2024年4月7日主日礼拝説教 ルカの福音書7:1~10

 202447日主日礼拝説教

ルカの福音書71~10

『資格はありません。ただ、おことばを』

序.姿を見せない百人隊長

 今日の聖書個所は少し変わったところがあります。というのも、重要な登場人物となる百人隊長が実際には一度も登場していないからです。彼の行動や言葉は記されているのですが、肝心要の百人隊長自身の姿は出てこない。変わった点でありながら、これがひとつの大事なポイントにもなっています。どうして彼はこの出来事の中に姿を現さないままだったのでしょうか。百人隊長の態度や行いを通して、私たちが見習うべき神様への向き合い方を学び取ることが出来たらと思います。

1.百人隊長の人柄:ひとりの部下のために

 まず百人隊長というのは何かというと、ローマ帝国の軍隊における役職の名前でした。文字通り彼の下には百人の部下がいて、彼は百人の兵士たちを束ねる隊長だったわけです。同様に彼の上には千人隊長という役職がいて、彼は中間管理職という立場になります。古代ローマ帝国の強力な軍隊の中心的役割を果たしていた百人隊長は、厳しい上下関係の組織の中で生きている軍人でした。平時においては警察のような役割も果たしていたことでしょう。一般の兵士に比べるとかなり良い給料を貰い、尊敬される立場にあった人でした。

 さて、イエス様が平地の説教を終え、ガリラヤ湖の北に位置するカペナウムに進まれた時のことでした。この百人隊長のしもべの一人が病気で死にかけており、そのことでユダヤ人の長老たちをイエス様のところに送ったのでした。遣わされた長老たちの言葉が記されています。4節「イエスのもとにきたその人たちは、熱心にお願いしていった。『この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。』」このわずか5節までに書かれている出来事を辿るだけで、このローマの百人隊長の普段の人柄というものがすでによく現れていることに目を留めたいと思います。二つの関係性から彼の人柄に注目します。

 一つは、彼は百人もいる自分の部下の一人の健康のために、イエスのうわさを聞いて遣いを送る人物でした。このような配慮が当たり前の配慮であったのかどうかわかりませんが、軍隊において病気で死にかけている兵士の世話を隊長の姿は、彼の思いやりを示しているのではないでしょうか。どんな病でも癒すという噂を聞きつけて、部下のために手を尽くそうとしたのは、彼が部下のことをまるで家族のように大切に思っていたからでした。

 もう一つあります。ユダヤ人は一般的にローマの人々のことを神を知らない異邦人、それも自分たちを権力によって支配する者たちとして軽蔑し忌み嫌っていました。嫌われて当然の関係性。しかし百人隊長の願いによってイエス様のもとに遣わされたのは、なんとユダヤ人の長老たちでした。彼はこの地域を治める長老たちに信頼されていたのです。長老たちの信頼が強制的なものではなく自発的なものだったことは、彼らの言葉から分かります。「私たちの国民を愛し」とあるように、百人隊長はユダヤ国民のために働き、彼らのために会堂を建てることまでやったのでした。彼は権力によって乱暴に人々を従わせたのではなく、むしろ国民に仕え、それゆえ人々に慕われていた人物だったのでした。彼らは熱心にイエス様に願い、百人隊長は願いを聞いてもらう資格のある人ですと言ったのでした。

 この百人隊長は、ローマ人もユダヤ人も分け隔てなく大切にし、そして人を大切にするからこそ彼自身も人から大切にされている。そのような人柄であったことが伝わってきます。ユダヤ人の長老たちの姿は、百人隊長が異邦人であるにもかかわらず、彼のためなら何でもしてあげたいという熱意を発しています。人種、役職、立場を超えて、思いやりや愛情、信頼で尊敬されている人物でした。イエス様は長老たちの熱心な頼みに動かされて百人隊長の家に向かって歩いて行かれました。

 このような百人隊長の人柄を想像するだけでも、彼らの間にある信頼関係からなにか温かい気持ちになります。人が人を思いやること。病の人のために何かしてあげたいという気持ち。人種を超えて、助けてあげようという勇気。そして素晴らしい人だからどうか助けてあげて欲しいと人のために熱心に動こうとする思い。皆が他者ことを思いやり、他者のために一生懸命に行動している姿。神を愛し隣人を愛する生き方を教えるイエス様としては、このような人々のつながりをみてきっと嬉しい気持ちになっておられたのではないかと思うのです。私たちは、自分の人生の中で、どのような人間関係を築いているでしょう。愛し愛される関係。大切にし、大切にされる関係。百人隊長の築いてきた信頼関係は、一つの理想的な関係と言えるかもしれません。

2.百人隊長の神に対する態度

・資格はありません

さて、イエス様が百人隊長の家にほど近いところまでやって来ると、今度は百人隊長の友人たちが遣わされてきました。この友人たちの言葉がまた興味深いものでした。「主よ、わざわざ、ご足労下さるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。」

ここに来て初めて、百人隊長がイエス様に対してどのような思いを持っていたのかがはっきりと示されます。彼はイエス様のことを心から尊敬し、恐れ敬っていたのでした。ローマの百人隊長が、属国ユダヤ人に対して命令するなら、それは普通強制的なものだったに違いありません。権力と暴力によって命令するのは簡単なことでした。しかし、彼の考えは違ったのです。

確かに、最初はイエス様に来てほしいと願った。なんとしてでもこの愛する部下の命を、神の子と呼ばれるイエス様に救ってほしかったからです。しかし、いざその方が自分の家に向かって歩いて来ていることを知ると、彼は自分がイエス様とお会いするにはふさわしくないと思ったというのです。どうしてでしょう。明確なことは分かりませんが、彼はすでに信仰を持っていたのではないでしょうか。ユダヤ人の地域で、彼らとともに過ごす中で聖書を知り、神を恐れる生き方を始めていたのかもしれません。イエス様が神の子であるなら、異邦人である自分の家に招くような資格は私にはない。かといって、自分から会いに行くのもふさわしくない。そう感じた、考えたというのでした。私たちは、このような彼の態度に何か新鮮なものを感じないでしょうか。

 ここまでで、二回「資格」という言葉が出てきました。それは対照的な使われ方をしています。一回目は4節で、ユダヤ人の長老たちが百人隊長を推薦する言葉です。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。」彼は親切で、ユダヤ人に良くしてくれた人だから、イエス様あなたもユダヤ人であるなら彼に親切にして当然です。彼はそうされる資格のある人物だから、と。

これに対照的なのが6節の最後。百人隊長自身の言葉で「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません」と。私が、この百人隊長の言葉にハッとされると言ったのは、本来ならば罪人である私たちが神様とお会いするならばこのような感覚、このような態度こそ当然であり、自然なものであるべきだと教えられるからです。このような罪にまみれた心と、愛の足りない両手両足では、とても神さまの御前には恥ずかしくて、恐ろしくて出られない。そんな資格はありません。謙遜ということではなく、それが神様の前に立った時の私たちの真実な姿です。

ともすると、私たちは自分があれをしたこれをしたと思うと、私はもっと愛情を受けるにふさわしい存在だ。神様にもっと良くしてもらう資格のある人間だと、もらうこと、不満なことを大きくしてしまうことが多いかもしれません。しかし、私自身が神様に愛されていることがそもそも信じられないことだと気が付くと、この百人隊長の信仰の素直さ、純粋さになにか胸を打たれるところがあります。彼は、神様にわざわざ来てくださらなくても大丈夫です、と言ったのでした。自分は直接お会いするにはふさわしくない存在だから、と。イエス様は、「多くの罪を赦された人は多く愛する。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。百人隊長がイエス様をこれほどに愛し敬っていたのは、彼が自分のうちにある罪の重さを深く感じていたからではないでしょうか。イエス様が自分のところに向かって歩いて来てくださっていることにすでに十分なほどの愛情を感じ取ったのでした。

・ただ、おことばを

そして、恐れながら百人隊長が願ったことは一つ。「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください」でした。この願いには、彼の日頃の実体験に基づく確信がありました。彼の下には百人の兵士がいて、人間同士の間柄であってもその命令は絶対でした。ましてや、神の子であるあなたがその権威の下にあるものに命じられるならば、病であっても必ずやいうことを聞くでしょう、そういう考えだったのです。ここにもまた新鮮な驚きがあります。百人隊長はきっと律法学者のような広く深い聖書知識は持っていなかったことでしょう。しかし、自分の生活に根付いた肌に触れるような感覚で、権威と命令と服従ということの意味を知っていました。それを、そのまま神様の権威ある言葉の絶対力を信じる信仰に結びつけたのでした。従わせることと従うことがどのようなことであるかを知っていた彼だからこそ、神の権威というものを素直に、そして真理に近く理解することが出来ていたのです。

イエス様は百人隊長にまつわるこれら一連の出来事に触れたとき、深く感銘を受けられました。9節「イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。『あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。』」そして、使いの友人たちが家に帰ると、すでにそのしもべの病は癒され回復していたのでした。イエス様が御心によってそのしもべを癒してくださったからでした。こうして百人隊長はイエス様に直接お会いすることなく、ましてや読者の前にもその姿を一度も見せることなく、今日の箇所は終わっていくのでした。

むすび.信仰と行動、神への愛と恐れの調和(ロマ121~2

 読み終えて、この百人隊長が一度も姿を見せなかったからこそ一層温かく私たちの心に印象を残していくのではないでしょうか。異邦人でありながら、その生き方は謙遜であり、神を愛し人を愛することの実践にあふれていたからです。イエス様はこのような彼の信仰に驚き、彼の生き方を喜び、彼の願いを聞き入れてくださいました。

 ではこれを読んだ私たちは何を学び取るべきでしょうか。百人隊長の態度において最も輝いているのは、信仰と行動、愛と恐れとの間に、美しい調和があることだと思います。

一つ目は、信仰と行動の調和です。彼はイエス・キリストの神としての力に完全に信頼していました。しかし、だからといって何もしないのではなくイエス様もとに使いを送り、しもべを助けてくれるように願いました。信仰と行動の両方が伴っていました。ともすると、私たちは信じているからと言って実行するのをおろそかにします。また逆に、行動しなくては何も変わらないと動いているうちに、神様に頼ることを忘れがちです。神様の御業に信頼しつつ、自分も行動していく。その両方が大切であり必要です。

二つ目は、愛と恐れの調和です。彼は神の前にある自分の罪深さを知り、神に対する恐れを持っていました。だからイエス様と直接会う資格などないと考えたのです。しかし、だからと言って神様から目を背けたり、自分の罪深さに絶望したりしたのではなく、むしろ神様の愛に信頼して自分の願いを率直に伝えました。聖なる神様を恐れつつ、愛なる神様に近づいていく。このような態度は矛盾しないのです。陥りやすいのは、神さまの深い赦しと愛と憐みの上にあぐらをかいて、いつの間にか自分の罪と怠惰に鈍感になっていくことです。あるいは逆に、聖なる神様を恐れるあまりに、神様の深い赦しと哀れみが信じられなくなっていくこともあるかもしれません。聖なる神様を恐れつつ、愛なる神様に近づいていく。

信仰と行動、愛と恐れ。それらが生き方として行動に現れていた百人隊長。それも異邦人の中にこのように神を恐れて生きる信仰者がいたことを、イエス様は驚きつつも嬉しく思われたことでしょう。もしこの百人隊長が私たちの時代に生きていて、あなたの職場、学校、家庭にいたら、果たしてどんな人物になっていることでしょう。もしこの百人隊長が、皆さんの置かれている立場に立っていたら、周りの人とどんな関係を結び、神様にどんなことを願うでしょう。百人隊長が言ったように、私たちの一人として神様の前にでるのにふさわしい人はいませんが、それでも神様は信仰をもって近づこうとする神の子どもたちに喜んで近づき、その思いを聞いてくださるお方です。私たちなりの精一杯の誠実さで、神様と人を愛する生き方を実践したいと思います。

ローマ121~2「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 

202447日主日礼拝説教

ルカの福音書71~10

『資格はありません。ただ、おことばを』

序.姿を見せない百人隊長

 

1.百人隊長の人柄:ひとりの部下のために

 

2.百人隊長の神に対する態度

・資格はありません

 

・ただ、おことばを

 

むすび.信仰と行動、神への愛と恐れの調和(ロマ121~2

 

Sermão de adoração de domingo, 7 de abril de 2024

Lucas 7:1~10.

'Sem qualificações. Apenas a Palavra

Introdução . O centurião invisível

A passagem bíblica de hoje é um pouco incomum. O centurião, que se tornará um personagem importante, não aparece de fato no texto. Suas ações e palavras são descritas, mas o próprio centurião, o personagem principal, nunca é visto. Esse é um ponto estranho, mas também importante. Por que ele não foi visto nesses eventos? Espero que, por meio da atitude e da conduta do centurião, possamos aprender com ele a maneira de lidar com Deus que devemos imitar.

1. o caráter do centurião: em prol de um subordinado

Centurião era o nome de um cargo no exército romano. Literalmente, havia cem homens abaixo dele, e ele era o comandante dos cem soldados. Da mesma forma, acima dele havia o cargo de capitão de mil, o que o tornava um gerente intermediário. O centurião, que desempenhava um papel central nos poderosos exércitos do Império Romano, era um soldado que vivia em uma organização hierárquica rígida. Em tempos de paz, ele também desempenhava um papel semelhante ao da polícia. Ele era um homem que recebia um salário consideravelmente melhor do que o soldado comum e estava em uma posição de respeito.

Agora, quando Jesus terminou sua pregação na planície e seguiu para Cafarnaum, que fica ao norte do Lago da Galileia. Um dos servos do centurião estava doente e morrendo e, por causa disso, ele enviou os anciãos judeus a Jesus. As palavras dos anciãos enviados estão registradas: v. 4: "Quando se aproximaram de Jesus, perguntaram-lhe com insistência. Este é um homem qualificado para fazer isso a vocês. Ele ama o nosso povo e construiu para si uma sinagoga para nós'". Só de traçar os eventos descritos até esses meros cinco versículos, eu gostaria de chamar a atenção para o fato de que o caráter habitual desse centurião romano já está bem evidente. Vou me concentrar em seu caráter em duas relações.

Primeiro, ele foi um homem que enviou um mensageiro ao ouvir rumores sobre Jesus para o bem-estar de um de seus próprios homens, que eram cem. Não sei se essa era uma preocupação natural, mas a maneira como o capitão cuidou de um soldado doente e moribundo do exército mostra sua compaixão. O fato de ele estar disposto a sair do seu caminho para ajudar seus homens, tendo ouvido rumores de que poderia curar qualquer doença, mostra que ele se importava com eles como se fossem sua família.

Há ainda outro aspecto. Os judeus geralmente desprezavam e abominavam os romanos como gentios sem Deus que os dominavam pelo poder. Uma relação que merecia ser odiada. Mas, para a surpresa do centurião, foram os anciãos judeus que foram enviados a Jesus a pedido dele. Ele tinha a confiança dos anciãos que governavam a região. O fato de a confiança dos anciãos ser voluntária, e não forçada, fica evidente em suas palavras. Como diz o texto, "amando o nosso povo", o centurião trabalhou para o povo judeu e até construiu uma sinagoga para eles. Ele não era um homem que subjugava violentamente o povo por meio de seu poder, mas sim um homem que servia ao povo e, portanto, era amado por ele. Eles pediram ansiosamente a Jesus e disseram que o centurião era a pessoa qualificada para ouvir o pedido deles.

Esse centurião cuidava tanto de romanos quanto de judeus e, por cuidar das pessoas, ele mesmo era cuidado por elas. Está claro que ele tinha esse caráter. Os anciãos judeus demonstram entusiasmo em fazer tudo pelo centurião, apesar do fato de ele ser gentio. Ele era um homem que transcendia raça, cargo e posição, e era respeitado por sua compaixão, amor e confiança. Jesus caminhou em direção à casa do centurião, motivado pelo pedido ansioso dos anciãos.

Só de imaginar o caráter de tal centurião, a confiança entre os dois já nos dá algo caloroso. Pessoas cuidando de pessoas. O desejo de fazer algo pelos doentes. A coragem de ajudar, independentemente da raça. E o desejo de se mover com entusiasmo para ajudar os outros porque eles são pessoas maravilhosas e, por favor, ajudem-nos. A maneira como todos se preocupam com os outros e trabalham arduamente para o bem dos outros. Jesus, que nos ensina a viver uma vida de amor a Deus e amor ao próximo, deve ter se sentido feliz ao ver esse tipo de conexão entre as pessoas. Que tipo de relacionamento temos em nossa própria vida? Relacionamentos em que amamos e somos amados. Relacionamentos em que somos valorizados e estimados. O relacionamento de confiança que o centurião construiu pode ser um relacionamento ideal.

2. A atitude do centurião em relação a Deus.

...não qualificado.

Agora, quando Jesus chegou perto da casa do centurião, os amigos do centurião foram enviados a ele. As palavras desses amigos também foram interessantes. "Senhor, o senhor não se deu ao trabalho de vir até nós. Não estou qualificado para colocá-lo sob o teto de uma casa como a minha. Portanto, não achei apropriado ir até o senhor pessoalmente. Apenas me dê uma palavra. E assim cure meu servo".

Aqui, pela primeira vez, nos é mostrado claramente o que o centurião sentia por Jesus. Ele tinha um respeito sincero, temor e reverência por Jesus. Se um centurião romano dava ordens aos judeus gentios, elas geralmente eram coercitivas. Era fácil comandar por meio do poder e da violência. Mas ele pensava diferente.

De fato, no início ele queria que Jesus viesse. A todo custo, ele queria que Jesus, o Filho de Deus, salvasse a vida desse amado subordinado. Mas quando soube que ele estava caminhando em direção à sua casa, sentiu que não estava apto a encontrar Jesus. Por quê? Não sabemos ao certo, mas ele já devia ter fé. Ele pode ter estado em uma área judaica, passando tempo com eles, aprendendo sobre a Bíblia e começando a viver uma vida temente a Deus. Se Jesus é o Filho de Deus, não estou qualificado para convidá-lo para minha casa como gentio. Por outro lado, não é apropriado que eu mesmo vá visitá-lo. Foi isso que ele sentiu e pensou. Não achamos algo revigorante nessa atitude dele?

Até agora, a palavra "qualificado" foi mencionada duas vezes. Ela é usada de forma contrastante. A primeira vez é no versículo 4, em que os anciãos judeus recomendam um centurião. "Este homem está qualificado para fazer isso com vocês". Ele é um homem bondoso, um homem que tem sido bom para os judeus, portanto, Jesus, se você também é judeu, merece ser bondoso com ele. Porque ele é um homem que merece ser assim, disse ele.

Compare isso com o final do versículo 6. Nas próprias palavras do centurião, "não estou qualificado para colocá-lo sob o teto da casa de um homem como eu". Digo que estou indignado com as palavras do centurião porque elas nos ensinam que esse tipo de sentimento, esse tipo de atitude, é natural e deve ser natural se nós, que somos pecadores por natureza, quisermos nos encontrar com Deus. Com um coração tão cheio de pecado e duas mãos e dois pés que carecem de amor, temos muita vergonha e medo de nos apresentarmos a Deus. Você não está qualificado para isso. Não se trata de humildade, mas essa é a verdade de quem somos quando estamos diante de Deus.

De qualquer forma, quando achamos que fizemos isso e aquilo, sou digno de mais afeição. Muitas vezes, podemos magnificar nosso recebimento e nossa insatisfação por sermos alguém que merece mais de Deus. Mas quando percebo que o fato de eu mesmo ser amado por Deus é incrível em primeiro lugar, há algo na honestidade e na pureza da fé do centurião que me impressiona. Ele disse a Deus que não precisava percorrer todo o caminho para vê-lo. Ele disse que não era digno de recebê-lo. Ele disse que não era digno de encontrar Deus pessoalmente. Jesus disse: "Aquele que perdoou muitos pecados ama a muitos. Aquele a quem foram perdoados poucos pecados, ama poucos". O centurião amava e respeitava tanto Jesus porque sentia profundamente o peso do pecado nele. Ele já sentia amor suficiente por Jesus para caminhar em sua direção.

... apenas a Palavra.

E o centurião, com receio, pediu uma coisa: "Apenas me dê a Palavra. Apenas me dê a Palavra. E cure o meu servo. Esse pedido foi baseado na certeza de sua experiência diária. Ele tinha cem soldados sob seu comando, e suas ordens eram absolutas, mesmo entre seres humanos. E se você, um filho de Deus, receber ordens de alguém sob sua autoridade, certamente fará o que ele disser, mesmo que esteja doente, essa era a ideia. Aqui novamente há uma nova surpresa. O centurião provavelmente não tinha o amplo e profundo conhecimento bíblico dos escribas. Mas ele sabia o que significava ter autoridade, comando e obediência, com um senso de penetração que estava enraizado em sua própria vida. Ele relacionou isso diretamente à sua fé no poder absoluto da palavra autorizada de Deus. Por saber o que era obedecer e ser obedecido, ele foi capaz de entender a autoridade de Deus de forma honesta e próxima da verdade.

Quando Jesus foi tocado por essa série de eventos relacionados ao centurião, ficou profundamente impressionado: v.9 "Ao ouvir isso, Jesus ficou maravilhado e, voltando-se, disse à multidão que o seguia Eu lhes digo que nunca vi tamanha fé em Israel". E quando os amigos do mensageiro voltaram para casa, a doença do servo já havia sido curada e restaurada. Isso aconteceu porque Jesus havia curado o servo de acordo com a vontade dele. Assim termina a passagem de hoje sem que o centurião tenha visto Jesus pessoalmente, muito menos na frente de seus leitores.

Conclusão. Fé e ação, amor e temor de Deus em harmonia (Rm 12:1-2).

Depois de ler esse livro, como o centurião nunca foi visto, ele deixa uma impressão ainda mais calorosa em nosso coração. Embora fosse gentio, seu modo de vida era humilde e cheio da prática de amar a Deus e amar os outros. Jesus ficou admirado com esse tipo de fé nele, alegrou-se com seu modo de vida e ouviu seus pedidos.

Então, o que devemos aprender com essa leitura? O que mais brilha na atitude do centurião é a bela harmonia entre fé e ação, entre amor e temor.

A primeira é a harmonia entre fé e ação. Ele tinha total confiança no poder divino de Jesus Cristo. Mas isso não significa que ele não fez nada, mas enviou um mensageiro a Jesus e pediu que ele ajudasse seu servo. Foi uma combinação de fé e ação. Às vezes, deixamos de fazer as coisas só porque acreditamos nelas. Por outro lado, tendemos a nos esquecer de confiar em Deus enquanto nos movemos, pensando que nada mudará sem ação. Ao mesmo tempo em que confiamos na obra de Deus, também precisamos agir. Ambas são importantes e necessárias.

A segunda é a harmonia entre o amor e o temor. Ele conhecia sua pecaminosidade diante de Deus e tinha medo de Deus. É por isso que ele achava que não tinha o direito de encontrar Jesus face a face. Mas isso não significava que ele se afastasse de Deus ou se desesperasse com sua pecaminosidade; ao contrário, ele confiava no amor de Deus e expressava abertamente seu desejo. Enquanto temia um Deus santo, ele se aproximava de um Deus amoroso. Essa atitude não é contraditória. É fácil cair na armadilha de descansar no profundo perdão, amor e misericórdia de Deus e, em pouco tempo, nos tornarmos insensíveis ao nosso próprio pecado e preguiça. Ou, ao contrário, podemos ficar com tanto medo de um Deus santo que perdemos a fé em Seu profundo perdão e compaixão. Enquanto tememos um Deus santo, nos aproximamos de um Deus amoroso.

Fé e ação, amor e medo. Isso se manifestou em ação como um modo de vida, o centurião. Jesus deve ter ficado surpreso e satisfeito com o fato de que entre os gentios havia um homem de fé que vivia com tanto temor de Deus. Se esse centurião estivesse vivo em nosso tempo, em seu local de trabalho, escola ou casa, que tipo de pessoa ele realmente seria? Se esse centurião estivesse em sua posição, que tipo de relacionamento ele teria com as pessoas ao seu redor e o que ele desejaria de Deus? Como disse o centurião, nenhum de nós está apto a estar na presença de Deus como um de nós, mas Deus é aquele que está disposto a se aproximar dos filhos de Deus que estão dispostos a se aproximar Dele com fé e a ouvir seus pensamentos. Queremos praticar uma vida de amor a Deus e aos outros com nossa mais completa sinceridade.

Romanos 12:1-2: "Apresentem seus corpos como ofertas vivas e santas, agradáveis a Deus. Essa é a adoração que é apropriada para vocês. Não fiquem em sintonia com o mundo. Em vez disso, sejam transformados pela renovação de sua mente. Então vocês discernirão qual é a vontade de Deus - o que é bom, agradável a Deus e perfeito."