2025年10月5日主日礼拝説教 ルカの福音書14:25~35 「キリストの弟子になる福音の道」
2025年10月5日主日礼拝説教
ルカの福音書14:25~35
「キリストの弟子になる福音の道」
序.福音の光で日常生活のあらゆる価値観や人間関係を照らす
イエス様は群衆に向かって言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることは出来ません」と。ここでいう「憎む」とは文字通りの憎しみの感情ではなく、最も大切なものとしてイエス・キリストを選び取ることを意味しています。日常生活のあらゆる価値観や人間関係を、この福音の光に照らして見直してごらんなさいという招きの声です。一見すると厳しく響く言葉ですが、むしろ福音に応答して神とともに生きる人生の広がりを体験するようにと呼び掛けているのです。キリストに従う人生は、表面的な行動を義務で固めていく冷たい規範ではなく、神の愛に触れて内側から外側までが変えられていく自由と喜びに満ちた継続的な体験だからです。
イエス様の言葉は、ただ何となくついて来ていた大勢の群衆の心に、「今ここ」での決断を迫るものでした。私たちも、今ここで、キリストの弟子として生きることが生活のあらゆる領域で現れているだろうかと、福音の光によって照らしていただきたいと思います。
1.キリストの愛に生きることを、あらゆる物事や人間関係において第一優先にとらえること:26節
イエス様は「〇〇しないものは、わたしの弟子になることは出来ません」という形式で、全体を三つの言葉を伝えています。一つ目が先ほど読んだ25節「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることは出来ません。」これが文字通りの感情的な憎しみであるとしたらおかしな言葉です。聖書の教えは十戒においても父と母を敬えがその一つに加えています。親子の愛の結びつきだけでなく夫と妻の関係も、神と人、キリストと教会の愛の結びつきと繋がる基本的な関係性です。また、キリストにある神の家族を私たちは兄弟姉妹とも呼びます。そのような教えがあるのに、どうしてそれを憎むと表現するのでしょうか。
聖書をよく読んでいる方にはよく知られていることですので、知らなかった方は今日を機会に覚えて帰ってください。聖書では、二つのものを比較して、「AよりもBの方をより大切にしなさい」という場合に、「Aを憎み、Bを愛しなさい」という表現をするのです。これはヘブル語にもギリシャ語にも共通する表現で、旧約聖書と新約聖書の両方から実例を出すことができます。つまりここで言われていることは、家族を憎むことを要求しているのではないということです。そうではなく優先順位の中で神への愛を第一においていること。生活の中には様々な大切なことがありますが、神様をその中の一つにするのではなく、神様を中心に置き、その周りに他の物を配置すること、です。
・「憎む/愛する」の意味(マタイ6:24)
憎む、愛するの表現としてわかりやすい用例を一か所開いておきましょう。マタイ6:24「だれも二人の主人に仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることは出来ません。」わかりやすいところです。これは神を信じる者は、お金を所有してはいけない、富を嫌うようにと言っている個所ではありません。しかし、富やお金、財産を神のように最も大切なものとしてはいけないということです。あなたの価値観が、結局はお金があるかどうかでしょうという生き方になっているなら、あなたの生き方はバランスがおかしくなっている。そのまま突き進むと自分の物事の捉え方も人間関係も罪の悲惨の中に落ちていくよと警告している個所です。神の国とその義とを第一にすること。そうすることで、お金も家族も、あるいは健康や仕事、休むことや楽しむことも、適切なバランスで取り組むことができるようになるのです。神とともに生きていることを忘れて、お金や家族、健康や仕事、休むことや楽しむことに取り組むと、必ず私たちの生活はバランスを崩し、すぐには問題が見えなくても、長い期間が経った後で、「どうしてこんなことになったのだろう、あぁ神様とともに生きることを第一に選ばなかったからだ」と気が付くことになります。
たとえば忙しい日々の中で家族や仕事、また自分の時間の優先順位に迷うことが誰にでもあるでしょう。また心が家族や仕事、周囲の人々の期待に縛られているかもしれません。そのような状況で神を第一にするというのはどういうことでしょうか。それは家族や仕事、自分のことを考えないということではなく、むしろすべての価値観をイエス・キリストの愛の光の中において、福音のまなざしで家族や仕事、自分の課題を捉えなおすということです。キリストの十字架の愛の犠牲と永遠のいのちの恵みに生かされていることを中心として、すべての物事に取り組みなおすこと。それは杓子定規で画一的な行動規範ではありません。神が愛してくださったように家族も隣人をも愛するとはどういうことだろうかと考えること。またキリストの愛の中で自分をいたわるということ。またキリストが父の御心に従ったように、世にある自分の役目を忠実に果たすということです。日々の小さな選択の積み重ねは、すべてが福音の力を体験するためのチャンスなのです。信仰の視点で自由な愛の選択に取り組むなら、その積み重ねがキリストの弟子として生きる内的な喜びをもたらす生き方へと繋がっていくのです。
2.自分の十字架を背負って歩く覚悟と力
二つ目は27節です。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることは出来ません。」キリストが言う十字架とは、父なる神に従った結果選び取らざるを得ない使命や役割のことです。今でこそ十字架はネックレスのアクセサリーになっていますが、もともとは恐ろしい処刑道具そのものを指していました。犯罪者は、自分がかかることになる十字架を背負ってその処刑台にまで進んでいかなくてはなりませんでした。イエス・キリストご自身が、父なる神の御心に従って、私たちの罪を代わりに背負うために十字架を背負ってくださいました。
自分の十字架を負ってキリストについて行くのでなくては、キリストの弟子になれない。これは一つ目の言葉ともつながっています。嫌なことはやりたくない。楽しいことしかやりません。今の私がやりたいと思わないことは何もやりません。そういう生き方では、実はキリストともに歩み、キリストに似た者へと成長・成熟していくプロセスを経験できないのです。なぜなら生まれながらの私たちの心は欲望と罪と愚かさに繋がれていて、正しいと思っていることが正しいことを選べておらず、喜ぶべきことを喜べず、悲しむべきことを悲しめないからです。キリストを価値観の中心に据えて生きること。その先に、自分の背負うべき十字架があるのなら、私たちはそれをキリストともに背負って生きていく力と愛と自由が、神様によって与えられるのです。この言葉に示されているのは、嫌なことをやらなくてはいけないという義務ではなく、キリストに従って生きる人には、苦難を通してでも負うべき使命を果たしていく力が与えられて、成長へと向かわせていただけるという希望なのです。キリストの弟子となったものは、ただキリストの力によって生かされる人です。しかしそれは手ぶらで、らくちんな道を歩くというのではなく、背負うべき十字架を負い、キリストにあって強くさせられていく成長の道を行くということなのです。この真理を、それぞれが自分の人生に照らして、納得し、励ましと慰めを得ることができますように。私たちは苦難なくして、また自分の十字架を負うことなくして、キリストの弟子の道を歩めないのです。しかも、苦しいから絶望なのではなく、困難を通して成熟への道へと進む希望があるのです。
3.全財産(もっているものすべて)を神にささげる生き方
そして最後三つめは28~35節です。中心にあるのは33節です。「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることは出来ません。」これも、文字通り全財産を献金しないとクリスチャンにはなれないということを言っているのではありません。ここに来るまでに二つのたとえ話があります。それを踏まえるとこの33節の意味が明確になります。
28~30節の譬えは、塔を立てようとするときに、まず座って、必要なお金が十分にあるか計算しなさいという話です。よく考えて始めなければ、費用が足りずに建物が完成できません。
31~32節の譬えは、敵国の王が2万人で攻めてきたときに、果たして一万人の兵士で迎え撃つことができるかどうか、まず座って考えなさいという話です。勝てないことが判明したら、急いで和解を申し出るために使いを送らなければならないからです。
両方の譬えに共通しているのは、まず座って、よく考えなさいということです。キリストの弟子として生きるというのは、生き方そのものをキリストともに歩むものにするということです。新しい趣味を始めるような気軽さで進むものではありません。しかし、だからと言ってのんびりと放置していてよいものでもありません。迫りくる二万人の敵に対応するのと同じように、福音がのべ伝えられたその時に、速やかに応答する必要があります。またそのうち考えましょうと言っていては、もはや救いを受け取るチャンスが残されていないという危険があるからです。これらのことを踏まえると、33節は、あなたの人生において、神を第一として歩む覚悟を決めて、救いを受け取りなさいということを言っているのです。先ほどマタイ6:24を読みました。神と富の両方に使えることは出来ません。富や自分の幸福だけを追い求める生き方のついでに、時々キリストのことを考えるというような生き方はできないのです。キリストの弟子となったものの生き方は、あらゆる価値観やあらゆる関係性の中で、神を第一に選び取るようになっていくこと。また神とともに歩む中で、その途上にある自らの使命という十字架を喜んで背負っていくこと。その先にあるのは自分の持っているものすべてをかけて、神とともに歩んでいく生き方です。お金というのはなんだかんだ言っても、あらゆる物や経験と交換できる便利で大切なものです。しかし、キリストの弟子はお金のために生きるのでなく、神を第一とし神のために生きるということです。神が必要とされるならば自分の全財産をおささげする覚悟をもって生きるということ。なぜなら、キリストは私たちのためにご自身のいのちを捧げてくださったからです。私たちの心があらゆる他の物を偶像とすることなく、真の神様を神として第一にして生きること。それがここに教えられていることです。
・クリスチャンはこの世の「塩気」:味付け、防腐剤
末尾にはクリスチャンは地上の塩であることが教えられます。塩は味付けの役目だけでなく、古くは防腐剤として貴重な役目を果たしました。私たちも、キリスト者であることの輝きを、その生き方の誠実さ、柔和さ、愛、忍耐強さで示す使命を持っています。そのためには、自分の生活の中で、どのような形で私は神の愛を示せているだろうかと、まず座って考えたいと思います。私たちの心の中心に、神に愛されている実感が途方もなくあふれたなら、その変化は具体的にどのようなところに現れるでしょう。誰との関係において、変化が現れますか。どんな価値観に変化がみられますか。神に背を向けるのでなく、神と和解し、いつも神とともに喜びにあふれて会話するなら、私たちの心はどこがもっと変わるでしょうか。
結び.キリストの弟子となったものは、このように成長していく希望がある!
キリストは、これらの厳しく響く言葉をもって、キリストの弟子となった人はどれほど御霊の力によって人生が力強く変えられていくのかを示しておられます。あなたはキリストの弟子となって、キリストの後について行く決心をしましたか?それならば私たちは神を第一に選びとり、背負うべき十字架を負って喜んで進み、あらゆる良いものをもって神の栄光を現わすものへと成長していく歩みに入っています。
まだ決心していない人は、良く考えて、そして遅かったと後悔しないうちに、キリストの救いを受け取ってください。
私たちの救いのために、ご自身が十字架への道を喜んで、覚悟して歩んでくださったイエス・キリストの恵みが、豊かにキリストの弟子たち共にあるようにと祈ります。
2025年10月5日主日礼拝説教
ルカの福音書14:25~35
「キリストの弟子になる福音の道」
序.福音の光で日常生活のあらゆる価値観や人間関係を照らす
1.キリストの愛に生きることを、あらゆる物事や人間関係において第一優先にとらえること:26節
・「憎む/愛する」の意味(マタイ6:24)
2.自分の十字架を背負って歩く覚悟と力
3.全財産(もっているものすべて)を神にささげる生き方
・クリスチャンはこの世の「塩気」:味付け、防腐剤
結び.キリストの弟子となったものは、このように成長していく希望がある!
Lucas 14:25–35
“O caminho do Evangelho para se tornar discípulo de Cristo”
Introdução: Iluminando todos os valores e relacionamentos da vida cotidiana com a luz do evangelho
Jesus disse à multidão: “Se alguém vem a mim e não odeia seu pai e sua mãe, sua esposa e seus filhos, seus irmãos e irmãs — sim, até mesmo sua própria vida —, ele não pode ser meu discípulo”. Aqui, “odiar” não significa ódio literal, mas significa escolher Jesus Cristo como a coisa mais preciosa. É um convite para reexaminar todos os valores e relacionamentos da vida cotidiana, iluminados por essa luz do Evangelho. Embora essas palavras possam parecer duras à primeira vista, elas são, na verdade, um chamado para experimentar a amplitude de uma vida vivida com Deus em resposta ao Evangelho. Pois uma vida seguindo a Cristo não é um conjunto frio de regras que vinculam ações superficiais por meio do dever, mas uma experiência contínua cheia de liberdade e alegria, transformada de dentro para fora pelo encontro com o amor de Deus.
As palavras de Jesus levaram a multidão, que apenas o seguia, a tomar uma decisão ali mesmo, naquele momento. Nós também devemos nos perguntar, iluminados pela luz do Evangelho, se viver como discípulos de Cristo está se manifestando em todas as esferas de nossa vida atual.
1. Priorizar viver no amor de Cristo acima de todas as coisas e relacionamentos: versículo 26
Jesus transmitiu três afirmações na forma: “Quem não... não pode ser meu discípulo”. A primeira, versículo 25 lido anteriormente, afirma: “Se alguém vem a mim e não odeia pai e mãe, esposa e filhos, irmãos e irmãs — sim, até mesmo a própria vida — não pode ser meu discípulo”. Se isso significasse ódio emocional literal, seria uma afirmação estranha. O ensinamento da Bíblia, incluindo os Dez Mandamentos, inclui honrar pai e mãe como um deles. O vínculo de amor entre pais e filhos, e também entre marido e mulher, forma uma relação fundamental ligada ao amor entre Deus e a humanidade, e entre Cristo e a Igreja. Além disso, nos referimos à família de Deus em Cristo como irmãos e irmãs. Dados esses ensinamentos, por que isso seria expresso como ódio?
Isso é bem conhecido por aqueles que leem a Bíblia com atenção; se você não sabia disso, aproveite hoje como uma oportunidade para se lembrar disso. Na Bíblia, ao comparar duas coisas e instruir: “Valorize B mais do que A”, a expressão usada é “odeie A e ame B”. Essa é uma expressão comum tanto em hebraico quanto em grego, e exemplos podem ser encontrados tanto no Antigo quanto no Novo Testamento. Portanto, o que está sendo dito aqui não é uma exigência de odiar a família. Em vez disso, trata-se de priorizar o amor a Deus acima de tudo. A vida contém muitas coisas importantes, mas não se trata de tornar Deus uma delas. Trata-se de colocar Deus no centro e organizar as outras coisas em torno Dele.
・O significado de “odiar/amar” (Mateus 6:24)
Vamos abrir uma passagem que fornece um exemplo claro da expressão “odiar/amar”. Mateus 6:24: “Ninguém pode servir a dois senhores. Ou você odiará um e amará o outro, ou se dedicará a um e desprezará o outro. Você não pode servir a Deus e ao dinheiro.” Esta é uma passagem clara. Ela não está dizendo que os crentes não devem possuir dinheiro ou devem desprezar a riqueza. No entanto, significa que a riqueza, o dinheiro ou os bens não devem ser tratados como a coisa mais importante, como Deus. Se seus valores giram em torno de ter ou não dinheiro, sua vida está desequilibrada. Esta passagem adverte que continuar nesse caminho levará suas percepções das coisas e seus relacionamentos à miséria do pecado. Busque primeiro o reino de Deus e Sua justiça. Ao fazer isso, você poderá lidar com dinheiro, família, saúde, trabalho, descanso e diversão de maneira equilibrada. Esquecer que vivemos com Deus enquanto buscamos dinheiro, família, saúde, trabalho, descanso ou diversão inevitavelmente desequilibra nossas vidas. Mesmo que os problemas não sejam imediatamente aparentes, após um longo período, percebemos: “Por que isso aconteceu? Ah, porque não escolhi viver com Deus em primeiro lugar”.
Por exemplo, todos provavelmente passam por momentos de incerteza sobre priorizar a família, o trabalho ou o tempo pessoal em meio a dias agitados. Nossos corações também podem se sentir presos às expectativas da família, do trabalho ou das pessoas ao nosso redor. O que significa colocar Deus em primeiro lugar nessas circunstâncias? Não significa negligenciar a família, o trabalho ou a nós mesmos. Significa, antes, reexaminar nossa família, nosso trabalho e nossos desafios pessoais através das lentes do Evangelho, colocando todos os valores à luz do amor de Jesus Cristo. Significa reengajar-se com todas as coisas centradas no sacrifício do amor de Cristo na cruz e na graça da vida eterna. Este não é um código de conduta rígido e uniforme. Envolve contemplar o que significa amar a família e os vizinhos como Deus nos amou. Significa cuidar de si mesmo dentro do amor de Cristo. Significa cumprir fielmente o seu papel no mundo, assim como Cristo obedeceu à vontade do Pai. O acúmulo de pequenas escolhas diárias apresenta oportunidades para experimentar o poder do Evangelho. Se nos comprometermos com a livre escolha do amor a partir de uma perspectiva de fé, esse acúmulo leva a um modo de vida que traz a alegria interior de viver como discípulo de Cristo.
2. A determinação e a força para carregar a própria cruz
O segundo ponto é o versículo 27: “Quem não carrega a sua cruz e não me segue não pode ser meu discípulo”. A cruz de que Cristo fala refere-se à missão ou ao papel que inevitavelmente escolhemos como resultado da obediência a Deus Pai. Embora hoje a cruz possa parecer um ornamento de colar, originalmente ela significava o terrível instrumento de execução em si. Os criminosos tinham que carregar a própria cruz na qual seriam crucificados, avançando em direção ao local da execução. O próprio Jesus Cristo, obedecendo à vontade de Deus Pai, carregou a cruz para levar nossos pecados em nosso lugar.
A menos que alguém tome sua própria cruz e siga a Cristo, não pode se tornar Seu discípulo. Isso se conecta à primeira afirmação. Não queremos fazer coisas desagradáveis. Só fazemos o que é agradável. Não fazemos nada que não tenhamos vontade de fazer no momento. Vivendo dessa maneira, não podemos realmente experimentar o processo de andar com Cristo e crescer e amadurecer para nos tornarmos semelhantes a Ele. Pois nossos corações naturais estão presos ao desejo, ao pecado e à tolice; não podemos escolher o que acreditamos ser certo, nem nos alegrar com o que devemos nos alegrar, nem lamentar o que devemos lamentar. Viver com Cristo no centro de nossos valores. Se há uma cruz que devemos carregar ao longo deste caminho, Deus nos concede a força, o amor e a liberdade para carregá-la com Cristo. O que esta passagem revela não é uma obrigação de suportar coisas desagradáveis, mas a esperança de que aqueles que seguem a Cristo recebem o poder de cumprir sua missão através do sofrimento, mesmo que isso signifique dificuldades, e são levados ao crescimento. Aqueles que se tornam discípulos de Cristo são pessoas mantidas vivas exclusivamente pelo poder de Cristo. No entanto, isso não significa trilhar um caminho fácil de mãos vazias; significa carregar a cruz que devemos carregar e trilhar o caminho do crescimento, fortalecidos em Cristo. Que cada um de nós reflita essa verdade sobre nossas próprias vidas, encontre convicção e ganhe encorajamento e conforto. Não podemos trilhar o caminho dos discípulos de Cristo sem sofrimento, nem sem carregar nossa própria cruz. No entanto, não é o desespero que vem das dificuldades, mas a esperança de que, através das dificuldades, avançamos no caminho para a maturidade.
3. Uma vida oferecendo todos os bens a Deus
E, finalmente, o terceiro ponto é encontrado nos versículos 28-35. O ponto central é o versículo 33: “Pois quem não renunciar a tudo o que possui não pode ser meu discípulo”. Isso não significa literalmente que não se pode se tornar cristão a menos que se doe todos os seus bens. Duas parábolas precedem este ponto. Compreendê-las esclarece o significado do versículo 33.
A parábola nos versículos 28-30 fala sobre a construção de uma torre: primeiro sente-se e calcule se você tem fundos suficientes. Sem um planejamento cuidadoso antes de começar, a construção pode permanecer inacabada por falta de recursos.
A parábola nos versículos 31-32 fala sobre um rei de uma nação inimiga atacando com 20.000 homens: primeiro sente-se e considere se você pode enfrentá-lo com 10.000 soldados. Pois, se ficar claro que a vitória é impossível, deve-se enviar rapidamente mensageiros para buscar a reconciliação.
Comum a ambas as parábolas é a instrução de sentar-se e pensar cuidadosamente primeiro. Viver como discípulo de Cristo significa tornar todo o seu modo de vida uma jornada com Cristo. Não é algo a ser empreendido com a casualidade de se iniciar um novo hobby. No entanto, também não é algo que deva ser negligenciado. Assim como é preciso responder rapidamente a um exército de vinte mil soldados que se aproxima, também é preciso responder prontamente quando o evangelho é proclamado. Dizer “vou pensar nisso mais tarde” é correr o risco de perder a oportunidade de salvação. À luz disso, o versículo 33 exorta você a tomar a decisão de andar com Deus como sua prioridade na vida e receber a salvação. Lemos Mateus 6:24 anteriormente. Não se pode servir a Deus e às riquezas. Não se pode viver uma vida buscando apenas riquezas e felicidade pessoal, pensando em Cristo apenas ocasionalmente. A vida de alguém que se tornou discípulo de Cristo é aquela em que, entre todos os valores e relacionamentos, Deus é escolhido em primeiro lugar. Além disso, ao caminhar com Deus, é uma vida de carregar com alegria a cruz da própria missão ao longo desse caminho. Além disso, está uma vida de caminhar com Deus, apostando tudo o que se possui. O dinheiro, digam o que digam, é um bem conveniente e vital, que pode ser trocado por todo o tipo de bens e experiências. No entanto, um discípulo de Cristo não vive para o dinheiro, mas coloca Deus em primeiro lugar e vive para Deus. Significa viver com a determinação de oferecer toda a sua fortuna, se Deus assim o exigir. Pois Cristo deu a Sua própria vida por nós. É viver com o verdadeiro Deus como nossa primeira prioridade, sem que os nossos corações idolatrem qualquer outra coisa. É isso que aqui se ensina.
・Os cristãos são o “sal” deste mundo: tempero, conservante
Por fim, aprendemos que os cristãos são o sal da terra. O sal não serve apenas para temperar, mas, na antiguidade, também desempenhava a valiosa função de conservante. Nós também temos a missão de demonstrar o brilho de sermos seguidores de Cristo por meio da sinceridade, gentileza, amor e paciência de nossas vidas. Para isso, desejo primeiro sentar e refletir: de que maneiras posso estar demonstrando o amor de Deus em minha própria vida? Se a compreensão de sermos amados por Deus transbordasse imensamente no íntimo de nossos corações, onde exatamente essa transformação se manifestaria? Em quais relacionamentos a mudança apareceria? Quais valores seriam alterados? Se, em vez de virarmos as costas para Deus, nos reconciliássemos com Ele e sempre conversássemos com Ele, transbordando de alegria, em que outros aspectos nossos corações mudariam?
Conclusão. Aqueles que se tornam discípulos de Cristo têm essa esperança de crescer dessa maneira!
Por meio dessas palavras severas e ressonantes, Cristo demonstra como a vida de Seus discípulos é profundamente transformada pelo Espírito Santo. Você decidiu se tornar discípulo de Cristo e seguir Seus passos? Se sim, embarcamos em uma jornada em que escolhemos Deus em primeiro lugar, carregamos com alegria a cruz que devemos carregar e nos tornamos pessoas que manifestam a glória de Deus por meio de todas as boas ações.
Aqueles que ainda não se decidiram, por favor, considerem cuidadosamente e recebam a salvação de Cristo antes que seja tarde demais.
Que a graça de Jesus Cristo, que voluntária e resolutamente trilhou o caminho da cruz para nossa salvação, seja ricamente sobre todos os discípulos de Cristo.
Sermão do culto dominical, 5 de outubro de 2025
Lucas 14:25–35
“O caminho do evangelho para nos tornarmos discípulos de Cristo”
Introdução: Iluminando todos os valores e relacionamentos humanos na vida cotidiana com a luz do evangelho
1. Priorizar viver no amor de Cristo acima de todas as coisas e relacionamentos: Versículo 26
- O significado de “odiar/amar” (Mateus 6:24)
2. A determinação e a força para tomar a cruz e seguir em frente
3. Uma vida de oferecer todos os seus bens (tudo o que se tem) a Deus
- Os cristãos são o “sal” deste mundo: tempero, conservante
Conclusão. Aqueles que se tornam discípulos de Cristo têm a esperança de crescer dessa maneira!