2026年1月25日主日礼拝説教 ローマ5:18~21 「恵みが私を支配する」

2026125日主日礼拝説教

ローマ5:18~21

「恵みが私を支配する」

序.何に突き動かされているか:私が支配されているもの

 ローマ人への手紙は、私たちの信仰の土台となる重要な教理の柱を手渡してくれます。今日読んだ箇所は12節から始まる一つの段落で、アダムとの連帯からキリストとの連帯に移されたことを教えています。ただ連帯、結びつき。そう言われても、あまりピンと来ないかもしれません。

 

 私たちは普段、自分は自分一人の人生を生きている、と考えます。それはある意味でその通りです。私の身体は私のものであり、私の時間も私だけのもの。私の心も私のもの。だからこそ、私の生き方が神に問われます。

 しかしこれは生まれた時の私たちがニュートラルな状態、クリーンな状態で、良いことをすればプラスになり、悪いことをすればマイナスになるということではないのです。そうではない。私たちは生まれた時からすでに罪に染まった状態で存在します。これは全的堕落と呼びます。これはあらゆる領域において、罪の影響が現れていることを意味します。だからといって生まれながらに完全な悪として存在しているという意味ではありません。完全な悪ではなく、どの領域にも罪のしみがある、という意味で全体が堕落しているということ。

 聖書は、こういう意味で人は常に「誰かに結ばれて」生きている存在だと語ります。生まれながらに全ての人はアダムと結ばれていて、それゆえに罪に支配されており、だから必ず死にます。

 

1.自分の考える正しさによって、かえって罪に支配されている(アダムとの連帯)

 18節前半にはこう書かれています。「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に」。アダムの違反は、神を神とせず、自分を神として、人生の中心と考えて生きるというものでした。まさにすべての人間がこの点で神に背を向けて生まれ、その生き方から逃れられません。アダムの罪を、私の罪としてすべての人が再生産しながら、その罪の問題に気が付くことも出来ずに、罪の悲惨さを味わっています。

 ここで言われている「ひとりの人」とはアダムです。人類の代表であったアダムからこのかた、すべての人間は自己中心という同じ構造の中に生きている、という現実があります。アダム個人の失敗談ではなく、人類の歴史そのものが以下に神を忘れて、自分を神のようにして高めるかという歩みなのです。そして行き着く先は戦争と自然の破壊です。

 人は自分を中心に世界を組み立てようとします。自分の基準、自分の正しさ、自分の正義、自分の物語。こうして神に信頼するより、自分が神となり、自分が自分の主人になろうとするのです。

 神の前に遜って、自分の不十分さを問い続ける姿勢がないということは、決定的に危険な状態なのです。そこから生まれるのは、それぞれの考える正しさの衝突、比較による優劣、優越感と劣等感、差別、相手を支配したいという欲求、服従させられる憎しみ、不安、おごり高ぶり。程度の差こそあれ、すべての人間関係の中で、このようないびつな罪の悲惨が再生産されています。自分は被害者だと思っている人が、別の場所では加害者となり、罪の連鎖はとどまりません。

 このような問題は、自分がそのような問題を抱えていると気付いているか気づいていないかに関わらず、すべての人間の心に共通して働いている罪の構造です。このような問題と無関係に生きられる人は一人もいません。気づいていない人、認めない人、あるいは私は悪くないんだと思わないでは生きられない人がいるだけです。

 

2.キリストとの連帯: 義といのちの支配

 このようななかで私たちはどんなに努力しても、自分の力ではこの罪の沼から抜け出ることができませんでした。そこに神は救い主イエス・キリストを送ってくださいました。罪に絡みとられている私たちを根本から救い出す方法は、キリストと私たちを霊的に結び付けることで、外側も内側も新しく生まれ変わらせていくというものでした。

 パウロはここで新しく生まれた人の中には別の原理が働くと教えています。アダムの場合は、すべての人が生まれながらに罪の支配力の中で心を汚染されて生まれて来ることになり、だれもその構造から逃れることは出来ませんでした。しかし、キリストに結び合わされるなら、その時から、その人は罪を罪と自覚するようになり、罪を裁かれることがなくなり、さらには御霊と御言葉の力によって罪を離れたいと願うように変えられたのです。

18節の後半「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」善悪においては圧倒的なマイナスであり続けていた私たちが、神の前で罪無しゼロの状態を約束され、それだけでなく御霊によって神に喜ばれる良い行いをする者へと変えられていくようになりました。プラスを積み上げていく人生へと招かれたのです。

 

 イエス様は、このことを「新しく生まれる」と表現しました。私たちはすでに母親の胎から生まれているのですが、実は霊的にはずっと死んでいました。やることなすことすべてに罪が入り込んでいて、正しいと思うことさえも罪で染まっており、本当に正しいことはこれだと示されてもそれをしたいと思うこともできませんでした。霊的に死んでいたからです。心臓は動いているのに、魂は神に喜ばれることができない。

 神はこの私たちの心に聖霊を送り、神の前に生きる魂を与えてくださったのです。新しい感覚、新しい考え、新しい思い。新しい生き方。その人は神の言葉に反応し、神に喜ばれることを生活の中で探し求め実行するようになります。ヨハネ3:3「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」御霊に属する新しいいのちを受け取ることが救いであり、救いはいのちをもたらす神の力なのです。この恵みは、アダムと連帯していた罪人が、キリストと霊的に結び合わされて義と認められ、いのちに生きるようになったという事実なのです。あなたは、自分がどのような状態にあるものとして認識しているでしょうか。すべての人間はこの二つに一つのどちらかです。アダムと結ばれて罪と滅びに向かって生きているか。キリストと結ばれて義といのちに支配されて生きているか。そしてキリストと結ばれているならば、自分がどのような恵の中に生かされているのかを明確に自覚する必要があります。受け取っている恵みがどんなに光り輝く力強い宝物であるのかを理解している必要があるのです。

 

 19節では、「一人の従順」と言われています。イエス様の義は、神の前にある従順の生涯そのものです。それは強制された服従ではなく、父なる神への愛と信頼から生まれた従順でした。荒野の誘惑、侮辱、苦しみ、そして十字架。イエス様は人として、神を信頼して従う道を最後まで歩まれました。その従順の完成が、十字架の死でした。

 その完全な義の生涯が、キリストに結ばれる者の義として数えられる。ここに救いの確かさがあります。さらには、その足跡に従う力が御霊によって注がれるの聖化の恵みもそれに続きます。このような救いのもたらす恵みの中身を知りましょう。

 

3.律法と恵み

……律法は私たちの罪を明らかにする。キリストは明らかになったすべての罪を恵で包む

 ここで、パウロは律法の働きについて触れます。

「律法が入ってきたのは、違反がまし加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」

 律法は、神の基準を示します。それゆえにひとの罪を明らかにし、自分が失格者であるということを明らかにします。しかし神は、律法で終わらせませんでした。罪がはっきり見えれば見えるほど、それをはるかに超える恵みをキリストによって用意されたのです。

 それゆえ、聖書を通して自分を見つめ、自分の罪を知ることは絶望ではなくなったのです。むしろ、神の愛と恵みの深さを知る入口となるのです。罪よりも、キリストの恵みの方が強い。それがこの箇所の宣言です。

 律法は基準を示すだけですが、恵みは神と私の間にある関係を示します。律法によって正しさが示されても、私たちは自分を正しく出来ません。しかしキリストにある神の恵みは、私のすべての罪を義と認め、内側から聖く作り変え、最後には栄光にあずかる者へと完成されます。

 

結び.今、何が私たちを支配しているのか

 12節から21節までの要約がこの、21節の言葉に凝縮されています。「罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、恵みが義によって支配し、永遠のいのちに導くためなのです。」

 アダムに結ばれている限り、罪と死が支配します。しかしキリストに結ばれるなら、恵みが支配する人生が始まります。この恵みはキリストの犠牲によって与えられた、確かな恵みです。私たちの行き着く先を、永遠のいのちに変えるものです。

 私たちが生きる世界は、罪が最後に勝つ世界ではありません。恵みが最後に立つ世界です。大切なことは、神の子どもたちがその自覚をもって自分を定義していることです。キリストにあって義と認められ、いのちを受け取り、ましくわわる恵みに満ち溢れて生かされているものであると知っていること。理解していること。体験して、実践して、実感していること。それが自分の人生を支える信念になっているということです。

 雪が降ったら寒い。でもこんなに寒くても、夏が来たらきっとまたすごく暑いということを信じることができます。今目に見えなくても、かならず暑くなると固く信じられるでしょう。そう信じてるように、「私はキリストと結びついているので、恵みによって支配されている」と信じていること。この確信が私たちを平安に導き、成長を確かなものとします。みことばによって神の子どもとされている恵みをしっかり握りしめたいと思います。

 

 

2026125日主日礼拝説教

ローマ5:18~21

「恵みが私を支配する」

序.何に突き動かされているか:私が支配されているもの

1.自分の考える正しさによって、かえって罪に支配されている(アダムとの連帯)

2.キリストとの連帯: 義といのちの支配

3.律法と恵み

……律法は私たちの罪を明らかにする。キリストは明らかになったすべての罪を恵で包む

結び.今、何が私たちを支配しているのか



Sermão do culto dominical, 25 de janeiro de 2026


Romanos 5:18–21


“A graça reina sobre mim”


Introdução: O que nos move: aquilo que reina sobre nós


A Epístola aos Romanos nos transmite os pilares vitais da doutrina que formam o fundamento da nossa fé. A passagem que lemos hoje, a partir do versículo 12, nos ensina sobre a transferência da solidariedade com Adão para a solidariedade com Cristo. Solidariedade, conexão. Mesmo quando ouvimos isso, pode não fazer sentido imediatamente.


Normalmente pensamos que vivemos nossas próprias vidas individuais. Em certo sentido, isso é verdade. Meu corpo é meu, meu tempo é só meu. Meu coração também é meu. É exatamente por isso que meu modo de vida é julgado por Deus.


 No entanto, isso não significa que nascemos em um estado neutro, uma tela em branco, onde boas ações somam pontos e más ações os subtraem. Não é esse o caso. Nascemos já manchados pelo pecado. Isso é chamado de depravação total. Significa que a influência do pecado se manifesta em todas as esferas. No entanto, isso não implica que existimos como puro mal desde o nascimento. Não é que sejamos totalmente maus, mas sim que cada parte de nós carrega a mancha do pecado; nesse sentido, somos totalmente decaídos.


A Bíblia fala da humanidade nesse sentido como seres que vivem sempre “ligados a alguém”. Desde o nascimento, todas as pessoas estão ligadas a Adão e, portanto, governadas pelo pecado e, assim, devem morrer.


 


1. Ser governado pelo pecado precisamente por meio da justiça percebida (solidariedade com Adão)


A primeira metade do versículo 18 afirma: “Portanto, assim como por meio da desobediência de um homem muitos se tornaram pecadores”. A desobediência de Adão residia em não reconhecer Deus como Deus, em vez disso, tornando-se o centro de sua vida e vivendo de acordo com isso. Na verdade, todos os seres humanos nascem virando as costas para Deus nesse aspecto e não podem escapar desse modo de vida. Reproduzindo o pecado de Adão como seu, todas as pessoas suportam a miséria do pecado sem sequer reconhecer o problema do pecado.


O “único homem” aqui referido é Adão. Desde Adão, representante da humanidade, todas as pessoas vivem dentro da mesma estrutura de egocentrismo. Isso não é apenas uma falha pessoal de Adão; a própria história da humanidade é uma jornada de esquecimento de Deus e exaltação de si mesmo como deus. E o destino é a guerra e a destruição da natureza.


As pessoas procuram construir o mundo centrado em si mesmas. Os seus próprios padrões, a sua própria retidão, a sua própria justiça, a sua própria narrativa. Assim, em vez de confiarem em Deus, tornam-se elas próprias deuses, procurando ser senhores do seu próprio destino.


A ausência de uma postura de humildade perante Deus, questionando continuamente a própria inadequação, é um estado extremamente perigoso. O que surge disso é o choque da justiça percebida por cada pessoa, comparações de superioridade e inferioridade, sentimentos de superioridade e inferioridade, discriminação, o desejo de dominar os outros, o ódio nascido da submissão forçada, a ansiedade e o orgulho. Em graus variados, essa tragédia distorcida do pecado se reproduz em todas as relações humanas. Aqueles que se veem como vítimas tornam-se perpetradores em outros lugares; a cadeia do pecado nunca termina.


 Tais problemas decorrem de uma estrutura de pecado que opera universalmente dentro de cada coração humano, esteja a pessoa ciente de ter tais problemas ou não. Nenhuma pessoa pode viver totalmente livre desses problemas. Existem apenas aqueles que permanecem inconscientes, aqueles que se recusam a reconhecê-los ou aqueles que não conseguem viver sem pensar: “Eu não sou o culpado”.


 


2. Solidariedade com Cristo: O domínio da justiça e da vida


 Em meio a isso, por mais que tentássemos, não conseguíamos nos livrar desse pântano de pecado com nossas próprias forças. Foi então que Deus nos enviou o Salvador, Jesus Cristo. O método para nos resgatar, enredados no pecado, desde suas raízes, foi nos unir espiritualmente a Cristo, trazendo assim um novo nascimento tanto exterior quanto interiormente.


Aqui, Paulo ensina que um princípio diferente opera dentro daqueles que nascem de novo. No caso de Adão, todas as pessoas nasceram com o coração contaminado pelo domínio do pecado, e ninguém podia escapar dessa estrutura. No entanto, quando unida a Cristo, a partir desse momento, a pessoa se torna consciente do pecado como pecado, não é mais julgada pelo pecado e é ainda mais transformada pelo poder do Espírito Santo e da Palavra para desejar a separação do pecado.


A última parte do versículo 18 afirma: “Por um único ato justo, todos são justificados e recebem vida”. Nós, que éramos extremamente negativos em termos de bem e mal, temos a promessa de um estado de pecado zero diante de Deus. Não apenas isso, mas estamos sendo transformados pelo Espírito Santo em pessoas que praticam boas ações agradáveis a Deus. Fomos chamados para uma vida de acumulação de ações positivas.


 


 Jesus expressou isso como “nascer de novo”. Embora já tivéssemos nascido do ventre de nossa mãe, espiritualmente estávamos mortos o tempo todo. O pecado permeava tudo o que fazíamos; mesmo o que pensávamos ser certo estava manchado pelo pecado. Mesmo quando nos mostravam o que era realmente certo, não conseguíamos desejar fazê-lo. Isso porque estávamos espiritualmente mortos. Nossos corações batiam, mas nossas almas não podiam agradar a Deus.


 Deus enviou o Espírito Santo aos nossos corações, concedendo-nos uma alma que vive diante Dele. Novos sentidos, novos pensamentos, novos sentimentos. Um novo modo de vida. Tal pessoa responde à palavra de Deus, buscando e praticando o que agrada a Deus na vida diária. João 3:3: “A menos que alguém nasça de novo, não pode ver o reino de Deus.” Receber essa nova vida pertencente ao Espírito é salvação, e salvação é o poder de Deus que traz vida. Essa graça é o fato de que os pecadores, que estavam unidos a Adão, agora estão espiritualmente unidos a Cristo, justificados e trazidos à vida. Como você percebe sua própria condição? Todo ser humano se enquadra em uma de duas categorias: ou ligado a Adão, vivendo em direção ao pecado e à destruição; ou ligado a Cristo, vivendo sob o domínio da justiça e da vida. E se você está ligado a Cristo, deve reconhecer claramente a graça na qual vive. Você deve compreender o quão radiante e poderoso é o tesouro da graça que recebeu.


 


 No versículo 19, fala-se de “uma única obediência”. A justiça de Jesus é a própria vida de obediência diante de Deus. Não foi uma submissão forçada, mas uma obediência nascida do amor e da confiança no Pai. As tentações no deserto, os insultos, o sofrimento e a cruz. Como homem, Jesus trilhou o caminho da confiança e da obediência a Deus até o fim. A consumação dessa obediência foi a morte na cruz.


 Essa vida perfeitamente justa é considerada como a justiça daqueles que estão unidos a Cristo. Aqui reside a certeza da salvação. Além disso, segue-se a graça da santificação, pela qual o poder de seguir os Seus passos é derramado pelo Espírito Santo. Vamos entender a essência dessa graça trazida pela salvação.


3. Lei e graça


...A lei revela o nosso pecado. Cristo cobre todo o pecado revelado com graça.


Aqui, Paulo aborda a obra da lei.


“A lei foi introduzida para que a transgressão abundasse. Mas onde o pecado abundou, a graça abundou ainda mais.”


A lei revela o padrão de Deus. Portanto, ela revela o pecado humano e deixa claro que não somos qualificados. No entanto, Deus não nos deixou apenas com a Lei. Quanto mais claramente o pecado se tornava visível, mais abundantemente Ele preparava a graça por meio de Cristo, superando-o em muito.


Portanto, examinar a nós mesmos por meio das Escrituras e reconhecer nosso pecado não é mais motivo de desespero. Em vez disso, torna-se a porta de entrada para conhecer a profundidade do amor e da graça de Deus. A graça de Cristo é mais forte do que o pecado. Essa é a declaração desta passagem.


 A lei apenas estabelece um padrão, mas a graça revela o relacionamento entre Deus e eu. Embora a lei demonstre justiça, não podemos nos tornar justos. No entanto, a graça de Deus em Cristo declara todos os meus pecados justos, transforma-me interiormente para ser santo e, finalmente, completa-me como alguém que compartilha da glória.


 


Conclusão. O que reina sobre nós agora?


O resumo dos versículos 12 a 21 está condensado nesta declaração no versículo 21: “Assim como o pecado reinou na morte, também a graça reinou pela justiça para trazer a vida eterna por meio de Jesus Cristo, nosso Senhor”.


Enquanto estivermos unidos a Adão, o pecado e a morte reinam. Mas se estivermos unidos a Cristo, uma vida governada pela graça começa. Essa graça é a graça certa dada por meio do sacrifício de Cristo. Ela transforma nosso destino em vida eterna.


O mundo em que vivemos não é um mundo onde o pecado triunfa no final. É um mundo onde a graça prevalece no final. O que importa é que os filhos de Deus se definam com essa consciência. Sabendo que são justificados em Cristo, receberam a vida e estão sendo sustentados pela graça transbordante de bondade. Compreender isso. Experimentá-la, praticá-la, senti-la. Que ela se tornou a convicção que sustenta nossas vidas.


Quando a neve cai, faz frio. No entanto, mesmo neste frio, podemos acreditar que, quando o verão chegar, certamente será intensamente quente novamente. Embora não seja visível agora, podemos acreditar firmemente que o calor virá. Assim como acreditamos nisso, também acreditamos: “Porque estou unido a Cristo, sou governado pela graça”. Essa convicção nos leva à paz e torna nosso crescimento certo. Desejo compreender firmemente a graça pela qual nos tornamos filhos de Deus por meio da Palavra.


 


 


Sermão do culto dominical, 25 de janeiro de 2026


Romanos 5:18–21


“A graça reina sobre mim”


Introdução: O que nos move? O que nos governa?


1. Governados pelo pecado através de nosso próprio senso de justiça (solidariedade com Adão)


2. Solidariedade com Cristo: o governo da justiça e da vida


3. Lei e graça...


 A lei revela nosso pecado. Cristo cobre todo pecado revelado com graça.


Conclusão: O que nos governa agora?