2026年3月15日主日礼拝説教 ローマ人への手紙6:5~14 「罪の奴隷から、神の子どもの自由へ」
2026年3月15日主日礼拝説教
ローマ人への手紙6:5~14
「罪の奴隷から、神の子どもの自由へ」
序.実質的に自由「である」ことと、自由だと「感じる」ことと、自由だと「信じて生きる」ことの違い
以前、鎖につながれた象の話をしました。覚えておられるでしょうか。
サーカスなどで登場することのある象ですが、大人の象の体重と力は非常に大きなものです。しかし実際には華奢な鎖一つで言うことを聞かせることができるのです。どうすればそんなことができるのか。その方法は象が小さい子どもの時から鎖でつないでおくことだそうです。すると、子どもの象の力ではその鎖を自力では引きちぎることは出来ません。そのうち、象の心の中には鎖は絶対に引きちぎれないものだという信念が生まれ、大人になった後でももはやその鎖をちぎろうとしないというのです。
このことは今日の聖書箇所にとてもよく合致する話だと思うのです。
パウロは救いを受け取ってキリストと結ばれた人は、もはや罪の奴隷ではないと高らかに告げています。しかし私たちの信念はそう簡単には塗り替えることができません。自由になったのに、どうしたらいいのかわからない。長年の習慣が体に染みついている。解放されたのに、鎖につながれたように奴隷として生き続けている。これが、パウロが今日の箇所で語りかけている私たちの姿かもしれません。キリストによって罪から解放されたのに、まだみえない罪の鎖でつながれたようにその領域から抜け出せないでいる。
しかし、パウロは言います。「もうあなたは奴隷ではない。戻らなくていい。あなたはすでに解放されて自由なのだから。その手足を、自由な神の子どもとして使いなさい、と」新しい神の子どもの自由を現わして生きるために必要なことは何なのでしょう。パウロの言葉とともに考えたいと思います。
1.古い自己はキリストとともにすでに死に、新しいいのちを受けた自己が今既に生きている(5–10節)
パウロはまず、事実を宣言します。
キリストと結ばれた私たちは、キリストの死にあずかり、キリストの復活にあずかっています(5節)。これは将来の話ではありません。すでに起きた現実です。
6節でパウロは言います。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」と。「古い人」とは、キリストを信じる以前の私たちの生き方、罪に振り回される自己のことです。罪に支配され、罪を愛し、罪に向かって走り続けていた私たちです。その古い自己はすでに死んだのです。
パウロはこのことを「罪のからだが滅ぼされた」と言います。私たちはともすると、「信仰を持っても、この体の欲や罪の性質はどうにもならない。天国に行くまでこのからだは罪に負け続ける」と考えがちです。それこそある種の謙遜のニュアンスで、「私は罪から離れることのできない罪びとです」ということさえあります。しかし、神を知らない人が罪を犯して滅びに向かうことと、神とともに生きるひとが罪を犯しながらも永遠のいのちに向かうことには決定的な違いがあるのです。なぜなら、キリストに結ばれた人は、罪によって縛られ服従させられていた「罪のからだ」がすでに死んでおり、新しい神の子どもとしてのいのちを生きているからです。霊的な意味で、私たちはもはや罪の奴隷ではないからです。
7節の言葉は力強いです。「死んだ者は、罪から解放されています。」8–10節では、キリスト自身の死と復活がその根拠として示されます。キリストは死から復活し、もはや死なない。死はキリストをもはや支配しない。これは当然のこととして聞こえます。
しかし重要なのは、私たちも同様であるということです。キリストと結ばれた私たちも、罪と死の支配の外に出ているのです。この肉体そのものは、地上で死んでも、永遠の神の国で生きるものとされました。死が滅びではなく、いのちへの通過点となったのです。
ここで大切なことがあります。私たちはある時はキリストの復活のいのちにあずかっていると感じ、またある時は以前の状態に引き戻されたように感じることがあります。しかしパウロは言います。そういうことはないのです、と。キリストは復活してもはや死の下にはいない。であるなら、キリストに結ばれた私たちも、その事実は変わらないのです。私たちの感覚が前向きでも後ろ向きでも、キリストに結ばれたならその事実は永遠に変わりません。真実に救われた人は罪と死の支配から解放され、永遠に神のものとされたのです。
これは私たちが努力して勝ち取ったことではありません。キリストが成し遂げ、信仰によって私たちに与えられた現実です。それもすべての真実に救われたクリスチャンに与えられた現実の恵みです。
2.自分が何者かを、知りなさい(11節)
さて、ここまでの言葉を読みながら、疑問がわいた方がいるのではないでしょうか。
「古い自己は死んだ。罪の奴隷ではなくなった。罪から解放されている。これがクリスチャンの現在の霊的な状況なのだ。」そういわれても、では実際に現在進行形で罪の影響から離れられず、罪を犯してしまう私の現状はどう説明されるのか、と。この疑問にも取り組んでいきたいと思います。
そのために今日の箇所のカギとなる節が11節です。11節は短い節ですが、説教全体のちょうつがいです。
「同じように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してキリスト・イエスにあって生きている者だと、認めなさい。」
「認めなさい」という命令が来ます。ギリシャ語では「ロギゾマイ」、計算する、事実として受け取る、という意味の言葉です。つまり、あなたの心と体は、すでに古い自己から解放されている、鎖が外されているということを正しく確認し、事実として受け入れなさいということ。これは出来ないことを出来るんだと自己暗示しなさいということではありません。「自分は強い、自分は自由だ」と思い込もうとすることでもありません。そうではなく、すでに真実であることを事実として受け取りなさい、という命令です。
最初の象の譬えで言うならば、あなたの心と習慣は「この鎖につながれた生き方から抜け出すのが怖い、どうしたらいいのかわからない」と言っているかもしれない。しかし、「すでに引き留める力を持っていない鎖を引きちぎって、あなたは新しいキリストのいのちの力を実践し、体験し、味わって生きて行きなさい」と招いているのです。
あなたが罪の誘惑を感じるとき、あなたが以前と同じパターンに引き戻されそうになるとき、パウロはこう言います。「立ち止まって、自分が何者かを思い出しなさい。過去のあなたはキリストにあって死んでいる。今のあなたはキリストにあって生きている。あなたのなかには聖霊が生きている、と。」
しかしここで再び疑問が顔をもたげます。「それでも私は今もやはり罪を犯している。本当に解放されているのか。」と。
先取になりますが、パウロ自身が7章でこの緊張を正直に告白しています。「私は自分のしたいことをせず、したくないことをしている」と。つまりパウロも、この矛盾した現実の中に生きていました。
しかしここで大切な区別があります。「罪を犯してしまうこと」と、「霊的に罪に支配されていきていること」は、全く別のことなのです。キリストを知らない人も罪を犯します。クリスチャンも罪を犯します。外側から見れば同じに見えます。しかし根本が違います。
罪に支配されている人は、罪に向かって走り、多くの場合その罪深さを自覚せず、また仮に気が付いても抜け出せず、罪の生活に居心地の良さを感じます。そして最終的には死と滅びへと向かいます。
しかしクリスチャンは、罪を犯しながらも、そこに痛みと葛藤があり、御霊によって引き戻されます。同じ罪の鎖の力を感じていたとしても、実際にその力に引き寄せられて罪にとどまっている人と、御霊に引き戻されながら抵抗している人とでは全く別の状態なのです。
さらに言えば、「罪を犯したくないのにしてしまう」というその葛藤そのものが、すでに変化の証拠でもあります。罪に完全に支配された人は、その罪を「したくない」とは思いません。私たちの中に住む聖霊は、罪に気が付くと葛藤を生み、忍耐と悔い改めを通して神様へと立ち返る道へと導いてくださるのです。
ですから、この「認めなさい」という命令は、完全になってから認めなさいということではないのです。罪や誘惑や争いの葛藤の中にあるまさに今、あなたはすでにキリストにあって自由な者だという事実を、受け取りなさいということです。なぜならその自覚こそが、実際に私たちが愚かさから離れ、罪を悔い改め、神の恵みを受け取っていくための助けとなるからです。
3.自由を使いなさい。神に向かって(12–14節)
さて、12節以降からパウロの語り口が変わります。命令が続きます。しかしこれは決して義務の命令ではなく、11節の自覚に基づく神の子の自由への招待なのです。
12節「死ぬべきからだを罪に支配させてはいけません」「からだの欲望に従ってはいけません」13節「手足を不義の道具として罪に献げてはいけません」
私たちはときに、心や霊では神を信じているが、このからだはどうにもならないと考えがちです。しかしパウロはそう言いません。罪のからだはすでに死んだのですから、このからだもまた、神に向かって用いることができる、むしろそのために用いるべきだと言うのです。心が新しくされ、この体をも神の恵みにふさわしく用いるように葛藤しつつも選び取って行きなさい、と。
その直後にパウロは言います。13節後半「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」(13節後半)。
ここに自由の方向が示されています。罪の奴隷でなくなった私たちは、ぼーっと立ち尽くすのではありません。また、奴隷でなくなったので、自由な心でまた罪に服従するというのでは意味がありません。私たちが向かうのは、罪から離れて神に向かって生きるという、新しい、そして人間本来の生き方へと進んでいくのです。
手を、足を、時間を、言葉を、神に向かって使う。これは重荷ではありません。古い生き方からの葛藤がありますが、むしろこれが神の造られた人間本来の姿です。神のかたちに造られ、神とともに生きるために造られた者として、ようやく本来の生き方に戻ること、それがここで言われていることです。
14節でパウロは締めくくります。「罪はあなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。」
キリストを知らず律法の下にある者は「〜しなければ罰せられる」という中で生きます。しかもひとは自分の力では律法の要求に従えないのです。
しかしキリストの恵みの下にある者は、「すでに愛されている、すでに赦されている」という土台の上で、神様に向かって生きていきます。罪を犯してしまうとしても、生き方の方向性がすでに根本から変わっており、最終的にたどり着くところも全く違うのです。すでにキリストにある恵みと自由を受け取った私たちが、罪の支配から解放されて罪を離れ、神に向かって生きるというこの現実を心に思い描きましょう。
結び.罪に服従させられる生き方に戻らなくてよい
最後にもう一度、すでに鎖を断ち切って生きることのできる象の姿を想像してみましょう。
彼がその鎖の領域から自分の足で踏みだすのには勇気がいるかもしれません。これまでと同じようにその縛られた場所にとどまり、飼い主の命令に振り回される生き方に慣れてしまっていて、新しい生き方が想像もつかないかもしれません。しかし、実際には彼の中には自由に生きる力があり、また鎖は縛る力を持っていないのです。彼は実質的に自由なのです。
パウロは言います。「行きなさい。キリストにある自由の中を歩きなさい。あなたには、神に喜ばれる方法で自分を用いる、生き方がある」と。
私たちも同じです。罪の習慣が残っていても、誘惑が来ても、葛藤があっても、私たちのキリストにある立場は変わりません。パウロは言います。「まず認めなさい。あなたはすでにキリストにあって罪と死から自由であると。そしてその自由を、神に向かって生きるために使いなさい。」今日この礼拝の場から、その自由の中を歩み始めましょう。
2026年3月15日主日礼拝説教
ローマ人への手紙6:5~14
「罪の奴隷から、神の子どもの自由へ」
序.実質的に自由「である」ことと、自由だと「感じる」ことと、自由だと「信じて生きる」ことの違い
1.古い自己はキリストとともにすでに死に、新しいいのちを受けた自己が今既に生きている(5–10節)
2.自分が何者かを、知りなさい(11節)
3.自由を使いなさい。神に向かって(12–14節)
結び.罪に服従させられる生き方に戻らなくてよい
Sermão do Culto Dominical de 15 de março de 2026
Efésios 6:5-14
“Da escravidão do pecado à liberdade dos filhos de Deus”
Introdução. A diferença entre “ser” livre na prática, “sentir-se” livre e “viver acreditando” que se é livre
Anteriormente, falei sobre a história do elefante acorrentado. Vocês se lembram?
Os elefantes costumam aparecer em circos e outros locais, e o peso e a força de um elefante adulto são enormes. No entanto, na verdade, basta uma única corrente frágil para fazê-lo obedecer. Como isso é possível? Dizem que o segredo está em mantê-lo acorrentado desde que é filhote. Assim, com a força de um elefante filhote, ele não consegue romper a corrente sozinho. Com o tempo, nasce no coração do elefante a convicção de que a corrente é algo que ele nunca conseguirá romper, e mesmo depois de adulto, ele já nem tenta mais quebrá-la.
Acho que essa história se encaixa muito bem na passagem bíblica de hoje.
Paulo proclama em voz alta que quem recebeu a salvação e se uniu a Cristo não é mais escravo do pecado. No entanto, nossa convicção não pode ser alterada tão facilmente. Apesar de termos sido libertados, não sabemos o que fazer. Os hábitos de longa data estão profundamente enraizados em nós. Apesar de termos sido libertados, continuamos vivendo como escravos, como se ainda estivéssemos acorrentados. Talvez essa seja a imagem que Paulo nos apresenta na passagem de hoje. Apesar de termos sido libertados do pecado por Cristo, ainda não conseguimos sair dessa condição, como se estivéssemos presos por correntes invisíveis do pecado.
No entanto, Paulo diz: “Você já não é mais escravo. Não precisa voltar. Pois você já foi libertado e é livre. Use seus membros como filho livre de Deus”, diz ele. O que é necessário para vivermos de forma a manifestar a liberdade dos novos filhos de Deus? Gostaria de refletir sobre isso junto com as palavras de Paulo.
1. O velho eu já morreu com Cristo, e o eu que recebeu a nova vida já está vivo (versículos 5–10)
Paulo começa declarando um fato.
Nós, unidos a Cristo, participamos da morte de Cristo e da ressurreição de Cristo (versículo 5). Isso não é algo que acontecerá no futuro. É uma realidade que já se consumou.
No versículo 6, Paulo diz: “O nosso velho homem foi crucificado com Cristo”. O “velho homem” refere-se ao nosso modo de vida antes de crermos em Cristo, ao eu dominado pelo pecado. Somos nós, que éramos dominados pelo pecado, amávamos o pecado e corríamos continuamente em direção a ele. Esse antigo eu já morreu.
Paulo se refere a isso dizendo que “o corpo do pecado foi destruído”. Temos a tendência de pensar: “Mesmo tendo fé, não há nada a fazer contra os desejos deste corpo e a natureza pecaminosa. Até chegarmos ao céu, este corpo continuará sendo vencido pelo pecado”. Isso, com um certo tom de humildade, chega a significar: “Sou um pecador incapaz de me afastar do pecado”. No entanto, há uma diferença decisiva entre alguém que não conhece a Deus cometer pecados e caminhar para a perdição, e alguém que vive com Deus, mesmo cometendo pecados, caminhar para a vida eterna. Isso porque, para quem está unido a Cristo, o “corpo do pecado” — que antes o mantinha preso e subjugado pelo pecado — já morreu, e agora vive a vida como novo filho de Deus. Em sentido espiritual, não somos mais escravos do pecado.
As palavras do versículo 7 são poderosas: “Quem morreu está livre do pecado.” Nos versículos 8–10, a morte e a ressurreição do próprio Cristo são apresentadas como fundamento disso. Cristo ressuscitou da morte e não morrerá mais. A morte não domina mais a Cristo. Isso soa como algo óbvio.
Mas o importante é que o mesmo se aplica a nós. Nós, unidos a Cristo, também estamos fora do domínio do pecado e da morte. Este corpo, mesmo que morra na terra, foi destinado a viver no reino eterno de Deus. A morte deixou de ser a perdição e passou a ser um ponto de passagem para a vida.
Há algo importante a ser destacado aqui. Às vezes, sentimos que estamos participando da vida da ressurreição de Cristo; outras vezes, sentimos como se tivéssemos sido levados de volta ao estado anterior. Mas Paulo diz: isso não acontece. Cristo ressuscitou e não está mais sob o domínio da morte. Sendo assim, para nós, que estamos unidos a Cristo, esse fato permanece inalterável. Seja nossa percepção positiva ou negativa, se estamos unidos a Cristo, esse fato não mudará para sempre. Quem foi verdadeiramente salvo foi libertado do domínio do pecado e da morte e tornou-se para sempre propriedade de Deus.
Isso não é algo que conquistamos com nossos esforços. É uma realidade que Cristo realizou e que nos foi concedida pela fé. É também a graça real concedida a todos os cristãos verdadeiramente salvos.
2. Saiba quem você é (versículo 11)
Agora, ao ler as palavras até aqui, talvez alguns tenham surgido dúvidas.
“O velho eu morreu. Não sou mais escravo do pecado. Estou liberto do pecado. Essa é a situação espiritual atual do cristão.” Mesmo assim, como explicar a minha situação atual, em que, na prática, não consigo me afastar da influência do pecado e acabo pecando? Gostaria de abordar essa dúvida também.
Para isso, o versículo-chave da passagem de hoje é o versículo 11. O versículo 11 é curto, mas é a espinha dorsal de toda a pregação.
“Da mesma forma, reconheçam que vocês estão mortos para o pecado e vivos para Deus em Cristo Jesus.”
Segue-se a ordem “reconheçam”. Em grego, “logizomai” é uma palavra que significa calcular, aceitar como fato. Em outras palavras, significa que vocês devem confirmar corretamente que seu coração e seu corpo já estão libertos do antigo eu, que as correntes foram quebradas, e aceitar isso como um fato. Isso não significa que você deva fazer auto-sugestão de que consegue fazer o que não consegue. Também não significa que você deva tentar se convencer de que “sou forte, sou livre”. Não é isso; trata-se de uma ordem para que você aceite como fato o que já é verdade.
Para usar a parábola do elefante do início, talvez seu coração e seus hábitos estejam dizendo que têm medo de escapar desse modo de vida acorrentado e que não sabem o que fazer. No entanto, ele está convidando você a romper essas correntes que já não têm mais poder para retê-lo, e a viver praticando, experimentando e saboreando o poder da nova vida em Cristo.
Quando você sentir a tentação do pecado, quando estiver prestes a ser puxado de volta ao mesmo padrão de antes, Paulo diz o seguinte: “Pare e lembre-se de quem você é. O seu eu passado está morto em Cristo. O seu eu atual está vivo em Cristo. O Espírito Santo vive em você.”
Mas aqui surge uma dúvida sincera: “Mas eu ainda cometo pecados. Será que estou realmente liberto?”
Antecipando-me, o próprio Paulo confessa honestamente essa tensão no capítulo 7: “Não faço o que quero, mas faço o que não quero”. Ou seja, Paulo também vivia nessa realidade contraditória.
Mas há aqui uma distinção importante. Cometer pecado e viver sob o domínio espiritual do pecado são coisas totalmente diferentes. Quem não conhece Cristo também comete pecado. Os cristãos também cometem pecado. Visto de fora, parece a mesma coisa. Mas a essência é diferente. Quem está sob o domínio do pecado corre em direção ao pecado, na maioria das vezes sem perceber a gravidade do que faz; e mesmo que perceba, não consegue escapar, sentindo-se à vontade nessa vida de pecado. E, no fim das contas, caminha para a morte e a perdição.
Mas o cristão, embora cometa pecados, sente dor e conflito, e é trazido de volta pelo Espírito Santo. Mesmo que sinta o poder das correntes do pecado, a situação de quem é realmente atraído por esse poder e permanece no pecado é totalmente diferente daquela de quem resiste enquanto é trazido de volta pelo Espírito Santo.
Além disso, o próprio conflito de “cometer o pecado mesmo não querendo” já é uma prova de mudança. Quem está completamente dominado pelo pecado não pensa em “não querer” cometê-lo. O Espírito Santo que habita em nós, ao perceber o pecado, gera conflito e nos guia, por meio da paciência e do arrependimento, para o caminho de volta a Deus.
Portanto, essa ordem de “reconheça” não significa que você deve reconhecer só depois de se tornar perfeito. Significa que, exatamente neste momento, em meio ao conflito do pecado, da tentação e da contenda, você deve aceitar o fato de que já é livre em Cristo. Pois é justamente essa consciência que nos ajuda a nos afastar da insensatez, a nos arrepender do pecado e a receber a graça de Deus.
3. Use a liberdade. Em direção a Deus (versículos 12–14)
A partir do versículo 12, o tom de Paulo muda. Seguem-se ordens. No entanto, não se trata de ordens de obrigação, mas de um convite à liberdade dos filhos de Deus, baseado na consciência do versículo 11.
Versículo 12: “Não deixe que o corpo, que está sujeito à morte, seja dominado pelo pecado”; “Não obedeça aos desejos da carne”. Versículo 13: “Não ofereça os seus membros como instrumentos de injustiça ao pecado”.
Às vezes, tendemos a pensar que, embora creiamos em Deus com o coração e com o espírito, não há nada a fazer com este corpo. Mas Paulo não diz isso. Como o corpo do pecado já está morto, ele afirma que este corpo também pode ser usado para Deus; melhor ainda, deve ser usado para isso. Ele diz: “Renovem-se no espírito e, mesmo em meio ao conflito, escolham usar este corpo de maneira digna da graça de Deus”.
Logo em seguida, Paulo diz: Segunda parte do versículo 13: “Apresentem-se a Deus como aqueles que foram ressuscitados dentre os mortos, e ofereçam a Deus os seus membros como instrumentos de justiça” (segunda parte do versículo 13).
Aqui está indicada a direção da liberdade. Não mais escravos do pecado, não devemos ficar parados, sem rumo. Além disso, não faz sentido, só porque deixamos de ser escravos, voltar a nos submeter ao pecado com um coração livre. O que buscamos é avançar para um modo de vida novo e inerente ao ser humano: afastar-nos do pecado e viver voltados para Deus.
Usar as mãos, os pés, o tempo e as palavras voltados para Deus. Isso não é um fardo. Embora haja conflitos com o antigo modo de vida, essa é, na verdade, a forma original do ser humano criada por Deus. Como seres criados à imagem de Deus e para viver com Ele, finalmente retornar ao modo de vida original — é isso que está sendo dito aqui.
No versículo 14, Paulo conclui: “Pois o pecado não terá domínio sobre vocês. Vocês não estão sob a lei, mas sob a graça.”
Aqueles que não conhecem a Cristo e estão sob a lei vivem sob a ameaça de “se não fizerem isso, serão punidos”. Além disso, o ser humano não consegue, por suas próprias forças, cumprir as exigências da lei.
Mas aqueles que estão sob a graça de Cristo vivem voltados para Deus, com base no fato de que “já são amados, já são perdoados”. Mesmo que cometam pecados, a direção de sua vida já mudou radicalmente, e o destino final a que chegarão também será totalmente diferente. Nós, que já recebemos a graça e a liberdade em Cristo, vamos imaginar em nossos corações essa realidade: sermos libertos do domínio do pecado, nos afastarmos do pecado e vivermos voltados para Deus.
Conclusão. Não é preciso voltar a uma vida de submissão ao pecado
Por fim, vamos imaginar mais uma vez a figura do elefante que já conseguiu romper as correntes e viver livremente.
Talvez seja preciso coragem para ele dar o primeiro passo com suas próprias patas para fora daquele espaço cercado pelas correntes. Talvez ele esteja tão acostumado a permanecer naquele lugar de cativeiro, como sempre fez, e a ser manipulado pelas ordens do dono, que nem consiga imaginar um novo modo de vida. No entanto, na verdade, ele possui a força para viver livremente, e as correntes não têm o poder de prendê-lo. Ele é, na essência, livre.
Paulo diz: “Vá. Ande na liberdade que está em Cristo. Você tem um modo de vida em que pode se dedicar de uma maneira que agrada a Deus”.
O mesmo vale para nós. Mesmo que os hábitos pecaminosos permaneçam, que venham as tentações ou que haja conflitos, nossa posição em Cristo não muda. Paulo diz: “Primeiro, reconheça: você já está em Cristo e é livre do pecado e da morte. E use essa liberdade para viver voltado para Deus.” A partir deste culto hoje, vamos começar a caminhar nessa liberdade.