2025年10月19日主日礼拝説教 ローマ4:9~16 「恵みによる約束の確かさ」
2025年10月19日主日礼拝説教
ローマ4:9~16
「恵みによる約束の確かさ」
序.行いよりも先にあるもの
昨今、承認欲求という言葉がよく使われるようになりました。そして一般的には少々悪い意味で、用いられているようです。承認して欲しい、認められたい、そういう自己中心的な欲求として。
ただ人と人が交わるとき、ふさわしい評価や承認が欲しいと感じることはなにも悪いことではなく、当然の欲求だとも言えます。神は人間が愛の交わりの中で生きるようにとおつくりになったからです。愛されたり愛したりしたい。認めたり認められたりしたい。その願いそのものは悪いものではありません。
当時のローマ教会にいたユダヤ人たちもある種のいきすぎた承認欲求を求めていました。「どうすれば神に認められるのか」。努力すれば、律法を守れば、祈れば、奉仕すれば…と。これまでの個所で、ユダヤ人であることや旧約聖書・律法を持っていることは、なにも救いにおけるアドバンテージにはならないと教えられました。しかしそれでも彼らは食い下がります。いや私たちには割礼がある。その点では異邦人よりも優れているでしょう、と。しかしパウロはここでも、救いは割礼によって与えられるのではないと違う視点へと目を向けさせるのでした。
パウロが注目させたのは、アブラハムがいつ神に義と認められたのかという点でした。アブラハムが義と認められたのは、割礼という行いの後ではなく、その前でした。つまり、神の恵みは「何かをした報酬」ではなく、「信じる者への贈り物」だということです。
これが分かると、実はアブラハムは割礼をうけたユダヤ人の父なのではなく、むしろ割礼なしで信仰によって神の民とされた異邦人信仰者の父ともいえるということが分かってくるのです。私たちが神に愛されるのは、何かができたからではなく、信じて受け取ったからです。ただ信じて救いを受け取ったものを神は愛し、そのものを育てて良い生き方へと導き入れてくださるのです。私たちもそうですし、そうだったはずです。信仰者として歩むどの時点においても、私たちは救いに値する人間だから救われたのではなく、ただ神の愛と赦しと恵みを信じたから救われ、神の愛によって信仰者として歩むことが赦され続けているのです。そのことを改めて確認したいと思います。
1.信仰が先、行いは感謝の応答として伴うもの(9〜12節)
9~12節では義認と割礼の関係について、そして13~16節では義認と律法の関係について論じて行くのです。
神によって義と認められ、罪に定められないという安心と平安。この信仰による義は、割礼のあるユダヤ人にだけ特別与えられたのでしょうか。このことは一世紀のキリスト教会においては非常に重要な問題だったのです。救いにおいて、何かユダヤ人は特権的なものを持っているのかどうか。パウロはアブラハムが義と認められたタイミングに注目させます10節「どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。
彼は割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるため」と。
アブラハムの義は、割礼を受ける前に与えられたのです。彼は割礼を受ける前に、ただ神の声を聞きその言葉に信じて従って歩み始めた先で、割礼を受けました。ですから、アブラハムは神のことばを信じて従ったその時に義と認められていたのであり、その後で神の民としてのしるしとして割礼を命じられたのでした。この順序が重要です。信仰が先で、行いはその結果。もし順番を逆にすると、信仰は義務や条件によって獲得するものになってしまいます。
礼拝や奉仕、献金、善い行い――それらはどれも大切です。でも、それは神様に義と認められる、承認欲求を満たすための条件ではありません。「すでに神に愛されているから。だから応答する」――これが信仰の姿です。
また、当然ながら信じているのだからその後はどうでもいい、のではありません。信じることと従って生きることは一つです。信じて義とされたアブラハムは、神のことばに従って旅を続け、その途上で割礼を受けました。信じて義と認められるというのは一度の体験で終わればもう関係なくなるということではなく、神に義と認められた者としての歩みを続けるということでもあるからです。割礼は、そのものが信仰によって神に義と認められているということのしるしです。だからこそ、割礼は新約時代においては洗礼に代わり、洗礼もまた信じて神の民とされていることのしるしとなるのです。決して割礼や洗礼が人を救うのではありません。しかし、ユダヤ人にとっての割礼も、クリスチャンにとっての洗礼も、あってもなくても意味のないものではないのです。このしるしは神のことばと実践の中で、神の恵みを受け取り続けるようになるための恵みの通路でもあるのです。信じて神の義を受けた者が、確かに神の民であるというしるしを受けるとき、その人は目に見えない霊的な神と神の民の絆の中に入れられるのです。私たちの行いは信じてなおもふらふらと右に左に上に下にと頼りないことがあるかもしれません。しかしそれでも、神は私たちにキリストを信じさせ、神の子どもとしてのしるしを受けさせてくださった。その目に見える証を思い起こして、自分が神の子どもとされたということを確認するのです。あってもなくてもいいしるしなのではなく、神の子どもとして歩み続けるために必要不可欠な恵みなのです。頼りない私たちを、「あなたはキリストと霊的に結ばれているんだよ!」と教え続けてくれるのが洗礼の恵みなのです。ただ信仰によって義とされたことと、神の恵みを受け取るために洗礼を受けたということ。この二つのことを覚えたいと思います。
2.約束は律法ではなく恵みに立つ(13〜15節)
パウロは言います。「アブラハムへの約束は律法によらず、信仰による義によって与えられた」と。13節です。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。」
神の子どもとされた人々は、神が新しい神の国をおつくりになるとき、その世界を受け継ぎ、キリストとともに世界を治める者となります。そのアブラハムに与えられた約束も彼が割礼を受ける前、またモーセの律法が与えられる前だったのです。キリストによって与えられるすべての恵みは、ただ信仰による義を通して、すべての神の子どもたちに約束されているのです。この順序は旧約聖書の記述を見ればはっきりとわかります。アブラハムが信仰によって義と認められたのは創世記15章。そして彼が割礼を受けたのは創世記17章。そしてモーセ律法が与えられたのは出エジプトの後のことです。ですから、何にもまして信仰による義という神の恵みが先行しているのです。
ただ勘違いしないで欲しいのは、これは律法に価値がないとか、私たちとは律法が無関係であるということではないのです。それは無律法主義という間違いです。行いによって救われると考える律法主義も間違いですが、律法とは何の関係もないとする無律法主義も間違いなのです。
当然のことですが、律法は悪いものではありません。むしろ、神の正しさを教えるものです。ただ律法は私たちの罪を照らし出すだけで、救う力はありませんでした。律法のもとでは、私たちはいつも「足りない」と感じます。実際、わたしたちのかかえている罪の問題は、何が正しいかを知っても、それを心から願うことも行うことも出来ないからです。
しかし、イエス・キリストを通して与えられる赦しときよめという恵みのもとでは、「あなたはそのままで私についてきなさい」と言っていただけるのです。アブラハムのように、「神が約束されたから信じる」。それだけで神は「義」と認めてくださる。これが福音です。
でも、義と認められただけで、生活が罪の奴隷であったらどこに救いがあるのでしょう。そうではないのです。律法の指し示している生き方、すなわち要約すれば神を愛し人を愛する生き方、言い換えればキリストに従う生き方は、この信仰の義を受け取ったものがキリストによって変えられていく生き方なのです。私たちは律法によって罪に定められなくなっただけではなく、キリストの恵みによって律法の本質を実践する御霊の力のなかに入れられたのです。これはすべて神の恵みによることです。裁かれる恐怖からではなく、赦され愛されている感謝と御霊の力によって、目指すことのできる目標になったのです。
3.アブラハムと同じ信仰に立つ者として(16節)
信仰によって与えられる約束が、私たちの律法に対する努力の結果にかかっていると言われたら大変です。失敗したら天国の約束を失ってしまいます。しかし神の約束は、ただ神の恵みにより、信仰によって与えられているので確かなのです。神の恵みの相続人になる人々のなかで、律法を行っているか否かは何の境界線にもなりません。イスラエルだけでなく、アブラハムの信仰にならうすべての人が、神の国に入るからです。
私たちはユダヤ人という人種・血によってではなく、ただイエスを救い主と信じる信仰によってアブラハムの子孫とされ、神の相続員とされています。
ユダヤ人も異邦人も、割礼を受けた者も洗礼を受けた者も、みな信仰によって神の家族に迎えられた者であり同じ約束に生きる者です。その約束とは、「あなたを祝福し、あなたを通してすべての民を祝福する」というアブラハム契約の成就です。神の救いの計画は、こうして旧約から新約に至るまで、あらゆる時代の信じる者を恵みによって神の子どもとしていくのです。
結び.恵みの中に立つ信仰
神を信じる信仰とは「神がこの救いと恵みをわたしのために約束し与えててくださった」と信じることです。どうしてそれが「恵み」であるかというと、神はそれを受け取るにふさわしくないような私を愛して、神の子どもとしてくださったからです。
だから、私たちは「何をするか」ではなく「誰を信じるか」で義とされます。信頼ならないものを信じたならその人は被害を受けます。しかし神は死者をよみがえらせ、無から有を生み出されるお方。キリストを死からよみがえらせた神が、私たちにもこのキリストを信じて生きるなら神とともに生き、そして永遠のいのちまで生きる救いを与えると言ってくださったのです。アブラハムが信じたその神を、私たちも信じて生きるのです。
信仰の父アブラハムの足跡は、恐れながら努力する、安心し感謝しつつ従って生きる道です。恵みに立つ人は、恐れではなく感謝で生きます。それは無秩序な罪の奴隷としての自由ではなく、神のことばに導かれる神の子どもの自由です。
今日もただ神の信仰による義、恵みによる救いをしみじみと感謝しつつ、御国を目指して歩んでいきたいと思います。
祈り
恵み深い天のお父さん。あなたが私たちを、行いによってではなく、信仰によって義としてくださることを感謝します。私たちには完全にはあなたに従えない弱さがあります。しかもその罪を隠し、しばしば自分の承認欲求を満たすようにして自分の努力であなたに近づこうとしてしまいます。
けれど、アブラハムを義とされたあなたは、私たちにもただ恵みによる救いを与えてくださいます。どうかあなたの恵みの確かさに深々と感謝しつつ、神の恵みに応答して生きる信仰をお与えください。
律法によって裁かれる恐怖ではなく、恵みに包まれて成長を願って生きる者としてください。恐れではなく、感謝と信頼で、あなたの約束に歩む心を育ててください。
主イエス・キリストを通して与えられた信仰の道が、私たち一人ひとりの中に確かな喜びとなり、周りの人々へも祝福として流れていきますように。死者をよみがえらせ、無から有を呼び出されるあなたを信じます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
2025年10月19日主日礼拝説教
ローマ4:9~16
「恵みによる約束の確かさ」
序.行いよりも先にあるもの
1.信仰が先、行いは感謝の応答として伴うもの(9〜12節)
2.約束は律法ではなく恵みに立つ(13〜15節)
3.アブラハムと同じ信仰に立つ者として(16節)
結び.恵みの中に立つ信仰
Sermão de domingo, 19 de outubro de 2025
Romanos 4:9–16
“A certeza da promessa pela graça”
Introdução: O que precede as obras
O termo “desejo de reconhecimento” tem se tornado cada
vez mais comum nos últimos tempos. Geralmente, ele parece ser usado com
conotações um tanto negativas — como um desejo egocêntrico de ser reconhecido
ou validado.
No entanto, quando as pessoas interagem, desejar uma
avaliação e um reconhecimento adequados não é inerentemente errado; pode até
ser chamado de um desejo natural. Pois Deus criou a humanidade para viver em
comunhão amorosa. Desejamos ser amados e amar. Desejamos reconhecer e ser
reconhecidos. O desejo em si não é mau.
Os judeus da igreja romana daquela época também buscavam
um certo tipo de desejo excessivo de reconhecimento. “Como podemos ser
reconhecidos por Deus?” Através do esforço, da observância da Lei, da oração,
do serviço... Nas passagens anteriores, aprendemos que ser judeu ou possuir o
Antigo Testamento e a Lei não conferia nenhuma vantagem na salvação. No
entanto, eles persistiram. Não, argumentaram, nós temos a circuncisão. Nesse
aspecto, certamente somos superiores aos gentios? Mas também aqui Paulo
redireciona o olhar deles para uma perspectiva diferente: a salvação não é
concedida através da circuncisão.
Paulo chamou a atenção para quando Abraão foi declarado
justo por Deus. Abraão foi declarado justo não após o ato da circuncisão, mas
antes dele. Em outras palavras, a graça de Deus não é uma “recompensa por algo
feito”, mas um “dom para aqueles que crêem”.
Compreender isso revela que Abraão não é apenas o pai dos
judeus circuncidados, mas sim o pai dos crentes gentios que, sem circuncisão,
se tornaram povo de Deus pela fé. Somos amados por Deus não porque alcançamos algo,
mas porque cremos e recebemos. Deus ama aqueles que simplesmente crêem e
recebem a salvação, nutrindo-os e guiando-os para uma vida boa. Isso é verdade
para nós, e deveria ter sido assim. Em cada etapa de nossa caminhada como
crentes, não fomos salvos porque éramos dignos da salvação, mas simplesmente
porque cremos no amor, no perdão e na graça de Deus. É pelo amor de Deus que
somos continuamente perdoados enquanto caminhamos como crentes. Desejo
reafirmar essa verdade.
1. A fé vem primeiro; as obras seguem como uma resposta
de gratidão (versículos 9-11)
A certeza e a paz de ser declarado justo por Deus e não
condenado pelo pecado. Essa justiça pela fé era concedida exclusivamente aos
judeus circuncidados? Essa era uma questão crucial na igreja cristã do primeiro
século. Os judeus possuíam alguma vantagem privilegiada na salvação? Paulo
direciona nossa atenção para o momento da justificação de Abraão: o versículo
10 pergunta: “Como, então, ele foi justificado? Foi depois que ele foi
circuncidado? Ou foi antes de ele ser circuncidado? Não foi depois que ele foi
circuncidado, mas antes de ele ser circuncidado.
Ele recebeu o sinal da circuncisão como selo da justiça
que tinha pela fé enquanto ainda era incircunciso. Para que ele se tornasse pai
de todos os que crêem sem serem circuncidados, a fim de que a justiça lhes
fosse creditada também.
A justiça de Abraão foi concedida antes de ele receber a
circuncisão. Ele recebeu a circuncisão somente depois de ouvir a voz de Deus,
crer em Sua palavra e começar a andar em obediência. Portanto, Abraão foi
declarado justo no momento em que creu e obedeceu à palavra de Deus; a
circuncisão foi ordenada posteriormente como um sinal de sua pertença ao povo
de Deus. Essa sequência é crucial. A fé vem primeiro; as obras seguem como
resultado. Se a ordem for invertida, a fé se torna algo adquirido por obrigação
ou condição.
Adoração, serviço, doação, boas ações — tudo isso é
importante. No entanto, não são condições para satisfazer a necessidade da
aprovação de Deus, para ser reconhecido como justo. “Porque já sou amado por
Deus. Portanto, eu respondo” — essa é a natureza da fé.
É claro que crer não significa que o que se segue seja
irrelevante. Acreditar e viver em obediência são a mesma coisa. Abraão,
justificado pela fé, continuou sua jornada em obediência à palavra de Deus e
foi circuncidado ao longo do caminho. Ser justificado pela fé não significa que
isso termina com uma única experiência e se torna irrelevante depois disso;
significa também continuar a andar como alguém justificado por Deus. A
circuncisão em si era um sinal de que alguém era justificado pela fé diante de
Deus. É precisamente por isso que a circuncisão foi substituída pelo batismo na
era do Novo Testamento, e o batismo também se tornou um sinal de ser contado
entre o povo de Deus por meio da fé. Nem a circuncisão nem o batismo salvam uma
pessoa. No entanto, tanto para os judeus quanto para os cristãos, nenhum dos
dois é insignificante em si mesmo. Esse sinal também serve como um canal de
graça, permitindo-nos receber continuamente o favor de Deus por meio de Sua
palavra e prática. Quando alguém que creu e recebeu a justiça de Deus recebe o
sinal que confirma que é realmente do povo de Deus, essa pessoa é trazida para
o vínculo invisível e espiritual entre Deus e Seu povo. Nossas ações ainda
podem ser pouco confiáveis, oscilando para um lado e para outro, para cima e
para baixo, mesmo depois de crermos. No entanto, apesar disso, Deus nos
capacitou a crer em Cristo e nos deu o sinal de sermos Seus filhos. Recordamos
esse testemunho visível para confirmar que fomos feitos filhos de Deus. Isso
não é um símbolo opcional, mas uma graça indispensável para continuarmos a
andar como filhos de Deus. A graça do batismo nos ensina continuamente, a nós
que somos inconstantes: “Vocês estão espiritualmente unidos a Cristo!” Desejo
lembrar estas duas coisas: que somos justificados somente pela fé e que
recebemos o batismo para receber a graça de Deus.
2. A promessa se baseia na graça, não na lei (versículos
13-15)
Paulo declara: “A promessa a Abraão não foi pela lei, mas
pela justiça da fé” (versículo 13). “Pois a promessa a Abraão e sua
descendência de que ele herdaria o mundo não foi pela lei, mas pela justiça da
fé”.
Aqueles que se tornaram filhos de Deus herdarão esse
mundo quando Deus estabelecer Seu novo reino e governar o mundo com Cristo.
Essa promessa dada a Abraão também foi feita antes de ele receber a circuncisão
e antes da Lei de Moisés ser dada. Toda a graça dada por meio de Cristo é
prometida a todos os filhos de Deus exclusivamente por meio da justiça pela fé.
Essa sequência fica claramente evidente quando examinamos os relatos do Antigo
Testamento. Abraão foi considerado justo pela fé em Gênesis 15. Ele recebeu a
circuncisão em Gênesis 17. A entrega da Lei Mosaica ocorreu após o Êxodo.
Portanto, acima de tudo, a graça divina da justificação pela fé precede.
No entanto, por favor, não interpretem mal: isso não
significa que a Lei não tenha valor ou que a Lei seja irrelevante para nós.
Isso seria o erro do antinomianismo. O legalismo, que acredita que somos salvos
pelas obras, está errado, mas o antinomianismo, que afirma que a lei é
totalmente irrelevante, também está.
Naturalmente, a lei não é má. Pelo contrário, ela ensina
a justiça de Deus. No entanto, a lei apenas expôs o nosso pecado; ela não tinha
poder para salvar. Sob a lei, sempre nos sentimos “inadequados”. Na verdade, o
problema com o nosso pecado é que, mesmo sabendo o que é certo, não podemos realmente
desejá-lo ou fazê-lo.
No entanto, sob a graça do perdão e da purificação
concedidos por meio de Jesus Cristo, nos é dito: “Siga-me assim como você é”.
Como Abraão, “acreditando porque Deus havia prometido”. Isso por si só é
suficiente para Deus nos declarar “justos”. Este é o evangelho.
Mas que salvação existe se alguém é simplesmente declarado justo
enquanto permanece escravo do pecado na vida cotidiana? Esse não é o caso. O
modo de vida apontado pela Lei — resumido em amar a Deus e amar os outros, ou,
em outras palavras, seguir a Cristo — é o modo de vida no qual aqueles que
receberam essa justiça da fé são transformados por Cristo. Não somos meramente
libertos da condenação pela lei; pela graça de Cristo, somos colocados sob o
poder do Espírito Santo para praticar a essência da lei. Tudo isso é pela graça
de Deus. Tornou-se uma meta que podemos perseguir não por medo do julgamento,
mas por gratidão por sermos perdoados e amados, e pelo poder do Espírito Santo.
3. Como aqueles que estão na fé de Abraão (versículo 16)
Seria terrível se a promessa dada pela fé dependesse de nossos
esforços para cumprir a lei. O fracasso significaria perder a promessa do céu.
Mas a promessa de Deus é certa porque é dada exclusivamente pela graça de Deus,
por meio da fé. Entre aqueles que são herdeiros da graça de Deus, o fato de
alguém cumprir a lei ou não não é uma linha divisória. Pois não é apenas
Israel, mas todos os que seguem a fé de Abraão que entrarão no reino de Deus.
Somos descendentes de Abraão e herdeiros de Deus, não por sermos
judeus por raça ou sangue, mas exclusivamente pela fé em Jesus como Salvador.
Tanto judeus como gentios, circuncidados e batizados, são
todos acolhidos na família de Deus pela fé e vivem sob a mesma promessa. Essa
promessa é o cumprimento da aliança abraâmica: “Abençoarei você e, por meio de
você, abençoarei todos os povos”. Assim, o plano de salvação de Deus, do Antigo
Testamento ao Novo, graciosamente torna os crentes de todas as épocas filhos de
Deus.
Conclusão: Fé na Graça
A fé em Deus é acreditar que “Deus prometeu e deu essa
salvação e graça para mim”. Por que isso é “graça”? Porque Deus me amou, por
mais indigno que eu seja, e me fez Seu filho.
Portanto, somos justificados não pelo que fazemos, mas por quem
cremos. Se alguém confia em algo que não é confiável, essa pessoa sofre danos.
Mas Deus é Aquele que ressuscita os mortos e traz algo do nada. O Deus que
ressuscitou Cristo dentre os mortos nos prometeu que, se vivermos crendo neste
Cristo, viveremos com Deus e receberemos a salvação que se estende à vida
eterna. Nós também vivemos crendo no mesmo Deus em quem Abraão creu.
O caminho trilhado por Abraão, o pai da fé, é um caminho
de luta com medo, mas seguido com segurança e gratidão. Aqueles que permanecem
na graça não vivem com medo, mas com gratidão. Esta não é a liberdade dos
escravos desordenados do pecado, mas a liberdade dos filhos de Deus, guiados
pela Sua palavra.
Hoje, também, desejo caminhar em direção ao Reino,
profundamente grato pela justiça pela fé em Deus somente e pela salvação pela
graça.
Oração
Gracioso Pai Celestial. Agradecemos-Te por nos
justificares não pelas obras, mas pela fé. Temos fraquezas que nos impedem de
Te obedecer plenamente. Além disso, muitas vezes escondemos nossos pecados e
tentamos nos aproximar de Ti por nossos próprios esforços, buscando satisfazer
nossa própria necessidade de aprovação.
No entanto, Tu, que justificaste Abraão, nos concedes a
salvação somente pela graça. Concede-nos fé que responda à Tua graça,
profundamente gratos pela certeza da Tua misericórdia.
Faz de nós aqueles que vivem desejando crescer, envoltos
na graça, sem temer o julgamento da lei. Cultiva em nós corações que caminham
pelas Tuas promessas, não com medo, mas com gratidão e confiança.
Que o caminho da fé concedido por meio de nosso Senhor
Jesus Cristo se torne uma alegria segura dentro de cada um de nós, fluindo como
uma bênção para aqueles ao nosso redor. Acreditamos em Ti, que ressuscita os
mortos e chama à existência o que não existia.
Oramos em nome de nosso Senhor Jesus Cristo.
Amém.
Sermão do culto dominical, 19 de outubro de 2025
Romanos 4:9–16
“A certeza da promessa pela graça”
Introdução: O que precede as obras
1. A fé vem primeiro; as obras seguem como resposta de gratidão (vv. 9–12)
2. A promessa se baseia na graça, não na lei (vv. 13–15)
3. Como aqueles que têm a mesma fé de Abraão (v. 16)
Conclusão. A fé baseada na graça