2026年5月10日主日礼拝説教 ルカの福音書18:35~43 説教題:見えない者が、イエスを見ていた
2026年5月10日主日礼拝説教
ルカの福音書18:35~43
説教題:見えない者が、イエスを見ていた
序.本当に「見えている」のは誰か
私たちは自分の人生がよりよいものであってほしいと思います。よく学び、よく働き、評価され、成長し、平和な家庭を築き、責任を果たして生きていきたいと願います。そのように誠実に人生に向き合うことは尊いことであり、それ自体が神様からの祝福です。
しかし一方で、たくさんの祝福や充実を手にしていても、その心が神様の愛に結ばれていないのなら、いつか自分の生き方の虚しさに直面するというのも聖書が教えている真実です。確かに、ひとは地上であらゆるものを手にしたとしても、神の愛と赦しを真実に体験しなければ、本当の平安を見出すことはありません。なぜなら手にしたあらゆるものはいつか失われ、すべての人は必ず死に直面するからです。そして死は、その人が神様の前に罪を抱えて生きてきたことの証拠でもあります。死に際して、その先に神様が待っていてくださるという平安がなければ、私たちはどうして平安でいられるでしょうか。
死ぬこと。老いること、病にかかること。また大切にしていたものを失うこと。失いたくないと思っていてもそれらが失われることがあります。どれほど努力しても、私たちは自分の人生を思い通りに支配することは出来ません。
今日の箇所に出てくる盲人は、目が見えないという、自分ではどうすることもできない現実のなかで生きていました。しかし、そこにイエス・キリストが通りかかったとき、彼はイエス様に向かって叫びました。「ダビデの子よ、私をあわれんでください。」ここに、今日の出来事のクライマックスがあります。目の見える多くの群衆は、ただ噂の人が来たと思ってイエス様を見物するだけでした。しかし、自分の人生のどうしようもない問題を通して、本当に神様に救いを求めていた彼は、救い主に真実に近づいていくことが出来たのでした。この場面で本当にイエスを神の子救い主として見ていたのは誰だったのでしょうか。
見えていない人が、実はもっともよく神様を見ていた。見えていたはずの人々が、実は神を見ることが出来ていなかった。これは私たちにも向けられている問いです。私たちは本当に、イエス・キリストを見出して、慕い求めて生きているでしょうか。
1.盲人は自分の必要を知っていた
この人は目が見えませんでした。今でこそ、さまざまな福祉サービスが日本でも広がりつつありますが、当時のイスラエルにおいて、盲目であるということは単なる不便ということに留まりませんでした。仕事を持つことも難しく、社会的にも弱い立場に置かれることを意味していました。彼は道端に座り、施しによって生きるしかできませんでした。
しかし聖書は、このような病や苦しみを、単に「運が悪かった」で終わらせません。そもそも神様はこのような病や争いや、死そのものがない世界をお造りになっていたからです。しかし、創世記に記されるように、アダムとエバが神から離れて以来、罪が世界に入り、その結果として世界全体が壊れたのです。病も、死も、恐れも、悲しみも、本来神が造られた世界の完成した姿ではありません。人が神を離れ、神に背を向け、そのことを罪だとも思えなくなったその生き方の結果として、罪の結果として入り込んだものなのです。私たちも、自分の罪、人の罪の複雑な絡まりの中で生きています。また国家の罪、民族の罪、歴史の中で積み上げられた罪、自然に対する罪が世界で様々な形で表れています。
この盲人は、その壊れた世界の現実をその身に負っている人でした。しかしそれは、彼だけに特別の話ではありません。私たちもまた、形は違っても、同じ壊れの中を生きています。
ある人は病を抱えます。ある人は人間関係の破れを抱えます。ある人は貧困、愛のない暮らし、孤独や不安を抱えます。外からは順調に見えても、心の深いところでは、「自分では支えきれない問題」を抱えていることがあります。
人は、自分が十分に強い間は、自分の力で生きられるように感じます。しかし限界に触れた時に初めて、自分が何に支えられて生きているのかを問われるのです。目の見えなかった彼は、自分の力ではどうしようもない問題にいつも触れながら生活することを余儀なくされていました。だからこそ、イエス様が来られた時に自分の問題を抱えて信頼することが出来たのでした。ここに不思議な逆転があります。自分は多くのものを持っていて、幸せで、問題がなく、それほど悪い人間でもないと思っている人は、それがゆえに神様のところに来ることが出来ないのです。翻って、私たちは自分自身の貧しさと問題に正直に向き合って、神様の近くに進み出て暮らしているでしょうか。
2.見えない彼だけが救い主としてイエスを見ていた
この盲人は、イエスが通られると聞いた時、叫びました。「ダビデの子よ、私をあわれんでください。」
彼はイエスを「ダビデの子」と呼びました。これは単なる呼び名ではありません。旧約聖書は、約束された救い主がダビデの子孫から生まれると預言していたからです。彼はイエスを神の子救い主として見ていたのです。
叫ぶ彼のことを周囲の人々は彼を黙らせようとしました。しかし彼は、ますます叫び続けました。なぜでしょうか。彼には、この方しかないという思いがあったからです。ここに信仰があります。信仰とは、「自分には力がある」と思い込むことではありません。また信じるという自分の功績でもありません。むしろ、「自分では自分を救えない」と認め、キリストに向かって助けを求めることです。
彼は、自分の正しさを主張していません。「私は努力してきた」「だから助けられるべきだ」とも言っていません。ただ神様に憐れみを求めています。信仰と救いは、ここに極まっています。神様の前で、彼は自分の正当性を主張するのでなく、ただ憐れみを、救いを、神とともに生きる恵みを求めました。「私の救い主よ。私を憐れんでください!」彼は自分の心の中にある本当の悲しみ、深い求めを差し出しました。その飢え渇きを通して神様に近づいたのです。「主よ、目が見えるようにしてください!」と。
これは私たちにも向けられる問いです。私たちは、本当に何を見て生きているでしょうか。自分の能力でしょうか。安定でしょうか。他人からの評価でしょうか。それとも、自分の限界や貧しさや悲惨さに向き合って、その中でもなお憐れみを与えてくださるキリストを見出して、平安を頂いているでしょうか。神様の前に居ながら、別に私は何も困ってはいませんと言う顔をしながら、くすぶってはいないでしょうか。私たちに呼びかけて、あなた自身も、自分の人生の本当の必要を見つめるようにと、神様は招いておられます。
3.癒しの源であるキリストに繋がること――神とともに生きることそのものが救いであり祝福
イエスは、彼が自分のもっとも必要としている困難を神様の前に差し出したとき言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」すると彼は、たちまち見えるようになりました。
この出来事は彼にとって素晴らしい出来事だったでしょう。しかし、この箇所は「信仰があれば、どんな病でも必ず治る」という約束ではありません。現実には、癒やされない病があります。祈ってもすぐには変わらない苦しみがあります。信仰者も老います。病を経験します。弱くなることもあり、失敗することがあります。そして死を経験します。
では、この奇跡は何を意味しているのでしょうか。これは、イエス・キリストが、やがて来る神の国をもたらす救い主であるというしるしなのです。イエス・キリストによって、罪による悲惨が最終的に取り除かれる時代が始まったのです。神の国が到来し始めている。この癒やしは、その完成の前味です。
だからクリスチャンは、「今、すべて解決した」とは言いません。しかし、「最後は主が完成してくださる」という希望を持っています。
そして、この物語で本当に重要なのは、盲人が癒やされた後の姿です。彼は、「神をあがめながらイエスに従った」と書かれています。つまり、この奇跡の終点は、快適な生活ではありません。癒してもらった後は、イエス様は必要ありません、ではないのです。すべての祝福も癒しも、この救い主キリストともに生きる命にあるからです。
だからこそ、彼はキリストに従う者になったのです。救いとは、「問題が全部なくなること」ではなく、「イエスを主として歩み始めること」なのです。彼に対しては迅速な癒しがもたらされましたが、私たちは弱さが残っていても、問題が残っていても、なお救い主に従う歩みを始めるのです。なぜなら、すべての罪の悲惨からの解決が、その先に与えられるからです。困難が取り除かれる以上に、キリストにあって神の愛されている確信の中に生かされることに、本当の救いがあります。
結び.誰に向かって叫ぶのか
この盲人は、目が見えませんでした。しかし実際には、目が見えないからこそ彼だけが救い主を見出していました。自分が救いを必要としていることを知っていて、イエス・キリストこそ自分を救う方だと知っていました。
私たちはどうでしょうか。キリストは、自分の限界を知り、憐れみを求めて近づいてくるひとを退けません。今も、この罪によって壊れた世界を生きる私たちの声に耳を傾け、立ち止まり、その御手を差し伸べてくださるのです。恵みの源であるキリストに心を開き、キリストともに生きること。霊の目を開いて、キリストにある救いを心から慕い求めたいと思います。
2026年5月10日主日礼拝説教
ルカの福音書18:35~43
説教題:見えない者が、イエスを見ていた
序.本当に「見えている」のは誰か
1.盲人は自分の必要を知っていた
2.見えない彼だけが救い主としてイエスを見ていた
3.癒しの源であるキリストに繋がること――神とともに生きることそのものが救いであり祝福
結び.誰に向かって叫ぶのか
祈り
天のお父様。私たちは自分の力で生きられると思い込み、あなたを見失ってしまうことがあります。しかし本当は、あなたの憐れみなしには生きることのできません。
どうか私たちに、自分の必要を正直に認める心を与えてください。そして、目の見えなかった人のように「主よ、あわれんでください」と、あなたに叫ぶ信仰を与えてください。
弱さや問題がすぐに取り去られなくても、なおキリストにあって愛され、生かされている平安の中を歩ませてください。私たちの霊の目を開き、救い主イエス・キリストを見つめ、従っていく者としてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
Sermão do Culto Dominical de 10 de maio de 2026
Evangelho de Lucas 18:35–43
Título do sermão: O cego que via Jesus
Introdução. Quem é que realmente “vê”?
Desejamos que nossa vida seja melhor. Desejamos estudar bem, trabalhar bem, ser reconhecidos, crescer, construir um lar tranquilo e viver cumprindo nossas responsabilidades. Encarar a vida com essa sinceridade é algo precioso e, por si só, já é uma bênção de Deus.
Por outro lado, porém, a Bíblia nos ensina que, mesmo que tenhamos muitas bênçãos e satisfações, se nosso coração não estiver unido ao amor de Deus, um dia enfrentaremos a futilidade do nosso modo de viver. De fato, mesmo que uma pessoa conquiste tudo na terra, se não experimentar verdadeiramente o amor e o perdão de Deus, não encontrará a verdadeira paz. Pois tudo o que conquistamos um dia se perderá, e todas as pessoas inevitavelmente enfrentarão a morte. E a morte é também a prova de que essa pessoa viveu diante de Deus carregando seus pecados. Ao chegar a hora da morte, se não tivermos a paz de saber que Deus nos espera do outro lado, como poderíamos permanecer em paz?
Morrer. Envelhecer, adoecer. E também perder aquilo que era tão precioso. Mesmo que não queiramos perder, essas coisas podem ser perdidas. Por mais que nos esforcemos, não podemos controlar nossa vida como bem entendemos.
O cego que aparece na passagem de hoje vivia em uma realidade sobre a qual não tinha controle: a cegueira. No entanto, quando Jesus Cristo passou por ali, ele clamou para Jesus: “Filho de Davi, tem misericórdia de mim”. Aqui está o clímax do acontecimento de hoje. A multidão que enxergava limitava-se a observar Jesus, pensando que era apenas o homem de quem tanto se falava. Mas ele, que buscava verdadeiramente a salvação de Deus por meio dos problemas insolúveis de sua vida, conseguiu aproximar-se sinceramente do Salvador. Quem, nessa cena, realmente via Jesus como o Filho de Deus, o Salvador?
Aquele que não enxergava era, na verdade, quem melhor enxergava Deus. As pessoas que deveriam ver, na verdade, não conseguiam ver Deus. Esta é uma pergunta dirigida também a nós. Será que estamos realmente descobrindo Jesus Cristo e vivendo em busca Dele?
1. O cego conhecia a sua necessidade
Este homem era cego. Hoje em dia, embora diversos serviços de assistência social estejam se expandindo no Japão, na Israel daquela época, ser cego não se limitava a um mero inconveniente. Significava que era difícil conseguir um emprego e que se estava em uma posição socialmente vulnerável. Ele se sentava à beira da estrada e não tinha outra escolha a não ser viver de esmolas.
No entanto, a Bíblia não resume essas doenças e sofrimentos simplesmente como “azar”. Afinal, Deus havia criado um mundo onde não existiam essas doenças, conflitos nem a própria morte. Mas, como está registrado no Gênesis, desde que Adão e Eva se afastaram de Deus, o pecado entrou no mundo e, como resultado, o mundo inteiro ficou corrompido. Nem a doença, nem a morte, nem o medo, nem a tristeza são, em essência, a forma completa do mundo que Deus criou. São coisas que se infiltraram como resultado do pecado, como consequência do modo de vida em que as pessoas se afastaram de Deus, voltaram-lhe as costas e deixaram de considerar isso como pecado. Nós também vivemos em meio à complexa teia de pecados nossos e alheios. Além disso, os pecados das nações, dos povos, os pecados acumulados ao longo da história e os pecados contra a natureza manifestam-se no mundo de diversas formas.
Esse cego era alguém que carregava em si a realidade desse mundo quebrado. No entanto, isso não é uma história exclusiva dele. Nós também, embora de formas diferentes, vivemos nessa mesma fragilidade.
Algumas pessoas carregam doenças. Outras carregam relacionamentos rompidos. Outras ainda carregam a pobreza, a escuridão da falta de amor, a solidão ou a ansiedade. Mesmo que pareça tudo bem visto de fora, no fundo do coração, às vezes carregamos “problemas que não conseguimos suportar sozinhos”.
Enquanto nos sentimos suficientemente fortes, temos a sensação de que podemos viver com nossas próprias forças. No entanto, é somente quando atingimos nossos limites que somos questionados sobre o que nos sustenta na vida. Ele, que não enxergava, era forçado a viver em constante contato com problemas que estavam além de sua capacidade de resolver. Foi por isso que, quando Jesus chegou, ele conseguiu confiar Nele, levando consigo seus problemas. Aqui há uma reviravolta misteriosa. Quem pensa que possui muitas coisas, que é feliz, que não tem problemas e que não é uma pessoa tão má assim, não consegue, justamente por isso, chegar até Deus. Por outro lado, será que estamos enfrentando com honestidade nossa própria pobreza e nossos problemas, e vivendo de forma a nos aproximarmos de Deus?
2. Somente ele, que não via, enxergava Jesus como o Salvador
Quando esse cego ouviu que Jesus estava passando, gritou: “Filho de Davi, tem misericórdia de mim.”
Ele chamou Jesus de “Filho de Davi”. Isso não é apenas um apelido. Pois o Antigo Testamento profetizava que o Salvador prometido nasceria da descendência de Davi. Ele via Jesus como o Filho de Deus, o Salvador.
As pessoas ao redor tentaram calá-lo. Mas ele continuou gritando cada vez mais. Por que? Porque ele tinha a convicção de que só havia essa pessoa. Aqui está a fé. Fé não é acreditar que “eu tenho força”. Tampouco é um mérito próprio por acreditar. Pelo contrário, é reconhecer que “eu não posso me salvar sozinho” e buscar ajuda em Cristo.
Ele não está reivindicando sua própria retidão. Também não está dizendo: “Eu me esforcei” ou “Por isso, devo ser ajudado”. Ele está apenas buscando a misericórdia de Deus. A fé e a salvação atingem seu ápice aqui. Diante de Deus, ele não reivindicou sua justiça, mas apenas pediu misericórdia, salvação e a graça de viver com Deus. “Meu Salvador, tem misericórdia de mim!” Ele apresentou a verdadeira tristeza e o profundo anseio que havia em seu coração. Através dessa fome e sede, ele se aproximou de Deus. “Senhor, faze com que eu veja!”
Essa é uma pergunta dirigida também a nós. O que é que, na verdade, estamos vendo enquanto vivemos? As nossas próprias capacidades? A estabilidade? A avaliação dos outros? Ou será que, ao encarar os nossos limites, a nossa pobreza e a nossa miséria, encontramos Cristo, que nos concede misericórdia mesmo nessas circunstâncias, e recebemos paz? Será que, estando diante de Deus, não estamos apenas a fingir que não temos nenhum problema, enquanto, no fundo, continuamos a arder de frustração? Deus nos chama e nos convida a olhar para as verdadeiras necessidades da nossa própria vida.
3. Conectar-se a Cristo, a fonte da cura — viver com Deus é, em si, salvação e bênção
Quando o homem apresentou a Deus a dificuldade de que mais precisava, Jesus disse: “Veja. Sua fé o salvou.” E, imediatamente, ele passou a ver.
Esse deve ter sido um acontecimento maravilhoso para ele. No entanto, essa passagem não é uma promessa de que “se houver fé, qualquer doença será curada”. Na realidade, existem doenças que não são curadas. Há sofrimentos que, mesmo com oração, não mudam imediatamente. Os crentes também envelhecem. Passam por doenças. Às vezes ficam fracos e cometem erros. E experimentam a morte.
Então, o que significa esse milagre? É um sinal de que Jesus Cristo é o Salvador que trará o Reino de Deus que está por vir. Por meio de Jesus Cristo, começou a era em que a miséria causada pelo pecado será finalmente removida. O Reino de Deus está começando a chegar. Essa cura é um antegozo dessa realização.
Por isso, os cristãos não dizem: “Agora, tudo está resolvido”. Mas têm a esperança de que “no final, o Senhor completará tudo”.
E o que é realmente importante nesta história é a atitude do cego após ser curado. Está escrito que ele “glorificou a Deus e seguiu Jesus”. Ou seja, o ponto final deste milagre não é uma vida confortável. Não significa que, depois de ser curado, Jesus não seja mais necessário. Pois todas as bênçãos e curas estão na vida que se vive com este Salvador, Cristo.
É por isso que ele se tornou um seguidor de Cristo. A salvação não é “o fim de todos os problemas”, mas “começar a caminhar tendo Jesus como Senhor”. Embora tenha recebido uma cura imediata, nós começamos a caminhar seguindo o Salvador mesmo que ainda tenhamos fraquezas ou problemas. Pois a solução para toda a miséria do pecado nos será dada adiante. Mais do que a remoção das dificuldades, a verdadeira salvação está em viver na certeza de ser amado por Deus em Cristo.
Conclusão. Para quem clamar?
Este cego não enxergava. Mas, na verdade, foi justamente por não enxergar que somente ele encontrou o Salvador. Ele sabia que precisava de salvação e sabia que Jesus Cristo era quem o salvaria.
E nós? Cristo não rejeita quem se aproxima dele conhecendo suas limitações e buscando misericórdia. Ainda hoje, ele escuta a voz de nós que vivemos neste mundo destruído pelo pecado, para, então, parar e estender-nos a mão. Abrir o coração a Cristo, fonte da graça, e viver com Cristo. Desejo abrir os olhos do espírito e buscar de todo o coração a salvação que está em Cristo.
Sermão do Culto Dominical de 10 de maio de 2026
Evangelho de Lucas 18:35-43
Título do sermão: O cego que via Jesus
Introdução. Quem é que realmente “vê”?
1. O cego sabia das suas necessidades
2. Somente ele, que não via, via Jesus como Salvador
3. Conectar-se a Cristo, a fonte da cura — viver com Deus é, em si, salvação e bênção
Conclusão. Para quem clamamos?
Oração
Pai celestial. Às vezes, acreditamos que podemos viver com nossas próprias forças e acabamos nos afastando de Ti. Mas, na verdade, não podemos viver sem a Tua misericórdia.
Por favor, concede-nos um coração que reconheça honestamente nossas necessidades. E conceda-nos a fé para clamar a Ti, assim como o cego: “Senhor, tem misericórdia de mim”.
Mesmo que nossas fraquezas e problemas não sejam removidos imediatamente, permita-nos caminhar na paz de saber que somos amados e mantidos vivos em Cristo. Abra os olhos do nosso espírito para que possamos contemplar o Salvador Jesus Cristo e seguir-O como seus discípulos.
Oramos em nome do Senhor Jesus Cristo. Amém.