2024年10月27日主日礼拝説教 第二サムエル記21:1~22

20241027日主日礼拝説教

第二サムエル記21122

『神の義と愛の会えるところ』

1.神は愛であり、また聖・義である方

 聖書が神様のご性質を表現するとき、その中心的なものが二つあります。一つは愛。そしてもう一つが聖いお方であるということです。神様は、「あなたは聖なる者でなくてはならない。私が聖だからである」と私たちに言われます。第一ペテロ116です。この聖いという言葉の中には正しい、間違いがない、罪がないという意味で、神は義であるという意味合いも含まれています。神は聖なる方であり、義なる方です。

 生まれながらに心に罪の性質をもっている私たち人間は、聖でもなければ義でもありません。しかし、キリストに結び合わされた人は、キリストにあって聖さを追い求めるようになり、また正しくない者でありながらも義と認めてもらう恵みを受け、最後の日には罪のない者として完全に変えられる約束も受け取っています。これらは、義認、聖化、栄化と言う恵みです。救われた人はそのままで義と認めてもらい、さらにキリストと繋がって聖くされ、やがての日には栄光の姿によみがえるのです。これらは聖くまた義である神様が、ご自分の民にも聖さと正しさをもたらしてくださるという恵みです。

・罪の赦し(神の愛)は、罪の許可・許容ではなく、悔い改めと聖化へ向かわせる恵み

 父なる神様は、罪人である私たち人間が神の子どもとなるために、聖なるキリストを贖いとして十字架にかけられました。聖書はそう教えているのですが、なかなか私たちはこのことの重大な意味を十分には理解することが難しいところがあります。神様が私を赦したいなら、ただ「赦しますよ」と言ってくださればそれで十分ではないかなどと考えてしまいます。しかしそれでは、ただ不正を許可することになってしまうだけなので、何も問題が解決していないのです。神様はご自身の救いの恵みによって、この世界に愛と赦しだけでなく、聖さと正義をもたらすことをご計画されました。それゆえに、神の子どもたちは「罪を犯しても大丈夫」という許可をもらったのではなく、罪を悲しみ悔い改めつつ、聖く変えられていく恵みを受け取ったのです。

 神の前に、私の罪が償われるためには、聖なるキリストのいのちがささげられる必要がありました。それは、神の前にある私の罪がとんでもなく巨大なものであり、また私の前におられる神様の聖さがとんでもなく高い者だからです。キリストは、私自身がどうやっても到達できない聖い命をささげてくださり、また恵みによって義認と聖化と栄化まで与えてくださったのです。

 

 今日の個所は、ある時期に、三年連続で飢饉が起こったという出来事が描かれています。ダビデは、この苦しい出来事の背後には、聖であり義である神様には喜ばれない何かが、自分たちの中にあるのではないかと考えて神様に祈るのでした。

 私たちは、キリストの十字架の贖いの血によってどんな罪をも赦していただけます。しかし、聖書のたくさんの個所が教えているように、それは罪の許可とか許容ではありません。むしろどんな罪にも刈り取りが待っており、一人の罪は、関わる多くの人の悩み苦しみを引き起こしていきます。キリストが信仰者にもたらしてくれる恵みは、自分の中にある問題に正直に光を当て、神の前で悔い改めることが出来るということです。間違いを認めたら負けるなどと恐れるのでなく、罪を告白することで清々しく神様とともに生きていくという恵みを受け取るのです。神の愛は、罪の許可ではなく、むしろ罪を悔い改めさせ、聖さへと向かわせていく力です。

 ダビデがギブオン人のために果たした償いの行為を通して、父なる神が私たちのために果たしてくださった贖いの大きさを考えたいと思います。

 

2.盟約を結んだギブオン人を殺戮したことへの償い

・神は不思議な方法で地に正義を行われる

 第二サムエル記の時系列で辿るイスラエルの歴史は先週の20章で終わりとなっています。最後の四章は、いつの時代の出来事かは不明ながら、聖書記者が書き加える必要があると判断した記事となっています。その一つ目が、ギブオン人に対する償いでした。

 ダビデは、三年も連続した飢饉に見舞われたことをきっかけに、神様の御心を求めました。1節「ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。『サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。』」戦争や殺人の話は、私たちの心を暗くします。しかし、確かに歴史の初めから私たち人間は互いに愛し合うことが出来ず、あいつのここが赦せないと言っては殺し合ってきたのです。最初の殺人はアダムとエバの息子たち、カインとアベルの間ですでに起きていたのです。

 そして、問題はこのギブオン人たちとの間に、実はイスラエルが先に盟約を結んでいたということがあったからでした。詳しいことはヨシュア記97節に書かれてあります。当時のリーダーであったヨシュアがギブオン人たちとは戦わないという盟約を結んだのです。それにもかかわらず、サウル王はイスラエルのための熱心のあまり、彼らを攻撃したのでした。神様は、このギブオン人たちとの間で交わされた盟約をサウルが破った点を不正とし、イスラエルに三年間の飢饉をもたらしていたのでした。

・神の愛は罪の許可ではなく、聖さへの招き

 ここに、私たちは神様の聖さと正しさというご性質を今一度確認します。神様の愛は、人が間違ったことを行ってもいいと命じる愛ではありません。親が、子どものやりたいことだけやらせ、やりたくないことは何もやらなくていいと考えて、争いや犯罪に進むのを許可しているとしたら、それは決して愛ではないでしょう。神様は、この罪に満ちる世界の中にも、ご自身の不思議な御手によって正義を行われるお方です。それは信仰者だからえこひいきされるのではなく、むしろ神を信じない者たちに対する信仰者の不正をも正しく裁かれるのです。神様が公正で正義を行われるお方であるというのは、私たちが正しく生きる人になろうと思う動機となります。私たちは自分に都合のいい、身勝手な正義ではなく、神の前に喜ばれる正義を求めるようにと招かれています。

・血を流した罪は血によって償われる

 しかし、胸の痛むことに、ギブオン人の求めた和解のための代償はこうでした。4節「私たちと、サウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエルのうちで人を殺すことでもありません。」そして5節「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」盟約を破って、自分たちの仲間のいのちが大量に奪われた償いは、お金で解決する問題ではない。復讐のために殺戮をしたいのでもない。むしろ、正義のための償いとして、我々を殺した者の子どもたちのいのちを差し出せ、と言うことでした。

 私たちはこれらのことが正しいのか、間違いなのかを個人的な感情で判断することはできません。しかし、14節を見ると、この要求を実行したダビデの行為に応じて、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」と書かれています。この償いは、主の御心に適うことであったようです。ちなみに旧約時代のイスラエルに与えられていた律法として、民数記3533には次のように書かれてあります。「あなたがたは、自分たちのいる土地をけがしてはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。」これはイスラエル人同士の争いに対する定めで、人の血を流して土地を汚した者は自分の血も流されることを言っています。本来、罪の償いというのは、このように厳粛なものでした。サウルたちはおそらく七人ではとどまらない多くのギブオン人の血を流したでしょうが、彼らはこの七人のいのちをもって償いは果たされ、正義は実行されるとしたのでした。そして、主はこのことを正当なこととみなされました。

3.キリストの血による償い(新聖歌230 十字架のもとぞ)

・神の聖さと愛は、私たちの罪の償いのためにキリストのいのちを必要とした

 その時代の感覚、あるいはいのちの償いの厳粛さを考慮に入れたとして、それでも私たちにはこれらの記事に対して戸惑いがあるかもしれません。罪の重さと、それに見合う罪の償いというテーマは、神様の正義の厳粛さを教えています。

 そして、神が聖く、また義であるお方であることを考えると、だからこそ私たちの罪の償いのためには、神の一人子の十字架の犠牲が必要だったのだということに思い至ります。ギブオン人たちは、たくさんの仲間の殺戮の償いとして、七人のいのちを求めました。それは憎しみのためではなく、神の前で正義が行われるためでした。

 私たちは、生まれながらに神様に背いて生きており、神様に愛されているのにむしろ神様を無視し、神と人を忘れて自分中心に生きようとしていました。自覚がなくても、それは神様に対する反抗と罪を重ねる生き方だったのです。神様に背き続けた人生の報いは、神様から永遠に断絶されて滅びることでした。しかし、義でありながら愛であられる神様は、愛する人間たちがそのまま滅びへ進んでいくことを悲しまれました。それがゆえに、神ご自身が人となり、愛によって聖い命の犠牲を払い、罪人が聖いもとへと変えられる道を開いてくださったのでした。神様のうちには、この正義と愛の両方が矛盾することなく豊かにあふれているのです。新聖歌230番「十字架のもとぞ」には次のような瑕疵があります。「十字架のもとぞ、いと安けき。神の義と愛の会えるところ。嵐ふくときの巌のかげ。荒野の中なるわが隠れ家。」キリストが贖いを成し遂げてくださった、十字架の下こそ、本当の平安があります。そこで、神様の正義と神様の愛が互いに出会います。嵐の時の岩の影、荒野の中の隠れ家です、と。他人の罪に苦しみ、自分の愛のなさに悩むとき、私たちが逃げ込むのはキリストの十字架です。そこに行けば、他人の罪を責める私には、むしろキリストの愛と憐れみが必要であることを悟るからです。自分中心な正義を振りかざしては争いを繰り返し、実のところ正義も愛もない自分の足りなさへと、十字架の恵みは私たちを導きます。神様は、私たちの罪を繰り返す生き方の償いに必要な代価は、聖なる神の子のいのちであると定められたのでした。そんないのちなど捧げずにただ赦してくれればいいのにと考えるのは、私たちが本当に罪の泥沼に浸りきっていて、神様の聖さの前にある罪の醜さを自覚できなくなっているからです。私たちは、天に挙げられるその日まで、何度も何度もキリストの十字架で流された血の贖いの前に、自分の罪を差し出す必要があります。罪の自覚は悲しいことですが、そこには慰めがあり、またきよめがあり、御霊の実りがあります。そのような体験こそ、神の子どもたちに与えられた永遠のいのちの恵みなのです。神様の義と愛の会えるところ、十字架の恵みを今一度私たちが大切な安らげる場所として見つめたいと思います。

・悔い改めて神と歩む恵み

 最後15節以降は、ペリシテ人がイスラエルに対して攻撃してきたときに、四人の勇者たちによって国が守られたことの記録です。アビシャイ、シベカイ、エルハナン、ヨナタンの四人の名前が記されています。主のみ前に悔い改めるべきことを悔い改めたとき、神は再び彼らの祈りを聞き、イスラエルとともに歩んでくださるようになりました。外敵からの攻撃に対して、神が勝利を与えてくださったのでした。

むすび.十字架のもとを安らぎの場所として悔い改める

 以上21章を読み終えて、神様の正義についてよく考えることが出来たのではないでしょうか。神様が聖いお方であり、義を求めるお方であるということが分からなければ、キリストの十字架の愛を理解することはできないでしょう。イエス・キリストは、ただ自業自得の罪の生き方で滅びに進んでいこうとする私たちのために、自ら進んで十字架の贖いを果たす道を進んでくださったのです。このキリストの心の中に溢れている愛の意味を、私たちは何度も考え直しましょう。聖なるお方が、罪人を愛するために命を献げられたのです。これによって父なる神の正義は満たされました。翻って、私たちは歪んだ自分勝手な正義を振りかざしては、平和よりも争いと分裂を引き起こしやすいのではないでしょうか。キリストの十字架は、私たちを愛の人に変えるだけでなく、聖さと正しさを追い求める人にも作り替えます。キリストの十字架が神の義と愛の会えるところならば、このキリストにつながれた私たちの心も、神の愛と義があふれるところと変えられます。義認と聖化と栄化の恵みが、キリストの十字架からあふれていることを心に留め、悔い改めと御霊の実を結ぶ人生へと進んでいきたいと思います。

20241027日主日礼拝説教

第二サムエル記21122

『十字架は神の義と愛の会えるところ』

1.神は愛であり、また聖・義である方

2.盟約を結んだギブオン人を殺戮したことへの償い

・神は不思議な方法で地に正義を行われる

・神の愛は罪の許可ではなく、聖さへの招き

・血を流した罪は血によって償われる

3.キリストの血による償い(新聖歌230 十字架のもとぞ)

・神の聖さと愛は、私たちの罪の償いのためにキリストのいのちを必要とした

・悔い改めて神と歩む恵み

むすび.十字架のもとを安らぎの場所として悔い改める

 

 

Sermão de Adoração Dominical, 27 de outubro de 2024

2 Samuel 21:1-22.

Onde a justiça e o amor de Deus se encontram

1. que Deus é amor e que também é santo e justo

 Quando a Bíblia descreve o caráter de Deus, há duas coisas centrais. Uma é o amor. E a outra é que Ele é santo. Deus diz: Vocês devem ser santos. Porque eu sou santo, diz Ele a nós. 1 Pedro 1:16. A palavra santo significa justo, sem erro e sem pecado, com a implicação de que Deus é justo. Deus é santo e justo.

 Nós, seres humanos, que nascemos com uma natureza pecaminosa em nosso coração, não somos santos nem justos. Mas aqueles que estão unidos a Cristo buscam a santidade em Cristo e também recebem a graça de serem reconhecidos como justos, mesmo que não sejam justos, bem como a promessa de serem completamente transformados em pessoas sem pecado no último dia. Essas são as graças da justificação, santificação e glorificação. A pessoa salva é justificada como ela é e, além disso, é santificada em conexão com Cristo e será ressuscitada para a glória nos últimos dias. Essas são as graças de um Deus justo que traz santidade e justiça ao Seu povo.

O perdão dos pecados (o amor de Deus) não é uma licença ou tolerância ao pecado, mas a graça que leva ao arrependimento e à santificação.

 Deus, o Pai, crucificou o santo Cristo como expiação para que nós, pecadores, nos tornássemos filhos de Deus. Isso é o que a Bíblia ensina, mas temos dificuldade em compreender plenamente o significado disso. Achamos que, se Deus quer me perdoar, bastaria que Ele dissesse “Eu te perdoo”. Mas isso não resolve nenhum problema, pois apenas dá permissão para a injustiça. Deus planejou trazer não apenas amor e perdão, mas também santidade e justiça a este mundo por meio de sua graça salvadora. Portanto, os filhos de Deus não receberam permissão para “pecar e ficar bem”, mas receberam graça para serem transformados em santidade, enquanto sofrem e se arrependem de seus pecados.

 Diante de Deus, para que meus pecados fossem expiados, a vida de Cristo, que é santa, teve de ser oferecida. Isso se deve ao fato de que meus pecados perante Deus são de uma enormidade extraordinária, e porque a santidade de Deus perante mim é de uma altura extraordinária. Cristo me ofereceu uma vida de santidade que eu mesmo não posso alcançar de forma alguma, e Ele ainda me deu a justificação, a santificação e a glorificação pela graça.

 

 A passagem de hoje descreve um evento em que, em um determinado momento, houve fome por três anos consecutivos. Davi orou a Deus, pensando que, por trás desse acontecimento angustiante, havia algo neles que não agradava a Deus, que é santo e justo.

 Podemos ser perdoados de qualquer pecado por meio do sangue expiatório da Cruz de Cristo. Entretanto, como muitas passagens das Escrituras ensinam, não se trata de uma licença ou tolerância ao pecado. Em vez disso, uma colheita aguarda qualquer pecado, e o pecado de uma pessoa causará angústia e sofrimento para muitas pessoas envolvidas. A graça que Cristo traz aos crentes é que eles podem honestamente iluminar os problemas dentro de si mesmos e se arrepender diante de Deus. Em vez de ter medo de perder se admitir seus erros, eles recebem a graça de confessar seus pecados e viver com Deus de forma limpa. O amor de Deus não é uma licença para pecar, mas sim um poder para levar o pecado ao arrependimento e à santidade.

 Por meio do ato de expiação de Davi pelos gibeonitas, queremos considerar a magnitude da redenção que Deus, o Pai, realizou por nós.

 

2. expiação pela matança dos gibeonitas com quem ele havia feito uma aliança

...Deus faz justiça na Terra de maneira misteriosa.

 A história de Israel, traçada cronologicamente em 2 Samuel, chegou ao fim na semana passada no capítulo 20. Os últimos quatro capítulos são artigos que o repórter bíblico decidiu que precisavam ser acrescentados, embora não esteja claro quando ocorreram. O primeiro deles foi a expiação pelos gibeonitas.

 Davi buscou a vontade de Deus após três anos consecutivos de fome, v. 1: No tempo de Davi, houve uma fome que durou três anos. Então Davi buscou a face do Senhor. O Senhor disse. 'Saul e sua família são responsáveis pelo sangue. Pois ele massacrou os gibonitas'”. Histórias de guerra e assassinato escurecem nosso coração. Mas é verdade que, desde o início da história, nós, humanos, não conseguimos amar uns aos outros e estamos nos matando, dizendo que não podemos perdoá-lo por essa parte de sua vida. O primeiro assassinato já havia acontecido entre os filhos de Adão e Eva, Caim e Abel.

 E o problema é que Israel havia feito uma aliança anterior com esses gibeonitas. Os detalhes são fornecidos em Josué 9:7. Josué, o líder da época, fez um pacto com os gibeonitas para não lutar contra eles. No entanto, o rei Saul, em seu zelo por Israel, atacou-os. Deus considerou a quebra desse pacto de Saul com os gibeonitas como uma injustiça e trouxe uma fome de três anos sobre Israel.

∙ O amor de Deus não é uma licença para pecar, mas um convite à santidade.

 Aqui vemos mais uma vez o caráter de santidade e justiça de Deus. O amor de Deus não é um amor que ordena que as pessoas façam o que é errado. Se os pais permitirem que seus filhos façam apenas o que querem fazer e nada que não queiram fazer, e permitirem que eles entrem em conflito e cometam crimes, isso nunca será amor. Deus é Aquele que faz justiça em meio a este mundo cheio de pecado por Sua própria mão maravilhosa. Não é que Ele esteja favorecendo os crentes porque eles são crentes, mas sim que Ele julga com justiça a injustiça dos crentes contra aqueles que não acreditam Nele. O fato de Deus ser justo e reto nos motiva a sermos pessoas que vivem em retidão. Somos convidados a buscar a justiça que agrada a Deus, e não a justiça que é egoísta e que serve a si mesma.

... o pecado de derramar sangue é pago com sangue.

 Mas, de modo desolador, o preço da reconciliação buscada pelos gibeonitas foi este: v4: A questão entre nós e Saul e seu clã não é sobre prata ou ouro. Nem se trata de matarmos pessoas em Israel. E o versículo 5: Entregue-nos sete de seus filhos, que tentaram nos cortar e destruir, que conspiraram para nos desarraigar e não nos deixar estar em nenhum lugar do território de Israel. Nós somos a Gibeá de Saul, os escolhidos do Senhor, e nós os exporemos ao Senhor”. A expiação pela perda em massa de vidas de seu próprio povo por quebrar a aliança não é uma questão a ser resolvida com dinheiro. Eles também não querem matar por vingança. Em vez disso, deveríamos oferecer a vida dos filhos daqueles que nos mataram como expiação pela justiça.

 Não podemos julgar se essas coisas são certas ou erradas com base em nossos sentimentos pessoais. No entanto, se olharmos para o versículo 14, leremos que, em resposta à ação de Davi em realizar esse pedido, depois Deus se comoveu com as orações desta nação”. Essa expiação parece ter estado de acordo com a vontade do Senhor. A propósito, como uma lei dada a Israel nos tempos do Antigo Testamento, Números 35:33 diz. “Não profanarás a terra em que estás. Porque o sangue contamina a terra. Porque a terra não se aplacará com o sangue nela derramado, senão com o sangue de quem o derramou.” Essa é uma estipulação contra conflitos entre israelitas, dizendo que quem profanar a terra derramando o sangue de outros terá seu próprio sangue derramado também. Por natureza, a expiação do pecado era, portanto, solene. Saul e seus homens provavelmente derramaram o sangue de muito mais gibeonitas do que apenas sete, mas eles acreditavam que, com a vida desses sete, a expiação seria cumprida e a justiça seria feita. E o Senhor considerou isso justificável.

3. expiação por meio do sangue de Cristo (Novo Canto 230: Sob a Cruz)

...a santidade e o amor de Deus exigiram a vida de Cristo para a expiação de nossos pecados.

 Levando em conta a sensibilidade da época ou a solenidade da expiação da vida, ainda podemos ter alguma perplexidade com relação a esses artigos. O tema da gravidade do pecado e a correspondente expiação pelo pecado nos ensina a solenidade da justiça de Deus.

 E como Deus é santo e justo, somos lembrados de que é por isso que o sacrifício na cruz do Filho único de Deus foi necessário para expiar nossos pecados. Os gibeonitas pediram sete vidas como expiação pela matança de tantos de seus semelhantes. Não foi por ódio, mas para que a justiça fosse feita diante de Deus.

 Nascemos para viver contra Deus, amados por Ele, mas negligenciando-O, esquecendo-nos de Deus e do homem e tentando viver uma vida centrada em nós mesmos. Mesmo que não tivéssemos consciência disso, era uma vida de rebelião e pecado contra Deus. A recompensa por uma vida de contínua desobediência a Deus era ser separado de Deus para sempre e perecer. Mas Deus, que é justo e amoroso, ficou triste com o fato de Seus amados seres humanos continuarem a perecer. Portanto, o próprio Deus se tornou homem e, em amor, fez o sacrifício de uma vida santa para abrir o caminho para que os pecadores fossem transformados em santidade. Em Deus, tanto a justiça quanto o amor são abundantes, sem contradição. O Novo Canto 230, “Ao pé da cruz”, tem a seguinte falha. “Ao pé da cruz, minha alma descansa. Onde a justiça e o amor de Deus se encontram. Sob a sombra da rocha quando a tempestade sopra. Meu refúgio no deserto”. Ao pé da cruz, onde Cristo alcançou a redenção, há verdadeira paz. É lá que a justiça de Deus e o amor de Deus se encontram. É a sombra de uma rocha em um momento de tempestade, um esconderijo no deserto, disse ele. Quando sofremos com os pecados dos outros e com nossa própria falta de amor, é para a Cruz de Cristo que fugimos. Pois ali percebo que eu, que culpo os outros por seus pecados, preciso mais do amor e da compaixão de Cristo. A graça da cruz nos leva à nossa própria insuficiência, onde lutamos repetidamente com a justiça egocêntrica e, de fato, não somos nem justos nem amorosos. Deus decretou que o preço necessário para a expiação de nossa vida repetitiva de pecado é a vida do santo Filho de Deus. A razão pela qual gostaríamos de poder simplesmente perdoar sem oferecer essa vida é que estamos realmente tão imersos na lama do pecado que somos incapazes de perceber a feiura de nosso pecado diante da santidade de Deus. Precisamos oferecer nossos pecados repetidas vezes diante da expiação do sangue derramado por Cristo na cruz, até o dia em que formos elevados ao céu. A constatação do pecado é triste, mas há conforto, há purificação e há o fruto do Espírito. Essa experiência é a graça da vida eterna concedida aos filhos de Deus. Queremos olhar mais uma vez para a graça da Cruz, onde a justiça e o amor de Deus se encontram, como nosso precioso lugar de descanso.

Graça para se arrepender e andar com Deus

 Os últimos 15 versículos em diante registram a defesa da nação por quatro homens corajosos quando os filisteus atacaram Israel. Os quatro nomes são Abisai, Sibecai, El-Hanã e Jônatas. Quando eles se arrependeram do que deveriam ter feito perante o Senhor, Deus mais uma vez ouviu suas orações e caminhou com Israel. Deus lhes deu a vitória sobre os ataques dos inimigos externos.

Conclusão. Arrepender-se aos pés da cruz como um lugar de descanso

 Depois de ler os 21 capítulos acima, você deve ter pensado muitas vezes sobre a justiça de Deus. Se você não entender que Deus é santo e justo, não será capaz de entender o amor da cruz de Cristo. Jesus Cristo voluntariamente seguiu o caminho para cumprir a expiação da cruz por aqueles de nós que só iriam para a perdição em uma vida de pecado autoinfligido. Reflitamos repetidamente sobre o significado desse amor transbordante no coração de Cristo. O Santo deu Sua vida por amor aos pecadores. Com isso, a justiça de Deus, o Pai, foi satisfeita. Por sua vez, é mais provável que causemos discórdia e divisão do que paz se exercermos uma justiça distorcida e egoísta. A cruz de Cristo não apenas nos transforma em pessoas de amor, mas também nos refaz em pessoas que buscam a santidade e a retidão. Se a cruz de Cristo é o ponto de encontro da justiça e do amor de Deus, então nossos corações, conectados a esse Cristo, também são transformados em um lugar onde o amor e a justiça de Deus são abundantes. Tendo em mente que a graça da justificação, da santificação e da glorificação transborda da Cruz de Cristo, queremos seguir para uma vida de arrependimento e para o fruto do Espírito.

Sermão de Adoração Dominical, 27 de outubro de 2024

2 Samuel 21:1-22.

A cruz é o ponto de encontro da justiça e do amor de Deus

1. que Deus é amor e que também é santo e justo

2. expiação pela matança dos gibeonitas com quem ele havia feito uma aliança.

Deus faz justiça na terra de uma forma misteriosa.

O amor de Deus não é uma licença para pecar, mas um convite à santidade.

O pecado de derramar sangue é expiado pelo sangue.

O amor de Deus não é uma licença para pecar, mas um convite à santidade.

A santidade e o amor de Deus exigiram a vida de Cristo para a expiação de nossos pecados.

∙ Graça para andar com Deus em arrependimento

Conclusão . Arrepender-se aos pés da cruz como um lugar de descanso