2025年11月30日待降節主日礼拝説教 ローマ5:1~2 「信仰義認がもたらす三つの恵み」

20251130日待降節主日礼拝説教

ローマ512

「信仰義認がもたらす三つの恵み」

序.キリストによる信仰義認の恵み

 アドベント第一週を迎えるこの日曜日に、私たちはローマ書5章を読み始めます。このことは大変ふさわしいことだと思います。なぜなら、イエス・キリストがお生まれになることを待ち望むこの時、私たちは、そのキリストが何をするために生まれてきてくださったのかを読もうとしているからです。

これまでローマ書14章で、パウロは人類の根本的な課題を解き明かしました。すべての人は神の前に義を獲得できず、罪という病は私たちの存在のあらゆる領域に浸透しています。それゆえ、すべての人は、ただ神が用意してくださったイエス・キリストという贖いを自分のものとして受け取る信仰によってのみ、義と認めていただけるのです。これが「信仰義認」です。

しかし、この目に見えない信仰義認という恵みを、私たちはなんと軽く受け止めてしあう傾向があるでしょう。例えば誰かに嫌な言葉を言われたら、この恵みなどあっという間に頭から消え去ってはいないでしょうか。目に見える心配や不安、人にされたあのことこのことを、私たちは重く重く受け止めてしまいます。もし神によって与えられた信仰義認の恵みがどれほど重大なものであったか思い起こせるなら、日々重大だと思い悩むものがどれほど小さなものに見えることでしょうか。

パウロはローマ書5章という新しい区分を始めるにあたって、この信仰義認という恵みの中身がどれほど重大な祝福で満たされているかを解き明かしてくれます。このアドベントにふさわしく、キリストのもたらしてくれた義認の恵みの豊かさを、今日、より深く味わいたいと思います

 

1.神との平和(和解)を持つ

 パウロは1節でこう切り出します。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので…」。パウロはこの書き出しからなんと豊かで深遠な神の恵みを描きだしたことだろうと味わいます。クリスチャン生活の秘訣はまさに、パウロのように「真理を自分の人生にどのように適用していくか」にかかっているのです。

信仰義認の恵みは、ただ「ありがたい」と言うだけではなく、それ以上に、私たち個人の人格を形作る出来事として人生の体験の中に深く組み込まれていなければなりません。そうでなければ、神の恵みよりも、目に見える物事に心が奪われて平安を見失ってしまいます。

 パウロは、信仰義認は私たちに三つのことを行っていると説明します。(1.神との平和(和解)を持つ、2.キリストあるすべての祝福を受け取る「恵みの立場」に立つ、3.将来の最終的な栄光の展望)

 一つ目は神との平和と持っているということです。パウロは何よりも初めに、これこそ義認がもたらす恵みとして提示しました。神との間にある平和。これこそ罪びとが与えられるはずのなかった何よりも高価な恵みであるからです。神の前にある自分の罪深さを本当に自覚したものにとって、何よりもありがたいのはこの神との間にある平和です。神がもはや私を私の罪深さによって裁かず、キリストにある正しさを通して愛してくれる。評価に対する恐れも、裁きを怖がる必要もありません。私たちが神を恐れるとしても、それは裁きへの恐怖ではなく偉大な神様の前にへりくだるものとしての畏怖であって、それは愛されている確信を土台としています。キリストご自身のいのちが、神と私たちの間にある平和を作っているので、それはもはや私たちのどんな過ちや罪によっても破壊されることはないのです。

 人間関係ではそうはいきません。今が平和でもそれがいつ険悪になるかわかりません。人間の心の狭さ、自己中心性は根深いからです。自分がやっていることの正当性を信じ込んで、相手の罪をことさら重大なものとして責める癖があります。赦されても赦さず、自分の苦労は大きく考え、ひとから受けた恩は当たり前だと感じます。神様の赦しや神様の与える平和が、この人間のような気まぐれなものであったら、私たちは心が休まりません。しかし、キリストがもたらしてくれた神との平和は、一度きりで絶対で永遠なのです。私たちは信仰によって義と認められたので、この神との平和を持っているのです。キリストの代価のゆえに、父なる神は私たちを罪に応じて裁くことを絶対になさらず、我が子として愛してくださるのです。天のお父様と呼ぶときに、神との間に平和があり、愛されていることを確信して祈ってよいという恵み。このことを第一に覚えたいと思います。

 

2.キリストあるすべての祝福を受け取る「恵みの立場」に立つ

 続く二番目の恵みは、キリストにある全ての祝福を受け取る「恵みの立場」に置かれることです。パウロがこの恵みの立場に置かれることを二番目にして、第一番目には神との平和を掲げました。これは誠にふさわしいことです。なぜなら、神との平和を確立していない人のところに、真実な意味での神の祝福と恵みは存在しないからです。

しかしどうでしょうか。それなのに、時として私たちは、キリストにある祝福を受け取ることの方が、神との平和そのものよりも魅力的に感じたり、考えたり、あるいはその様に人に語ってしまうことがあるのではないでしょうか。

でも神との平和を抜きにした祝福というものを考えてみてください。「神の前に罪を悔い改めるなんて、そんな暗い話を考える必要はありません。ただ神に愛されていると信じたらいいのです。そうすれば、心に平安が訪れるのですよ。素晴らしいじゃないですか!」実際のところ、このような教えは、全く福音でもなんでもありません。

私たちが、ただこのような苦しみから逃れる一つの手段としてキリストを信じると口にしているのであるなら、キリストはそのような道具ではありません。どういうわけか、私たちはこの点でおかしな誤解をすることがあります。神の祝福は欲しいが、神との間にある平和にはそれほどの関心を払わない。

普通の人間関係で考えてみてください。あなたは、ある人から高価なプレゼントが欲しいと願っています。しかし、あなたはその人と別に親しくなりたいとも、関係を深めたいとも思っていないのです。ただプレゼントだけが欲しいと願っている。そんな関係には愛も信頼も平和も絆も何もありません。ただ利用しているだけの利己的な考えがあるだけです。そのような考え方でキリストに近づき、自分の罪に悲しむこともなく、神の赦しが必要だと悟ることもなく、ただ祝福をくださいと神に頼んでも、そこに福音もなければ救いもありません。

私たちが常に心に留めるべきことは、イエス・キリストの十字架の贖いと、信仰による義認以外に、私たちが神と和解する方法は存在していないということなのです。もしキリストにある祝福と恵みを受け取りたいと願うなら、その人は何よりもまず、神の御前に愛されて出て行くことのできる存在になる必要があるのです。神に祝福されたいなら、まずキリストにあって神との平和を持たなければ、ならないからです。

それゆえ、私たちは何よりもまず、このキリストにあって神との平和を一度きり、永遠に持つ者とされたことを感謝したいのです。この順序を逆転させてはいけません。神との平和があるので、そのほかのあらゆる祝福もキリストにあって受け取るものとされるのです。

信仰によって義と認められている第一の結果は、神との平和を持っていることです。そして神との平和を持っているひとを、神はキリストにあってあらゆる祝福を受け取る「恵みの立場」においてくださったのです。これは神の御業です。私たちが自分の力で恵みをつかむのではなく、キリストにある信仰義認によって神が私たちを恵みの中に立たせてくださるのです。

ローマ83739節は、神が私たちをキリストの恵みの中に入れた恵みを明確に教えています。信仰による義を受け取った人は「死も、いのちも……どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは出来ません。」と。私たちは絶対に、キリストにある神の愛から引き離され得ないのです。あなたがキリストにある恵みの中に入ったのなら、あなたは決してキリストの外にはおらず、そして二度と外に出ることはないのです。このことをありがたく、しっかりと確信しましょう。

 

3.困難の中の喜び:将来の最終的な栄光の展望

 そして最後三つ目の「将来の最終的な栄光の展望を喜べるようにすること。」これに関しては、続きの35節とのかかわりがあるので、今日の説教では少し触れるだけにしておきたいと思います。

一つだけ確かなこととしてお伝えするのは、私たちがキリストにあって恵みの立場の中に立つということは、決して何の苦しみにも合わないとか、悲しい気持ちにならないなどということではないということです。むしろ、クリスチャンには、自分の罪によって引き起こす悲惨さだけでなく、キリストにある苦しみ・試練もあるのです。

しかしそのようなあらゆる種類の困難や悲しみのただなかにあって、クリスチャンは「神の栄光にあずかる望みを喜ぶ」ことができるのです。これはイエス・キリストが今、天において持っておられる聖さと愛とあらゆるすばらしさが、必ず私たちのものとなり、私たちもキリストの栄光を現わす者に変えられるということです。続く箇所で分かるように、苦難の中で私たちの人格が練り上げられ、その道を通って初めて、神の栄光に近づく希望をはっきりと理解し、喜びを抱くことができるようになるからです。

 

結び.キリストが生まれた理由:神との平和、恵みの立場、最終的な神の栄光の展望

 以上、キリストを救い主と信じる、信仰による義認が、どのような恵みを私たちにもたらすのかを三つの点で確認してきました。

信仰義認がもたらす者。それは、第一にキリストにある揺らがない神との平和です。そして、キリストの恵みの中に立ち続ける祝福された人生を確実にし、さらに、あらゆる困難の中でも神の栄光を目指す希望を喜べるようにしてくれました。

確かに、今なお私たち一人一人の人生には課題があり困難があるでしょう。しかし、その一つ一つの課題の中にも、あふれるほどの恵みを用意してくださっています。この神への信頼を新たにしたいのです。

 アドベントの第一週。私たちは思いめぐらします。イエス・キリストは、私たちをこのような永遠の恵みのなかに導き入れるため、あの小さな飼い葉おけに生まれてくださったのです。この不思議な神の愛と恵みを心に刻み、感謝をもってこの待降節を過ごしてまいりましょう。

 

祈り

恵み深い天のお父様。アドベントの初めに、「信仰義認」の恵みを再確認させてくださり心から感謝いたします。御子イエス・キリストの贖いによって、私たちはあなたとの永遠の平和にあずかり、揺るがない恵みの立場に立たせていただきました。また、困難のただ中にあっても、神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができます。

 どうか、この測り知れない恵みを私たちが日々忘れることのないよう、私たちの心を強めてください。

救い主の誕生を待ち望むこの時、あなたの愛の深さを思い巡らしつつ、感謝と希望をもって歩み続けることができますように。主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

 

20251130日待降節主日礼拝説教

ローマ512

「信仰義認がもたらす三つの恵み」

序.キリストによる信仰義認の恵み

1.神との平和(和解)を持つ

2.キリストあるすべての祝福を受け取る「恵みの立場」に立つ

3.困難の中の喜び:将来の最終的な栄光の展望

結び.キリストが生まれた理由:私たちに信仰義認の恵みをもたらすため


Sermão para o culto dominical do Advento, 30 de novembro de 2025

Romanos 5:1–2

“As três graças concedidas pela justificação pela fé”

Introdução: A graça da justificação pela fé em Cristo

Neste domingo, ao entrarmos na primeira semana do Advento, começamos a ler o capítulo 5 de Romanos. Isso parece muito apropriado. Pois, neste momento em que aguardamos o nascimento de Jesus Cristo, estamos prestes a ler por que Cristo veio ao mundo.

Ao longo dos capítulos 1 a 4 de Romanos, Paulo revelou a situação fundamental da humanidade. Todas as pessoas falham em alcançar a justiça diante de Deus; a doença do pecado permeia todas as esferas de nossa existência. Portanto, todas as pessoas só podem ser declaradas justas pela fé — recebendo como sua a redenção preparada por Deus em Jesus Cristo. Isso é “justificação pela fé”.

No entanto, como tendemos a receber com leveza essa graça invisível da justificação pela fé! Por exemplo, quando alguém fala duramente conosco, essa graça não desaparece de nossas mentes em um instante? Nós nos preocupamos profundamente com ansiedades e preocupações visíveis, com isso ou aquilo que os outros nos fazem. Se pudéssemos nos lembrar de quão profundamente significativa é a graça da justificação pela fé, dada por Deus, quão pequenas pareceriam as coisas com as quais nos preocupamos diariamente!

Ao iniciar uma nova seção em Romanos, capítulo 5, Paulo revela o quão profundamente abençoada é a essência dessa graça da justificação pela fé. Apropriado para este tempo do Advento, vamos hoje saborear mais profundamente a riqueza da graça da justificação trazida por Cristo.


1. Possuir paz com Deus (reconciliação)

   Paulo começa o versículo 1 assim: “Portanto, uma vez que fomos justificados pela fé...” Como Paulo descreve de forma rica e profunda a graça de Deus nesta frase inicial! O segredo da vida cristã reside precisamente em aplicar a verdade às nossas próprias vidas, como Paulo fez.

A graça da justificação pela fé não deve ser apenas reconhecida com gratidão; ela deve estar profundamente entrelaçada em nossas experiências de vida como um evento que molda nosso próprio caráter. Caso contrário, nossos corações ficam preocupados com coisas visíveis em vez da graça de Deus, e perdemos nossa paz.

Paulo explica que a justificação pela fé realiza três coisas para nós: (1) possuir paz (reconciliação) com Deus, (2) permanecer na “posição de graça” para receber todas as bênçãos em Cristo e (3) a perspectiva da glória futura e definitiva.

A primeira é possuir paz com Deus. Paulo apresentou isso acima de tudo como a graça trazida pela justificação. Paz com Deus. Pois esta é a graça mais preciosa, que os pecadores nunca deveriam ter recebido. Para aqueles que realmente percebem sua pecaminosidade diante de Deus, essa paz com Deus é a coisa mais preciosa de todas. Que Deus não me julga mais pela minha pecaminosidade, mas me ama através da justiça encontrada em Cristo. Não há mais necessidade de temer avaliação ou julgar com medo. Mesmo que temamos a Deus, não é um medo do julgamento, mas uma reverência nascida da humildade diante do grande Deus, fundamentada na certeza de ser amado. A própria vida de Cristo cria a paz entre Deus e nós, e ela não pode mais ser destruída por nenhum dos nossos erros ou pecados.

Nas relações humanas, não é tão simples assim. Mesmo que haja paz agora, nunca se sabe quando ela pode azedar. Os corações humanos são estreitos e egocêntricos até a medula. Habitualmente, acreditamos na retidão de nossas próprias ações, enquanto exageramos a gravidade das falhas dos outros. Podemos ser perdoados, mas continuar sem perdoar, ampliando nossas próprias dificuldades e considerando a bondade dos outros como algo natural. Se o perdão de Deus ou a paz que Ele concede fossem tão caprichosos quanto a natureza humana, nossos corações não encontrariam descanso. No entanto, a paz com Deus trazida por Cristo é absoluta, eterna e concedida de uma vez por todas. Possuímos essa paz com Deus porque fomos justificados pela fé. Por causa do sacrifício de Cristo, o Pai se recusa absolutamente a nos julgar de acordo com nossos pecados e, em vez disso, nos ama como Seus próprios filhos. A graça que nos permite orar com confiança, sabendo que há paz com Deus e que somos amados, quando O chamamos de nosso Pai Celestial. É isso que desejo lembrar acima de tudo.


2. Estar na “posição de graça” para receber todas as bênçãos em Cristo

A segunda graça que se segue é estar na “posição de graça” para receber todas as bênçãos em Cristo. Paulo colocou essa posição de graça em segundo lugar, priorizando a paz com Deus em primeiro lugar. Isso é totalmente adequado. Pois onde a paz com Deus não está estabelecida, a verdadeira bênção e graça divinas não podem existir.

No entanto, quantas vezes nos pegamos sentindo, pensando ou até mesmo dizendo aos outros que receber bênçãos em Cristo parece mais atraente do que a própria paz com Deus?

Mas considere as bênçãos separadas da paz com Deus. “Por que insistir em assuntos sombrios como o arrependimento dos pecados diante de Deus? Basta acreditar que você é amado por Deus. Então, a paz virá ao seu coração. Não é maravilhoso? Na verdade, tal ensinamento não é nem evangelho nem nada.

Se professamos acreditar em Cristo meramente como um meio de escapar de tal sofrimento, então Cristo não é tal ferramenta. De alguma forma, parecemos ter um equívoco peculiar sobre esse ponto. Desejamos as bênçãos de Deus, mas prestamos pouca atenção à paz que temos com Deus.

Considere as relações humanas comuns. Suponha que você deseje um presente caro de alguém. No entanto, você não tem desejo de se aproximar dessa pessoa ou aprofundar seu relacionamento. Você simplesmente deseja apenas o presente. Tal relacionamento não contém amor, confiança, paz ou vínculo algum. É meramente exploração egoísta. Aproximar-se de Cristo com tal mentalidade, sem tristeza pelos próprios pecados ou reconhecimento da necessidade do perdão de Deus, apenas pedindo bênçãos a Deus, não contém nem o evangelho nem a salvação.

O que devemos sempre ter em mente é que, além da expiação de Jesus Cristo na cruz e da justificação pela fé, não há outra maneira de nos reconciliarmos com Deus. Se alguém deseja receber as bênçãos e a graça encontradas em Cristo, deve, antes de tudo, tornar-se alguém que pode se apresentar diante de Deus como alguém amado. Pois, se alguém deseja ser abençoado por Deus, deve primeiro ter paz com Deus por meio de Cristo.

Portanto, acima de tudo, queremos dar graças por termos recebido, de uma vez por todas, a paz eterna com Deus neste Cristo. Essa ordem não deve ser invertida. Por termos paz com Deus, somos capacitados a receber todas as outras bênçãos em Cristo.

O primeiro resultado de ser justificado pela fé é ter paz com Deus. E Deus colocou aqueles que têm paz com Ele na “posição de graça” para receber todas as bênçãos em Cristo. Esta é a obra de Deus. Não é que nós alcançamos a graça por nossa própria força, mas que Deus nos coloca dentro da graça por meio da justificação pela fé em Cristo.

Romanos 8:37-39 ensina claramente a graça pela qual Deus nos colocou no favor de Cristo. Aqueles que receberam a justiça pela fé têm a certeza: “Nem a morte, nem a vida... nem qualquer coisa criada pode nos separar do amor de Deus em Cristo Jesus, nosso Senhor”. Nunca podemos ser separados do amor de Deus em Cristo. Se você entrou na graça que está em Cristo, você nunca estará fora de Cristo e nunca será expulso novamente. Vamos nos apegar com gratidão e firmeza a essa certeza.


3. Alegria em meio às provações: a perspectiva da glória futura e definitiva

E, finalmente, o terceiro ponto: “para nos capacitar a nos alegrarmos com a perspectiva da glória futura e definitiva”. Como isso se relaciona com os versículos 3-5 subsequentes, vou apenas tocá-lo brevemente no sermão de hoje.

Uma coisa que posso afirmar com certeza é que estar na posição de graça de Cristo não significa que somos poupados de todo sofrimento ou que nunca experimentamos tristeza. Pelo contrário, os cristãos enfrentam não apenas a miséria causada por seus próprios pecados, mas também sofrimentos e provações em Cristo.

No entanto, mesmo em meio a todo tipo de dificuldade e tristeza, os cristãos podem se alegrar na esperança de compartilhar da glória de Deus. Isso significa que a santidade, o amor e toda a excelência que Jesus Cristo agora possui no céu certamente se tornarão nossos, e nós também seremos transformados em pessoas que manifestam a glória de Cristo. Como a passagem a seguir deixa claro, é através do sofrimento que nosso caráter é refinado, e somente por esse caminho podemos compreender claramente e abraçar a esperança de nos aproximarmos da glória de Deus.


Conclusão: A razão pela qual Cristo nasceu: paz com Deus, uma posição de graça e a perspectiva final da glória de Deus

Assim, examinamos, em três pontos, quais bênçãos a justificação pela fé em Cristo como Salvador nos traz.

O que a justificação pela fé traz. Em primeiro lugar, é uma paz inabalável com Deus em Cristo. Em segundo lugar, ela nos assegura uma vida abençoada, permanecendo continuamente na graça de Cristo. Em terceiro lugar, ela nos permite regozijar-nos na esperança de buscar a glória de Deus, mesmo em meio a todas as dificuldades.

Certamente, cada uma de nossas vidas ainda enfrenta desafios e dificuldades. No entanto, dentro de cada um desses desafios, Deus preparou uma graça transbordante. Desejamos renovar essa confiança em Deus.

 Primeira semana do Advento. Refletimos. Jesus Cristo nasceu naquela humilde manjedoura para nos conduzir a essa graça eterna. Gravemos esse maravilhoso amor e graça de Deus em nossos corações e passemos este tempo do Advento com gratidão.


Oração

Gracioso Pai Celestial. No início do Advento, agradecemos-Te de coração por nos permitires reafirmar a graça da justificação pela fé. Através da redenção do Teu Filho, Jesus Cristo, partilhamos a paz eterna Contigo e permanecemos numa posição inabalável de graça. Além disso, mesmo em meio às dificuldades, podemos regozijar-nos com a esperança de partilhar a glória de Deus.

 Fortaleça nossos corações, oramos, para que nunca nos esqueçamos dessa graça imensurável.

Nesta época de espera pelo nascimento de nosso Salvador, que possamos continuar nossa jornada com gratidão e esperança, meditando sobre a profundidade do Teu amor. Oramos isso em nome de nosso Senhor Jesus Cristo. Amém.


Sermão para o Domingo do Advento, 30 de novembro de 2025

Romanos 5:1-2

“As três graças trazidas pela justificação pela fé”

Introdução: A graça da justificação pela fé através de Cristo

1. Possuir paz (reconciliação) com Deus

2. Permanecer na “posição de graça” para receber todas as bênçãos em Cristo

3. Alegria na adversidade: a perspectiva da glória futura e definitiva

Conclusão: A razão pela qual Cristo nasceu: para nos trazer a graça da justificação pela fé