2024年12月8日主日礼拝説教 ルカの福音書9:46~50
2024年12月8日主日礼拝説教
ルカの福音書9:46~50
『このような子どもをキリストの名のゆえに受け入れる』
序.この世の価値観と神の国の価値観
私たちが持っている価値観は、この世の価値観でしょうか。それとも神の国の価値観でしょうか。聖書は、神の子どもとされた人はもはやこの世に属するのではなく、神の国の価値観で生きるということを様々な形で教えています。キリストご自身も、山上の説教の中で言われました。「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」神の前にある罪びとの自分の貧しさを知っている人は幸いだと神の国の価値観を教えていました。そのすぐ後にもこう続きます。「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。」また「あながたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません」。この世と神の国が異質なものであるからこそ、クリスチャンは塩となり光となります。世には塩気がなく、闇が広がっているからです。パウロも語ります。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」罪の奴隷の生き方から神の子どもの生き方に移った人は、御霊によって新しく生まれた人です。その人は、かつての生き方から異なる調子で生活を始めます。変わる必要があり、変えられていく必要があります。あなたは、自分の価値観が、この世に属するものから神の国の価値観に変えられたことを実感しているでしょうか。それはどの部分に現れていますか。
1.「偉くなりたい」
・偉くなりたい、あるいは偉くなった状況が欲しい
生まれながらの罪びとである私たちにとって、このような変化は一瞬で完全に移行するようなものではありません。それは瓶に張り付いたシールをはがすような作業です。シールをはがしたことがありますか。最初は角をこすり取るようにして、うまくはがれそうに思います。しかし次の瞬間、手はすべり、シールの表面だけがはがれて、べたべたの粘着部分だけがしっかりと瓶に残っています。お湯につけたり、シールはがしのスプレーをかけたり、あれやこれやしながら、工夫する必要があります。私たちの中にこびりついている罪の奴隷の価値観、この世の価値観は、それと同様かそれ以上にしつこく、しぶといものです。意識して取り除けるものはむしろ簡単なほうです。正しいことをやっているはずなのに、どうして上手くいかないんだろうと思っていると、まさにそこに自分でも気が付かない認識の歪みがあります。愛することが分かっていない。豊かさが分かっていない。信頼することができていない。感謝を知らない。平安が分からない。このような本質的な価値観は、表面ではなく内側から、神の愛を体験しながら変えられていく必要があります。それができるのは神ご自身の力です。
イエス・キリストのそばで毎日寝起きしていたはずの12弟子たちでさえも、古い価値観を拭い去るのは大変なことでした。ましてや、キリストの声も聞いたことがなく、彼らよりも聖書に親しむことの少ない私たちは、どれほどピント外れな生き方を犯しやすいことでしょうか。12弟子たちが陥っていた大きな勘違いは「偉い」という価値観でした。
皆さんは偉くなりたいでしょうか。ある人は割と正直に偉くなりたいと思っているかもしれません。教えられるより教える人になりたい。後輩より先輩になりたい。着いていく人よりも、人について来てほしい。そういう気持ちがあるでしょうか。
私はそんなことは思わないという人であっても、別の形で偉いことを求めています。それは偉くなった結果を、多くのひとは求めます。偉くなれば、ひとの気持ちよりも自分の気持ちが優先されます。人の順番よりも、自分の順番が早くなります。人の願いよりも自分の願いが先に叶えられます。そのような欲望と無関係に生きているという人がいたら、その人は、自分の罪にあまりに鈍感な人でしょう。この一年の間で、あなたが苛立ちを覚えたことを考えれば、みな自分が偉くなりたいと思っている感情に気が付くはずです。車の渋滞にイライラしたことがありますか、言うことを聞いてくれない相手に苛立ったことがありますか、仕事が思い通りに進まずイライラしたことがありますか、努力したのに感謝されずイライラしたことがありますか。それ自体は悪いことでも何でもありませんが、私達は自分の感情が一番に大切にされたいと願います。自分が一番に取り扱われたいという願いがあります。それは偉くなった結果を追い求めているということでもあります。自分が一番、それが偉くなりたいという思いの根っこにある思いです。大切にされたいと願うこと自体は悪いことではありませんが、それが他者との比較の中で自分が他よりも一番偉くなりたいという願望に変わっていくと、おかしなことになります。イエス様は、弟子たちのうちにそのような歪んだ自己愛があることを指摘されました。
もう一度ルカ9:46から読みます。「さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心の中にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。『だれでも、このような子どもたちを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さいものが、一番偉いのです。』」
キリストが十字架を目指して進んでいる最中に、弟子たちは「だれが一番偉いか」という議論で盛り上がっていたというのは、とても情けなく残念な様子でした。しかし、この弟子たちを批判的に見ている私たち自身が、まったく同じ姿を実はキリストの前にさらしてはいないかということを振り返りたいと思います。
弟子たちがこのような議論を始めたきっかけは、おそらく少し前の出来事にあったのでしょう。栄光に輝くイエス様がモーセとエリヤに出会ったとき、そこにはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけが特別に選ばれていました。だから、でしょう。皆さんは、こういうことが気になる人でしょうか。どうしてあの人だけが選ばれて、私は選ばれないのか。私だってこんなに頑張っているのに認めてくれてもいいではないか。何が判断基準なのかはっきりさせてほしい。どちらが上か下か、この際はっきりさせようじゃないか。そんなことを、口にしないまでも、頭の中でぐるぐると考えてしまうタイプでしょうか。
・「受け入れる」:父なる神→キリスト→「このような子ども」
彼らに対するイエス様の語りかけは、実物教育でした。近くにいた子供の手を取りながら教えました。「このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れる」と。ここで取り上げられている子どもというのは、純粋な心とかかわいらしさとかのためではありません。自分の偉さを競っている弟子たちに対して、子どもの存在は最初から競う対象にもならない存在です。ライバルと思われてもいない相手。誰が偉いかと鼻息を荒くしていた弟子たちに対して、キリストは、あなたの心が子の子どもを受け入れていないなら、結局のところあなたがたは私を受け入れていないのだと言われたのです。つまり、誰が偉いかと考えて争うような価値観は、神の国には全くふさわしくないということです。栄光の神の国に入ったとき、そこでだれが一番偉いだろうかと苛立ったり落ち込んだりしている人は一人もいないのです。そのような価値観は、罪の奴隷の価値観、地に属する人の価値観だからです。
イエス様はここで「受け入れる」という言葉を二段構えで教えています。このような子どもをキリストの名のゆえに受け入れる人は、キリストを受け入れる。そしてキリストを受け入れる人は、キリストを遣わした神を受け入れる、と。すなわち、神を受け入れた人は、神だけでなくキリストを受けれ、それだけでなくキリストの名によって子どものような存在も受け入れる。そういう価値観に生きるようになると教えているのでした。なぜなら、キリストご自身が、私たちのような鼻持ちならない罪びとたちを受け入れ、その尊い命をささげ、忍耐と憐れみの限りに愛してくださったからでした。私たちが互いに愛し合う理由は、隣にいる人が「キリストが十字架で死んでくださったほどの人」だからです。神がいのちを投げ出すほどに大切な人なのだから、私達は互いを大切に扱います。その人の向こうには神がいるからです。能力があるかどうか、富があるかどうか、地位があるかどうか、経験や知識、学歴や肩書、美しさや体力や健康があるかどうかで、その人としての価値の優劣を見ない。なぜなら、その人を神が愛されたからです。
そして最後の一言が、とんでもない逆説でした。「あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」この世の価値観は、より偉大なもの、より大きくて高くて偉いところにあるものを追い求めます。弟子たちもそうでした。この12人の中でだれが一番か。誰がイエス様の一番でしかと上を上をと争っていたのです。しかしキリストが言われたのは、あなたがたが見上げているその先に、私はいないよ、ということでした。キリストは下へ下へと下り、一番小さい者のところにキリストは降りて行かれたのです。だからこそ、キリストは私たちの救い主になってくださったのに、いつの間にか私達は自分の罪深さに気が付かなくなっていく傾向があるのです。ここに示されているのは、偉いとか偉くないとか、そんな人と比べてびくびくしているような価値観からの解放です。最も偉いはずのキリストは、最も小さい子どもや罪びとを愛するために、腰をかがめ、私たちとともに住むことを喜んでくださる。
私たちが気が付くべきは、自分こそキリストに近い弟子だなどというおごり高ぶりではなく、私こそ子の子どもだということではないでしょうか。すなわち、ただキリストに愛してもらい赦してもらったに過ぎない小さな子ども。それがここにいる一人一人のあり方ではないでしょうか。今一度、あの人もこの人も、聖なる聖なる万軍の主なる神に愛された神の子どもということを考え直したいとも負います。私自身には愛される価値はありませんが、そんな私を神が愛された故に、私には価値があります。それはあなたも同じことです。あなた自身には、神様に愛されるにふさわしいきよさはありませんが、それでも神はあなたを愛してくれました。あなたが偉いからではなく、神があなたを愛されたので、あなたには価値があります。そして、私たちの価値観は、この神の愛に似たものになるべきなのです。愛する価値のないものを、ただ愛する。それは神が私を愛してくれたからです。この恵みの生き方を楽しむ者になっていけますように。
2.クリスチャンであることは特別優れていること?
さて、そのすぐ後に弟子のひとりヨハネが口をはさみました。ルカ9:49「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」
ヨハネは、イエス様のやり取りを聞いて、何か反感のようなものを覚えたのかもしれません。自分たちがイエス様に選ばれた特別な弟子であるという思いをどうしても捨てられなかったのかもしれません。弟子たちは癒しの奇跡をおこなう力を与えられていましたが、別の人たちも、キリストの名によって悪霊を出す奇跡を行うことがあったようです。それを見たヨハネは、私たちの後について来ないのに、イエス様の名前で奇跡を起こして喜んでいるので、やめさせました!と報告したのでした。しかし、イエス様はそのままにさせておきなさいと言われました。なぜなら、その人の心のうちはどうあれ、彼はキリストの名によって癒しを行い、その行いを通して悪霊を追い出されたのは神ご自身だったからです。
私達も、自分がクリスチャンであるということをなにか変な特権階級のような勘違いをしないようにと思うのです。クリスチャンとして生きるのは正しいことではありますが、偉いことではありません。偉くなることを追い求める生き方とは逆の方向なのです。自分の願いのままに生きることを追い求めるのではなく、むしろ罪びとたちの悩みと関り、彼らの苦しみをともに担い、そのただ中で神の愛と憐れみを分かち合う生き方に進んでいくことです。キリストがそうやって私たちのところに下ってくださったのに、救われた私たちが上へ上へと偉くなることを目指すとしたら、それこそおかしな話なのです。
むすび.イエス様・神の国の価値観を生きるなら、具体的に誰に何をするのか
イエス様が、あなたの職場にいたら、どのようなチームワークを形成し、どんな上司になり、またどんな部下になるでしょうか。イエス様が家庭におられたら、どんな親になり、またどんな子どもであったでしょうか。イエス様がこの教会に来られたら、はたしてどんなアドバイスをされるでしょうか。この世の価値観と神の国の価値観がさかさまであるということを思い起こすとき、私たちの価値観は果たしてどちら側になっているでしょうか。
今日、「わたしの名のゆえにこのような子どもを受け入れなさい」と言われたキリストの言葉が、あなたの生活の中でどのように実践されるのかを具体的に考えて取り組みましょう。
2024年12月8日主日礼拝説教
ルカの福音書9:46~50
『このような子どもをキリストの名のゆえに受け入れる』
序.この世の価値観と神の国の価値観
1.「偉くなりたい」
・偉くなりたい、あるいは偉くなった状況が欲しい
・「受け入れる」:父なる神→キリスト→「このような子ども」
2.クリスチャンであることは特別優れていること?
むすび.イエス様・神の国の価値観を生きるなら、具体的に誰に何をするのか
Sermão de
Adoração Dominical, 8 de dezembro de 2024
Lucas 9;:46-50.
“Eu aceito essa
criança em nome de Cristo
Introdução. Os
valores deste mundo e os valores do Reino de Deus
Os valores que
temos são os valores deste mundo? Ou são os valores do Reino de Deus? A Bíblia
ensina de várias maneiras que aqueles que se tornaram filhos de Deus não
pertencem mais ao mundo, mas vivem de acordo com os valores do Reino de Deus. O
próprio Cristo disse no Sermão da Montanha. “Bem-aventurados os pobres de
espírito, porque deles é o reino dos céus”. Pois o reino dos céus pertence a
eles”. Ele ensinou os valores do Reino de Deus, dizendo que bem-aventurados são
aqueles que conhecem sua pobreza como pecadores diante de Deus. Ele continua
imediatamente depois. “Vocês são o sal da terra. Se o sal perdeu sua
salinidade, com que será salgado?” E ainda: “Vós sois a luz do mundo. A cidade
que está na montanha não pode ser escondida”. É justamente porque o mundo e o
Reino de Deus são estranhos que os cristãos se tornam sal e luz. Pois no mundo
não há sal, mas trevas. Paulo também nos diz. Não se afinem com o mundo. Antes,
deixem-se transformar pela renovação de sua mente. Então vocês discernirão qual
é a vontade de Deus - o que é bom, agradável a Deus e perfeito.” Uma pessoa que
passou da vida de escravo do pecado para a vida de um filho de Deus é uma
pessoa nascida de novo pelo Espírito. Ela começa a viver em um tom diferente do
que costumava viver. Você precisa mudar e ser mudado. Você percebe que seus
valores foram mudados daqueles que pertencem ao mundo para os do Reino de Deus?
Em que áreas isso se
manifesta?
1. “Eu quero ser grande.”
Queremos ser grandes, ou queremos uma situação em que sejamos grandes.
Para nós,
pecadores nascidos de novo, esse tipo de mudança não é uma transição
instantânea e completa. É um processo como remover um adesivo de uma garrafa.
Você já removeu um lacre? A princípio, ele parece sair bem, quando você raspa
os cantos. Mas, no momento seguinte, sua mão escorrega e apenas a superfície do
lacre se desprende, deixando apenas a parte adesiva grudada firmemente na
garrafa. Temos que ser criativos, deixando-a de molho em água quente,
borrifando-a com spray removedor de adesivos, isso, aquilo e aquilo outro. Os
valores da escravidão do pecado e os valores mundanos que estão presos em nós
são tão ou mais persistentes e teimosos. Os que podemos remover conscientemente
são bastante fáceis. Se você está se perguntando por que as coisas não estão
funcionando quando você está fazendo a coisa certa, é exatamente aí que está a
distorção da sua percepção da qual você nem mesmo está ciente. Você não sabe o
que é amar. Você não entende a abundância. Você não sabe como confiar. Você não
conhece a gratidão. Você não conhece a paz. Esses valores essenciais precisam
ser mudados, não a partir da superfície, mas de dentro, experimentando o amor
de Deus. É o próprio poder de Deus que pode fazer isso.
Até mesmo os 12
discípulos, que deveriam dormir e se levantar diariamente ao lado de Jesus
Cristo, tiveram dificuldade em eliminar seus antigos valores. Como é fácil para
nós, que nunca ouvimos a voz de Cristo e estamos menos familiarizados com a
Bíblia do que eles, viver fora de foco.
Você quer ser grande? Alguns podem, honestamente, querer ser grandes. Quero
ser alguém que ensina em vez de alguém que é ensinado. Quero
ser mais sênior do que júnior. Quero que as pessoas me sigam, e não que me
sigam. Você se sente assim?
Mesmo aqueles
que dizem que não se sentem assim ainda querem ser grandes de outras maneiras.
Muitas pessoas querem o resultado de serem grandes. Quando você se torna
grande, seus próprios sentimentos têm precedência sobre os sentimentos dos
outros. Sua vez vem antes da
vez dos outros. Seus próprios desejos serão atendidos antes dos desejos dos
outros. Se alguém disser que está vivendo
independentemente de tais desejos, provavelmente é muito insensível aos
próprios pecados. Se você pensar sobre as coisas que o irritaram no ano
passado, perceberá que todos nós temos o sentimento de querer ser grande. Você
já se sentiu frustrado por causa de engarrafamentos, irritado por alguém que
não o ouviu, frustrado porque o trabalho não saiu como você queria, frustrado
pela falta de reconhecimento de seus esforços? Não há nada de errado com isso
em si, mas queremos que nossos sentimentos sejam tratados em primeiro lugar. Há
um desejo de sermos tratados como os melhores. Isso também significa que
estamos perseguindo o resultado da grandeza. Eu sou o melhor, essa é a raiz do
desejo de ser grande. Não há nada de errado em querer ser valorizado, mas isso
se torna estranho quando se transforma em um desejo de ser o melhor em
comparação com os outros. Jesus apontou a presença desse amor-próprio
distorcido em seus discípulos.
Leia novamente
Lucas 9:46. “Ora, havia uma discussão entre os discípulos sobre quem era o
maior. Jesus, porém, conhecendo os pensamentos do coração deles, tomou a mão de
uma criança, colocou-a em pé ao seu lado e disse-lhes Quem aceitar estas
crianças em meu nome, a mim me aceita. E quem me aceita a mim, aceita aquele
que me enviou. O menor entre todos vocês é o maior.”
Foi uma situação
vergonhosa que, enquanto Cristo avançava em direção à cruz, os discípulos
estavam discutindo sobre quem era o maior. No entanto, gostaria de refletir se
nós mesmos, que criticamos esses discípulos, não estamos, na verdade, expondo a
mesma figura diante de Cristo.
O início dessas
discussões por parte dos discípulos provavelmente foi desencadeado por um
evento ocorrido há não muito tempo. Quando o Jesus glorificado encontrou Moisés
e Elias, apenas três discípulos - Pedro, Tiago e João - foram especialmente
escolhidos para estar lá. Então, não é mesmo? Vocês estão curiosos sobre essas
coisas? Por que somente aquela pessoa foi escolhida e não eu? Por que eles não
reconhecem que eu também estou trabalhando duro? Quero que vocês deixem claro
qual é o critério de julgamento. Vamos deixar claro quem é superior ou
inferior. Sou o tipo de pessoa que pensa sobre essas coisas em minha cabeça,
mesmo que não as diga em voz alta.
Aceite: Deus Pai
→ Cristo → “tal criança”.
O discurso de
Jesus para eles foi uma verdadeira educação. Ele os ensinou pegando a mão de
uma criança que estava por perto. “Quem aceita uma criança assim em meu nome,
aceita a mim”. A criança que está sendo abordada aqui não é por causa da pureza
de coração ou da beleza. Para os discípulos que estão competindo por sua
própria grandeza, a criança não é nem mesmo um concorrente desde o início. Eles
nem mesmo são considerados rivais. Para os discípulos, que estavam zombando de
quem era o maior, Cristo disse que, se o coração de vocês não aceitou a criança
de uma criança, vocês não me aceitaram, afinal. Em outras palavras, o tipo de
valores pelos quais brigamos, pensando em quem é o maior, não tem lugar no
Reino de Deus. Quando você entra no glorioso Reino de Deus, não há uma única
pessoa que esteja frustrada ou deprimida sobre quem é o maior. Isso se deve ao
fato de que esses valores são os valores dos escravos do pecado, os valores
daqueles que pertencem à terra.
Jesus ensina a
palavra “aceitação” aqui em duas etapas. Aqueles que aceitam essa criança em
nome de Cristo aceitam Cristo. E aquele que aceita Cristo aceita Deus que o
enviou, diz ele. Em outras palavras, aqueles que aceitam Deus aceitam não
apenas Deus, mas também Cristo, e não apenas isso, mas também seres semelhantes
a crianças em nome de Cristo. Ele estava ensinando que eles passariam a viver
com esses valores. Pois o próprio Cristo aceitou pecadores esnobes como nós,
deu Sua preciosa vida e nos amou com toda a paciência e compaixão. Amamos uns
aos outros porque a pessoa ao nosso lado é “tão querida para nós que Cristo
morreu na cruz”. Tratamos bem uns aos outros porque a pessoa é tão importante
para nós que Deus deu a vida por nós. Porque além dessa pessoa está Deus. Não
consideramos a superioridade do valor de uma pessoa como pessoa com base em sua
capacidade, riqueza, status, experiência, conhecimento, educação, título,
beleza, força ou saúde. Porque Deus amou essa pessoa.
E a última
palavra foi um paradoxo extraordinário. “O menor de todos vocês é o maior”. Os
valores deste mundo buscam coisas maiores, coisas que são maiores, mais
elevadas e que estão em um lugar mais alto. Foi assim com os discípulos. Quem é
o melhor entre os doze? Eles estavam brigando constantemente para ver quem era
o melhor de Jesus. Mas Cristo disse: “Eu não estou no fim do que vocês estão
procurando”. Cristo foi descendo e descendo, e até chegar ao mínimo. É por isso
que Cristo se tornou nosso Salvador, mas em pouco tempo tendemos a perder de
vista nossa pecaminosidade. O que é mostrado aqui é uma libertação de valores
como ser grande ou não ser grande, e ter medo de nos compararmos com os outros.
Cristo, que deveria ser o maior, está disposto a se curvar e morar conosco para
amar os menores filhos e pecadores.
O que precisamos
perceber é que sou o filho do Filho, não que sou o discípulo mais próximo de
Cristo. Ou seja, uma criancinha que só foi amada e perdoada por Cristo. Não é
isso que cada um de nós aqui é? Mais uma vez, gostaria de reconsiderar o fato
de que tanto aquela pessoa quanto esta são filhos de Deus, amados pelo santo e
santo Senhor Deus dos Exércitos. Eu mesmo não sou digno de ser amado, mas
porque Deus me amou como tal, sou digno. O mesmo acontece com você. Você mesmo
não é bom o suficiente para merecer ser amado por Deus, mas Deus ainda assim o
amou. Você é digno, não porque é ótimo, mas porque Deus o amou. E nossos
valores devem ser semelhantes a esse amor de Deus. Eu amo somente o que não
mereço amar. Isso se deve ao fato de Deus ter me amado. Que eu me torne uma
pessoa que desfruta dessa vida de graça.
2. ser cristão é
uma excelência especial?
Pouco tempo
depois, um dos discípulos, João, interveio. Lucas 9:49: “Mestre. Vimos um homem
que, em teu nome, expulsava demônios e procuramos impedi-lo. Esse homem não nos
seguia. Pois aquele homem não nos seguia. Mas Jesus lhe disse. Não o deixem
parar. Aquele que não se opõe a você está do seu lado.”
João pode ter
sentido algum tipo de antipatia quando ouviu a conversa de Jesus. Ele pode ter
sido incapaz de deixar de lado o sentimento de que eles eram os discípulos
escolhidos e especiais de Jesus. Os discípulos haviam recebido o poder de
realizar milagres de cura, mas parece que outros também haviam realizado
milagres para expulsar demônios em nome de Cristo. Quando João viu isso,
disse-lhes que parassem, porque não estavam nos seguindo, mas estavam felizes
em realizar milagres em nome de Jesus! Ele o denunciou. Mas Jesus lhe disse que
deixasse para lá. Porque, independentemente do coração do homem, foi o próprio
Deus que o curou em nome de Cristo e expulsou demônios por meio de Suas ações.
Não creio que
devamos cometer o erro de pensar que somos cristãos de alguma forma estranha e
privilegiada. É correto viver como cristão, mas não é ótimo. É o oposto de
viver em busca de grandeza. Não é buscar viver de acordo com os próprios
desejos, mas sim estar envolvido nos assuntos dos pecadores, compartilhar o
sofrimento deles e compartilhar o amor e a misericórdia de Deus em meio a tudo
isso. Seria estranho se nós, que fomos salvos, tivéssemos que almejar a
grandeza para cima, quando Cristo desceu até nós dessa maneira.
Musubi.com. Se
você vive os valores de Jesus e do Reino de Deus, a quem exatamente você vai
fazer o quê?
Se Jesus
estivesse em seu local de trabalho, que tipo de trabalho em equipe você
formaria, que tipo de chefe você seria e que tipo de subordinado você seria? Se
Jesus estivesse em sua casa, que tipo de pai você seria e que tipo de filho
você seria? Se Jesus viesse a esta igreja, que tipo de conselho ele daria?
Quando nos lembramos de que os valores deste mundo e os valores do Reino de
Deus são duas coisas diferentes, de que lado estão nossos valores?
Hoje, vamos
considerar e trabalhar em termos concretos como as palavras de Cristo, “Aceite
tais crianças em meu nome”, podem ser colocadas em prática em sua vida.
Sermão de
Adoração Dominical, 8 de dezembro de 2024.
Lucas 9:46-50.
“Aceite uma
criança assim em nome de Cristo
Introdução. Os valores deste mundo e os valores do Reino de Deus
1. “Eu quero ser grande”.
Desejo de ser grande ou de estar em uma situação de grandeza.
Aceitar":
Deus, o Pai → Cristo → ”tal criança
2. Ser um cristão
é uma excelência especial?
Musubi . Se você
vive os valores de Jesus/Reino de Deus, quem e o que exatamente você faz?