2026年1月11日主日礼拝説教 ルカの福音書16:14~31 「富とあわれみの導く先」

2026111日主日礼拝説教

ルカの福音書16:1431

「富とあわれみの行く先」

序.人の評価と神の評価は違う

今日の個所は、パリサイ人たちがイエス様の話していることを聞いて嘲笑っているというところから始まります。113節の話は、富を神としないこと、むしろ神と人を愛するために富を用い、天に宝を積みなさいというものでした。「金銭を好むパリサイ人たち」にとっては、そんな話は間抜けなお人よしの考え方だと思われたのでしょうか。自分に与えられている富や力、知識や時間や賜物を、他者のために使う喜びや充実、平安を彼らは知らなかったのでした。

富の使い方には、その人の神との関係が現れます。聖書はお金そのものが悪だとか、お金に価値がないと言っているのでもありません。富を第一とする偶像礼拝が問題であり罪であると警告するのです。私たちが富を誰のために、何のために使っているかを見れば、その人が神様を第一にしているかどうかが分かります。

パリサイ人たちは富を持っていること自体が神に祝福されている証拠と考えて、自分は正しい側にいる人間だと高をくくっていました。しかし実際は富を神とし、真の神様を中心にしてはいなかったのでした。そこでイエス様は言われます。「あなたがたは人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです」と。

 

神と人を愛するために富を用いることが大切なわけですが、肝心なことは、そうであると「知っていること」ではないのです。それが行動に現れている信仰の生き方を、神と人との間に持っていることです。神を信じているというのは、神が存在しているという知識を持っていることではなく、事実その人が神の愛の中に生かされていることです。憐れみが現れている信仰。この視点でイエス様の教えに耳を傾けたいと思います。

 

1.神の言葉を知っていても信じていない(ゆえに行いに現れていない)ということ

1617節でイエス様は、律法と預言者(すなわち旧約)の時代が終わり、今やイエス・キリストご自身によって神の国が告げ知らされていると語られます。これは旧約や律法を軽んじる宣言でなく、むしろ律法が本来目指していた神の御心が、実現しようとしていることを意味しています。

続く18節の離婚の例は、パリサイ人たちが律法を守っている「つもり」で、実際には自分を正当化していたことを示しています。なぜこれが取り上げられたかというと、パリサイ人たちが結婚に関する神様の定めも、都合のいいように解釈を加えて男性が自由に離婚できるように変えてしまっていたからでした。それゆえ、もう一度律法の本来の目的である、結婚のもたらす祝福と姦淫の問題を教えたのでした。

 

神の恵みは、律法を無効にする恵みではありません。また、私たちは行いによって救われるのでもありません。むしろ、救いの恵みとは、信仰によって救われた私たちの中に、喜んで律法を行う生き方を実現していく神の力なのです。

 

神の救いの恵みを信じて受け取るなら、その信仰は必ず生き方に現れます。エペソ210にはこう書かれています。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」新生した神の子どもたちが良い行いを行えるように変えるのは、私たちを救った神のなしてくださる業なのです。

またローマ84にはこう書かれてあります。「肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです」と。罪びとの心に住んで働く神の御霊は、その人のうちで神の御心を悟らせ、思いと考えと行いとを内側から作り替えて、律法の要求を満たすように成長させるのです。だから、救いをもたらす信仰は、必ず行いに現れるのです。

ここで問われているのは出来ているかどうかではなく、神の言葉を本当に信じているかどうかという点です。イエス・キリストは、パリサイ人たちの生き方には神を愛する思いも、兄弟姉妹を心から憐れむ生き方も現れていないと警告したのでした。

 

2.金持ちとラザロ――救いの条件ではなく、信仰の現れ

この流れの中で、イエス様は「金持ちとラザロ」のたとえを話しだすのです。

注目すべきことは、金持ちが特別な悪事を働いたとは一言も書かれていないことです。彼は裕福に暮らしていましたが、犯罪者ではありませんし極悪人でもありません。普通に暮らしていたひとです。また一方のラザロも善行を積んだとは語られていません。

つまりこのたとえは、「善い行いをした人は救われ、悪い行いをした人は滅びる」という話ではありません。また「お金のない人が救われ、お金を持っている人は滅びる」という話でもありません。富で救いを買うことは出来ませんが、同様に貧しさで救いを手に入れることもできません。救いはただキリストに対する真実な信仰によります。

金持ちの問題は、彼が「父アブラハムよ」と叫んでいることから、ユダヤ人であり神の言葉を知っていたにもかかわらず、その神を信じて生きていなかったことです。神を信じていないことが、貧しいラザロへの無関心という形で現れていたのです。このたとえで描かれている「無関心」というのは、神を信頼していない生き方なのです。神に憐れんでもらったひとは人を憐れみ、神に愛されたひとは人を愛するようになるからです。

またラザロが「アブラハムのふところ」にいるのは、彼の功績のゆえではありません。彼はこの世において誇れるものを何も持たず、神により頼むしかない者として描かれています。ここに、信仰の本質があります。

霊的に見るならば、お金のある人もない人も神の前に何も変わりはありません。どちらも神により頼むしかない罪びとなのです。すべての人は心の貧しい罪びとであり、魂の病人なのです。ラザロは貧しさの中で、実際に自分の魂の貧しさを受け止め、神に頼って生きていた。金持ちは神を知っていながらラザロを憐れまず、それは彼が神を信じていなかったことの現れだったというのです。

聖書は金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しいと教えています。それほど多くの富は人の心を神から引き離すからでしょう。一方で考えたいのは、貧しいからといって必ずしも人が神に近づくというわけでもありません。肝心なことは、富ではなく神によって心が満たされていること。神が中心にあり、そのほかのものは神の周りに配置されていることです。そうであって初めて私たちは富むことにも貧しいことにも、あるいは健康のうちにも病のうちにも、神とともにある平安を受け取ることができるのです。

パウロもまたこう言っています。ピリピ4:1113「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

 

3.今与えられている聖書の言葉に対する応答が、永遠の選択になる

 さて、死後ふたりの立場が逆転します。ラザロはアブラハムのいる天国へ。富を神としていた金持ちは、死によってすべての富を失った後、滅びの炎の中にいました。彼は苦しみの中、アブラハムに二つのことを願います。

 一つは、今や天国にいるラザロが指先を水に浸して、自分の舌を冷やすようにして欲しいということ。この願いはかないません。天国と地獄の間には越えられない深い淵があるからでした。彼は「子よ、思い出しなさい」と言われます。生きている時にラザロに憐れみをかけなかったあなたの態度が、今自分自身に降りかかっているのではないか、と。

もう一つの願いは、五人の兄弟に、彼らがこんな苦しい場所に来ることがないように警告してくださいということ。これに対しては「彼らにはモーセと預言者がある」と答えられます。つまり、生きている人にはすでに神の言葉である聖書が与えられている、と。

 

これらの受け答えは、現在の状況を神様がどのようにとらえているかをよく伝えています。救いに必要なものは、すでにすべて与えられているという宣言です。真理は聖書によって提示されています。キリストの贖いも与えられています。救われた人には御霊によって新しい命が与えられるという約束まであります。そのうえ、神様は人の行いに応じてすぐに裁くのでなく、その人の人生が終わるまで忍耐強く悔い改めのチャンスを与え、その人生を恵みで満たし続けてくださるのです。

金持ちは、死んだ者が奇跡的に現れて呼びかけたら悔い改めるはずだと言いましたがその願いは叶えられませんでした。実際、キリストが奇跡を起こしても、復活しても、多くのユダヤ人は心を頑なにしたままキリストを受け入れませんでした。信仰は特別な奇跡によって生まれるのではありません。目に見えない神が、罪の中をさまよっている私たちのために救いの十字架にかかってくださったことを、悔い改めて信じて受け入れること。これが信仰であり、このキリストを信じること以外に救いはありません。

今、神の言葉に耳を傾け、救いを受け取り、神の愛に応える人生を送るかどうか。今の応答にかかっているのです。

このたとえが語っているのは、ぼんやりとした死後の世界の幻ではありません。今の生き方が、あなたの永遠の行く先を決めるという厳粛な真理です。

 

結び.あわれみは、信仰が生み出す実

このたとえは、「善い行いによって救われよ」と迫る話ではありません。また「努力が足りなければ滅びる」という脅しでもありません。

これは神の救いの恵みを本当に信じて受け取っているなら、その信仰は必ず他者へのあわれみとなって流れ出る、という新しい生き方への招きです。

 

生まれながらの性質の私たちは皆、ラザロを見過ごしてしまう弱さを持っています。憐れんでもらったのに憐れみを注ぐことができない。赦されたのに赦せない。愛されたのに愛せない。しかし救われた者たちの中で働く聖霊は、同時に今ここでそのことを悔い改めさせ、歩みを新しくする恵みも与えてくださるのです。

ちなみに、イエス様がラザロという名前で登場させたこの貧しい男。ラザロという名前には意味があります。これはヘブル語のエルアザルから来ていて、「神は助けてくださる」「神は私の助け」という意味です。神に助けられたことに感謝して人を助ける。神が助けてくださることに信頼して平安の中を生きる。私たちは皆、神の前では貧しいラザロなのです。

 

イエス・キリストは私たちのために貧しくなられ、十字架において決定的なあわれみを示してくださいました。その恵みに生かされる者として、恐れからではなく感謝をもって、あわれみを差し出す生き方へと招かれたいと思います。

 

祈り

憐れみ深い天のお父さん。あなたの憐れみによって生かされていることを感謝します。
知っているだけの信仰ではなく、あなたを信頼する生き方へと、私たちの心と歩みを整えてください。
 あなたに愛された者として、恐れではなく感謝をもって、隣人を憐れむ者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

 

2026111日主日礼拝説教

ルカの福音書16:1431

「富とあわれみの行く先」

序.人の評価と神の評価は違う

1.神の言葉を知っていても信じていない(ゆえに行いに現れていない)ということ

エペソ210「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

ローマ84「肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです」

2.金持ちとラザロ――救いの条件ではなく、信仰の現れ

ピリピ4:1113「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

3.今与えられている聖書の言葉に対する応答が、永遠の選択になる

結び.あわれみは、信仰が生み出す実

 

Sermão de domingo, 11 de janeiro de 2026

Lucas 16:14–31

“Para onde a riqueza e a compaixão nos levam”

Introdução: O julgamento humano e o julgamento de Deus são diferentes

A passagem de hoje começa com os fariseus ouvindo Jesus falar e zombando dele. Os versículos 1–13 ensinam contra fazer da riqueza o seu deus, exortando, em vez disso, a usar as riquezas para amar a Deus e ao próximo, e para acumular tesouros no céu. Para os “fariseus amantes do dinheiro”, tal ensinamento deve ter parecido tolamente idealista. Eles nada sabiam da alegria, da satisfação ou da paz que advêm de usar a riqueza, o poder, o conhecimento, o tempo e os dons que lhes foram concedidos para o bem dos outros.

A maneira como alguém usa a riqueza revela sua relação com Deus. A Bíblia não diz que o dinheiro em si é mau ou que não tem valor. Ela adverte que idolatrar a riqueza como foco principal é o problema e o pecado. Observando para quem e com que propósito usamos nossa riqueza, podemos discernir se essa pessoa está colocando Deus em primeiro lugar.

Os fariseus consideravam o próprio fato de possuir riqueza como prova da bênção de Deus, presumindo com presunção que estavam do lado dos justos. No entanto, na realidade, eles tinham feito da riqueza seu deus e não centravam suas vidas no Deus verdadeiro. Portanto, Jesus diz: “Vocês se justificam aos olhos dos homens, mas Deus conhece seus corações”.


Usar a riqueza para amar a Deus e aos outros é realmente importante, mas o ponto crucial não é apenas “saber” que isso é verdade. É viver uma fé que se manifesta em ação, em nosso relacionamento com Deus e com os outros. Acreditar em Deus não é apenas possuir o conhecimento de que Deus existe, mas a realidade de que se está verdadeiramente vivendo dentro do amor de Deus. Fé que manifesta misericórdia. É a partir dessa perspectiva que desejo ouvir o ensinamento do Senhor Jesus.


1. Conhecer a palavra de Deus, mas não acreditar nela (e, portanto, não manifestá-la em ações)

Nos versículos 16-17, o Senhor Jesus declara que a era da Lei e dos Profetas (ou seja, o Antigo Testamento) terminou e que o reino de Deus agora está sendo proclamado por meio do próprio Jesus Cristo. Esta não é uma declaração que desconsidera o Antigo Testamento ou a Lei; significa, antes, que a vontade divina que a Lei originalmente pretendia cumprir está agora a ser realizada.

O exemplo subsequente do divórcio no versículo 18 revela que os fariseus, embora acreditassem que estavam a cumprir a Lei, estavam na verdade a justificar-se a si próprios. Isto foi abordado porque os fariseus tinham convenientemente reinterpretado a ordenança de Deus relativa ao casamento para permitir que os homens se divorciassem livremente. Portanto, ele ensinou mais uma vez o propósito original da Lei: as bênçãos trazidas pelo casamento e a questão do adultério.


A graça de Deus não invalida a Lei. Nem somos salvos por nossas obras. Em vez disso, a graça da salvação é o poder de Deus operando em nós, que somos salvos pela fé, capacitando-nos a viver com alegria em obediência à Lei.


Se acreditarmos e recebermos a graça salvadora de Deus, essa fé se manifestará inevitavelmente em nosso modo de vida. Efésios 2:10 afirma: “Porque somos obra de Deus, criados em Cristo Jesus para boas obras, as quais Deus preparou de antemão para que andássemos nelas”. É a obra do Deus que nos salvou que transforma os filhos recém-nascidos de Deus para que possam realizar boas obras.

Além disso, Romanos 8:4 afirma: “A lei do Espírito da vida em Cristo Jesus me libertou da lei do pecado e da morte”. O Espírito de Deus, que habita e opera no coração do pecador, permite que ele discerne a vontade de Deus, renovando sua mente, pensamentos e ações a partir de dentro, e permitindo que ele cresça para cumprir os requisitos da lei. Portanto, a fé que traz salvação inevitavelmente se manifestará em ações.

A questão aqui não é se alguém está fazendo isso, mas se realmente acredita na palavra de Deus. Jesus Cristo advertiu que o modo de vida dos fariseus não demonstrava um coração que amava a Deus nem uma vida que sinceramente tinha piedade de seus irmãos e irmãs.


2. O homem rico e Lázaro – Não condições para a salvação, mas manifestações de fé

Nesse contexto, Jesus começa a contar a parábola do “homem rico e Lázaro”.

O que é digno de nota é que em nenhum lugar se afirma que o homem rico cometeu qualquer ato maligno em particular. Ele vivia na riqueza, mas não era nem um criminoso nem um vilão. Era um homem comum. Da mesma forma, não se diz que Lázaro tenha realizado grandes atos de virtude.

Em outras palavras, esta parábola não é sobre “aqueles que fazem o bem serem salvos e aqueles que fazem o mal perecerem”. Tampouco é uma história de “os pobres serem salvos e os ricos perecerem”. A salvação não pode ser comprada com riqueza, assim como não pode ser alcançada através da pobreza. A salvação vem exclusivamente através da fé genuína em Cristo.

O problema do homem rico, conforme revelado por seu clamor “Pai Abraão”, era que, apesar de ser judeu e conhecer a palavra de Deus, ele não vivia pela fé nesse Deus. Sua falta de fé se manifestava como indiferença para com o pobre Lázaro. A “indiferença” retratada nesta parábola é um modo de vida que não confia em Deus. Pois aqueles a quem Deus mostra misericórdia mostram misericórdia aos outros, e aqueles que são amados por Deus passam a amar os outros.

Além disso, a presença de Lázaro no “seio de Abraão” não se deve aos seus próprios méritos. Ele é retratado como alguém que não possuía nada de que se orgulhar neste mundo, não tendo outra escolha a não ser confiar em Deus. Aqui reside a essência da fé.

Espiritualmente falando, ser rico ou pobre não faz diferença diante de Deus. Ambos são pecadores que só podem confiar Nele. Todos são pecadores pobres de coração, doentes de alma. Em sua pobreza, Lázaro abraçou verdadeiramente a pobreza de sua alma e viveu confiando em Deus. O homem rico, embora conhecesse Deus, não mostrou compaixão por Lázaro; isso revela que ele não acreditava verdadeiramente em Deus.

As Escrituras ensinam que é mais difícil para um homem rico entrar no reino de Deus do que para um camelo passar pelo buraco de uma agulha. Isso provavelmente ocorre porque tanta riqueza afasta o coração de Deus. Por outro lado, devemos considerar que ser pobre não necessariamente aproxima a pessoa de Deus. O que importa não é a riqueza, mas ter o coração cheio de Deus. Deus deve estar no centro, com tudo o mais organizado em torno Dele. Só assim podemos receber a paz de Deus, seja na riqueza ou na pobreza, na saúde ou na doença.

Paulo também diz o seguinte: Filipenses 4:11-13 “Aprendi a contentar-me com o que tenho, seja qual for a situação. Sei o que é passar necessidade e sei o que é ter abundância. Aprendi o segredo de estar contente em qualquer situação, seja bem alimentado ou com fome, seja vivendo na abundância ou na necessidade. Tudo isso posso fazer por meio daquele que me fortalece.”


3. Nossa resposta às palavras da Escritura que nos são dadas agora determina nossa escolha eterna

Agora, após a morte, suas posições se inverteram. Lázaro está no céu com Abraão. O homem rico, que fez da riqueza seu deus, após a morte perdeu todas as suas riquezas e se viu nas chamas da destruição. Em seu tormento, ele pede duas coisas a Abraão.

 Primeiro, que Lázaro, agora no paraíso, molhasse a ponta do dedo em água e refrescasse sua língua. Esse pedido não pode ser atendido. Pois há um abismo intransponível entre o paraíso e o inferno. É-lhe dito: “Filho, lembre-se”. A atitude que você mostrou para com Lázaro em vida não está agora sendo devolvida a você?

O segundo pedido é para alertar seus cinco irmãos, para que não cheguem a um lugar de tormento como aquele. Para isso, ele ouve: “Eles têm Moisés e os profetas”. Ou seja, os vivos já possuem as Escrituras, que são a palavra de Deus.


Essas conversas transmitem vividamente como Deus percebe a situação atual. Elas declaram que tudo o que é necessário para a salvação já foi dado. A verdade é apresentada através das Escrituras. A redenção de Cristo foi providenciada. Há até a promessa de que os salvos receberão nova vida por meio do Espírito Santo. Além disso, Deus não julga imediatamente de acordo com as ações de cada um, mas pacientemente concede oportunidades de arrependimento até o fim da vida, continuamente enchendo essa vida com graça.

O homem rico afirmou que, se os mortos fossem milagrosamente ressuscitados para clamar, eles certamente se arrependeriam, mas esse desejo não foi concedido. De fato, mesmo quando Cristo realizou milagres e ressuscitou dos mortos, muitos judeus permaneceram de coração endurecido e se recusaram a aceitá-Lo. A fé não nasce de milagres especiais. É arrepender-se, crer e aceitar que o Deus invisível levou nossos pecados na cruz da salvação por nós, que vagamos no pecado. Isso é fé, e não há salvação sem crer neste Cristo.

Se você agora ouve a palavra de Deus, recebe a salvação e vive uma vida respondendo ao amor de Deus — isso depende inteiramente da sua resposta agora.

Esta parábola não fala de visões vagas da vida após a morte. Ela fala da verdade solene de que a maneira como você vive agora determina o seu destino eterno.


Conclusão: a misericórdia é o fruto da fé

Esta parábola não exorta: “Seja salvo pelas boas ações”. Tampouco é uma ameaça de que “se seus esforços forem insuficientes, você perecerá”.

É um convite a um novo modo de vida: se você realmente crer e receber a graça salvadora de Deus, essa fé inevitavelmente fluirá como compaixão para com os outros.


Por nossa própria natureza, todos nós possuímos a fraqueza de ignorar Lázaro. Recebemos misericórdia, mas não conseguimos mostrar misericórdia. Fomos perdoados, mas não conseguimos perdoar. Amados, mas incapazes de amar. No entanto, o Espírito Santo que opera nos salvos concede simultaneamente a graça de nos arrependermos disso aqui e agora, e de renovarmos nossos passos.

Aliás, esse pobre homem que Jesus apresentou com o nome de Lázaro. O nome Lázaro tem um significado. Ele vem do hebraico Eleazar, que significa “Deus é meu ajudador” ou “Deus é minha salvação”. Ajudar os outros em gratidão pela ajuda de Deus. Viver em paz, confiando que Deus nos ajudará. Diante de Deus, somos todos pobres Lázaros.


Jesus Cristo tornou-se pobre por nossa causa, mostrando misericórdia decisiva na cruz. Como aqueles que são mantidos vivos por essa graça, anseio ser chamado a uma vida de oferecer misericórdia, não por medo, mas por gratidão.


Oração

Pai Celestial misericordioso, agradecemos-Te por vivermos pela Tua misericórdia.

Prepara os nossos corações e passos não apenas para uma fé que conhece, mas para uma vida que confia em Ti.

Como aqueles que são amados por Ti, torna-nos misericordiosos para com os nossos vizinhos, não por medo, mas com gratidão. Oramos isto em nome do nosso Senhor Jesus Cristo.

Ámen.