2026年3月22日主日礼拝説教 ローマ人への手紙6:15~19 「キリストと結ばれて心から従うように」

2026322日主日礼拝説教

ローマ人への手紙61519

「キリストと結ばれて心から従うように」

序.日々追い求めているものは何か:終わりのない欲求と罪の病

私たちが日々追い求めているものは何でしょうか。あまりそういう視点で考えたことがないかもしれません。しかし今日の箇所の表現「罪の奴隷」「義の奴隷」は、私たちの心が何に強く惹かれ、何に向かっているかを改めて考えさせています。

どんな気持ちが根底にあるでしょう。安心したい。誰かの役に立ちたい。認められたい。将来への不安を消したい。大切な人との関係がうまくいってほしい。どんな年代のひとでも多かれ少なかれ抱いている普遍的な気持ちです。人間の生理的な欲求と、社会的な欲求です。どれも正直な願いです。おかしなことは何もありませんし、特段悪い願いとも思われません。

 

でも少し深く見てみるとこの欲求には底がないことに気が付きます——認められても、またすぐ認められたくなる。安心しても、また不安になる。関係がうまくいっても、また心配が生まれる。

 

また願っていることそのものは自然であっても、不安や欲求を間違った方法で追い求めると罪に進みます。争い、分裂、貪り、孤独。罪の悲惨さは私たちの欲求と背中合わせでついてきます。なぜならまさに私たちは何をするにしても、自分を中心に考えてしまうという自分中心の病。神中心に生きられないという罪の病を患っているからです。

これは特別な話ではありません。多くの人が、毎日そのことで悩み、ある時はこれがいいという方法に飛びつき、またある時は必死に目をそらしたりしながら、生きています。

今日パウロが語りかけているのは、まさにそのような私たちの生き方の本質的な問題。生き方の方向性の問題に焦点を当てています。パウロがそのために使っている表現は、罪、従順、そして奴隷という言葉です。ここに人間の本質が語られています。

 

1.人は必ず、どちらかに従う奴隷として生きている(16節)

パウロはこう言います。16節「あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷なのです。」

奴隷という表現が厳しい印象がありますが、パウロがここで言おうとしているのは人間の生き方の構造の話です。それも「人は必ずどちらかに従っている」という指摘です。

 

人は必ず、何かに向かって生きています。意識していなくても。

認められたくて働いている人は、「評価」の奴隷です。認められることが行動の基準になっています。

安心したくてお金を貯める人は、「安心」の奴隷、あるいは「お金」の奴隷です。不安を回避することが選択の基準になっています。

孤独が怖くてつながりを求める人は、「つながり」の奴隷です。

何かを求めること自体は悪いことではありません。でもその「何か」が神とは無関係な形であなたを駆り立てているなら、それはつまり「罪への従順」なのだとパウロは指摘しているのです。

実際、これらの欲求は底なしであり、最終的には神ではなく、自分中心の欲求に人生を従わせていくからです。

パウロはこのような、罪の性質に突き動かされて進む生き方を「罪の奴隷となって死に至る」と言いました。死とは、神様と断絶したままの状態であること。欲しがってもいつまでも満たされず、最後にはすべてを失って、神様とも切り離される。罪とは単なるひとつの行いのことではなく、私たちの欲求から始まり行いや思いや人間関係のあらゆる領域を支配している力なのです。罪は、人を支配する力。

 

このように考えるなら、すべての人は必ずどちらかに属します。中立はありません。

罪に従って生きているか、神に従って生きているか。罪の奴隷か、義の奴隷か、です。

 

2.しかし、あなたはすでに義に従う者とされた(1718節)

しかし、キリストの救いを受け取った人は違うのです。キリストの恵みの下にある人は、罪に対しては死に、神に対して復活のいのちを受け取ったからです。

 

17節でパウロの言葉が変わります。

「神に感謝します。」——突然、感謝が出てきます。これは新しい生き方が命令ではなくて、神が与えてくれる贈り物だからです。

「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

「義の奴隷となれ」ではありません。「なった」のです。すでになったという宣言です。

救われるとは、イエス・キリストと聖霊によって結ばれることです。神があなたを愛し、あなたをキリストと結びあわせ、あなたを罪から解放したからです。

 

私たちが義の奴隷になったのは、神が私たちをキリストと結び合わせたからだとローマ書は教えています。キリストが罪に対して十字架で死なれた時、私たちも罪に対して死んだ者とされました。キリストがよみがえって神に対して生きておられるように、私たちも今や神に対して生きるものとされたのです。

その結果として、支配が変わったのです。罪の支配から、恵みによる義の支配へと。

 

ここで立ち止まって、今一度私たちが日々駆り立てている思いがどんなものであるかを考えたいのです。安心が欲しい。やりがいが欲しい。認められたい。孤独が怖い。繋がりが欲しい。あの人が持っているあれが欲しい。こういう生活が欲しい。健康が欲しい。——そう思って生きている私たちに、神はこう言っています。

 

「わたしはすでにあなたを知っている。あなたに本当に必要なものも、あなたの抱えている罪の問題も、性格の弱さも、逃げている問題も。それでも私はあなたを愛している。」と。

 神の愛に触れたことで、私たちはすべての必要に神が応えてくださるという深い平安の中で生きるようになるのです。

私たちが神に心を開く前に、すでに神に知られている。どんな問題山積みでもそれでもキリストにあって愛されている。この愛によって、私たちは神様の言葉に「心から服従し」喜んで神様の義を現わす生き方を追い求める人に変えられたのです。

罪を犯して滅びに向かわずにはいられなかった私たちが、その愛を知って、愛を動機として生きられる人生に移された。これが、義の奴隷とされたということの中身です。義務ではありません。神の愛に出会って、欲求の性質が変えられていくということです。すべての欲求や願いや心配や不安が、神の愛とみ言葉によって包みこまれて、義を追い求める視点を選び取れるように変えられているのです。

 

3.その従順な生き方が聖潔へと導く(19節)

パウロはこの恵みの立場に置かれたことを確認した後で、ようやく招きの言葉を描きました。19節「今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。」

かつては、欲求のままに生きるとどうしても自己中心の罪の問題に陥っていた人が、聖潔の道へと進む選択肢が与えられたのです。

 

手足を、義にささげる。表現は重々しいですが、大げさな話ではありません。

これはつまり、神に愛されていることを知った人に、少しずつ起きてくる変化のことです。

たとえば、人を批判したくなる瞬間に、ふと立ち止まれるようになる。あの人も同じ罪の病を抱えた人間だ、と気がつくから。

あるいは、自分の体や心の労わり方を考えられるようになる。神に愛されたこの体を、むやみに消耗させなくていい、と思えるから。

自分の高慢さに気がつく。争いが減る。少し柔らかくなる。

 

今までやっていたことをやめたり、新しい何かを始めることもあるでしょう。

 

でもそのすべては義務から来るのではありません。愛されていることを知っているから、別の反応の仕方が考えられるようになり、選び取りたいと考えられるようになるのです。

もちろん一気には変わりません。キリストによって、神に愛されていることを思い出すたびに、少しずつ、葛藤しながら、学びながら、挑戦と失敗を繰り返しながら変わっていきます。気がついたら、以前とは少し違う自分がいる。確かに御霊は、礼拝とみ言葉と交わりを通して、私たちを内側から作り替えてくださるのです。

 

結び.聖潔に向かう義の奴隷として日々変えられていく!

最初の問いに戻ります。私たちが日々追い求めているもの。無意識に突き動かされている欲求。認められたい、安心したい、孤独でいたくない。こうした気持ちは、キリストの赦しと神の愛によって満たされていく中で形を変えていきます。

それは私たちを突き動かしていた罪の支配の力が、キリストの恵みによって神様の言葉と福音に従う生き方に変わったからです。私たちは義に向かって生きる従順な神のしもべとなりました。この生き方には、希望と平安があり、着実な成長があります。

この信仰によって「手足を神に喜ばれる義の奴隷として献げて、聖潔に進んでいきましょう。」私たちは今、罪に対しては死んでおり、神に対して生きています。あなた自身のあなたらしい生き方の中で、この自覚が一日一日と深まっていく選択を積み重ねていくことができますように。

 

祈り

恵み深い天のお父様。
私たちの心の奥にある願いも、弱さも、あなたはすべてご存じです。
それでもなお、キリストにあって私たちを愛し、受け入れてくださることを感謝します。

どうか、罪に引き戻される時があっても、あなたの愛に動かされて心からあなたに従う歩みへと私たちを導いてください。日々の小さな選択の中で、あなたに生きる者として、義を選び取ることができるように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2026322日主日礼拝説教

ローマ人への手紙61519

「愛されているから心から従うように」

序.日々追い求めているものは何か:終わりのない欲求と罪の病

1.人は必ず、どちらかに従う奴隷として生きている(1516節)

2.しかし、あなたはすでに義に従う者とされた(1718節)

3.その従順な生き方が聖潔へと導く(19節)

結び.聖潔に向かう義の奴隷として日々変えられていく!

 

Sermão do Culto Dominical de 22 de março de 2026

Efésios 6:15-19

Unidos a Cristo, para que o sigamos de todo o coração”

Introdução. O que buscamos diariamente: o desejo sem fim e a doença do pecado

O que é que buscamos diariamente? Talvez nunca tenhamos pensado nisso dessa perspectiva. No entanto, as expressões da passagem de hoje, “escravos do pecado” e “escravos da justiça”, nos levam a refletir novamente sobre o que atrai fortemente o nosso coração e para onde ele se dirige.

Que sentimento estará na base disso? Queremos sentir-nos seguros. Queremos ser úteis a alguém. Queremos ser reconhecidos. Queremos eliminar a ansiedade em relação ao futuro. Queremos que o relacionamento com as pessoas importantes para nós corra bem. São sentimentos universais que pessoas de qualquer idade, em maior ou menor grau, abrigam. São desejos fisiológicos e sociais do ser humano. Todos são anseios sinceros. Não há nada de estranho nisso, nem parecem ser desejos particularmente ruins.

 

Mas, ao analisarmos um pouco mais a fundo, percebemos que esses desejos não têm fundo — mesmo quando somos reconhecidos, logo queremos ser reconhecidos novamente. Mesmo quando nos sentimos seguros, voltamos a ficar ansiosos. Mesmo quando os relacionamentos vão bem, surgem novas preocupações.

 

Além disso, embora o desejo em si seja natural, perseguir a ansiedade e as necessidades de maneira errada nos leva ao pecado. Conflitos, divisões, ganância, solidão. A tragédia do pecado acompanha nossos desejos como uma sombra. Isso porque sofremos da doença do egocentrismo: por mais que façamos, acabamos pensando em nós mesmos. Sofremos da doença do pecado que nos impede de viver centrados em Deus.

Isso não é nada de extraordinário. Muitas pessoas vivem se preocupando com isso todos os dias, ora se agarrando a um método que parecem achar bom, ora desviando o olhar desesperadamente.

O que Paulo está abordando hoje é exatamente o problema essencial desse nosso modo de vida. Ele está focando na questão da direção que damos à nossa vida. As expressões que Paulo usa para isso são: pecado, obediência e escravidão. Aqui está sendo falada a essência do ser humano.

 

1. O ser humano vive inevitavelmente como escravo, obedecendo a algo (versículo 16)

Paulo diz o seguinte. Versículo 16: “Não sabeis que, quando vos submeteis a alguém como escravos para lhe obedecer, sois escravos daquele a quem obedeceis?”

A expressão “escravo” pode causar uma impressão severa, mas o que Paulo está tentando dizer aqui é sobre a estrutura do modo de vida humano. Mais especificamente, é a observação de que “o ser humano está inevitavelmente obedecendo a algo”.

 

O ser humano vive, inevitavelmente, voltado para alguma coisa. Mesmo que não tenha consciência disso.

Quem trabalha para ser reconhecido é escravo da “valorização”. Ser reconhecido é o critério que orienta suas ações.

Quem poupa dinheiro para se sentir seguro é escravo da “segurança” ou do “dinheiro”. Evitar a ansiedade é o critério que orienta suas escolhas.

Quem busca conexões por medo da solidão é escravo da “conexão”.

Buscar algo, por si só, não é algo ruim. Mas, se esse “algo” está impulsionando você de uma forma que não tem relação com Deus, isso significa, segundo Paulo, que se trata de “obediência ao pecado”.

Na verdade, esses desejos são insaciáveis e, no fim das contas, levam a vida a se submeter não a Deus, mas a desejos egocêntricos.

Paulo descreveu esse modo de vida, impulsionado pela natureza do pecado, como “tornar-se escravo do pecado e caminhar para a morte”. A morte é o estado de permanecer separado de Deus. Por mais que se deseje, nunca se é saciado; no fim, perde-se tudo e fica-se separado de Deus. O pecado não é apenas um ato isolado, mas uma força que começa em nossos desejos e domina todas as áreas da vida: ações, pensamentos e relacionamentos. O pecado é uma força que domina as pessoas.

 

Se pensarmos dessa forma, todas as pessoas pertencem necessariamente a um dos dois lados. Não há neutralidade.

Ou se vive obedecendo ao pecado, ou se vive obedecendo a Deus. Ou se é escravo do pecado, ou se é escravo da justiça.

 

2. No entanto, vocês já foram declarados justos (versículos 17–18)

Mas quem recebeu a salvação de Cristo é diferente. Pois quem está sob a graça de Cristo morreu para o pecado e recebeu a vida da ressurreição para Deus.

 

No versículo 17, as palavras de Paulo mudam.

Graças a Deus.” — De repente, surge a gratidão. Isso porque o novo modo de vida não é uma ordem, mas um dom que Deus nos concede.

Vocês, que antes eram escravos do pecado, agora, obedecendo de coração à forma de ensino que lhes foi transmitida, foram libertos do pecado e tornaram-se escravos da justiça.”

Não diz “tornem-se escravos da justiça”. Diz “tornaram-se”. É uma declaração de que já se tornaram.

Ser salvo significa ser unido a Jesus Cristo e ao Espírito Santo. Isso porque Deus os ama, os uniu a Cristo e os libertou do pecado.

 

A Epístola aos Romanos nos ensina que nos tornamos escravos da justiça porque Deus nos uniu a Cristo. Quando Cristo morreu na cruz pelo pecado, também nós fomos considerados mortos para o pecado. Assim como Cristo ressuscitou e vive para Deus, também nós agora vivemos para Deus.

Como resultado, o domínio mudou. Do domínio do pecado para o domínio da justiça pela graça.

 

Gostaria de fazer uma pausa aqui para refletir mais uma vez sobre quais são os pensamentos que nos impulsionam diariamente. Queremos segurança. Queremos sentir que nossa vida tem sentido. Queremos ser reconhecidos. Temos medo da solidão. Queremos conexão. Queremos aquilo que aquela pessoa possui. Queremos esse tipo de vida. Queremos saúde. — A nós, que vivemos com esses pensamentos, Deus diz o seguinte:

 

Eu já te conheço. Conheço o que você realmente precisa, os problemas de pecado que você carrega, as fraquezas de seu caráter e os problemas dos quais você está fugindo. Mesmo assim, eu te amo.”

Ao entrarmos em contato com o amor de Deus, passamos a viver em uma paz profunda, sabendo que Deus suprirá todas as nossas necessidades.

Antes mesmo de abrirmos nosso coração para Deus, Ele já nos conhece. Por mais que os problemas se acumulem, ainda assim somos amados em Cristo. Por meio desse amor, fomos transformados em pessoas que “obedecem de coração” à palavra de Deus e buscam com alegria um modo de vida que manifesta a justiça de Deus.

Nós, que cometíamos pecados e não podíamos deixar de caminhar para a perdição, conhecemos esse amor e fomos transferidos para uma vida motivada por ele. Esse é o significado de sermos escravos da justiça. Não se trata de uma obrigação. Significa que, ao encontrarmos o amor de Deus, nossa natureza de desejos é transformada. Todos os nossos desejos, anseios, preocupações e ansiedades são envolvidos pelo amor e pela Palavra de Deus, e somos transformados de modo a escolher a perspectiva de buscar a justiça.

 

3. Esse modo de vida obediente conduz à santidade (versículo 19)

Depois de confirmar que estávamos nessa posição de graça, Paulo finalmente descreveu a palavra do chamado. Versículo 19: “Agora, ofereçam os seus membros como escravos da justiça e avancem para a santidade.”

Àqueles que antes, ao viverem segundo os seus desejos, inevitavelmente caíam no problema do pecado do egocentrismo, foi dada a opção de seguir o caminho da santidade.

 

Oferecer os membros à justiça. A expressão é solene, mas não é exagero.

Trata-se, em suma, da mudança que ocorre gradualmente na pessoa que reconhece ser amada por Deus.

Por exemplo, no momento em que se sente vontade de criticar alguém, passa-se a ser capaz de parar repentinamente. Isso porque se percebe que aquela pessoa também é um ser humano que carrega a mesma doença do pecado.

Ou então, passa a pensar em como cuidar do próprio corpo e da própria mente. Porque percebe que não precisa desgastar desnecessariamente este corpo que é amado por Deus.

Percebe a própria arrogância. As disputas diminuem. Torna-se um pouco mais gentil.

 

Talvez pare de fazer o que fazia até agora, ou comece algo novo.

 

Mas nada disso vem de um senso de obrigação. É por saber que é amado que passa a pensar em outras formas de reagir e a querer fazer escolhas diferentes.

É claro que a mudança não acontece de uma só vez. Cada vez que nos lembramos, por meio de Cristo, de que somos amados por Deus, mudamos aos poucos, em meio a conflitos, aprendendo e repetindo desafios e fracassos. Quando percebemos, estamos um pouco diferentes do que éramos antes. Certamente, o Espírito Santo nos transforma por dentro, por meio da adoração, da Palavra e da comunhão.

 

Conclusão. Sendo transformados dia a dia como escravos da justiça rumo à santidade!

Voltemos à pergunta inicial. O que buscamos diariamente. O desejo que nos move inconscientemente. Queremos ser reconhecidos, sentir segurança, não queremos ficar sozinhos. Esses sentimentos vão mudando de forma à medida que são preenchidos pelo perdão de Cristo e pelo amor de Deus.

Isso ocorre porque o poder do domínio do pecado que nos movia foi transformado, pela graça de Cristo, em um modo de vida que obedece à Palavra de Deus e ao Evangelho. Tornamo-nos servos de Deus obedientes, vivendo em direção à justiça. Nesse modo de vida, há esperança e paz, e um crescimento constante.

Por meio dessa fé, “ofereçamos nossos membros a Deus como servos da justiça que Lhe agradam, e avancemos em santidade”. Agora, estamos mortos para o pecado e vivos para Deus. Que você possa, em seu próprio modo de viver, acumular escolhas que aprofundem essa consciência dia após dia.

 

Oração

Pai celestial misericordioso.

Tu conheces todos os nossos desejos e fraquezas que estão no íntimo de nossos corações.

Ainda assim, agradecemos por nos amares e aceitares em Cristo.

Por favor, mesmo que haja momentos em que sejamos levados de volta ao pecado, guia-nos para uma caminhada em que, movidos pelo teu amor, te sigamos de todo o coração. Ajuda-nos a escolher a justiça nas pequenas escolhas diárias, como pessoas que vivem para ti.

Oramos em nome de Jesus Cristo, nosso Senhor. Amém.

 

 

Sermão do Culto Dominical de 22 de março de 2026

Carta aos Romanos 6:15-19

Obedeçamos de coração porque somos amados”

Introdução. O que buscamos diariamente: o desejo sem fim e a doença do pecado

1. O homem vive inevitavelmente como escravo, obedecendo a um dos dois (versículos 15-16)

2. No entanto, vocês já foram tornados servos da justiça (versículos 17-18)

3. Esse modo de vida obediente conduz à santidade (versículo 19)

Conclusão. Somos transformados a cada dia como servos da justiça, caminhando em direção à santidade!