テーマはまさにこの続きにあるのです2532節とたっぷりの分量を使って、イエス様はこの兄息子の問題を明らかにしようとされたのです。

 兄息子は畑仕事をしていましたが、祝宴の音を聞き、その理由が帰ってきた弟のために父親が開いたのだと聞くとすっかりへそを曲げてしまうのでした。兄は怒って、家に入ろうともしなかったとあります。兄の姿の中心的な描写はこれです。「怒り」。父親からお金だけ奪って、自分勝手好き勝手に遊んだ後のこのこ帰ってきた弟への怒り。そしてそんな弟を気前よく赦し、家に迎え入れる父への怒り。いかがでしょうか。私たちはこの兄の怒りに共感するでしょうか。兄の怒りは正当な怒りでしょうか。

 兄息子の怒りの言葉を見ていくと、彼の心の中にあった問題、ある意味では弟息子よりももっと深刻な問題が浮かび上がってきます。彼は言いました29節「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。」兄の言葉からにじみ出ているのは、実は自分も本当は弟のように父親を捨てたかったのだという思いではないでしょうか。今日まであなたを捨てずに我慢して苦労して仕えてきた、それなのにどうして私への報酬は、弟よりも少ないのか!という主張です。この兄息子は、弟に負けず劣らず、父が与えてくれていた日々の愛と憐れみを理解できていなかったのでした。現在進行形の恩知らずだったのです。そういう意味では父のそばにいながら、兄息子は失われた息子だったのです。

 兄息子の心の暗闇は弟に対する30節の言葉でさらに噴出します。「それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰ってくると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」彼はもはや自分の弟のことを「息子」とまるで他人のように呼ぶのです。兄息子は、自分勝手な弟を家族として愛する思いを持っていませんでした。そして今や弟を喜んで迎え入れた父親に対してまで、「私はあなたの戒めを破ったことが一度もないのに!」と怒り散らして、父の思いも理解していなかったことを露呈したのでした。

 感謝なことに、この父親は弟だけでなく兄に対しても憐れみ深い父親でした。28節を見ると、怒りのあまり家に入ろうともしない兄息子のために、わざわざ祝宴を退席して、彼のためにやってくる父がいました。そしてさんざんな文句を聞かされた後で父は何といったでしょうか。31節「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」やぎいっぴくくれたことがないとへそを曲げた兄に、優しくへりくだって勘違いを諭すのでした。父とともに生きることは、父の持っている恵みのすべてを受けていることに気が付かないのか、と。こうして愛情と憐れみ豊かな父親は、弟息子の恩知らずにも、兄息子の恩知らずにも、忍耐強く憐れみ深く食い下がってくれるのでした。

 そして全体の結論が最後の言葉です「いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」父への感謝も、弟への愛も見失っていた兄息子へ、もう一度家族としての絆を再構築してくれないかと持ち掛ける、あくまで憐れみ深い父親の言葉なのでした。

 一連のたとえ話は、パリサイ人・律法学者たちが神の言葉を努力して守り行っている自分自身を誇りながら、実のところ神への愛も罪びとが救われることへの喜びも失っていることを明らかにしていました。感謝なことは、憐れみ深い父の愛は、放蕩息子だけでなく、恩知らずの冷淡な兄息子にも注がれているのです。この兄息子に欠けていたのは、神はみことばを守り行う者だけでなく、罪を悔い改めて立ち返るものをも喜ばれるという神の愛についての理解だったのです。兄もまた、神のたくさんの恵みに囲まれていながら、自己中心な生き方の中で不満を募らせていたその問題に向き合い、父の前で悔い改めへと導かれる必要がありました。

 

むすび.三つのポイント

 さて弟と兄の姿を見てきましたが、よく見てみると、どちらの姿も私たちの心の中に当てはまる部分があるのではないでしょうか。弟のように、自分の思いを優先して神の愛を忘れ、快楽や自由に溺れることがあります。一方で、兄のように、父の愛に囲まれながらも感謝や喜びを見失い、他者の回復や喜びを素直に喜べないことがあります。

 感謝なことは、この弟に対しても兄に対しても、父なる神は憐れみ深く出迎えてくれるということなのです。私たちの神様はこういわれます。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」この声は、悔い改めた弟にも、不満と怒りでいっぱいの兄にも、優しく響く神の呼び声なのです。

 このたとえから学ぶべきことを三つ、心に留めたいと思います。

⑴日々神様から受け取っている恵みに感謝して、神様とともに生きること。(兄弟共通の課題)

⑵神はひとが罪から立ち返ることを深く喜ばれること。(弟の受けた恵み)

⑶他者の回復や喜びを、自分のことのように喜ぶこと。(兄の課題)

私たち一人ひとりに注がれている神の愛を深く心に刻み、感謝して歩んでまいりましょう。


祈り

天のお父様。

今日も、あなたの深い愛と憐れみに取り囲まれていることを感謝します。私たちは時に、この弟のように自分の思いのままに生きて空しくなり、兄のように生きて感謝や喜びを忘れてしまいます。どうか、私たちの心をやわらかくほぐし、あなたの愛にこの心をお委ねして素直に応えることができるように導いてください。

私たちが日々の恵みに感謝し、罪から立ち返り、他者の喜びを共に喜べるものとして歩むことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。 


20251116日主日礼拝説教

ルカの福音書 151132

「憐れみ深い父と失われた二人の息子」

序.主役は弟息子ではなくて……誰?

1.放蕩した弟の悔い改め

2.帰ってきた弟息子を喜ぶ父

3.父とともにいながらも暗い心の兄

むすび.三つのポイント

⑴日々神様から受け取っている恵みに感謝して、神様とともに生きること。(兄弟共通の課題)

⑵神はひとが罪から立ち返ることを深く喜ばれること。(弟の受けた恵み)

⑶他者の回復や喜びを、自分のことのように喜ぶこと。(兄の課題)

 

Sermão de domingo, 16 de novembro de 2025

Lucas 15:11–32

“O pai misericordioso e os dois filhos perdidos”

Introdução: O protagonista não é o filho mais novo... mas quem?

O capítulo 15 de Lucas contém três parábolas. A ovelha perdida, a moeda perdida e, finalmente, a parábola de hoje sobre o filho pródigo. Todas as três parábolas foram contadas no mesmo contexto, dirigidas ao mesmo público. É fundamental compreender corretamente esse contexto.

Embora conhecida como a história do “filho pródigo”, o foco não é, na verdade, o irmão mais novo, mas o mais velho. Isso porque Jesus contou essa parábola aos fariseus e aos mestres da lei. O caráter do irmão mais velho reflete o problema em seus corações.

Por essa razão, o título do sermão de hoje não é “O Filho Pródigo”, mas “O Pai Misericordioso e os Dois Filhos Perdidos”. Somos como o irmão mais novo e também como o irmão mais velho. A partir dessa parábola, desejamos aprender como nosso Pai Deus tem misericórdia de nós, nos aceita e nos ama, independentemente dos problemas que enfrentamos.

1. O arrependimento do filho mais novo pródigo

O filho mais novo exigiu sua herança prematuramente. Isso constitui o que é conhecido como distribuição vitalícia da herança. A casa do pai era descrita como tendo numerosos servos, indicando grande riqueza. No entanto, ele buscou a liberdade de sair de casa em vez de continuar a vida sob o teto do pai. Tendo recebido uma quantia substancial, o filho mais novo desperdiçou sua recém-conquistada liberdade em prazeres e desejos.

 Aqui reside algo que muitas vezes reconhecemos em nós mesmos. O lar, a família, o cuidado com a mente e o corpo, a segurança, a confiança — acima de tudo, o profundo amor dos pais — tudo isso é dado como algo natural. No entanto, podemos levar essas coisas a sério. A bênção de uma vida diária estável muitas vezes só é reconhecida quando é tirada. É somente quando somos atingidos por uma doença, acidente ou grande desastre que às vezes percebemos que nossas vidas estavam protegidas e compreendemos seu valor.

A exigência do irmão mais novo de dividir a herança enquanto seu pai ainda vivia era também uma declaração de que ele desejava romper os laços com a família e viver como bem entendesse. Foi um ato de retribuir a bondade de seu pai com ingratidão. Assim, o irmão mais novo gastou seu dinheiro em prazeres até que ele se esgotou e, quando isso aconteceu, a fome se abateu, deixando-o sem um centavo e reduzido à mendicância.

Não somos nós também, enquanto cercados pelo amor, misericórdia e graça de Deus, propensos a buscar a liberdade egoísta, pensando que tal adesão rígida à palavra de Deus é desnecessária para nós? Essa natureza ingrata é inerente a todas as pessoas. Na verdade, não podemos conter essa natureza. De várias maneiras, alguns resistem a Deus concretamente, outros espiritualmente; eles desprezam Deus e retribuem Sua bondade com ingratidão. A diferença está apenas em termos recebido a graça de reconhecer isso ou vivermos nossos dias sem perceber.

Foi somente quando meu irmão se viu em uma situação em que não podia nem mesmo comer as alfarrobas dadas aos porcos que seus olhos se abriram para sua própria ingratidão para com seu pai. Versículo 16: “Ele teria ficado feliz em encher o estômago com as alfarrobas que os porcos comiam, mas ninguém lhe dava nada. Mas ele voltou a si e disse...” Esse foi o momento do seu chamado “arrependimento”. Isso é verdadeiramente a graça de Deus. Ele havia deixado a casa do pai em busca de liberdade. Ele havia esquecido o amor do pai, descartado as palavras do pai e desfrutado de dias despreocupados de prazer com os amigos, livre de ajudar e servir em casa. No entanto, foi somente depois de perder tudo que ele realmente percebeu o vazio subjacente àqueles dias. No entanto, é uma bênção que ele tenha percebido isso. Pois mesmo em seu estado de perda total, ele ainda possuía o pensamento arrependido de que o amor de seu pai e a casa de seu pai permaneciam.

Todos não têm uma experiência de “cair em si”? Até que esse momento chegue, todos seguem em frente, convencidos de que seu próprio pensamento está correto, perguntando-se o que há de errado em desfrutar da liberdade. E se ele tivesse conseguido sobreviver sem encontrar a grande fome? Ele poderia ter permanecido preso na miséria de não compreender o significado do amor de seu pai. Ele não reclamou que sua vida estava arruinada por causa dos amigos que o abandonaram ou da fome que o atingiu repentinamente. Em vez disso, ele se arrependeu sinceramente, percebendo que o problema estava em seu próprio pecado de rejeitar o cuidado de seu pai amoroso e viver egoisticamente. Ele se arrependeu de todo o coração, reconhecendo que havia pecado contra Deus e contra seu pai. Queremos agradecer a Deus, que concede tal graça aos nossos corações.

2. O pai se alegrando com o retorno do filho

Então, o pai avistou de longe o filho mais novo arrependido e correu ao seu encontro. Seria natural que ele gritasse com raiva: “Este filho ingrato voltou rastejando!” e o mandasse embora. Em vez disso, o pai o vestiu com a melhor roupa e começou a celebrar com o bezerro cevado. As palavras do pai foram estas: “Porque este meu filho estava morto e reviveu; estava perdido e foi encontrado”. O amor de Deus pela humanidade é exatamente assim. Nosso Pai Deus não exige nada de nós para a salvação. Se simplesmente reconhecermos nosso pecado diante de Deus e recebermos com gratidão o sacrifício de Jesus Cristo na cruz feito por nós, Ele nos acolherá na comunhão de Sua família. Tudo o que precisamos fazer é nos converter e voltar para a casa do Pai. Perceber que sempre fomos amados por Deus e entrar em Sua casa. Deus é o Pai que se alegra do fundo do coração quando o filho pródigo ingrato volta para casa.

O modo de vida do filho mais novo não reflete certos aspectos da nossa própria vida? Mesmo depois de professar a fé, não continuamos sendo puxados pela força que busca esquecer Deus, priorizando nossos próprios desejos em vez da obediência à Sua palavra? A imagem do filho pródigo revela o caminho daqueles que buscam receber a bênção de Deus, mas se esforçam para viver esquecendo-O. De fato, Deus se alegra de todo o coração quando tal pessoa volta a viver com Ele.


3. O irmão com o coração sombrio, embora com o pai

Agora, a história não termina aqui. Alguns podem dizer que, se a história terminasse aqui, seria um final feliz, mostrando o amor misericordioso do Pai. No entanto, a conclusão e o tema central desta parábola estão precisamente no que se segue. Usando uma parte substancial dos versículos 25-32, Jesus procurou esclarecer a questão deste filho mais velho.

O filho mais velho estava trabalhando no campo. Ao ouvir os sons da festa e saber que era para o seu irmão que havia retornado, ele ficou completamente descontente. Diz-se que ele estava tão zangado que se recusou até mesmo a entrar na casa. Esta é a descrição central do estado do filho mais velho: “raiva”. Raiva do irmão mais novo que tinha tirado dinheiro do pai, o desperdiçado em seus próprios prazeres egoístas e agora voltava sem ter sido convidado. E raiva do pai que generosamente perdoou tal irmão e o recebeu em casa. O que você acha? Nós simpatizamos com a raiva deste irmão mais velho? A raiva dele é justificada?

 Olhando para as palavras de raiva do filho mais velho, os problemas dentro de seu coração emergem — problemas que, em certo sentido, são ainda mais sérios do que os de seu irmão mais novo. Ele disse no versículo 29: “Olha, todos esses anos eu te servi fielmente e nunca desobedeci às tuas ordens. No entanto, tu nunca me deste nem mesmo um cabrito para que eu pudesse celebrar com meus amigos”. O que transparece nas palavras do filho mais velho é, na verdade, o sentimento de que ele também, no fundo, queria abandonar seu pai, assim como seu irmão. Sua reclamação é esta: eu suportei, trabalhei duro e te servi fielmente todos esses anos sem te abandonar, então por que minha recompensa é menor do que a do meu irmão? Esse filho mais velho, assim como seu irmão, não conseguiu compreender o amor e a misericórdia que seu pai lhe demonstrava diariamente. Ele era ingrato, mesmo estando ao lado do pai. Nesse sentido, embora estivesse fisicamente presente, o filho mais velho era o filho perdido.

 A escuridão interior do filho mais velho irrompe ainda mais no versículo 30 em relação ao seu irmão: “No entanto, quando esse seu filho volta, que esbanjou sua propriedade com prostitutas, você mata o bezerro cevado para ele!” Ele agora se refere ao seu próprio irmão como “esse seu filho”, como se ele fosse um estranho. O filho mais velho não nutria nenhum amor familiar pelo seu irmão egocêntrico. E agora, mesmo em relação ao pai que recebeu seu irmão com alegria, ele se enfureceu: “Eu nunca desobedeci às suas ordens!”, revelando que também não compreendia o coração do pai.

Felizmente, esse pai era misericordioso não apenas com o filho mais novo, mas também com o mais velho. O versículo 28 mostra o pai deixando deliberadamente a festa para sair ao encontro do filho mais velho, que estava tão zangado que se recusava até mesmo a entrar em casa. E depois de ouvir suas amargas reclamações, o que o pai disse? Versículo 31: “Filho, você está sempre comigo, e tudo o que tenho é seu. Mas tínhamos que celebrar e nos alegrar, porque este seu irmão estava morto e voltou a viver; estava perdido e foi encontrado”. Ele gentil e humildemente corrigiu o mal-entendido do filho mais velho, que estava de mau humor porque nunca tinha recebido nem mesmo uma cabra. Ele não percebe que viver com o pai significa receber todas as bênçãos que o pai possui? Assim, esse pai, rico em amor e compaixão, persiste com paciência e ternura tanto com o filho mais novo ingrato quanto com o filho mais velho ingrato.

 E as palavras finais resumem tudo: “Visto que ele estava perdido e foi encontrado, não é justo nos alegrarmos?” Estas são as palavras de um pai, profundamente compassivo até o fim, estendendo a mão ao filho mais velho que havia perdido tanto a gratidão para com o pai quanto o amor pelo irmão, pedindo-lhe que reconstruísse os laços familiares mais uma vez.

 Essa parábola revelou como os fariseus e os escribas, embora se gabassem de sua diligente observância da palavra de Deus, na verdade haviam perdido tanto o amor por Deus quanto a alegria pela salvação dos pecadores. Felizmente, o amor compassivo do Pai é derramado não apenas sobre o filho pródigo, mas também sobre o filho mais velho ingrato e frio. O que faltava ao filho mais velho era a compreensão do amor de Deusque Deus se deleita não apenas naqueles que guardam Sua palavra, mas também naqueles que se arrependem e retornam. O filho mais velho também, embora cercado pela graça abundante de Deus, precisava enfrentar o problema de sua insatisfação gerada por uma vida egocêntrica e ser levado ao arrependimento diante de seu pai.


Conclusão: Três Pontos

Agora, tendo considerado o filho mais novo e o mais velho, se olharmos atentamente, não encontraremos aspectos de ambos refletidos em nossos próprios corações? Como o filho mais novo, podemos priorizar nossos próprios desejos, esquecendo o amor de Deus, e nos tornar imersos no prazer e na liberdade. Por outro lado, como o filho mais velho, podemos estar rodeados pelo amor do Pai, mas perder de vista a gratidão e a alegria, incapazes de nos regozijarmos sinceramente com a restauração ou felicidade do outro.

 Felizmente, tanto para o irmão mais novo quanto para o irmão mais velho, o Pai Deus os acolhe com profunda compaixão. Nosso Deus declara: “Não devemos nos alegrar e celebrar, pois ele estava morto e voltou à vida; estava perdido e foi encontrado?” Essa voz é o chamado gentil de Deus, ressoando tanto para o irmão mais novo arrependido quanto para o irmão mais velho cheio de descontentamento e raiva.

 A partir desta parábola, desejo manter três lições em mente.

⑴ Viver diariamente com Deus, dando graças pela graça que recebemos Dele. (Uma tarefa comum a ambos os irmãos)

⑵ Que Deus se alegra profundamente quando as pessoas se afastam do pecado. (A graça recebida pelo irmão mais novo)

⑶ Alegrar-se com a restauração e a alegria do outro como se fossem nossas. (A tarefa do irmão mais velho)

Vamos gravar profundamente em nossos corações o amor de Deus derramado sobre cada um de nós e seguir em frente com gratidão.



Sermão de domingo, 16 de novembro de 2025

Lucas 15:1132

O pai misericordioso e seus dois filhos perdidos

Introdução: O protagonista não é o filho mais novo... mas quem?

1. O arrependimento do filho mais novo

2. O pai se alegrando com o retorno do filho

3. O filho mais velho, de coração sombrio, embora more com o pai

Conclusão. Três pontos-chave

⑴ Viva diariamente com Deus, dando graças pela graça recebida Dele. (Uma tarefa comum a ambos os irmãos)

⑵ Deus se alegra profundamente quando as pessoas se afastam do pecado. (A graça recebida pelo filho mais novo)

⑶ Alegrem-se com a restauração e a alegria dos outros como se fossem suas. (A tarefa do filho mais velho)