2026年3月29日受難節主日礼拝説教 ヨハネの福音書19:28〜30 十字架の上のキリスト
2026年3月29日受難節主日礼拝説教
ヨハネの福音書19:28〜30
十字架の上のキリスト
序.十字架の上のキリスト
ヨハネは、イエス・キリストの十字架上での最後の言葉を二つ書き記しました。「わたしは渇く」そして「完了した」。
この言葉を聞いたとき、皆さんはどんな印象を持ちますか。渇くという苦しみの言葉、さらに終わったというあきらめの言葉に聞こえるかもしれません。渇きながらすべて終わりだと言われた。しかし実際はそうではないのです。
これはもうすべてが終わってしまった、一巻の終わりだという諦めの言葉ではありませんでした。むしろキリストが私たちの代わりに苦しみを引き受ける、救いの御業が完了したという意味です。それは新しい恵みの時代の始まりの宣言でした。「私は渇く」、そして「完了した」。そしてキリストはこの十字架の贖いをご自身の意志で最後まで成し遂げられたのです。今日はキリストの十字架の贖いの御業に思いを馳せたいと思います。
1.「わたしは渇く」(28節) 人として生きる苦しみを味わってくださった
まず28節を見てください。「わたしは渇く」とイエスは言われました。
ヨハネはここに大切な一言を添えています。「聖書が成就するために」と。これは詩篇22篇や69篇に書かれている言葉の成就です。そこには、神のしもべが父なる神のみこころのなかで見捨てられたような状況におかれる光景が描かれています。力は失われ、乾いた舌が口の上あごにくっつく、と。この時、救い主イエス様の渇きは、実際の身体的な苦しみであっただけでなく、永遠において神が定めておられた救いのご計画が、歴史の中でついに実現するという瞬間でした。
ですからイエス様は、この出来事をただの偶然の苦しみとしてではなく、「すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『渇く』」と言われたのでした。
神であるお方が人として生きることの苦しみを味わってくださった。それだけではなく、父なる神様に最も近くにいた子なるキリストが、私たちの罪の身代わりとして、父なる神から見捨てられたのでした。父の御心とはいえ、愛した弟子たちにも裏切られて、神に見捨てられ、孤独の中で痛みと渇きの苦しみとともに裁きを潜り抜けてくださったのでした。
私たちにも渇きがあります。孤独の渇き。誰かに分かってもらえない渇き。何かが足りない、でも何が足りないのかも分からないような渇き。また祈っても何も返ってこないと感じるときの、神様に対する渇き。私たちの心には今日もさまざまな渇きがあります。
イエスは、その渇きを知らないお方ではありません。父なる神の愛を最も深く知っているイエス様が、父なる神の愛から最も遠くに引き離されるという罪の裁きを、十字架の上で経験してくださったからです。イエス・キリストご自身は罪を犯されませんでしたが、罪びとの中に生き、罪びとの裁きを身代わりに受け、私たちと同じように渇いたお方として私たちの魂の渇きに寄り添ってくださるお方なのです。まずは、キリストが私たちの経験するあらゆる渇きをともに知ってくださるお方であることを深く心に留めたいと思います。
2.「完了した」(30節前半) 信仰者の罪の贖いを最後まで成し遂げてくださった
次に目を留める言葉は30節です。「イエスは酸いぶどう酒を受けとると、『完了した』と言われた。」
完了したという意味のギリシャ語は「テテレスタイ」。原文では完了形のたった一言が書かれているだけです。この言葉には深い意味があります。
当時、この言葉は借金をした人がすべてのお金を返し終えた際に押すスタンプとして使われていました。つまり「完済した」ということです。負債はすべて返された。もう何も残っていないという宣言です。
キリストは、神の子であるのに人として生まれ、罪のない聖い生涯を歩み、福音をのべ伝え、そして今十字架の上で私たちの罪の裁きを背負っていのちを差し出そうとしておられました。その最後の言葉が、完了した。完済した。これで、人間を神のもとに罪から救い出すために必要な負債は何も残っていないと確認されたのでした。
私たちが神の前に背負っていたすべてのもの―罪の悲惨さ、恥、失敗、神から離れていた長い年月―そうしたものはこのキリストの十字架の贖いによって、完全に支払っていただいたのです。過去の罪も、現在犯してしまう罪も、そして未来に犯してしまうかもしれない罪についても、です。すべてが完済されたのです。このゆるぎない義認と平安が、私たちをさらに罪から離れるものへと突き動かします。
しかも、これは神の愛が今も永遠に続いていることのゆるぎない証拠なのです。キリストは、私たちを愛するために必要なことを最後までやり遂げられた。神のささげた贖いのいのちこそ、神が今も永遠に私たちを愛していることの証拠なのです。それが「完了した」です。
私たちの心は、しばしばまだ足りない、まだ何かをしなければならないという思いにかられます。私の人生にはあれが欠けている。私の性格、能力にはあれがないこれが足りない。確かに私たちには足りないところがあり成長すべきところがあり変わらなければならないところがあります。
しかし、感謝なことに、私たちは変わらなければ救われないのではありません。むしろ神の完了した救いの御業のゆえに、すでに救われた者として変えていただく恵みの中に生きているのです。
神は、私たちが受け取るべき救いの贈り物を完成されたのです。あなたのために、キリストはすべて成し遂げてくださった。私たちはキリストの圧倒的な愛によってささげられたこの救いの恵みによって、すでに義と認められ、二度と罪に定められることがありません。それだけでなく、日々聖霊によって変えられていくという福音の力を受け取っているということを覚えたいと思います。
3.「霊をお渡しになった」(30節後半) イエス様は主体的に私たちを愛してくださった
最後に30節の終わりの言葉を読みましょう。「頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
他の福音書は「息を引き取った」と表現しています。でもヨハネは違う言葉を使います。イエス・キリストご自身が「霊をお渡しになった」誰に、でしょうか。もちろん父なる神様に、です。イエス・キリストご自身の能動的な行動として描いているのです。
イエス様は最後の瞬間まで、私たちを罪から救うために主体的に行動してくださいました。いのちを奪われたのではなく、罪びとたちの手によって自分のいのちを献げたのです。また父なる神の御心を自分の心として、十字架の上で霊をお献げになった。ですからこれは敗北の場面ではありません。キリストが私たちへの愛を、自らの意志で注ぎつくされた出来事なのです。
だからこそ、この出来事はイエスご自身が、私たちのために選び取って救いの御業を「完了された」という、達成の瞬間を記録しているのです。このおかげで、あなたは永遠に神に愛されており、あなたが二度と罪の滅びに落ちず、神とともに天の御国へと歩き続ける。キリストがそのための御業を完了してくださったからです。神であるキリストが完了された救いの御業は、今を生きる私のためであったということを覚えたいのです。
結び.永遠にあなたを愛しておられるキリストを見上げて
今週、あなたの人生といのちを、罪の悲惨から救い出して神と永遠に生きるものにされた、キリストの愛を心に留めて過ごしましょう。
一つ目は、渇きです。キリストが十字架で渇きを覚えたのは、人が罪びととして経験する苦しみと裁きのすべてを代わりに受けてくださったからです。イエス様は私たちの悩める弱い心と疲れやすく傷つきやすい体を憐れみ、その痛みを知っておられます。そのうえで、私たちが罪と悩みの中で疲れ果ててしまわないようにとりなしてくださっています。
二つ目は、「完了した」です。この「完了した」という言葉を、今日あなた自身への言葉として受け取ってください。あなたの罪は完済された。神の前にあるあなたの負債は消えた。この神の愛の力が、今日も明日も、永遠に、あなたの渇きを潤し続けるのです。今私たちはこのキリストのささげた聖いいのちと愛の力によって生かされています。
このキリストの愛によって、神から離れていた古い生き方は終わりました。その先には、よみがえったキリストともに、神とともに生きる命がもう始まっています。
今日受難節は、キリストの完全な愛が、私たちの救いの御業をすでに完了したのだということを、静かに、深く、心に刻んで過ごしたいと思います。キリストの愛の豊かさの中に、私たちの弱い心と体を沈めて、養われましょう。
祈り
天の父なる神様。
受難の日に、あなたの御前に立ち、イエス・キリストの「完了した」という御言葉を聞きました。
イエスが渇かれたとき、それは私たちの渇きでもありました。孤独の渇き、届かない祈りの渇き、あなたがおられるのかと揺れる心の渇き。そのすべてを知っておられるお方が、十字架の上で同じように渇いてくださいました。
そして、「完了した」と宣言されました。私たちへの愛によって救いの御業を最後まで推し進めてくださったことを感謝いたします。
私たちはなお、「自分にはまだ足りないところがたくさんある」と感じてしまいます。
しかし私たちの欠けを満たすあなたの救いの御業は、「すでに完了した」と慰めてくださいます。どうかその御言葉を、頭だけでなく、心の深いところで受け取らせてください。
どうかここにいる一人一人に、神の御子キリストに愛されているという確信が与えられますように。それぞれの歩みの中で、「完了した」という言葉が、自分への言葉として響きますように。
そして、この出来事が、あなたと共に生きる、新しいいのちへ始まりであることを心に刻ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2026年3月29日受難節主日礼拝説教
ヨハネの福音書19:28〜30
十字架の上のキリスト
序.十字架の上のキリスト
1.「わたしは渇く」(28節) 人として生きる苦しみを味わってくださった
2.「完了した」(30節前半) 信仰者の罪の贖いを最後まで成し遂げてくださった
3.「霊をお渡しになった」(30節後半) イエス様は主体的に私たちを愛してくださった
結び.永遠にあなたを愛しておられるキリストを見上げて
Sermão do Culto Dominical da Quaresma, 29
de março de 2026
Evangelho de João 19:28-30
Cristo na Cruz
Introdução. Cristo na Cruz
João registrou as duas últimas palavras de
Jesus Cristo na cruz: “Tenho sede” e “Está consumado”.
Ao ouvir essas palavras, que impressão
vocês têm? Podem soar como palavras de sofrimento — “Tenho sede” — e, além
disso, como palavras de resignação — “Está consumado”. Ele disse que tudo havia
acabado enquanto sofria de sede. Mas, na verdade, não é assim.
Essas não foram palavras de resignação,
indicando que tudo já havia terminado, que era o fim de um capítulo. Pelo
contrário, significam que a obra de salvação, na qual Cristo assumiu o
sofrimento em nosso lugar, estava consumada. Foi a declaração do início de uma
nova era de graça. “Tenho sede” e “Está consumado”. E Cristo levou a cabo essa
redenção na cruz até o fim, por sua própria vontade. Hoje, gostaria de refletir
sobre a obra redentora de Cristo na cruz.
1. “Tenho sede” (versículo 28) — Ele provou
o sofrimento de viver como ser humano
Primeiro, vejam o versículo 28. Jesus
disse: “Tenho sede”.
João acrescenta aqui uma frase importante:
“para que se cumprisse a Escritura”. Trata-se do cumprimento das palavras
escritas nos Salmos 22 e 69. Neles, é descrita a cena em que o servo de Deus é
colocado em uma situação em que parece ter sido abandonado, conforme a vontade
do Pai. Ele perde as forças, e a língua seca gruda no palato. Nesse momento, a
sede do Salvador Jesus não era apenas um sofrimento físico real, mas o instante
em que o plano de salvação estabelecido por Deus para a eternidade finalmente
se realizava na história.
Por isso, Jesus não considerou esse
acontecimento como um simples sofrimento fortuito, mas disse: “Sabendo que tudo
estava consumado, para que se cumprisse a Escritura, ‘Tenho sede’”.
Aquele que é Deus provou o sofrimento de
viver como homem. Não apenas isso, mas Cristo, o Filho que estava mais próximo
de Deus Pai, foi abandonado por Deus Pai como substituto pelos nossos pecados.
Embora fosse a vontade do Pai, Ele foi traído até mesmo pelos discípulos que
amava, abandonado por Deus e, em meio à solidão, passou pelo julgamento
acompanhado da dor e da sede.
Nós também temos
sede. Sede de solidão. Sede de não ser compreendido por
ninguém. Sede de sentir que algo está faltando, mas sem saber o que é. E também
sede de Deus, quando sentimos que, mesmo orando, nada nos é respondido. Em
nossos corações, ainda hoje, há diversas formas de sede.
Jesus não é alguém que desconheça essa
sede. Isso porque Jesus, que conhece mais profundamente o amor de Deus Pai,
experimentou na cruz o julgamento do pecado, que o afastou ao máximo do amor de
Deus Pai. Jesus Cristo, embora não tenha cometido pecado, viveu entre os
pecadores, recebeu em nosso lugar o julgamento dos pecadores e, como alguém que
sentiu a mesma sede que nós, está ao lado da sede de nossas almas. Em primeiro
lugar, gostaria de gravar profundamente em meu coração que Cristo é Aquele que
conhece todas as formas de sede que experimentamos.
2. “Está consumado” (primeira parte do
versículo 30) — Ele levou a cabo até o fim a expiação dos pecados dos crentes
A seguir, vamos nos concentrar no versículo
30. “Tomando o vinho azedo, Jesus disse: ‘Está consumado’.”
A palavra grega que significa “consumado”
é “tetestai”. No texto original, há apenas uma única palavra no tempo passado.
Essa palavra tem um significado profundo.
Naquela época, essa palavra era usada como
um carimbo que se aplicava quando alguém que tinha uma dívida pagava todo o seu
dinheiro. Ou seja, significa “pago integralmente”. Todas as dívidas foram
pagas. É uma declaração de que não resta mais nada.
Cristo, sendo Filho de Deus, nasceu como
homem, levou uma vida santa e sem pecado, pregou o Evangelho e, agora, na cruz,
estava prestes a entregar a própria vida, carregando o julgamento dos nossos
pecados. Suas últimas palavras foram: “Está consumado”. Está quitado. Com isso,
ficou confirmado que não restava mais nenhuma dívida necessária para resgatar a
humanidade do pecado e levá-la para a presença de Deus.
Tudo o que carregávamos diante de Deus — a
miséria do pecado, a vergonha, os fracassos, os longos anos afastados de Deus —
tudo isso foi completamente pago pela expiação da cruz de Cristo. Tanto os
pecados do passado, quanto os que cometemos no presente, e até mesmo os que
possamos cometer no futuro. Tudo foi totalmente quitado. Essa justificação e
paz inabaláveis nos impulsionam a nos afastarmos ainda mais do pecado.
Além disso, isso é a prova inabalável de
que o amor de Deus continua até hoje e para sempre. Cristo levou a cabo até o
fim tudo o que era necessário para nos amar. A vida de expiação oferecida por
Deus é a prova de que Ele nos ama agora e para sempre. Isso é o que significa
“consumado”.
Muitas vezes, nossos corações são tomados
pela sensação de que ainda falta algo, de que ainda precisamos fazer alguma
coisa. Falta isso na minha vida. Falta aquilo no meu caráter, falta isto na
minha capacidade. É verdade que temos deficiências, áreas em que precisamos
crescer e aspectos que precisamos mudar.
No entanto, felizmente, não é que
precisemos mudar para sermos salvos. Pelo contrário, vivemos na graça de sermos
transformados como pessoas que já foram salvas, graças à obra de salvação
consumada de Deus.
Deus consumou o dom da salvação que devemos
receber. Por sua causa, Cristo realizou tudo. Pela graça desta salvação,
oferecida pelo amor avassalador de Cristo, já fomos declarados justos e nunca
mais seremos condenados pelo pecado. Além disso, quero lembrar que estamos
recebendo o poder do Evangelho, que nos transforma dia a dia pelo Espírito
Santo.
3. “Entregou o Espírito” (segunda parte do
versículo 30) — Jesus nos amou de forma proativa
Por fim, vamos ler as palavras finais do
versículo 30. “Inclinou a cabeça e entregou o Espírito.”
Os outros evangelhos expressam isso como
“exalou o último suspiro”. Mas João usa palavras diferentes. A quem o próprio
Jesus Cristo “entregou o Espírito”? É claro que ao Deus Pai. Isso é descrito
como uma ação proativa do próprio Jesus Cristo.
Jesus agiu de forma proativa até o último
momento para nos salvar do pecado. Ele não teve a vida tirada, mas entregou a
própria vida pelas mãos dos pecadores. Além disso, fazendo da vontade de Deus
Pai a sua própria vontade, Ele entregou o Espírito na cruz. Portanto, esta não
é uma cena de derrota. É um acontecimento em que Cristo derramou todo o seu
amor por nós por sua própria vontade.
É por isso que este acontecimento registra
o momento da realização, em que o próprio Jesus escolheu por nós e “completou”
a obra da salvação. Graças a isso, você é amado por Deus para sempre, nunca
mais cairá na perdição do pecado e continuará caminhando com Deus para o Reino
dos Céus. Isso porque Cristo completou a obra para esse fim. Quero lembrar que
a obra de salvação que Cristo, que é Deus, completou, foi para mim, que vivo no
presente.
Conclusão. Olhando para Cristo, que o ama
eternamente
Esta semana, vamos passar nossos dias com
o amor de Cristo em nossos corações, aquele que salvou sua vida e seu ser da
miséria do pecado e os transformou em seres que viverão eternamente com Deus.
O primeiro é a sede. Cristo sentiu sede na
cruz porque assumiu em nosso lugar todo o sofrimento e julgamento que o ser
humano experimenta como pecador. Jesus tem compaixão de nossos corações
angustiados e fracos e de nossos corpos cansados e vulneráveis, e conhece essa
dor. Além disso, Ele intercede para que não fiquemos exaustos em meio ao pecado
e às angústias.
O segundo é “consumado”. Receba hoje essa
palavra “consumado” como uma mensagem dirigida a você mesmo. Seus pecados foram
totalmente perdoados. Sua dívida diante de Deus foi apagada. O poder do amor de
Deus continuará a saciar sua sede hoje, amanhã e para sempre. Agora, somos
vivificados pela vida santa e pelo poder do amor que Cristo ofereceu.
Por meio desse amor de Cristo, o antigo
modo de vida afastado de Deus chegou ao fim. Além disso, a vida em que vivemos
com o Cristo ressuscitado e com Deus já começou.
Hoje, na Quaresma, gostaria de passar este
dia gravando em meu coração, de forma silenciosa e profunda, que o amor
perfeito de Cristo já consumou a obra de nossa salvação. Mergulhemos nossos
corações e corpos fracos na riqueza do amor de Cristo e sejamos alimentados.
Oração
Deus, nosso Pai celestial.
No dia da Paixão, diante de Ti, ouvi as
palavras de Jesus Cristo: “Está consumado”.
Quando Jesus teve sede, essa sede era
também a nossa. A sede da solidão, a sede das orações que não chegam ao Teu
ouvido, a sede de um coração que vacila, perguntando-se se Tu realmente estás
presente. Aquele que conhece tudo isso teve a mesma sede na cruz.
E declarou: “Está consumado”. Agradecemos
por ter levado a obra da salvação até o fim por amor a nós.
Ainda assim, sentimos que “ainda há muitas
coisas que nos faltam”.
Mas a Sua obra de salvação, que preenche
nossas lacunas, nos conforta dizendo que “já está consumado”. Por favor,
permita que recebamos essa palavra não apenas com a mente, mas no íntimo do
coração.
Que a cada um dos presentes seja concedida
a certeza de que é amado pelo Filho de Deus, Cristo. Que, em cada caminhada, as
palavras “já está consumado” ressoem como uma mensagem dirigida a cada um de
nós.
E que este acontecimento seja gravado em
nossos corações como o início de uma nova vida ao lado de Ti.
Oramos em nome do Senhor Jesus Cristo.
Amém.
Sermão do Culto Dominical da Quaresma, 29
de março de 2026
Evangelho de João 19:28-30
Cristo na Cruz
Introdução. Cristo na Cruz
1. “Tenho sede” (v. 28) — Ele provou o
sofrimento de viver como ser humano
2. “Está consumado” (primeira parte do v.
30) — Ele levou a cabo até o fim a expiação dos pecados dos crentes
3. “Entregou o Espírito” (segunda parte do
v. 30) — Jesus nos amou de forma proativa
Conclusão. Olhe para Cristo, que o ama
eternamente