2025年12月14日待降節主日礼拝説教 ローマ人への手紙5:3~4 「苦難の中で育てられる希望」

20251214日待降節主日礼拝説教

ローマ人への手紙534

「苦難の中で育てられる希望」

序.救われた人が受け取っている恵み(512

パウロは、ローマ512で、信仰によって義とされた者が与えられている三つの確かな恵みを語りました。第一に、私たちは主イエス・キリストによって神との平和を持っていること。第二に、キリストによってこの恵みの中に立つことを許されていること。第三に、神の栄光にあずかる希望を喜んでいることです。

自分は神を信じている、キリストにあって義と認められていると信じているならば、そのひとはこれらの自己認識をしっかりと持つべきです。神との平和を持っている、キリストの恵みの立場に立っている、栄光にあずかる希望を喜んでいる。

恵みを持っていながら、その恵みがどれほど大きな価値をもつかを知らずにいたら、それは猫に小判の状態だからです。私たちは神との絶対的な永遠の平和を持っており、キリストにある全ての恵みを受ける立場に置かれ、さらには確実に栄光へと変えられる希望を誇りとして生きるものとされています。

しかしパウロは、そこで話を終えません。「それだけでなく」と言って、さらに3節から踏み込んだ救いの恵みを示します。今日のテーマは苦難と希望の関係です。私たちがこの苦難と希望を信仰によって受け取る時、確かに自分の中に救いの恵みが働いているとより深く確信することができるようになります。

 

1.「神を信じているのに、なぜ苦しみに遭うのか」という問い

・苦難がないから喜んでいるのでない

3節「それだけではなく、私たちは苦難さえも喜んでいます。」この言葉は一見すると奇妙です。苦難とは、苦しいことであり、できれば避けたいものであり、経験しないで済むのならそうでありたいものだからです。しかも、信仰を持つ者がなぜ苦難に遭うのかという疑問はいつの時代にも繰り返し語られてきた議論です。いまでも教会に始めてきた人が聞く質問であり、また何十年もクリスチャンであった人の口からでる疑問でもあります。聖書はこの問いを軽く扱ってはいません。

まず確認しておきたいことは、聖書は「神を信じれば苦しみに会わない」とか、「苦しい気持ちがなくなる」とは教えていないということです。パウロ自身も、そして初代教会の信徒たちも厳しい迫害や激しい内的な葛藤を経験していました。そうした現実の中で「本当に神に愛されているなら、なぜこんなことが起こるのか」と疑問が生まれるのは自然なことです。

だからこそパウロは苦難と救いの確信との関係を正面から語りました。それは当時の境界だけでなく、今を生きる私たちにも必要な信仰の柱なのです。

 

・苦難が神の恵みを経験する通路となる(ヨハネ1633

苦難は、私たちの心にどのような信仰が働いているかをあぶりだします。主イエスご自身が、「世にあっては、あなたがたには苦難がある」と語られました。(ヨハネ1633)苦しみの中で何の助けにもならない信仰があるとすれば、それは最初から誤った期待のうえに気付かれていたのかもしれません。

キリスト教信仰は苦しみを避けるための別ルートを提示してはいません。「神を信じるならあなたは苦しみにあいませんよ」と聖書は言っていないのです。そうではなく、苦しみの中でも全知全能の神とともに、神の子として歩むことができるという信仰です。

またパウロは苦難に直面したときに悲しんではいけないとか、苦しみに打ち勝たなければ信仰者ではないと言っているのではありません。私たちは弱く揺れ動きます。その現実を含めて、パウロは苦難の中で信仰がどのように働くかを教えようとしています。

苦難それ自体は苦しいものでありながら、信仰者にとっては神の守りと恵み経験するための通路となるので「苦難さえも喜んでいます」といったのでした。ではそこにある神の恵みとはどのようなものなのでしょうか。苦難の中を歩む者が経験する三つのプロセスをパウロは明らかにしています。

 

2.苦難が希望を生む三つのプロセス

⑴苦難が忍耐を生み出す

第一に「苦難は忍耐を生み出す」とパウロは言います。この第一ステップをパウロが当たり前のように書いていることを印象深く心に刻みたいのです。苦難は諦めを生みますとか、苦難は迷い、疲れ、怒り、不平不満を生み出しますとは言いませんでした。

これがキリストにある信仰義認を持った人が、自分の人生で経験する恵みの第一ステップです。苦難に遭った時に、信仰が忍耐を生み出すのです。このことを知っていることが肝心です。

試練は、私たちにもっと神に頼る必要があることを改めて教えます。私たちは苦しみの中でまずは自分の力や理解に頼って頑張るでしょう。しかしその力が尽きたところで、再びキリストにより頼む者とされます。自分には様々な点で力がなく賜物がなく、愛がなく謙遜がなく、知恵がなく富がない。神にしか頼ることができない。確かにそのような場所に立たされたときはじめて、より深く私たちは神に頼り、神とともに苦難を耐え忍ぶという恵みの深みに入っていく経験に触れるのです。

また、試練は私たち自身を正確に映し出します。自分の弱さを知ることは、信仰を壊すのではなく、むしろ自分自身のどうしようもなさという謙遜を教え、キリストに信頼して過ごすことの意味を考えさせるのです。このようにして神を信じる、神に頼るという信仰を、現実的なものに整えていくのです。その結果、私たちは以前よりも落ち着いた、揺るがない信仰の視点を持つようになります。これが忍耐です。確かに、新しい試練、より大きな苦難はいつでも信仰者を打ち砕くように見えるときがありますが、私たちは人知を超えた神の恵みの中で忍耐を身に着ける歩みの中へと導かれていくのだと知るようになるのです。

 

⑵忍耐が練られた品性を生み出す(へブル1257

第二のプロセスは、忍耐が「練られた品性」を生み出すことです。この言葉は、試験を通過した証明、承認された確かさを意味します。忍耐をもって歩み続けること自体が、私たちが神に属する者であることの証しとなるのです。

苦しんで忍耐して、その先にあるのは何だと思うでしょう。「耐え忍んだのに報われず、疲れ切ってばたりと倒れて希望を見失う」そうではありません。キリストの義認の恵みの中で経験する忍耐は、信仰者の中に知識と経験と確信を有機的に結び合わせ、より柔軟で堅固で実践的な人格を形成していくからです。

常に、御言葉を通して自分が経験していることに光を当てると恵みが輝くことがわかるでしょう。ヘブル人への手紙が語るように、試みがあることは確かに私たちが神に我が子として取り扱われている証拠でもあります。へブル1257「『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えらえるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか」。確かに、もし子どもがなにも挑戦せず、何も苦しまず、それゆえに何も努力せず、ただ温室で育てられていたとしたら、その子は何の力を育むこともできず一人で立つこともできないでしょう。苦難や試練は、確かに私たちが神に愛されている神の子どもであることの証拠なのです。御言葉の光に照らして、その道を進むなら、忍耐がただ転んでつまづいて弱まって疲れて怒って争って終わりということにはならないのです。真実な信仰は、金が燃える炉の中で精錬されるように、試練によって不純なものが取り除かれ、真実に神に頼る生き方を際立たせていくのです。そのようなものとして苦難の中で忍耐を発揮するということを知っている必要があるのです。

 

⑶練られた品性が希望を確かなものにする

このようにして忍耐の経験から生まれた練られた品性は、希望をいっそう確かなものとして確信するようになります。苦難は一見、希望から遠ざかるように見えますが、実際には、私たちをより深く、より確かな希望へと導くのです。なぜなら、苦難の中でどのように信仰が練り上げられ、神とともに歩む生き方が平安で知恵深く、信頼に足るものであるかを、身をもって知るようになるからです。

試練を通して、私たちは主イエス・キリストに立ち返り、神の愛を現実のなかで経験し、必要を満たしてくださる神の力と恵みを知るようになります。その生きた経験こそが、希望を揺るぎないものにするのです。

 

3.消極的忍耐を超えて、苦難を「喜ぶ(誇りとする)」

最後に、これらの信仰者の成長・成熟のプロセスを知ったうえで、キリスト者は苦難に対してどのように向き合うかについて触れたいと思います。

 パウロは、苦難に直面した私たちには忍耐が必要であるということを率直に書いています。逆に言えば、信仰があっても、苦難に際して忍耐が発揮されないなら、その先にある真実な成熟と希望を見失ってしまうのです。確かにそこには信仰による忍耐が発揮される必要があります。苦しまないというのではなく、むしろ苦しみの中をキリストともに潜り抜けます。それは、ただ感情を殺し、歯を食いしばって耐えることでもありません。また自分の能力で何とか切り抜けるということでもありません。

 パウロがここで語っているのは、苦難を「喜ぶ」そして「誇る」という応答です。ここで用いられている「喜ぶ」という言葉は前の2節の神の栄光にあずかる望みを喜ぶ、誇るという言葉と同じ言葉です。

これは、信仰の理解を通して、苦難が希望を損なうものではなく、神の働きの中で恵みをもたらすために用いられることを知っているということ。その確信に満ちた知識のために、最終的に苦難をも誇ることができる、という意味です。今日の4節の最後は「私たちは知っているからです」となっています。苦難さえも喜べるのは、私たちがこれらのことを真実に知っているからなのです。信仰によって体験的にもたらされた知識は、もはや苦難が希望をもたらすことを確信して、苦しみながらも深い喜びと誇りを持てるようにさせてくれる力があるのです。

 

結び:栄化の希望のなかで育てられる信仰(詩篇11971、Ⅰペテロ41213

私たちが苦難に直面する時、自分の信仰が練り上げられているということを心に留めましょう。もしあなたが天国でキリストにある栄化の希望を確信しているならば神はその希望へと向かう歩みの中で、忍耐を通して人格を練り上げてくださいます。

忍耐の最中には思いが揺れ動くこともあるかもしれません。しかし振り返ったとき、詩篇119篇の作者がいったようなことを確認するでしょう。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります」と。ぜひ詩篇119篇も併せて、味わってみてください。確かに信仰者は苦難を忍耐することを通して信仰にある希望を握るようになることを体験的に歌っているからです。

またペテロも確信をもって忍耐の先にある希望を語っています。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」(Ⅰペテロ41213

私たちが味わうどんな苦難の中にも神が働いておられ、人知を超えた方法ですべてを駅に変えてくださいます。そのことを信仰によって受け取り、希望へと導かれてまいりましょう。


祈り

恵み深い天のお父さま。私たちをキリストにあって義とし、確かな希望へと招いてくださっていることを感謝します。 苦難の中で忍耐を経験する時、それが単なる我慢で終わらず、あなたに依り頼んで歩む平安と希望へと導いてください。その経験と知識によって立つ神の子の人格を育んでください。たとえ私たちの思いや理解を超える状況におかれても、御言葉により私たちを支え、 希望を誇る確信へと向かわせてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

20251214日待降節主日礼拝説教

ローマ人への手紙534

「苦難の中で育てられる希望」

序.救われた人が受け取っている恵み(512

1.「神を信じているのに、なぜ苦しみに遭うのか」という問い

・苦難がないから喜んでいるのでない

・苦難が神の恵みを経験する通路となる(ヨハネ1633

2.苦難が希望を生む三つのプロセス

⑴苦難が忍耐を生み出す

⑵忍耐が練られた品性を生み出す(へブル1257

⑶練られた品性が希望を確かなものにする:「知っているから」

3.消極的忍耐を超えて、苦難を「喜ぶ(誇りとする)」

結び:栄化の希望のなかで育てられる信仰(詩篇11971、Ⅰペテロ41213


Sermão para o Domingo do Advento, 14 de dezembro de 2025

Romanos 5:3–4

“A esperança que é alimentada pelo sofrimento”

Introdução: A graça recebida pelos salvos (5:1–2)

Em Romanos 5:1–2, Paulo fala de três graças certas concedidas àqueles que são justificados pela fé. Primeiro, temos paz com Deus por meio de nosso Senhor Jesus Cristo. Segundo, temos permissão para permanecer nessa graça por meio de Cristo. Terceiro, nos regozijamos na esperança de compartilhar da glória de Deus.

Se alguém crê em Deus e acredita que é justificado em Cristo, deve se apegar a essa autoconsciência: que possui paz com Deus, permanece na posição de graça de Cristo e se regozija na esperança de compartilhar da glória.

Pois possuir a graça sem perceber seu imenso valor é como um gato com uma moeda de ouro. Nós possuímos paz absoluta e eterna com Deus; estamos em posição de receber toda a graça encontrada em Cristo; e somos chamados a viver nos gloriando na esperança segura de sermos transformados em glória.

No entanto, Paulo não termina aí. Dizendo: “Não só isso”, ele prossegue a partir do versículo 3 para revelar a graça mais profunda da salvação. O tema de hoje é a relação entre sofrimento e esperança. Quando recebemos esse sofrimento e esperança pela fé, podemos crescer em uma convicção mais profunda de que a graça da salvação está realmente operando em nós.


1. A pergunta: “Por que sofremos se cremos em Deus?”

・Não é a ausência de sofrimento que traz alegria

Versículo 3: “Não só isso, mas nos regozijamos em nossos sofrimentos.” À primeira vista, isso parece estranho. Afinal, o sofrimento é doloroso, algo que preferimos evitar, algo de que gostaríamos de escapar, se possível. Além disso, a questão de por que os crentes sofrem é um debate que se repete ao longo dos tempos. Ainda é uma pergunta feita por aqueles que são novos na igreja e também uma dúvida expressa por aqueles que são cristãos há décadas. A Bíblia não trata essa questão de maneira leviana.

Primeiro, é importante observar que a Bíblia não ensina que “acreditar em Deus significa que você não sofrerá” ou que “seus sentimentos dolorosos desaparecerão”. O próprio Paulo e os crentes da igreja primitiva passaram por severas perseguições e intensas lutas internas. Dentro dessa realidade, é natural que surja a pergunta: “Se somos verdadeiramente amados por Deus, por que isso acontece?”

É exatamente por isso que Paulo abordou de frente a relação entre o sofrimento e a garantia da salvação. Esse é um pilar da fé essencial não apenas para aqueles que viviam naquela época, mas também para nós hoje.


・O sofrimento se torna um caminho para experimentar a graça de Deus (João 16:33)

O sofrimento revela que tipo de fé está agindo em nossos corações. O próprio Senhor Jesus declarou: “Neste mundo vocês terão aflições”. (João 16:33) Se existe uma fé que não oferece ajuda no sofrimento, ela pode ter sido construída sobre falsas expectativas desde o início.

A fé cristã não oferece um caminho alternativo para evitar o sofrimento. A Bíblia não diz: “Se você crer em Deus, não sofrerá”. Em vez disso, é uma fé que nos permite andar como filhos de Deus, ao lado do Deus onisciente e onipotente, mesmo em meio ao sofrimento.

Além disso, Paulo não está dizendo que não devemos nos entristecer quando enfrentamos dificuldades, nem que não somos crentes a menos que superemos o sofrimento. Somos fracos e vacilamos. Paulo procura ensinar como a fé funciona dentro do sofrimento, abraçando essa mesma realidade.

Embora o sofrimento em si seja doloroso, para os crentes ele se torna um caminho para experimentar a proteção e a graça de Deus, daí a afirmação: “Nós nos alegramos mesmo em nossos sofrimentos”. Então, o que é essa graça de Deus presente ali? Paulo revela três processos vividos por aqueles que passam pelo sofrimento.


2. Os três processos pelos quais o sofrimento produz esperança

(1) O sofrimento produz perseverança

Primeiro, Paulo afirma: “O sofrimento produz perseverança”. Devemos gravar profundamente em nossos corações que Paulo escreve este primeiro passo como algo natural. Ele não disse que o sofrimento gera resignação, ou que produz confusão, cansaço, raiva ou descontentamento.

Este é o primeiro passo da graça experimentado por aqueles que são justificados pela fé em Cristo em suas próprias vidas. Quando afligidos, a fé produz perseverança. É crucial saber disso.

As provações nos ensinam novamente que precisamos confiar mais em Deus. No sofrimento, primeiro nos esforçamos confiando em nossa própria força e entendimento. Mas quando essa força se esgota, somos levados a confiar mais uma vez em Cristo. Carecemos de força em muitos aspectos, carecemos de dons, carecemos de amor, carecemos de humildade, carecemos de sabedoria, carecemos de riqueza. Só podemos confiar em Deus. De fato, é somente quando colocados nessa posição que tocamos pela primeira vez a experiência de entrar mais profundamente na graça de confiar em Deus e suportar o sofrimento junto com Ele.

Além disso, as provações refletem com precisão o nosso verdadeiro eu. Reconhecer a nossa fraqueza não destrói a fé; pelo contrário, ensina-nos a ser humildes diante da nossa própria impotência e leva-nos a refletir sobre o significado de viver confiando em Cristo. Desta forma, a fé — acreditar em Deus, confiar em Deus — transforma-se em algo tangível. Como resultado, ganhamos uma perspetiva de fé mais sólida e inabalável do que antes. Isto é perseverança. De fato, novas provações e aflições maiores podem às vezes parecer prestes a esmagar os crentes. No entanto, passamos a entender que estamos sendo guiados em uma jornada na qual adquirimos perseverança por meio da graça de Deus, que ultrapassa a compreensão humana.


⑵ A perseverança produz um caráter refinado (Hebreus 12:5–7)

O segundo processo é que a perseverança produz um “caráter comprovado”. Esse termo significa um certificado de aprovação no teste, uma certeza aprovada. O próprio ato de perseverar através da resistência se torna nosso testemunho de que pertencemos a Deus.

O que você acha que está além do sofrimento e da resistência? Não é que “depois de resistir, não recebemos recompensa e, exaustos, desmoronamos e perdemos a esperança”. Pois a perseverança experimentada dentro da graça da justificação de Cristo tece organicamente conhecimento, experiência e convicção dentro do crente, moldando um caráter mais flexível, firme e prático.

Sempre que você iluminar suas próprias experiências através da Palavra, verá a graça brilhando. Como declara a Epístola aos Hebreus, as provações são de fato a prova de que estamos sendo tratados como filhos de Deus. Hebreus 12:5-7: “Meu filho, não despreze a disciplina do Senhor, e não desanime quando ele o repreender. Pois o Senhor disciplina aquele que ama, e castiga todo filho que aceita”. Suporta isso como disciplina; Deus está tratando você como filho. Pois que filho há que seu pai não discipline? De fato, se uma criança não enfrentasse desafios, não suportasse sofrimentos e, portanto, não fizesse nenhum esforço, sendo apenas criada em um ambiente protegido, ela não desenvolveria força e não seria capaz de se sustentar sozinha. Provações e tribulações são, de fato, prova de que somos filhos amados de Deus. Se trilharmos esse caminho iluminado pela luz de Sua Palavra, a perseverança não terminará apenas em tropeços, enfraquecimento, cansaço, raiva e conflitos. A verdadeira fé, como o ouro refinado em uma fornalha ardente, é purificada por meio de provações, removendo impurezas e destacando uma vida que realmente confia em Deus. Devemos reconhecer que é precisamente nessas provações que demonstramos perseverança.


⑶ O caráter refinado confirma a esperança

Assim, o caráter refinado pela experiência da perseverança se torna mais seguro, confirmando a esperança. Embora o sofrimento possa parecer nos distanciar da esperança, ele na verdade nos leva a uma esperança mais profunda e segura. Pois, por meio do sofrimento, passamos a conhecer em primeira mão como a fé é refinada e como andar com Deus produz uma vida de paz, sabedoria e confiabilidade.

Por meio das provações, voltamos para o Senhor Jesus Cristo, experimentamos o amor de Deus na realidade e passamos a conhecer o poder e a graça de Deus que suprem nossas necessidades. É precisamente essa experiência vivida que torna a esperança inabalável.


3. Indo além da resistência passiva: regozijando-se (orgulhando-se) no sofrimento

Finalmente, tendo compreendido esse processo de crescimento e maturidade para os crentes, gostaria de abordar como os cristãos devem enfrentar o sofrimento.

Paulo escreve francamente que a resistência é necessária para nós quando confrontados com o sofrimento. Por outro lado, mesmo com fé, se a resistência não for exercida diante do sofrimento, a verdadeira maturidade e esperança que estão além são perdidas. De fato, a resistência pela fé deve ser exercida ali. Não se trata de evitar o sofrimento, mas sim de navegar pelo sofrimento ao lado de Cristo. Também não se trata apenas de suprimir as emoções, cerrar os dentes e resistir. Nem se trata de confiar na própria força para, de alguma forma, superar isso.

 O que Paulo fala aqui é a resposta de “regozijar-se” e “gloriar-se” no sofrimento. A palavra “regozijar-se” usada aqui é a mesma palavra dos dois versículos anteriores, referindo-se a regozijar-se e gloriar-se na esperança de compartilhar da glória de Deus.

Isso significa que, através da compreensão da fé, sabemos que o sofrimento não destrói a esperança, mas é usado por Deus em Sua obra para trazer graça. Por causa desse conhecimento confiante, podemos finalmente nos gloriar mesmo no sofrimento. A conclusão do versículo 4 de hoje afirma: “pois sabemos”. É precisamente porque sabemos que essas coisas são verdadeiras que podemos nos alegrar mesmo no sofrimento. O conhecimento empírico adquirido por meio da fé possui o poder de nos permitir, mesmo enquanto suportamos a dor, possuir profunda alegria e orgulho, confiantes de que o sofrimento traz esperança.


Conclusão: Fé alimentada na esperança da glorificação (Salmo 119:71, 1 Pedro 4:12-13)

Quando enfrentarmos o sofrimento, lembremo-nos de que nossa fé está sendo refinada. Se você tem certeza da esperança da glória em Cristo no céu, Deus refinará seu caráter por meio da perseverança enquanto você caminha em direção a essa esperança.

Durante a perseverança, seus pensamentos podem vacilar. No entanto, olhando para trás, você confirmará o que o autor do Salmo 119 declarou: “Foi bom para mim ser afligido, para que eu aprendesse os teus estatutos.” “Antes de ser afligido, eu me desviava, mas agora guardo a tua palavra.” Saboreie o Salmo 119 junto com isso. Pois ele realmente canta a partir da experiência como os crentes, por meio da perseverança no sofrimento, chegam a compreender a esperança que há na fé.

Pedro também fala com convicção da esperança que está além da perseverança. “Amados, não se surpreendam com o fogo da provação quando ele vier sobre vocês para testá-los, como se algo estranho estivesse acontecendo com vocês. Mas alegrem-se na medida em que compartilham os sofrimentos de Cristo, para que também possam se alegrar e se regozijar quando a sua glória for revelada.” (1 Pedro 4:12-13)

Em todas as dificuldades que enfrentamos, Deus está trabalhando, transformando todas as coisas além da compreensão humana. Vamos receber isso pela fé e sermos levados à esperança.


Sermão para o Domingo do Advento, 14 de dezembro de 2025

Romanos 5:3–4

“A esperança alimentada pelo sofrimento”

Introdução: A graça recebida pelos salvos (5:1–2)

1. A pergunta: “Por que sofremos embora acreditemos em Deus?”

・Nós nos alegramos não porque estamos isentos de sofrimento.

・O sofrimento se torna o caminho para experimentar a graça de Deus (João 16:33).

2. Os três processos pelos quais o sofrimento produz esperança.

⑴ O sofrimento produz perseverança.

⑵ A perseverança produz caráter comprovado (Hebreus 12:5–7).

⑶ O caráter provado torna a esperança certa: “Porque sabemos”

3. Indo além da perseverança passiva para “regozijar-se (orgulhar-se)” no sofrimento

Conclusão: Fé nutrida na esperança da glorificação (Salmo 119:71, 1 Pedro 4:12–13)