2026年4月19日主日礼拝説教 ローマ人への手紙6:20~23 「罪のパターンを手放し、聖潔に至る実を受け取っていく」
2026年4月19日主日礼拝説教
ローマ人への手紙6:20~23
「罪の繰り返しを手放し、聖潔に至る実を受け取っていく」
序.気づくと同じことを繰り返して、消耗していないか
やめたいと思っているのに繰り返してしまう。皆さんの生活の中にそのようなものがありますでしょうか。
やめたいと思っても、「やめられないとまらない」がキャッチフレーズはカルビーかっぱえびせんですが、私たちが経験する罪もよく似ています。始まる時は少しだけと思っているのに、結局後悔するところまでやめられないのです。
聖書はこれを単なる習慣の問題として扱いません。むしろその人の霊的な土台がどちらにあるかという点から説明します。すなわち、罪の支配か神の支配かという二つに一つの霊的な現実です。
キリストにある者はすでに神の支配に移されています。しかし問題は、私たちの生活がすぐにその事実には追い付かないという点です。かつて罪の支配の下で身に着けた考え方や反応の仕方が今も残っているからです。ですから、私たちの現実での戦いは、すでに属している霊的な支配に、現実の生活を一致させていく戦いです。決してどちらに属しているかを決める戦いではありません。救われた人はすでに神の支配に移されており、その状況に見合った生活に重ね合わせていく戦いなのです。
罪というのは、神に背を向けた生き方のことです。例えばひとと比べて落ち込む、他者からの評価に振り回される、愛し合うべき相手と愛し合えない、疲れているのに働きすぎてしまう、疲れているのに遊びすぎることがやめられない、苛立ち、空しさ、たくさんの恵みを受けているはずなのに満たされない思い。こんな状態は嫌だなぁと思いながら、罪と悲惨のループに陥っている領域があるのではないでしょうか。
そのとき私たちは「自由にやりたいことを自分で選んでいるんだ」と思っていますが、実際には同じ苦しみのパターンに引き戻されている。助かりたい楽になりたいと思いながら、やめられないとまらない罪のループをくるくる回っている。
ローマ人への手紙6章は、これを「どの支配のもとにあるか」という言葉で説明します。あなたが神の恵みの支配の中に入ったのなら、生活の中にある罪の支配のループを一つずつ手放していくようにと招かれています。
1.罪に属していたとき(20–21節):正当化して深まる罪のパターン
パウロは「罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました」と言います。
これは「好きなように生きることができていた」という意味ではありません。神様が造られたはずの本来の心の在り方である義を無視して、罪のままに生きていた。だから「本来あるべき方向に向かえない状態」であったということです。神様とともに心満たされて生きる「義の生き方」なんて考えることも願うこともしなかったからです。
では、神に背を向けた、罪の進むままに生きた結果は何だったか。パウロは言います。あなたがたはそのころどんな実を得ましたか?「今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。」
身に覚えがないでしょうか。確かにその時その時は、私は間違っていない。私は正しい!あれが本当に必要だった。あれがしたかった。それの何が悪いのか!と繰り返しを正当化していたかもしれません。でも思い返してみると、問題はまさに自分の問題に気が付かず、自分を正当化していたことそのものに問題があったのです。
私たちはしばしば同じ問題が形を変えて繰り返してしまうことがあります。これは聖書そのものの言葉ではありませんが、多くの人が経験していることです。過去の問題が、今も形を変えながら、現在の人間関係の中で繰り返されてはいないでしょうか。
関係が深まらない。深まるとぎくしゃくする。自己嫌悪が残る。同じところでつまずく。正しいことをしているはずなのに疲れる。何かの調整が必要です。
パウロは、罪のループを正当化し続けた先をこう表現しました。「その行き着くところは死である」。ここで言う死は、遠い未来の永遠の滅びという出来事だけではありません。
すでに始まっている“断絶”です。神との断絶、人との断絶、自分自身との断絶。日々、神様の恵みが分からなくなり、ひととの関係がこじれ、自分を大切に思う気持ちが壊れていく。その流れの延長線上に、最終的な死がある。かつては、神に背を向けていながらそのことに気が付けなかったのです。
2.神に属する霊的現実と自覚(22節):立場が変わり、自覚が変わることで行動が変わっていく
しかしパウロは「今は、罪から解放されて神の奴隷となった」と言います。22節です。
ここで重要なのは、「自分で抜け出した」とは言っていない点です。解放は与えられるもの、神が与えてくださったものです。
その結果として与えられる実りが「聖潔」です。「聖潔に至る実」という表現が意味しているのは、日々聖潔へと至っていく。罪のループから抜け出して、神と人と自分と心地良い関係を築いていく聖潔の歩みに進んでいくという実りです。
これは単に道徳的に正しくなっていくということのみをさすのではなく、「神に属していることが定まるならば、聖潔が実っていく」という、確固たるアイデンティティのことを指しています。だからこそ、「神に属している現実」とその自覚に伴って、行動も少しずつ変わっていくのです。あなたが神の奴隷となったのなら、自分のことを「まだ罪の奴隷でもある」などと中途半端なものだと思っていてはいけない。今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい!と励ましているのです。その恵みを与えるために、神は私たちをキリストと結び合わせてくださったからです。
ではそのような行動が、具体的にどう現れるのでしょうか。
たとえば、衝動的な感情にすぐ反応せず、一呼吸おいて反応を選べること。
たとえば、他者の評価に揺さぶられても、でも神様との祈りの中で平安を取り戻したり、信頼できる兄弟姉妹の交わりの中で安心できる。完全には不安に引きずられない。
例えば、人間関係の中で、他者の問題に過剰に合わせすぎたりせず、境界を保ちながら関わり続けることが出来る。これは罪の問題に支配されず、神の恵みと他者に適切に頼れるからこそできることです。
このような変化は、とても小さいことのように見えますが、本質的な変化です。「支配が変わり始めている」しるしとも言えます。神に愛されていることが、体験的に人間関係を変化させていくプロセスだからです。
そしてこうした一つ一つの取り組みの先に「永遠のいのち」があります。これは未来にだけ祝福があるというのでなく、いますでに始まっている、人生の質の変化でもあります。
3.罪を繰り返した報酬ではなく、神の賜物を受け取って聖潔といのちに至る(23節)
最後23節で、パウロはこれら二つの方向性をはっきりと対比させます。「罪の報酬は死である。しかし神の賜物は、キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と。
報酬とは、働いた結果として当然支払われるものです。つまり、いま私たちが自覚か、無自覚化に関わらず、人生を消耗させている罪のパターンがあるなら、それは苦しみという賃金を受け取り続けて最終的に死という報いを受けるのです。
一方で、永遠のいのちは「賜物」です。自分の頑張りで獲得するものではなく、「キリスト・イエスにある神の恵み」として与えられる。罪のパターンに気が付いて、それを手放していく中で神が働かれます。手足を心を口を目を、愛の循環と平和のために活用する時、神は私たちにそれをする力も知恵も忍耐も賜物として与えてくださいます。その先にあるのは永遠のいのちという神とともにある恵みです。
聖潔を増し加えて永遠のいのちに行き着く、義の奴隷の歩みへと進んでいきましょう。
その恵みを受け取るために必要なのは、自分の中に残っている、罪と悲惨の繰り返し、それを自己正当化してしまっている自分の思いに気が付かせてくださいと祈ることです。確かに、私たちを罪のパターンから救い出し、聖潔へと進ませてくださるのは神の恵みだからです。だから、目を開いてくださいと祈り求めましょう。
結び.神の恵みの支配に属していることを、具体的に確かめる
この箇所は、本質的には「もっと良くなりなさい」という話ではありません。むしろ、「あなたは誰のもとで生きているのか」という問いです。あなたが神の支配の中で楽しんで生き生きと過ごしているなら、結果としてあなたはもっと良くなるのです。
罪の奴隷時代の古い習慣に気が付くための具体的な取り組みを、二つ提案したいと思います。
一つは、強い負の感情が出たとき、すぐに反応せず祈りをもって一呼吸おくことです。自分でも気が付いていない問題があること、自分も知らないような解決を神様が用意しておられることの余地を考えてみましょう。また聖書を継続的に学び、そのテーマについて一般の書物を学んだり、同じ悩みを抱えている兄弟姉妹とともに交わり祈り合いましょう。課題と自分の間に、継続的に神様に介入してもらう余地を作り、神様に委ね続けることは私たちの人生への取り組み方を変えてい行く力になります。
もう一つは、本当は悩む必要がないようなものに、心を消耗させているものはなんだろうかと考えてみましょう。吟味することで、自分が何に支配されているかが見えてくることがあります。もしそれが自分を縛っていると気が付けるなら、それを手放していく道もすでに開かれています。
気付かない罪は、私たちを振り回し続けます。認めず、告白せず、目を背けているからこそ強力に罪はあなたを縛り付けるのです。しかし、目を向け、光を当て、自己正当化の覆いを取り外し、神に委ねられた罪は、少しずつ弱体化されていくのです。
罪のパターンを繰り返しながら、最後に受け取ることになるのは死です。
しかし、神は私たちをキリストと結び合わせ、神に生きるものとされました。それならば私たちはすでに義の奴隷とされています。罪を手放しながら聖潔に進み、最後には永遠のいのちを完全に輝かきにいたります。神がその歩みを導いてくださるのです。神とともに、キリストと結ばれて聖潔に至る実を楽しむ一週間を歩んでいきましょう。
祈り
天のお父さん、私たちが気づかぬうちに縛られているものを明らかに示してください。悩むべきでないことを悩み、間違った方法で執着し、その過ちを正当化しながら、はまっている罪のパターンを抜け出させてください。
御霊によって私たちを解放し、あなたに属する確かさと平安と喜びを与えてください。
今週の小さなひとつひとつの選択の中で、あなたのいのちに生かされていることを知ることができますように。
イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。
2026年4月19日主日礼拝説教
ローマ人への手紙6:20~23
「罪の繰り返しを手放し、聖潔に至る実を受け取っていく」
序.気づくと同じことを繰り返して、消耗していないか
1.罪に属していたとき(20–21節):正当化して深まる罪のパターン
2.神に属する霊的現実と自覚(22節):立場が変わり、自覚が変わることで行動が変わっていく
3.罪を繰り返した報酬ではなく、神の賜物を受け取って聖潔といのちに至る(23節)
結び.神の恵みの支配に属していることを、具体的に確かめる
Sermão do Culto Dominical de 19 de abril de 2026
Epístola aos Romanos 6:20–23
“Abandonar os padrões do pecado e receber os frutos que conduzem à santidade”
Introdução. Será que, sem perceber, estamos repetindo sempre as mesmas coisas e nos desgastando?
Apesar de querermos parar, acabamos repetindo. Existe algo assim na vida de vocês?
Mesmo querendo parar, o slogan “Não consigo parar, não consigo parar” é da Calbee Kappa Ebisen, mas o pecado que vivemos é muito parecido. No início, pensamos que será só um pouquinho, mas, no fim das contas, não conseguimos parar até o ponto de nos arrependermos.
A Bíblia não trata isso como uma mera questão de hábito. Em vez disso, explica a partir de onde está o alicerce espiritual da pessoa. Ou seja, trata-se de uma realidade espiritual que se resume a duas opções: o domínio do pecado ou o domínio de Deus.
Quem está em Cristo já foi transferido para o domínio de Deus. No entanto, o problema é que nossa vida não acompanha imediatamente esse fato. Isso porque as formas de pensar e reagir que adquirimos quando estávamos sob o domínio do pecado ainda permanecem. Portanto, nossa batalha na realidade é a de alinhar nossa vida real ao domínio espiritual ao qual já pertencemos. Não é, de forma alguma, uma batalha para decidir a qual lado pertencemos. A pessoa salva já foi transferida para o domínio de Deus, e a batalha consiste em alinhar sua vida à essa nova situação.
O pecado é um modo de vida que volta as costas para Deus. Por exemplo, ficar deprimido ao se comparar com os outros, ser influenciado pela avaliação alheia, não conseguir amar quem deveria amar, trabalhar demais mesmo estando cansado, não conseguir parar de se divertir demais mesmo estando cansado, irritação, vazio, um sentimento de insatisfação apesar de ter recebido tantas bênçãos. Não será que existe uma área em que, mesmo pensando “não gosto dessa situação”, estamos presos em um ciclo de pecado e miséria?
Nesses momentos, pensamos que estamos “escolhendo livremente o que queremos fazer”, mas, na verdade, estamos sendo puxados de volta ao mesmo padrão de sofrimento. Enquanto desejamos ser salvos e encontrar alívio, giramos em um ciclo vicioso de pecado do qual não conseguimos sair.
A Carta aos Romanos, capítulo 6, explica isso com as palavras “sob qual domínio você está”. Se você entrou no domínio da graça de Deus, é convidado a abandonar, um por um, os ciclos de domínio do pecado presentes em sua vida.
1. Quando pertencíamos ao pecado (versículos 20–21): o padrão do pecado que se aprofunda à medida que o justificamos
Paulo diz: “Quando éramos escravos do pecado, agíamos livremente em relação à justiça”.
Isso não significa que “podíamos viver como bem entendêssemos”. Ignorávamos a justiça, que é o estado natural do coração criado por Deus, e vivíamos no pecado. Portanto, estávamos em um “estado em que não podíamos seguir na direção que deveríamos”. Isso porque ele nem sequer pensava ou desejava uma “vida de justiça”, na qual o coração fosse preenchido pela presença de Deus.
Então, qual foi o resultado de ter virado as costas para Deus e vivido à mercê do pecado? Paulo pergunta: “Que frutos vocês colheram naquela época?” “Coisas das quais hoje se envergonham. O fim delas é a morte.”
Você não se lembra de algo assim? Certamente, naquele momento, você pensava: “Eu não estou errado. “Eu estou certo! Aquilo era realmente necessário. Era o que eu queria fazer. O que há de errado nisso?”, talvez você tenha repetido para justificar suas ações. Mas, ao relembrar, o problema estava justamente em não perceber que o problema era você mesmo e em justificar a si mesmo.
Muitas vezes, repetimos os mesmos problemas, apenas de forma diferente. Embora não seja uma citação direta da Bíblia, é algo que muitas pessoas vivenciam. Será que os problemas do passado não estão se repetindo, mesmo que de forma diferente, em seus relacionamentos atuais?
O relacionamento não se aprofunda. Quando se aprofunda, fica tenso. Resta um sentimento de autoaversão. Tropeçamos sempre no mesmo ponto. Apesar de estarmos fazendo a coisa certa, ficamos exaustos. É preciso algum tipo de ajuste.
Paulo descreveu assim o que acontece quando continuamos justificando o ciclo do pecado: “O fim disso é a morte”. A morte aqui referida não é apenas um evento de perdição eterna em um futuro distante.
É uma “ruptura” que já começou. Ruptura com Deus, ruptura com as pessoas, ruptura consigo mesmo. A cada dia, deixamos de compreender a graça de Deus, as relações com as pessoas se tornam tensas e o sentimento de valorização de si mesmo vai se desintegrando. No prolongamento dessa corrente, encontra-se a morte definitiva. Antigamente, mesmo tendo virado as costas para Deus, não nos apercebíamos disso.
2. A realidade espiritual de pertencer a Deus e a autoconsciência (versículo 22): à medida que a posição muda e a autoconsciência muda, a ação também muda
No entanto, Paulo diz: “Agora, libertos do pecado, tornamo-nos escravos de Deus”. É o versículo 22.
O importante aqui é que ele não diz que “saímos por conta própria”. A libertação é algo que é concedido, algo que Deus nos concedeu.
O fruto que resulta disso é a “santidade”. A expressão “fruto que conduz à santidade” significa que caminhamos diariamente em direção à santidade. É o fruto de avançarmos na caminhada da santidade, saindo do ciclo do pecado e construindo relações harmoniosas com Deus, com as pessoas e conosco mesmos.
Isso não se refere apenas a nos tornarmos moralmente corretos, mas a uma identidade firme: “Se for estabelecido que pertencemos a Deus, a santidade se concretizará”. É por isso que, com a “realidade de pertencer a Deus” e a consciência disso, nossas ações também vão mudando aos poucos. Se você se tornou escravo de Deus, não deve pensar em si mesmo como alguém incompleto, dizendo que “ainda é escravo do pecado”. O que está sendo encorajado é: “Agora, ofereça seus membros como escravos da justiça e avance em direção à santidade!” Pois foi para conceder essa graça que Deus nos uniu a Cristo.
Então, como essas ações se manifestam concretamente?
Por exemplo, não reagir imediatamente a emoções impulsivas, mas dar um tempo para escolher a reação.
Por exemplo, mesmo quando abalado pela avaliação dos outros, recuperar a paz na oração com Deus ou sentir-se seguro na comunhão com irmãos e irmãs em quem se pode confiar. Não ser totalmente arrastado pela ansiedade.
Por exemplo, nos relacionamentos, ser capaz de continuar se relacionando sem se adaptar excessivamente aos problemas dos outros, mantendo limites. Isso é possível justamente porque não somos dominados pela questão do pecado e podemos confiar adequadamente na graça de Deus e nos outros.
Essas mudanças podem parecer muito pequenas, mas são mudanças essenciais. Podem ser consideradas sinais de que “o domínio está começando a mudar”. Isso porque o fato de ser amado por Deus é um processo que transforma os relacionamentos de forma experiencial.
E, além de cada um desses esforços, há a “vida eterna”. Isso não significa que a bênção esteja apenas no futuro, mas é também uma mudança na qualidade de vida que já começou agora.
3. Receber o dom de Deus, em vez da recompensa pelo pecado repetido, para alcançar a santidade e a vida (versículo 23)
No versículo 23, o último, Paulo contrasta claramente essas duas direções. “A remuneração do pecado é a morte. Mas o dom de Deus é a vida eterna em Cristo Jesus.”
Remuneração é aquilo que se recebe naturalmente como resultado do trabalho. Ou seja, se existe um padrão de pecado que está desgastando nossa vida — independentemente de estarmos conscientes ou não disso —, continuaremos recebendo o salário do sofrimento e, por fim, receberemos a recompensa da morte.
Por outro lado, a vida eterna é um “dom”. Não é algo que se conquista com o próprio esforço, mas é concedido como “a graça de Deus em Cristo Jesus”. Deus age à medida que percebemos os padrões de pecado e nos livramos deles. Quando utilizamos nossos membros, coração, boca e olhos para promover o ciclo do amor e a paz, Deus nos concede como dom a força, a sabedoria e a paciência necessárias para fazê-lo. O que nos espera além disso é a graça de estar com Deus, que é a vida eterna.
Vamos avançar na caminhada do escravo da justiça, aumentando a santidade para alcançar a vida eterna.
Para receber essa graça, o que é necessário é orar pedindo que Deus nos faça perceber os pensamentos que ainda permanecem em nós — a repetição do pecado e da miséria, e a forma como os justificamos. Pois, de fato, é a graça de Deus que nos salva dos padrões de pecado e nos leva à santidade. Por isso, vamos orar e pedir que Ele abra nossos olhos.
Conclusão. Confirmar concretamente que pertencemos ao domínio da graça de Deus
Essa passagem, em essência, não é uma mensagem do tipo “você precisa melhorar”. Trata-se, antes, da pergunta: “Sob quem você está vivendo?”. Se você estiver vivendo com alegria e vitalidade sob o domínio de Deus, o resultado natural será que você se tornará uma pessoa melhor.
Gostaria de propor duas medidas concretas para nos darmos conta dos velhos hábitos da época em que éramos escravos do pecado.
A primeira é, quando surgirem fortes emoções negativas, não reagir imediatamente, mas fazer uma pausa para orar. Tente considerar a possibilidade de que existam problemas dos quais você nem mesmo está ciente, e que Deus tenha preparado soluções que você nem imagina. Além disso, estude a Bíblia continuamente, leia livros sobre o tema e converse e ore com irmãos e irmãs que enfrentam as mesmas preocupações. Criar espaço para que Deus intervenha continuamente entre o problema e nós mesmos, e continuar a entregar tudo a Ele, torna-se a força que transforma a maneira como lidamos com a vida.
A segunda é refletir sobre o que está desgastando nosso coração com coisas pelas quais, na verdade, não precisamos nos preocupar. Ao examinar isso, podemos perceber o que está nos dominando. Se conseguirmos perceber que isso nos está prendendo, o caminho para nos livrarmos disso já está aberto.
O pecado que não percebemos continua nos controlando. É justamente por não reconhecê-lo, não confessá-lo e desviar o olhar que o pecado nos prende com tanta força. No entanto, quando voltamos o olhar, lançamos luz sobre ele, removemos a máscara da autojustificação e entregamos o pecado a Deus, ele vai se enfraquecendo aos poucos.
Ao repetir os padrões do pecado, o que acabaremos recebendo no final é a morte.
No entanto, Deus nos uniu a Cristo e nos tornou seres que vivem para Ele. Sendo assim, já somos considerados escravos da justiça. Ao nos livrarmos do pecado e avançarmos em santidade, chegaremos, por fim, a resplandecer plenamente na vida eterna. É Deus quem guia essa caminhada. Juntos com Deus, unidos a Cristo, vamos passar esta semana desfrutando dos frutos que nos levam à santidade.
Oração
Pai celestial, revele-nos claramente aquilo que nos mantém presos sem que percebamos. Liberte-nos dos padrões de pecado em que estamos presos, nos quais nos preocupamos com coisas que não deveríamos, nos apegamos de maneira errada e justificamos nossos erros.
Liberte-nos pelo Espírito Santo e conceda-nos a certeza, a paz e a alegria que pertencem a Ti.
Que, em cada pequena escolha desta semana, possamos reconhecer que estamos vivendo em Tua vida.
Oramos em nome de Jesus Cristo. Amém.
Sermão do Culto Dominical de 19 de abril de 2026
Epístola aos Romanos 6:20–23
“Abandonar os padrões de pecado e receber os frutos que conduzem à santidade”
Introdução. Será que, sem perceber, estamos repetindo as mesmas coisas e nos desgastando?
1. Quando pertencíamos ao pecado (versículos 20–21): o padrão de pecado que se aprofunda à medida que o justificamos
2. A realidade espiritual de pertencer a Deus e a autoconsciência (versículo 22): à medida que nossa posição muda e nossa autoconsciência se transforma, nossas ações também mudam
3. Em vez da recompensa pela repetição do pecado, recebemos os dons de Deus e alcançamos a santidade e a vida (versículo 23)
Conclusão. Confirmar concretamente que pertencemos ao domínio da graça de Deus