2026年1月18日主日礼拝説教 ローマ5:12~17 「恵みと義の賜物を受けて、いのちにあって支配する」

2026118日主日礼拝説教

ローマ51217

「恵みと義の賜物を受けて、いのちにあって支配する」

序.神の栄光にあずかる望みの確実さ、キリストとの結合

 パウロはローマ5章で、信仰義認がもたらす救いの恵みの豊かさを明らかにしています。救いの恵みを明らかにするというのは、私たちが神様からもらった宝物の素晴らしい力を知るということです。どんなにいい道具を持っていても、その使い方を知らなければ宝の持ち腐れとなってしまいます。救いの恵みも、ただ受け取っただけで恵みの力を活用せず、理解せず、カバンの中にしまって忘れたままで過ごしているならば、まるで神を知らなかったままであるかのように希望を失って生きていることがあり得るからです。

 パウロは52で「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」と書きました。これは救われた者が最終的に神の国で受け取ることになる恵みです。神ご自身の栄光を反射するようにして、私自身が栄光の姿に変えられます。罪の影響からことごとく洗い清められた、完全な神のかたちを回復し、永遠に神とともに生きるようになるのです。今日の個所も、この栄化に至る救いの歩みを確実なものとする大切な教えです。それは「霊的なキリストとの結合」の恵みです。そしてこの恵みを理解するためには、まず人類最初のひとであるアダムとの連帯を正しく知る必要があります。

 

1.アダムにあってすべての人が罪を犯した、死による支配:代表制(1214節)

 創世記において、最初のひとであるアダムは、神が食べてはならないと命じられた善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。ここに現れている罪は、神を神としない罪。神の言葉を神の言葉として聞かない罪。神を中心とせず、自分の思いを中心とする背きの罪でした。この罪によって、人類に死が入り、人間は神と永遠に生きることのできる恵みを失ってしまいました。そしてアダムは全人類の代表あるいはかしらとして生きていたために、彼個人の罪としてだけでなく、人類全体の罪としてその後に生まれてくるすべての人類が罪の中に生まれるようになったのでした。12節の言葉は、まさにこのことを示しています。「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって市が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」

 

 これを「代表制」と表現します。また、これはアダムの罪は私と無関係だから私は罪を犯してはいません!と主張するわけにもいかないのです。人類の代表としてのアダムが罪を犯したとき、私たちもアダムのうちにあって罪の影響を受け、結果として私たちも生まれながらに自分自身で罪の中に生きているからです。神を神とせず、神の言葉を神の言葉として従わず、神を中心としないで自分の思いを中心とする背きの罪。まさに全人類がこの罪の中に、呼吸するかの如く自然に生まれてくるからです。この仕組みは1314節にあるように、律法が与えられる以前の人々でさえも死んだことからわかります。律法はモーセに与えられたものです。しかしアダムからモーセの間の人間も、律法がありませんでしたが神の前に罪を犯し、死に、裁きを受けました。死は、その人が罪を犯して生きたことの目に見える裁きです。律法によって罪が明らかになりましたが、アダムからモーセの間にもすべての人間は罪を犯していたのです。

 ただここで注目しているのは、個々人が神の前で罪を犯して生きているという事実ではなく、その現実がアダムという人類の代表が罪を犯したことの影響として生まれたということです。アダム一人の違反が、後に生まれてくる全人類に罪をもたらし、すべての人が死ぬこととなりました。パウロはこれを14節で「死が支配した」と表現しました。確かに、すべての人は罪を犯さないでは生きられず、それゆえに必ず死ぬこととなりました。罪は死によって私たちを支配したのです。

 このことは、私たちが自分の努力や善行だけでは罪や死の力から逃れられないという事実をはっきりと突き付けます。私たちは生まれながらに神に反抗していて、この生き方の隅々に自分中心の病が行きわたっています。それは罪が確かに死によって私たちを支配していることで明らかなのです。まずはこの現実を認めることが、信仰の出発点です。

 

2.キリストにある恵みの賜物:(1516節)

 パウロは1517節で、代表制におけるアダムの連帯と、キリストの結合の対比を示します。アダムのひとつの違反が全人類に罪をもたらし、結果として死が人類を支配するようになりました。しかしキリストの恵みによる賜物は、「なおいっそう」満ち溢れるものなのです。なぜなら、キリストの贖いは一人の贖いが、信じるすべての人のすべての違反が義と認められるからです。

 アダムの代表制による罪が連帯になった事実について、私たちは不満を持つかもしれません。どうしてアダムのせいで私が死ななければならないのか、と。しかしそんな不満を言うことすらできないほどに、私たちは生まれながらに神に反抗しています。「これはアダムの影響であって、私の責任ではないと主張できる罪」など一つもありません。罪は、生まれながらの私たちからあまりに自然にたれ流れているのです。

 しかし、感謝なことにこのような罪の支配に対して有効な救いの措置を神は取ってくださったのです。それがこのキリストとの結びつきでした。キリストの聖いいのちは、その人の過去現在未来に犯すあらゆる罪を神の前に帳消しにしてくれるどころか、神の子どもとして愛されるものとしてくださったのです。

 だからこそ、私たちはもはや神への恐怖やさばきを恐れる思いから「救われるためにいい生き方をしなくては」と考えなくてよくなったのです。アダムの違反はすべての人を不義に定めましたが、キリストの恵みは信じる人が犯すすべての違反を義と認めてくださるからです。パウロは15節でアダムの罪の連帯よりもキリストの恵みのが「なおいっそう」満ち溢れる恵みであると語りました。同様に17節では「なおさらのこと」と、キリストにある恵みといのちの支配が、罪と死の支配よりもいっそう大きく力強いことを強調しています。それはその通りです。この真理のイメージを今日明らかに受け取りたいのです。私たちが神の前に犯した罪、それゆえに生まれた人との間の悲惨、争い、そして死という裁き。その痛みと悲しみは、しかしすべてキリストにあって拭い去られ、慰められ、癒やされ、さらには満たされ、豊かにされるのです。死からいのちに移されるというのは、マイナスがゼロになるのでなく豊かなプラスにされるという約束です。

 どうしてそう言えるのでしょうか。義認というのは、罪を帳消しにされる、すなわちマイナスがゼロになるというだけではないのでしょうか。それは、キリストを信じる信仰によって義と認められる恵みはそれだけにとどまらないからです。もう一度5:12を読みましょう。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」ここには、義と認められるだけにとどまらず、神様と和解した交わりの回復があり、キリストと結ばれた恵みの立場があり、さらには神の栄光にあずかる望みがあります。義認があるならこれらすべての恵みもあるのです。だからこそ、マイナスからゼロではなくあまりあるプラスで、神は私たちを恵みで満たそうとしておられるのです。

3.死によって支配されるのでなく、いのちにあって支配する者に

 その究極的な表現が17節です。「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」

 この言葉は、私たちが死からいのちの移されたということの意味を深く考えさせます。すべての人が必ず死ぬということを考えるとき、たしかに罪がすべての人の人生に悲惨な影響を与えたことを思い出させます。しかし、聖霊によってキリストと結び合わされた私たちは死の先に永遠の滅びではなく、キリストに似たものへと変えられて神の栄光を現わしながら永遠に生きるいのちが待っているのです。

 こんな譬えはどうでしょうか。アダムの違反は、私たちの人生に罪という月々十万円の借金を負わせました。しかし、神は、イエス・キリストの恵みによって毎月二十万円の仕送りをしてくださり、さらには死んだ後にはご自身の財産を全部神の子どもたちに相続すると決めてくださったのです。確かに私たちは生きている間罪と闘い続け、罪の刈り取りをすることもあります。しかしキリストの恵みは、それを補って余りある豊かさで、私たちの人格を愛と聖さ、喜びと平安、親切や誠実さで満たし、最期には栄光へと入れてくださるのです。

 キリストに結ばれた者においては、恵みを受けた者たちがいのちによって支配するようになるのです。先には、罪と死によって支配される者だった私たちが、今や恵みにを受けていのちにあって支配するようになるのです。それは私たちがキリストと結び合わされ、キリストの恵みが私たちに注がれ、私たちのうちにキリストのいのちが生きるようになったからなのです。

 

結び.キリストの恵みのいのちで生きる

 月々十万円の借金は確かに苦しいものですが、神からの恵みが毎月二十万円仕送りされているのなら、私たちはむしろ恵みを喜ぶのが当然なのです。自分の罪や失敗を数えるよりも、キリストの恵みの豊かさに目を向けると希望が圧倒的に強くなることを覚えてください。ましてや私たちは死と滅びで終わるのでなく、その後にいのちと栄光が待っているのです。アダムによってもたらされたどうしようもない罪の力も、キリストの恵みによって豊かに癒され、償われているのです。

 

私たちの希望は、自分の力や行いではなく、憐れみ深い一人の方、イエス・キリストにあります。私たちはしみついた罪の生き方を手放して、このキリストから受け取った豊かな恵みに生きるものになりましょう。この恵みによる生き方は、死んで終わるのではなく、永遠のいのちによってあふれるほどに報われるからです。

私たちの人生観が、どうせみんな死ぬんだからどう生きてもいい、ではなく、必ず神の栄光にあずかるのだから神の愛を楽しみながら表す生き方へと進んでいくことができますように。

日常の様座な選択や決断においても、恐れや罪の影響に支配されるのでなく、「いのちにあって支配する者」として決断しましょう。私たちは永遠にキリストの側に建てるものとされたのです。今日もキリストに目をあげて、キリストから注がれる恵みに満たされて歩みましょう。

 

2026118日主日礼拝説教

ローマ51217

「恵みと義の賜物を受けて、いのちにあって支配する」

序.神の栄光にあずかる望みの確実さ、キリストとの結合

1.アダムにあってすべての人が罪を犯した、死による支配:代表制(1214節)

2.キリストにある恵みの賜物:(1516節)

3.死によって支配されるのでなく、いのちにあって支配する者に

結び.キリストの恵みのいのちで生きる

 

Sermão do culto dominical, 18 de janeiro de 2026

Romanos 5:12–17

“Recebendo o dom da graça e da justiça, reinando na vida”

Introdução: A certeza da esperança na glória de Deus, união com Cristo

Em Romanos, capítulo 5, Paulo revela a riqueza da graça salvadora trazida pela justificação pela fé. Revelar a graça salvadora significa compreender o maravilhoso poder do tesouro que recebemos de Deus. Não importa quão boas sejam as ferramentas que possuímos, se não soubermos como usá-las, elas se tornam um desperdício de tesouro. Da mesma forma, se apenas recebermos a graça da salvação sem utilizar seu poder, sem compreendê-la, e simplesmente guardá-la em nossa bolsa e esquecê-la, podemos muito bem viver em desespero, como se nunca tivéssemos conhecido Deus.

Em 5:2, Paulo escreveu: “Nós nos regozijamos na esperança de compartilhar da glória de Deus”. Esta é a graça que os salvos receberão finalmente no reino de Deus. Eu mesmo serei transformado em uma forma gloriosa, refletindo a própria glória de Deus. Serei restaurado à imagem perfeita de Deus, completamente purificado dos efeitos do pecado, e viverei eternamente com Deus. A passagem de hoje também contém um ensinamento vital para garantir essa jornada de salvação que leva à glorificação. É a graça da “união espiritual com Cristo”. E para entender essa graça, devemos primeiro entender corretamente nossa solidariedade com Adão, o primeiro homem.


1. Todos pecaram em Adão; a morte reinou por meio de Adão: Representação (vv. 12–14)

Em Gênesis, Adão, o primeiro homem, pegou e comeu do fruto da árvore do conhecimento do bem e do mal, que Deus lhe havia ordenado que não comesse. O pecado revelado aqui é o pecado de não reconhecer Deus como Deus. É o pecado de não ouvir a palavra de Deus como palavra de Deus. Foi o pecado da rebelião, centrando-se não em Deus, mas nos próprios pensamentos. Por meio desse pecado, a morte entrou na humanidade, e a humanidade perdeu a graça de viver eternamente com Deus. Além disso, como Adão vivia como representante ou cabeça de toda a humanidade, não foi apenas seu pecado pessoal; tornou-se o pecado de toda a humanidade. Consequentemente, todas as gerações subsequentes nasceram em pecado. As palavras do versículo 12 expressam isso com precisão: “Portanto, assim como por um só homem entrou o pecado no mundo, e pelo pecado a morte, assim também a morte se espalhou a todos os homens, porque todos pecaram”.


Isso é chamado de “princípio da representação”. Além disso, isso significa que não se pode afirmar: “O pecado de Adão não tem nada a ver comigo, então eu não pequei!” Quando Adão, como representante da humanidade, pecou, nós também estávamos em Adão e, portanto, sujeitos à influência do pecado. Consequentemente, nascemos vivendo em pecado desde o início. O pecado da rebelião: não reconhecer Deus como Deus, não obedecer à Sua palavra como palavra de Deus, não nos centrarmos em Deus, mas em nossos próprios pensamentos. Na verdade, toda a humanidade nasce neste pecado tão naturalmente quanto respira. Esse mecanismo é evidente pelo fato de que mesmo aqueles que viveram antes da Lei ser dada morreram, conforme declarado nos versículos 13-14. A Lei foi dada a Moisés. No entanto, o povo entre Adão e Moisés, embora sem a Lei, pecou diante de Deus, morreu e enfrentou o julgamento. A morte é o julgamento visível daquela pessoa que viveu em pecado. Embora a lei revelasse o pecado, todas as pessoas entre Adão e Moisés já haviam pecado.

O que é enfatizado aqui, entretanto, não é apenas o fato de que os indivíduos vivem em pecado diante de Deus, mas que essa realidade surgiu como consequência do pecado de Adão, o representante da humanidade. O único ato de desobediência de Adão trouxe o pecado sobre toda a humanidade ainda por nascer, resultando na morte de todas as pessoas. Paulo expressou isso no versículo 14 como “a morte reinou”. De fato, todas as pessoas não podiam viver sem pecar e, portanto, estavam inevitavelmente destinadas a morrer. O pecado reinava sobre nós por meio da morte.

Esse fato nos confronta de forma gritante com a realidade de que não podemos escapar do poder do pecado e da morte apenas por nossos próprios esforços ou boas ações. Nascemos rebeldes contra Deus, e essa doença egocêntrica permeia todos os aspectos de nossa vida. Isso fica evidente no fato de que o pecado realmente reina sobre nós por meio da morte. Reconhecer essa realidade é o ponto de partida da fé.


2. O dom da graça em Cristo: (versículos 15-16)

 Nos versículos 15-17, Paulo contrasta a solidariedade de Adão na representação com a união em Cristo. O único ato de desobediência de Adão trouxe o pecado sobre toda a humanidade, resultando no domínio da morte sobre a humanidade. No entanto, o dom da graça por meio de Cristo é ainda mais abundante. Pois a redenção de Cristo — a redenção de um — justifica todas as transgressões de todos os que crêem.

 Podemos sentir ressentimento pelo fato de que o pecado representativo de Adão se tornou nosso fardo comum. Por que devo morrer por causa de Adão? No entanto, somos tão inerentemente rebeldes contra Deus que nem mesmo podemos expressar tais reclamações. Não há um único pecado que possamos alegar ser “influência de Adão, não minha responsabilidade”. O pecado flui de forma muito natural de nossa própria natureza.

 Felizmente, porém, Deus providenciou um remédio eficaz contra esse domínio do pecado. Esse remédio é a união com Cristo. A vida santa de Cristo não apenas cancela todos os pecados que uma pessoa comete no passado, presente e futuro diante de Deus, mas também a torna amada como filha de Deus.

Portanto, não precisamos mais pensar: “Devo viver bem para ser salvo”, por medo de Deus ou temor do julgamento. Pois assim como a transgressão de Adão condenou todos à injustiça, a graça de Cristo declara justas todas as transgressões cometidas por aqueles que crêem. No versículo 15, Paulo declarou que a graça de Cristo é “muito mais” abundante do que a solidariedade do pecado de Adão. Da mesma forma, o versículo 17 enfatiza “muito mais” – que o domínio da graça e da vida em Cristo é muito maior e mais poderoso do que o domínio do pecado e da morte. Isso é realmente verdade. Hoje, desejo receber claramente essa imagem da verdade. Os pecados que cometemos diante de Deus e a miséria, a contenda e o julgamento da morte que surgiram entre nós. No entanto, toda essa dor e tristeza são apagadas, consoladas, curadas e, além disso, preenchidas e tornadas abundantes em Cristo. Ser transferido da morte para a vida não é apenas uma promessa de que os negativos se tornem zero, mas de ser transformado em um positivo rico.

 Como podemos dizer isso? A justificação não é meramente o cancelamento do pecado, ou seja, a redução do negativo a zero? É porque a graça de ser considerado justo pela fé em Cristo não para por aí. Vamos ler Romanos 5:1-2 mais uma vez: “Portanto, tendo sido justificados pela fé, temos paz com Deus por meio de nosso Senhor Jesus Cristo, por quem temos acesso pela fé a esta graça na qual estamos firmes. E nos regozijamos na esperança de compartilhar da glória de Deus.” Aqui vemos não apenas a justificação, mas também a restauração da comunhão por meio da reconciliação com Deus, a posição de graça unida a Cristo e, além disso, a esperança de compartilhar da glória de Deus. Onde há justificação, todas essas bênçãos também estão presentes. É precisamente por isso que Deus procura nos encher de graça – não apenas passando de um negativo para um zero, mas com um positivo transbordante.

3. Não governados pela morte, mas governantes na vida

A expressão máxima disso é encontrada no versículo 17: “Se, pela ofensa de um, a morte reinou por meio desse único, quanto mais aqueles que recebem a abundância da graça e o dom da justiça reinarão na vida por meio de um único, Jesus Cristo”.

Essas palavras nos levam a refletir profundamente sobre o significado de nossa transferência da morte para a vida. Quando consideramos que todas as pessoas devem morrer, isso certamente nos lembra como o pecado trouxe consequências trágicas para todas as vidas humanas. No entanto, nós, que estamos unidos a Cristo por meio do Espírito Santo, não esperamos a destruição eterna após a morte, mas a vida que perdura para sempre — uma vida transformada para ser como Cristo, revelando a glória de Deus.

Considere esta analogia: a transgressão de Adão sobrecarregou nossas vidas com uma dívida mensal de dez mil ienes em pecado. No entanto, Deus, por meio da graça de Jesus Cristo, nos envia uma mesada mensal de duzentos mil ienes. Além disso, Ele decretou que, após a morte, toda a Sua herança será legada aos Seus filhos. Certamente, continuamos a lutar contra o pecado ao longo de nossas vidas e, às vezes, colhemos seus frutos. Mas a graça de Cristo compensa isso abundantemente, enchendo nosso caráter de amor e santidade, alegria e paz, bondade e sinceridade, levando-nos, em última análise, à glória.

 Naqueles que estão unidos a Cristo, aqueles que receberam a graça passam a reinar por meio da vida. Enquanto antes éramos governados pelo pecado e pela morte, agora recebemos a graça e reinamos na vida. Isso porque nos unimos a Cristo, a graça de Cristo foi derramada sobre nós e a vida de Cristo agora vive dentro de nós.


Conclusão: Viver pela Vida de Graça de Cristo

Uma dívida mensal de dez mil ienes é certamente onerosa, mas se a graça de Deus nos envia vinte mil ienes por mês, é natural que nos regozijemos nessa graça. Lembre-se: em vez de contar nossos pecados e falhas, fixar nossos olhos na riqueza da graça de Cristo torna a esperança extremamente forte. Além disso, não terminamos em morte e destruição; a vida e a glória nos aguardam além disso. O poder do pecado trazido por Adão, que parecia totalmente sem esperança, foi ricamente curado e expiado pela graça de Cristo.


Nossa esperança não está em nossa própria força ou ações, mas naquele que é misericordioso, Jesus Cristo. Deixemos de lado nossos hábitos pecaminosos arraigados e tornemo-nos aqueles que vivem pela graça abundante recebida deste Cristo. Pois esta vida vivida pela graça não termina na morte, mas é recompensada abundantemente com a vida eterna.

Que nossa visão da vida vá além da noção de que, como todos morremos de qualquer maneira, pouco importa como vivemos, rumo a uma vida que se deleita em expressar o amor de Deus, sabendo que certamente compartilharemos de Sua glória.

Mesmo nas escolhas e decisões comuns da vida cotidiana, decidamos não como aqueles dominados pelo medo ou pela influência do pecado, mas como aqueles que reinam na vida. Fomos estabelecidos para permanecer eternamente ao lado de Cristo. Hoje, levantemos nossos olhos para Cristo e andemos cheios da graça derramada por Ele.


Sermão do culto dominical, 18 de janeiro de 2026

Romanos 5:12–17

“Reinando na vida através do dom da graça e da justiça”

Introdução: A certeza da esperança em compartilhar a glória de Deus, união com Cristo

1. Todos pecaram em Adão; domínio através da morte: Princípio representacional (vv. 12–14)

2. O dom da graça em Cristo: (vv. 15–16)

3. Não governados pela morte, mas tornando-nos aqueles que reinam na vida

Conclusão. Vivendo pela vida da graça de Cristo