2026年1月4日主日礼拝説教 ヨハネの手紙第一4:7~10 「イエス・キリストの十字架:神の愛の源であり証拠」
2026年1月4日主日礼拝説教
ヨハネの手紙第一4:7~10
「イエス・キリストの十字架:神の愛の源であり愛の証拠」
序.確かに愛すること・愛されることが必要
新しい年。その最初の主日礼拝に、これからの一年を支える変わらない確かなものに目を向けたいと思います。それは私たちに注がれている神の愛です。
私たちは日々「愛」という言葉を耳にします。映画、ドラマ、小説、あらゆる物語の中心は愛を扱っています。親子の愛、夫婦の愛、男女の愛、友情としての愛、動物や植物への愛、弱い者への愛、強い者への愛。愛が人生の輝きの重要な一つであるというのはだれしも共感するところではないでしょうか。
しかし私たちの経験する愛は時に脆く、条件付きで、相手の反応次第で冷めてしまうものです。「愛する」というのは多くの場合一時的な「好き」という感情に過ぎないことが明らかになります。変わらない愛に憧れながら、愛に傷つき、躓きます。愛されたい、愛せる人になりたいと手を伸ばしながら、満足に愛されず、また愛することもできないという現状に直面します。
今日読んだ御言葉は、そのような私たちの揺れ動く「愛」を全く別の次元へと招いています。ヨハネは、私たちが愛を自分の内側から絞り出そうとするのではなく、神という愛の源に見出すようにと招いています。
1.愛は神から出ている(7-8節)
・神は愛だからです
7節「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。」あまりにストレートな、明るすぎる言葉にも感じます。それが出来たら素晴らしい。でもそれが出来ないから大変なんだとも感じます。
でもヨハネはその生き方の道筋をすぐに提示します。「愛は神から出ているのです」と。出ているというのは、この世界をお造りになった神様の御人格は愛なので、その行動や言葉や計画あらゆるものに愛が伴っているということです。ただここでひとつ注目したいのは、ヨハネは「神から愛が出ている」すなわち神を知ることで愛を知ると言っているのです。逆ではありません。神と出会わなければ、その人はまだ愛を知っていません。8節の後半でも「神は愛だからです」と言っています。私たちが勝手に思い描く「愛」のイメージが神なのではなく、神ご自身の性質が愛なのです。
・神抜きでの「愛」を偶像にしてしまう間違い
多くの人は、人生においてもっとも価値のあるものは愛し合うことだと考えます。それ自体は間違いではありません。しかし神と切り離されたまま追い求める愛には必ず罪の影が入り込みます。
私たちの自己中心性という罪は「愛したい」、「愛されたい」という願いの中にまでも入り込みます。愛したいと願っているはずなのにいつのまにか「これだけ愛しているのだから、わかってほしい」「応えてくれないなら愛せない」という要求に変わってしまうのです。
このように、神抜きの愛はいつのまにか人を縛り、失望を生みます。一時的には上手くいったように見えても、真の意味で人を生かす愛にはなりません。
それゆえに聖書は神から愛が出ていると教えるのです。私たちが思い描く「愛」が神なのではなく、神ご自身が愛なのです。神のうちにこそ、変わらず、与え続け、相手を生かす愛があります。
・神を知る者には愛がある
神のご性質の中心が愛です。人間のように好きだったり嫌いだったりすることがありません。神にとっての愛は時々示す「態度」ではなく神の本質そのものです。神が光であり、聖であるのと同じように、神は愛そのものです。これは神抜きの愛は偽りの愛であり、神のうちに愛があるということです。
2025年の待降節はローマ5:1~5までの非常に重要な福音の真理を見つめてきました。信仰義認を受け取ったものの希望は、御霊によって神の愛が注がれていることにあると確認してきました。神を知るとは、神に愛されていることが分かるようになるということです。
それゆえにヨハネは8節の前半で厳しい言葉も投げかけています。「愛のない者は神を知りません」。なぜなら神の愛の性質に触れた人は必ずその影響を受けるからです。全地全能の神様は、あの放蕩息子の父親のような、忍耐強く憐れみ深い愛に満ちたお父さんなのです。私たちはあの兄弟のように恩知らずなところが残っていますが、それでも少しずつ少しずつ苦難を経験しながら愛を知るものへ、愛する者へと変えられていく希望があるのです。
2.神に愛されている確かな証拠(9節)
では「神は愛だ」と言われ「愛があるものは神を知っている。愛のない者は神を知らない」と言われて、それでどうしたら目に見えない神に「愛されている」という確信を持つことができるのでしょうか。感謝なことにヨハネは「神は愛だ」という抽象的な哲学を語っているのではありません。目を閉じたら神の愛が感じられるでしょうという珍妙な神秘体験を進めるのでもありません。
9節で彼は「神の愛は、わたしたちの内にこのように示されました」と、具体的な歴史的事実を指し示します。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」
愛の伝え方には様々な方法がありますが、神は私たちの魂の根本にある必要を満たすためにイエス・キリストのいのちという犠牲の贈り物をくださったのです。最も大切な神のひとり子を、この罪に満ちた「世」に、身代わりとするために送り込まれたのです。
神がキリストを世に遣わした目的は、私たちが「このキリストによって愛を知って生きるようになる」ためです。キリストにある神の愛を私たちが必要としているのは、私たちは自力のままでは罪の悲惨と滅びへと向かってしまうからです。確かに私たちは人生に愛されることを必要としていて、また愛することができるという喜びを必要としています。しかしそれは神抜きの自己中心な歪んだ愛ではなく、神から出ている愛によって変えられた愛になる必要があるのです。そこには自分へのいい意味での諦めがあり、キリストにある自信があり、気楽さと忍耐強さがあり、真剣さとほどほどのバランスがあり、聖霊によって成長していく希望の伴った愛があります。たしかに、すべての人はそのような成長の伴った愛を必要としています。
3.神の愛は無条件であり、完全な赦し(10節)
⑴無条件に、神はあなたを愛している
神の愛は、大切なひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして地上に送ってくださったことに十分すぎるほどに現れています。10節をもう一度読みます。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」宥めのささげ物とは、本来私たちが受けるべき裁きをキリストが代わりに引き受けてくださったという意味です。ここに福音の要素が凝縮されています。
第一に、私たちが神を信じるより先に神の側から愛が注がれているということです。私たちが神に愛されるために差し出せるものはなにもないし、なにも必要ないのです。神が愛を示し、その愛を受け取る信仰を与え、心を開かせて聖霊を住まわせてくださいました。愛の主導権は常に神にあります。私たちが救われた根拠は、私たちのなかの何かによらず、ただ神が私たちを愛してくださったからなのです。無条件に愛されていて、ただこの存在を喜ばれている神の子どもとされたのです。
⑵罪の赦しは完全で永遠
第二に、イエス・キリストは「私たちの罪のための宥めのささげ物」になってくださったということです。神は愛ですが同時に聖なる方でもあります。私たちが聖い存在なら、聖なる神から愛されるのはふさわしいのですが、問題は私たちが罪の中に生まれ、罪の中に生きているということでした。聖なる神様は罪を見過ごすことは出来ません。罪を正しいとすることは出来ないし、私たちの罪は神の正義の怒り引き起こしてしまうのです。しかし神は、本来私たちが受けるべき神の裁きを、このイエス・キリストの上に注ぐことで私たちを赦してくださったのです。十字架こそ神の「正義」と「愛」が交わった場所なのです。私たちはこの十字架を見上げるとき、私の罪は過去も現在も未来もすべてキリストのいのちによって償われていると安心し、確信してよいのです。また神は、このキリストによって私たちを義と認め、神の子どもとして愛し、必ず栄光の姿に変えてくださると確信できるのです。
天のお父さんの無条件の愛。イエス・キリストの贖いによる罪の赦しの完全さ。この二つを何度も心に思いめぐらすことが私たちの人格を根底から作り替えていきます。愛されるはずのない罪の溢れる私たちが、ただただ愛されている。しかも罪は償われている。しかも聖霊が私たちの中に住んでいて、この愛に応答する力を注いでくださるのです。
結び:愛されている者として愛する
こうしてもう一度、愛し合うことへの招きに戻ることができます。7節「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」またヨハネは11節でも繰り返します。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」。これは神に愛されていることがわからないままに、なんとか愛を絞り出さなくては神に愛されないということでは決してありません。
まず最初に神にどれほど深く確実に愛されているのかを知ることです。神の愛を知るとは単に知識を得ることではありません。イエス・キリストのいのちという大きな犠牲を払って確かに私は愛されていると理解することです
もしあなたが「自分には価値がない」と思うなら、十字架を見てください。私たちの努力や正しさや成果ではなく、ただ神はあなたを愛し救うために御子の命という代価を払ってくださったのです。私たしたちはただ神様に選ばれ、愛され、買い取られて神の子どもとされたのです。この十字架から流れる神の愛と罪の赦しが私たちの心に注がれるとき、私たちは世界の見方、自己認識、他者との関わり方を新しくとらえ直すことができるようになるのです。
もし「人を愛せない」と苦しむなら、自分の中の愛を振り絞るのをやめ、神の愛という泉にもういちど目を戻しましょう。私たちは神に愛されたので、神を愛します。神の愛を知ったので、その愛で人を愛そうとします。私たちの愛は間違いを犯し、枯渇することがあります。自分の正しさを押し付けて、愛するつもりが争いを引き起こすことさえあります。だから何度もキリストの十字架の前に心の目を向ける必要があります。そこで私たちは自分の足りなさ・弱さに向き合って謙遜になることができます。また要求するのではなく、ただ心に決めた方法で忍耐強く愛することができます。
神は私たちが愛されるに値しない時に愛してくれました。そのことが分かればわかるほど私たちもまた、愛しにくい隣人を愛する力を神から受けとるのです。この確かで尽きることのない神の愛という源に何度も立ち返りつつ、神と人を愛する歩みへと踏み出していきましょう。
祈り
天のお父さん。新しい年の最初の主日に、私たちをここに集め、あなたの御言葉に触れさせてくださったことを感謝します。
私たちは日々、愛されること、愛することを求めながらも、その不完全さに苦しむ者です。しかし、イエス・キリストの十字架に現されたあなたの愛によって、私たちは確かに愛されていることを知ります。この愛の泉に心を向け、あなたの愛によって互いに愛し合う者としてください。この一年も、あなたの愛に守られ、導かれ、神の御心に生きる歩みを歩むことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
2026年1月4日主日礼拝説教
ヨハネの手紙第一4:7~10
「イエス・キリスト:神の愛の源であり愛の証拠」
序.確かに愛すること・愛されることが必要
1.愛は神から出ている(7-8節)
・神は愛だからです
・神抜きでの「愛」を偶像にしてしまう問題
・神を知る者には愛がある
2.神に愛されている確かな証拠(9節)
3.神の愛は無条件であり、完全な赦し(10節)
⑴無条件に、神はあなたを愛している
⑵罪の赦しは完全で永遠
結び:愛されている者として愛する
Sermão do culto dominical, 4 de janeiro de 2026
1 João 4:7–10
“A cruz de Jesus Cristo: a fonte e a prova do amor de Deus”
Introdução: a necessidade de amar verdadeiramente e ser amado
Um novo ano. Neste primeiro culto dominical, gostaria de me concentrar no fundamento imutável e seguro que nos sustentará ao longo do ano que se inicia. Esse fundamento é o amor de Deus derramado sobre nós.
Ouvimos a palavra “amor” diariamente. Filmes, novelas, romances – todas as histórias têm o amor como tema central. O amor entre pais e filhos, entre marido e mulher, entre homem e mulher, o amor como amizade, o amor por animais e plantas, o amor pelos fracos, o amor pelos fortes. Certamente todos concordamos que o amor é uma centelha vital na vida, não é mesmo?
No entanto, o amor que experimentamos é muitas vezes frágil, condicional e pode esfriar dependendo da resposta da outra pessoa. Torna-se claro que “amar” muitas vezes nada mais é do que um sentimento passageiro de “gostar”. Enquanto ansiamos por um amor imutável, somos feridos pelo amor e tropeçamos. Buscamos ser amados e ser alguém capaz de amar, mas enfrentamos a realidade de não sermos amados o suficiente e também de sermos incapazes de amar.
A Escritura que lemos hoje convida nosso “amor” vacilante a uma dimensão totalmente diferente. João nos convida a não extrair o amor de dentro de nós mesmos, mas a encontrá-lo em Deus, a própria fonte do amor.
1. O amor vem de Deus (versículos 7-8)
・Porque Deus é amor
Versículo 7: “Amados, amemos uns aos outros.” Parece quase muito direto, muito bem formulado. Como seria maravilhoso se pudéssemos fazer isso. No entanto, também sentimos como é difícil, precisamente porque não podemos.
No entanto, João imediatamente aponta o caminho a seguir: “O amor vem de Deus”. Isso significa que a própria natureza do Deus que criou este mundo é o amor e, portanto, o amor acompanha todas as Suas ações, palavras e planos. Um ponto crucial a ser observado aqui é que João afirma que “o amor vem de Deus” – ou seja, conhecer Deus leva a conhecer o amor. Não é o contrário. Sem encontrar Deus, ainda não se conhece o amor. A última parte do versículo 8 também afirma: “pois Deus é amor”. Não é alguma imagem de “amor” que criamos arbitrariamente que é Deus; ao contrário, a própria natureza de Deus é amor.
・O erro de idolatrar o “amor” separado de Deus
Muitas pessoas consideram o amor mútuo a coisa mais valiosa da vida. Isso em si não é errado. No entanto, o amor buscado enquanto permanecemos separados de Deus inevitavelmente permite que a sombra do pecado se infiltre.
Nosso egocentrismo pecaminoso se infiltra até mesmo no desejo de “amar” e “ser amado”. O que deveria ser um desejo de amar gradualmente se transforma em exigências: “Como eu te amo tanto, você deveria me entender” ou “Se você não retribuir, não posso te amar”.
Assim, o amor sem Deus inevitavelmente prende as pessoas e gera decepção. Mesmo que pareça bem-sucedido por um tempo, nunca se torna um amor que realmente dá vida aos outros.
Portanto, a Bíblia ensina que o amor flui de Deus. Não é que o “amor” que imaginamos seja Deus; Deus mesmo é amor. Somente em Deus existe amor que permanece constante, continua a dar e dá vida aos outros.
・Aqueles que conhecem Deus possuem amor
A própria essência da natureza de Deus é o amor. Ao contrário dos humanos, Ele não tem preferências nem aversões. Para Deus, o amor não é uma “atitude” ocasional, mas o seu próprio ser. Assim como Deus é luz e santo, Ele é o próprio amor. Isso significa que o amor separado de Deus é falso amor e que o amor reside em Deus.
Durante o Advento de 2025, contemplamos a verdade evangélica profundamente vital encontrada em Romanos 5:1-5. Afirmamos que a esperança daqueles que receberam a justificação pela fé reside no derramamento do amor de Deus através do Espírito Santo. Conhecer a Deus é compreender que somos amados por Ele.
Portanto, João também fala severamente na primeira metade do versículo 8: “Quem não ama não conhece a Deus.” Pois qualquer um que tenha entrado em contato com a natureza do amor de Deus é inevitavelmente afetado por ele. O Deus de toda a criação, o Todo-Poderoso, é um Pai cheio de amor paciente e misericordioso, como o pai na parábola do filho pródigo. Embora tenhamos elementos de ingratidão como aquele irmão, ainda temos a esperança de que, pouco a pouco, ao passar por dificuldades, estamos sendo transformados em pessoas que conhecem o amor e que amam.
2. A evidência segura de ser amado por Deus (versículo 9)
Então, quando se diz que “Deus é amor” e que “quem tem amor conhece a Deus, mas quem não ama não conhece a Deus”, como podemos ter a certeza de que somos amados por esse Deus invisível? Felizmente, João não está apenas expondo uma filosofia abstrata de que “Deus é amor”. Ele também não está promovendo alguma experiência mística peculiar em que se pode sentir o amor de Deus fechando os olhos.
No versículo 9, ele aponta para um fato histórico concreto: “O amor de Deus foi revelado desta forma entre nós”. “Deus enviou seu único Filho ao mundo para que pudéssemos viver por meio dele. Desta forma, o amor de Deus foi revelado a nós”.
Embora o amor possa ser expresso de muitas maneiras, Deus nos deu o dom sacrificial da vida de Jesus Cristo para satisfazer a necessidade mais profunda de nossas almas. Seu precioso Filho único foi enviado a este “mundo” pecaminoso para servir como substituto.
Deus enviou Cristo ao mundo para que pudéssemos “conhecer o amor por meio deste Cristo e viver por ele”. Precisamos do amor de Deus em Cristo porque, deixados à nossa própria sorte, estamos caminhando para a miséria e a destruição do pecado. Certamente, precisamos ser amados na vida e precisamos da alegria de poder amar. No entanto, esse amor não deve ser um amor egocêntrico e distorcido, divorciado de Deus, mas um amor transformado pelo amor que vem de Deus. Envolve uma saudável resignação em relação a si mesmo, confiança em Cristo, tranquilidade e paciência, um equilíbrio entre seriedade e moderação, e um amor acompanhado pela esperança que cresce através do Espírito Santo. Na verdade, todos precisam desse amor que cresce.
3. O amor de Deus é incondicional e oferece perdão completo (versículo 10)
⑴ Incondicionalmente, Deus ama você
O amor de Deus é abundantemente demonstrado ao enviar Seu precioso Filho único, Jesus Cristo, à Terra como substituto por nossos pecados. Vamos ler o versículo 10 novamente. “Não que nós tenhamos amado a Deus, mas que Deus nos amou e enviou Seu Filho para ser a propiciação pelos nossos pecados. Nisto consiste o amor.” A propiciação significa que Cristo suportou o julgamento que merecíamos. Aqui reside a essência do evangelho.
Em primeiro lugar, é que o amor de Deus foi derramado de Seu lado antes de crermos Nele. Não temos nada a oferecer para sermos amados por Deus, nem nada é exigido de nós. Deus demonstrou Seu amor, concedeu-nos a fé para receber esse amor, abriu nossos corações e permitiu que o Espírito Santo habitasse em nós. A iniciativa do amor sempre está em Deus. A base para nossa salvação não repousa em nada dentro de nós, mas exclusivamente no fato de Deus nos amar. Somos filhos de Deus, amados incondicionalmente e estimados simplesmente por nossa própria existência.
⑵ O perdão dos pecados é completo e eterno
Em segundo lugar, Jesus Cristo se tornou “o sacrifício propiciatório pelos nossos pecados”. Deus é amor, mas também é santo. Se fôssemos seres santos, seria apropriado sermos amados por um Deus santo. O problema era que nascemos em pecado e vivemos nele. O Deus santo não pode ignorar o pecado. Ele não pode justificar o pecado, e nosso pecado provoca a ira justa de Deus. No entanto, Deus nos perdoou, derramando sobre Jesus Cristo o julgamento que merecíamos. A cruz é onde a “justiça” e o “amor” de Deus se cruzam. Quando olhamos para essa cruz, podemos ter certeza e confiança de que todos os nossos pecados — passados, presentes e futuros — são expiados pela vida de Cristo. Também podemos ter certeza de que, por meio desse Cristo, Deus nos declara justos, nos ama como Seus filhos e certamente nos transformará à Sua gloriosa semelhança.
O amor incondicional de nosso Pai Celestial. A plenitude do perdão por meio da expiação de Jesus Cristo. Meditar repetidamente sobre essas duas verdades remodela fundamentalmente nosso caráter. Nós, que estamos transbordando de pecado e somos indignos de amor, somos amados mesmo assim. Além disso, nossos pecados são expiados. Além disso, o Espírito Santo habita em nós, derramando o poder para responder a esse amor.
Conclusão: Amar como os amados
Assim, podemos voltar mais uma vez ao chamado para amar uns aos outros. Versículo 7: “Amados, amemos uns aos outros, pois o amor é de Deus; e todo aquele que ama é nascido de Deus e conhece a Deus. Porque o amor vem de Deus.” João repete isso no versículo 11: “Amados, se Deus nos amou assim, também nós devemos amar uns aos outros.” Não se trata de, de alguma forma, espremer o amor, pensando que não seremos amados por Deus a menos que o façamos, enquanto permanecemos inconscientes de como Deus nos ama.
Em primeiro lugar, trata-se de saber o quanto somos amados por Deus, de forma profunda e segura. Conhecer o amor de Deus não é apenas adquirir conhecimento. É compreender, por meio do imenso sacrifício da vida de Jesus Cristo, que eu sou realmente amado.
Se você sente que “não tem valor”, olhe para a cruz. Não foram nossos esforços, nossa justiça ou nossas conquistas, mas Deus que pagou o preço da vida de Seu Filho para amar e salvar você. Somos simplesmente escolhidos, amados, redimidos e feitos filhos de Deus. Quando o amor e o perdão de Deus que fluem dessa cruz são derramados em nossos corações, ganhamos a capacidade de reexaminar nossa visão de mundo, nossa autopercepção e como nos relacionamos com os outros.
Se você sofre, pensando: “Não consigo amar os outros”, pare de se esforçar para reunir amor dentro de si mesmo. Em vez disso, volte seu olhar mais uma vez para a fonte do amor de Deus. Amamos a Deus porque fomos amados por Ele. Tendo conhecido o amor de Deus, buscamos amar os outros com esse mesmo amor. Nosso amor pode errar e secar. Podemos até causar conflitos ao tentar amar, impondo nossa própria justiça. Portanto, devemos voltar repetidamente os olhos do nosso coração para a cruz de Cristo. Lá podemos confrontar nossa própria insuficiência e fraqueza, tornando-nos humildes. Também podemos amar pacientemente da maneira que decidimos, sem exigir, mas simplesmente amando.
Deus nos amou quando éramos indignos de amor. Quanto mais compreendemos isso, mais recebemos de Deus a força para amar até mesmo nossos vizinhos difíceis. Voltemos repetidamente a essa fonte segura e inesgotável do amor de Deus e avancemos em nossa jornada de amar a Deus e aos outros.
Oração
Pai Celestial, agradecemos por nos reunir aqui neste primeiro domingo do ano novo e nos permitir encontrar a Tua palavra.
Somos aqueles que diariamente procuram ser amados e amar, mas sofrem com as nossas próprias imperfeições. No entanto, através do amor revelado na cruz de Jesus Cristo, sabemos que somos verdadeiramente amados. Volta os nossos corações para esta fonte de amor e faz de nós pessoas que se amam umas às outras através do Teu amor. Que este ano seja também um ano em que caminhemos protegidos e guiados pelo Teu amor, vivendo de acordo com a vontade de Deus. Oramos em nome de Jesus Cristo.
Ámen.