2025年12月28日主日礼拝説教 ローマ人への手紙5:5~11 「なおいっそう確かな『救い』」

20251228日主日礼拝説教

ローマ人への手紙5:511

「なおいっそう確かな『救い』」

序.正論が重荷に感じられる時

私たちは、聖書の言葉が真実であることを知っています。「苦難は希望を生む」「失望に終わらない希望」「神を喜びなさい」。しかし、心身が疲れ果てている時、その正しい言葉さえも「自分にはできない」と重荷に感じてしまうことがあります。

今日の箇所でパウロが語っているのは、私たちが「どう頑張ればいいか」ではなく、神様が私たちを「どう愛し抜かれたか」という圧倒的な神の愛の事実です。神の愛の深さと恵みの大きさに目が開かれるとき、私たちは苦難の先に希望を受け取る生き方へと導かれていくのです。人間の努力が尽きた場所から始まる希望。私の努力で勝ち取る希望ではなく、神が与える失望に終わらない希望についてご一緒に見つめていきましょう。

 

1.聖霊による神の愛の注入

「この希望は失望に終わることがありません」。パウロがそう断言できる根拠は、私たちの意志の強さではなく「聖霊」にあります。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(5節)。 聖霊は、私たちが倒れて動けない時、自分を愛することさえできない時も、神の愛を私たちの心に「注ぎ」続けてくださいます。この愛は、私たちが汲み上げるものではなく、上から一方的に注がれるものです。 「神様はどこにいるのか」と疑いたくなる暗闇の中で、あなたの内側に住む聖霊様は、絶えず「あなたは愛されている」とささやき、あなたの代わりに希望を支えてくださっています。

 「私たちに与えられた聖霊」とは、すべてキリストを私の救い主と告白した人の心に与えられている聖霊です。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」ローマ89が言うように、これを反転させると、キリストの御霊を持つ人が、キリストのものとなっています。ですから、すべての神の子どもたちは、キリストの御霊を受け取ったことで救いを受け取り、義と認められ、キリストのものとなっているのです。目に見えないものを持っていると確信することの大切さを再度確認しましょう。「救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押された」(エペソ113)のです。私たちの救いの希望は、この聖霊がもたらすあらゆる恵みにもとづいています。この聖霊が苦難に直面して失望の底に沈む私たちのなかで働いてくださるのです。

 その方法やタイミングがどのようであるかを私たちは知りません。またそれをコントロールすることもできません。ただ、私たちは目に見えない神の力が聖霊によって私たちを不思議な方法で守ってくださると信頼できるのです。失敗するかもしれない。すべてを失ったと感じるときがあるかもしれない。それでも、大丈夫なのです。私たちが強いからではありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に変わらず注ぎ続けられているからです。神の世界に生かされている、神の子どもの平安がどのようなものであるかを、私たちは苦難を通る中で初めて深く体験するのです。

 

2.十字架という「神の愛の動かぬ証拠」:最悪の時に私を見捨てなかった神

苦難に直面している最中に、自分ではわからない神の深いご計画の中で、神の愛によってすべてが進められていくと確信させてくださるのが聖霊の働きです。この確信は、とても平凡な言葉で言えば「神様がいてくださるから大丈夫」ということができます。この言葉が、あらゆる苦難に置かれたクリスチャンのために、聖霊が確信させてくださることなのです。これは問題が解決するとか、能力が与えられるとか、宝くじに当たるとかいう意味ではありません。あらゆる物事の背後に神様の御手が働いていて、神は神の子どもたちを愛しておられるので、どんな苦難の中でも希望へと導いてくださるということです。

でも、実際に苦難に直面すると私たちの心は様々なやり方で誘惑を受けるでしょう。まずは自分自身の罪深さです。神の前に人の前に、あのような罪を犯した、またあのような醜い思いを持って過ごしていた。だから、会は私を愛してくれないかもしれない。

また人の罪深さもあるでしょう。神はこんなに祈っても、あの人の嫌な態度を変えてくれない。私は間違ったことをしていないのに、あの人は今日もわたしを傷つけてくる。

また、変えられない状況もあるでしょう。叶えたかった夢が叶わなくなってしまった。あれが欲しかったけど手に入らなかった。過去に経験したあの苦しみのせいで、人生が台無しになってしまった。大失敗をした、職を失った、病気になった。そのような現実のただなかで聖霊はどのようにして神の愛を確信させてくれるのでしょうか。

 

パウロが示すのは、神様の愛は人間のような一時的な感情ではなく、十字架という歴史的な事実に裏打ちさたものであるということです。このことをよく考えてみましょう。68節の論理です。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」「弱かったころ」とは「不敬虔である」こと、つまり8節にあるように「まだ罪びとで会ったとき」という意味です。神様に命を創造されたことを知らず、愛されていることも恵みによって生かされていることも知らず、それゆえ感謝もなく、平安もなく、罪のなかを生きていた頃。神様がイエス・キリストを十字架にかけてその贖いを成し遂げてくださったのは、何のお返しも期待できないような私のためだったのです。神様は、私たちを愛されるべきわが子とするためにキリストを贈り、十字架にかけてくださったのです。最初から、すべては神の愛で始まっているのです。

神様に対して何のメリットも提供できず、むしろ背を向けていた最悪の時に、神は独り子を死なせてまで私たちを買い取ってくださいました。その時の私たちは、霊的に見れば愛らしい子どもですらなく、反抗して感謝もしない敵対者だったのです。神様はそのような私たちを救うために「ご自身のすべて」を支払われました。この事実は、その後の私たちの行動や言動や心のコンディションによって変わることはありません。

感謝なことに、神の愛は私たち人間のような気まぐれな愛ではありません。豊かで絶対的で一貫しています。あなたが「この人に愛されている」と確信するのはどのような時でしょうか。口だけではなく行動が伴っており、受け取ることだけでなく与える心があり、行動だけでなく真実な愛情が伴っていることでしょう。その完全な形が、ここにあります。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたこと」。神は約束を果たし、私たちからの見返りを求めずにただ愛と犠牲と赦しを差し出し、このキリストを差し出すほどにあなたを愛していることを知ってほしいと願っておられるのです。

 

3.「なおいっそう確かなこと」という救いの確信

ここでパウロは、神が私たちを失望に終わらせないため与えてくれた力強い「盾」を教えます。それが「なおいっそう確かなこと」という論理です(9-10節)。 キリストは、私たちが憎たらしい頑固な敵であった時でさえ、命を捨てて愛を差し出してくださった神様です。その神様が、今やキリストにあって救われて「神の子」とされた私たちをどうして見捨てることがあるでしょうか。「罪人の時にあれほど愛してくれたのだから、和解した今は『なおいっそう確かなこととして』、もっともっと愛し、最後まで導いてくださるに決まっている」。

 

敵であった私たちを義と認めてくださった神が、和解した今の私たちを見捨てることなどあり得ません。神と和解した私たちが、神の与える平安と恵みの中で栄光に向かって生きていくのは当然のことなのです。

 

それだけではありません。神に愛されているという確信が私たちのうちで強くなればなるほど、苦難の苦しみの中で圧倒されない内なる力が強められるのです。それは「神を喜んで生きる」という生き方です。親が子どもを心から愛する時、その存在をそのままで愛し喜びます。そしてまた子どもも、親とともに過ごせることを喜び楽しみ、親を愛してくれます。親子の愛は不完全で罪の影響がありますが、神が私たちに与えてくれる愛は完全です。だから、私たちは神の愛を受け取り、神に愛されていることを知れば知るほど、私たちも神を喜んで生きるものとなるのです。神に愛され、神に喜ばれて生きている。だからこそ私たちは神を愛し、神を喜ぶようになる。このような神様との深い交わりの中に生きるとき、苦難のただなかで力尽きていても、それが忍耐を生み、練られた品性を生み、ついには希望を生み出すと信じるられるようにされていくのです。

 

結び.神の御人格を「楽しみ」、愛されている確信に人生を委ねる

救いとは、愛を獲得するための義務を果たすことではなく、神との「和解」の中に生きることです。神との和解とは、ただ怒られないというだけでなく、存在を喜ばれ、愛されて生きるということです。 11節の「私たちは神を喜んでいる」という言葉は、頑張って作る作り笑顔をすることではありません。親しい友人と一緒にいて「ああ、安心だ」と感じるような、深い安らぎから溢れるものです。

神様はあなたを「正しさ」で裁く方ではなく、最高の知恵と慈しみをもって、あなたにとって最善のコースを導かれる方です。神様は最初アダムとエバを創造されたように、キリストにあって新しく生まれた子どもたちの人格を、御霊によってもういちど練り上げてくださるのです。罪によってとがったりへこんだりしているところを、試練の練り上げによって神の栄光を現わす器として作り上げていくのです。

私たちが失望しない理由は一つです「敵であった時にさえ愛されたのなら、今はなおいっそう確かなこととして、愛され、救われている」。この神の愛に、今日も私たちは包まれています。神に喜ばれていることを感じつつ、神を喜んで生かされていきたいと思います。

 

祈り

愛する天のお父様。あなたが変わることのない愛を私たちに注いでくださっていることを感謝します。私たちが弱さの中にあり、自分の信仰さえも頼りなく感じる時、どうか聖霊様、十字架の事実を私たちの心に鮮やかに映し出してください。 「敵であった時でさえ愛されたのだから、今はなおいっそう確かに愛されている」という確信を、私たちの魂のいかりとしてください。 今日、疲れを覚えている一人ひとりの上に、あなたとの和解がもたらす深い平安が満ちますように。 私たちの希望のよりどころ、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

  

20251228日主日礼拝説教

ローマ人への手紙5:511

「なおいっそう確かな『救い』」

序.正論が重荷に感じられる時

1.聖霊による神の愛の注入

2.十字架という「神の愛の動かぬ証拠」:最悪の時に私を見捨てなかった神

3.「なおいっそう確かなこと」という救いの確信

結び.神の御人格を「楽しみ」、愛されている確信に人生を委ねる


Sermão de domingo, 28 de dezembro de 2025

Romanos 5:5–11

“Uma salvação ainda mais certa”

Introdução: Quando a sã doutrina parece um fardo

Sabemos que as palavras das Escrituras são verdadeiras. “O sofrimento produz esperança”, “esperança que não decepciona”, “regozijai-vos em Deus”. No entanto, quando nossos corações e corpos estão completamente exaustos, mesmo essas palavras verdadeiras podem parecer um fardo, fazendo-nos pensar: “Não consigo fazer isso”.

O que Paulo fala na passagem de hoje não é “como devemos nos esforçar”, mas o fato avassalador do amor de Deus – como Deus nos amou até o fim. Quando nossos olhos se abrem para a profundidade do amor de Deus e a magnitude de Sua graça, somos levados a um modo de vida que recebe esperança além do sofrimento. Esperança que começa onde o esforço humano termina. Vamos juntos contemplar não a esperança conquistada pelo meu próprio esforço, mas a esperança que Deus dá, que não decepciona.


1. A infusão do amor de Deus através do Espírito Santo

“Esta esperança não nos decepciona.” A certeza de Paulo não se baseia em nossa força de vontade, mas no Espírito Santo. “Porque o amor de Deus foi derramado em nossos corações pelo Espírito Santo que nos foi dado” (versículo 5). Mesmo quando estamos caídos e imóveis, mesmo quando não conseguimos amar a nós mesmos, o Espírito Santo continua a derramar o amor de Deus em nossos corações. Esse amor não é algo que nós criamos; ele é derramado unilateralmente do alto. Na escuridão, onde podemos duvidar: “Onde está Deus?”, o Espírito Santo que habita em você sussurra constantemente: “Você é amado” e mantém a esperança em seu nome.

“O Espírito que nos foi dado” é o Espírito Santo dado aos corações de todos os que confessam Cristo como seu Salvador. Como afirma Romanos 8:9: “Quem não tem o Espírito de Cristo não pertence a ele”. Invertendo isso, são aqueles que possuem o Espírito de Cristo que pertencem a ele. Portanto, todos os filhos de Deus receberam a salvação, foram justificados e se tornaram propriedade de Cristo ao receberem o Espírito de Cristo. Vamos reafirmar a importância de ter confiança de que possuímos o invisível. “Tendo ouvido o evangelho da salvação e crido nele, vocês foram selados com o Espírito Santo prometido” (Efésios 1:13). Nossa esperança de salvação repousa sobre toda a graça trazida por esse Espírito Santo. Esse Espírito Santo opera dentro de nós quando enfrentamos provações e afundamos nas profundezas do desespero.

Não sabemos a maneira nem o momento dessa obra. Tampouco podemos controlá-la. No entanto, podemos confiar que o poder invisível de Deus nos protege por meio do Espírito Santo de maneiras maravilhosas. Podemos falhar. Podemos sentir que perdemos tudo. Ainda assim, tudo bem. Não porque somos fortes, mas porque o amor de Deus, por meio do Espírito Santo que nos foi dado, continua a derramar-se em nossos corações incessantemente. É somente por meio do sofrimento que experimentamos profundamente a paz de sermos filhos de Deus, vivos no mundo de Deus.


2. A cruz como a “prova inabalável do amor de Deus”: o Deus que não me abandonou na minha pior hora

É obra do Espírito Santo assegurar-nos, mesmo em meio às dificuldades, que tudo está sendo resolvido pelo amor de Deus dentro de Seu plano profundo, que não podemos compreender. Essa certeza pode ser expressa em termos muito simples: “Tudo bem, porque Deus está conosco”. Essa é a certeza que o Espírito Santo dá a todo cristão que passa por qualquer tipo de sofrimento. Isso não significa que os problemas serão resolvidos, que habilidades serão concedidas ou que ganharemos na loteria. Significa que, por trás de todas as coisas, a mão de Deus está agindo e, porque Deus ama Seus filhos, Ele nos leva à esperança, mesmo em meio a qualquer sofrimento.

No entanto, quando realmente enfrentamos o sofrimento, nossos corações são tentados de várias maneiras. Primeiro, há nossa própria pecaminosidade. Diante de Deus e diante dos outros, cometemos tais pecados ou nutrimos pensamentos tão feios. Portanto, a igreja pode não me amar.

Depois, há a pecaminosidade dos outros. Mesmo que eu ore muito, Deus não muda a atitude desagradável dessa pessoa. Não fiz nada de errado, mas essa pessoa me magoa novamente hoje.

Além disso, há situações que não podem ser mudadas. O sonho que eu tanto desejava tornou-se inatingível. Eu queria isso, mas não consegui. Por causa desse sofrimento que experimentei no passado, minha vida foi arruinada. Cometi um grande erro, perdi meu emprego, adoeci. Como, em meio a tais realidades, o Espírito Santo nos assegura do amor de Deus?


O que Paulo mostra é que o amor de Deus não é uma emoção humana passageira, mas está fundamentado no fato histórico da cruz. Vamos considerar isso cuidadosamente. Essa é a lógica dos versículos 6-8. “Porque, enquanto ainda éramos fracos, Cristo morreu pelos ímpios no tempo determinado.” “Enquanto ainda éramos fracos” significa “enquanto éramos ímpios” – isto é, como afirma o versículo 8, “enquanto ainda éramos pecadores”. Refere-se ao tempo em que não sabíamos que Deus havia criado nossas vidas, não sabíamos que éramos amados ou sustentados pela graça e, portanto, vivíamos sem gratidão ou paz, imersos no pecado. Deus enviou Jesus Cristo à cruz para realizar essa redenção precisamente por mim, que não tinha nada a oferecer em troca. Deus deu Cristo e O enviou à cruz para nos tornar filhos amados. Desde o início, tudo começou com o amor de Deus.

No nosso pior momento, quando não oferecíamos nenhum mérito a Deus e até mesmo Lhe viramos as costas, Deus nos redimiu dando Seu único Filho para morrer. Espiritualmente falando, não éramos nem mesmo filhos amáveis naquela época, mas adversários rebeldes e ingratos. Deus pagou “tudo o que tinha” para salvar pessoas como nós. Esse fato permanece inalterado por nossas ações, palavras ou o estado de nossos corações subsequentes.

Felizmente, o amor de Deus não é caprichoso como o afeto humano. É abundante, absoluto e consistente. Quando você tem certeza de que “essa pessoa me ama”? É quando as palavras são acompanhadas por ações, quando há um coração que dá e também recebe, quando o afeto genuíno acompanha as ações. Aqui está sua forma perfeita: “Cristo morreu por nós enquanto ainda éramos pecadores”. Deus cumpriu Sua promessa, oferecendo amor, sacrifício e perdão sem exigir nada em troca de nós. Ele deseja que saibamos que nos ama tanto que nos deu esse mesmo Cristo.


3. A certeza da salvação: “tanto mais certo”

Aqui Paulo nos ensina o poderoso “escudo” que Deus nos deu para que não fiquemos desapontados. É a lógica do “tanto mais certo” (vv. 9-10). Cristo é o Deus que deu Sua vida por amor a nós, mesmo quando éramos inimigos odiosos e teimosos. Como então esse mesmo Deus poderia nos abandonar agora que somos salvos em Cristo e tornados “filhos de Deus”? “Se Ele nos amou tanto quando éramos pecadores, quanto mais certamente nos amará agora que estamos reconciliados, guiando-nos até o fim.”


O Deus que nos declarou justos quando éramos inimigos nunca poderia nos abandonar agora que estamos reconciliados. É natural que nós, tendo sido reconciliados com Deus, vivamos para a glória na paz e na graça que Ele nos dá.


Mas isso não é tudo. Quanto mais cresce em nós a convicção de que somos amados por Deus, mais nossa força interior é fortalecida contra o peso do sofrimento das provações. Esse é o modo de vida que é “viver alegremente para Deus”. Quando os pais amam seus filhos de todo o coração, eles os amam e se deleitam neles simplesmente por existirem. Da mesma forma, os filhos se deleitam em passar tempo com os pais e os amam em troca. Embora o amor dos pais seja imperfeito e tenha a mancha do pecado, o amor que Deus nos dá é perfeito. Portanto, quanto mais recebemos o amor de Deus e sabemos que somos amados por Ele, mais nos tornamos aqueles que vivem se deleitando em Deus. Amados por Deus, vivendo para agradá-Lo. É por isso que passamos a amar a Deus e nos deleitamos Nele. Quando vivemos em comunhão tão profunda com Deus, mesmo quando exaustos em meio às dificuldades, somos capazes de acreditar que isso produz perseverança, refina o caráter e, por fim, traz esperança.


Conclusão: Deleitar-se na própria pessoa de Deus e entregar a vida à certeza de ser amado

A salvação não consiste em cumprir obrigações para ganhar amor, mas em viver em reconciliação com Deus. A reconciliação com Deus significa não apenas evitar Sua ira, mas viver como alguém cuja própria existência O deleita e é amada. A frase no versículo 11, “nos regozijamos em Deus”, não se refere a forçar um sorriso. Ela transborda de uma paz profunda, como a sensação de “Ah, estou seguro” sentida na companhia de um amigo íntimo.

Deus não é alguém que o julga pela “justiça”, mas alguém que o guia pelo melhor caminho possível com suprema sabedoria e compaixão. Assim como Deus criou Adão e Eva, Ele agora refina o caráter das crianças nascidas de novo em Cristo por meio do Seu Espírito. Onde o pecado nos deixou imperfeitos ou quebrados, Ele nos molda através do fogo refinador das provações para nos tornar vasos que refletem a Sua glória.

Há uma razão pela qual não nos desesperamos: “Se, enquanto éramos inimigos, fomos amados, quanto mais agora, tendo sido reconciliados, somos amados e salvos”. Hoje, ainda estamos envoltos nesse amor divino. Sentindo que agradamos a Deus, desejamos viver com alegria para Ele.


Oração

Amado Pai Celestial, agradecemos por derramar Seu amor imutável sobre nós. Quando estamos fracos e até mesmo nossa própria fé parece incerta, Espírito Santo, por favor, reflita vividamente a realidade da cruz em nossos corações. Que a convicção de que “se fomos amados mesmo quando éramos inimigos, quanto mais agora somos amados” se torne a âncora de nossas almas. Que a profunda paz que vem da reconciliação com Você encha cada um de nós que se sente cansado hoje. Oramos isso em nome de nossa esperança, o Senhor Jesus Cristo. Amém.