2026年7月5日主日礼拝説教 聖書個所:ルカの福音書19:28~40 説教題:私たちのために十字架に向かわれる主

202675日主日礼拝説教

聖書個所:ルカの福音書192840

説教題:私たちのために十字架に向かわれる主

序.私の期待と、神が用意される救い

 今日の個所で、イエス様はいよいよ首都エルサレムへと入っていかれます。これまでイエス様の力ある言葉や奇跡の御業を見聞きしてきた多くの群衆たちは、「いよいよ約束の救い主がエルサレムの都に入ってイスラエルの新しい王様になるのだろう。何かこれからすごいことが起こり、エルサレムが独立国家になって、自分たちの暮らしは一変する」と期待していたようです。ルカ19:11にはその様子が描かれています。「イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。」

 私たちにとっては、「新しい王様に期待する」という感覚はわかりにくいかもしれません。むしろ日本では新しい政府や政治に期待するよりも、諦めや嫌悪感を抱いている人のほうが多いのではないでしょうか。 

 しかし、イスラエルの人々も、現代日本に生きる私たちも、心に思っていることは共通しています。人生の中で、安心や喜び、健康な体、人とのあたたかな関係、経済的なゆとりなどを求めています。争いや痛み悲しみがなくなること、病が癒され、貧困から救い出され、不安や悩みが解決することを願っています。

 新約時代のイスラエルの人々にとっては、その希望が「政治的な救世主としてのイエス様」に対する期待だったのです。私たちも政治に期待はしなくても、神様に願い求めているものはよく似ていることでしょう。

  確かに、イエス様はそのような私たちの悩みや苦しみ、葛藤や悲しみをご存じで、不思議な方法で私たちの痛みを取り扱ってくださいます。しかし、それはしばしば私たちが願ったようなやり方ではないことがあります。このイスラエル人たちの場合もそうでした。彼らは、イエス・キリストが地上のイスラエル国家の王様になることで、人生の苦しみを解決してほしいと願っていました。しかし実際は全く違う方法でした。なんと、イエス様が十字架につけられて殺されるという方法だったのです。

 

 ここにはギャップがあります。私たちの期待する方法と、神様が計画して実行される救いの方法とのギャップ。今日のメッセージの焦点はここにあります。私たちの救い主は、私たちが抱えているあらゆる痛みを解決するために、なんと十字架の死に向かわれる王様なのです。あなたは、このイエス・キリストにどのような期待をしているでしょう。十字架の上で罪を贖うという方法で私たちを救い出そうとする王様に、ふさわしい信頼を持つことができているでしょうか。一緒に考えてみたいと思います。

 

1.「主がお入り用なのです」―父の御心に従って、子ろばを用意された

 三つの印象的な出来事を順に見ていきます。一つ目は、イエス様がエルサレムに入るために子ろばを用意されるシーンです。イエス様は弟子たちを近くの村に遣わして、そこにつながれている子ろばを連れてくるように命じられました。ルカ1930「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れてきなさい。もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」果たして、すべてはイエス様の言ったとおりに起こったのでした。

 この不思議な出来事について、ある注解者は、イエス様が依然この村に出かけていた時に知り合いになって、ろばを貸してくれるように準備をしていた可能性を上げています。もちろんそういう可能性もありますし、それならば不思議なシーンというよりも、イエス様がエルサレムに入るために必要なものをちゃんと準備しておられたということになります。あるいはそうではないとしたら、ろばの持ち主たちがどうしてすんなりイエス様に貸してくれたのでしょうか。

 いずれにしても、重要なことは、イエス様はご自身でエルサレムに入る時に、子ろばに乗るということを決め、その計画を実行されたということです。これは印象的な出来事なのです。普通、王様が首都に帰ってくるとき、いわゆる凱旋の様子といえば、戦利品やたくさんの部下を連れ、武装した姿で帰ってくるものでした。しかし、イエス様が王としてエルサレムに入るのは、そのような壮麗な様子とは真逆でした。馬ではなくロバ。それも子ろばでした。馬と比べると明らかに小さく、脚が短く、歩くのも遅いです。英語でロバ(ドンキー)というと、温厚でのんびりとした性質から「愚か者」という意味があるくらいです。イエス様はまさにそのような子ろばを、ご自身のエルサレム入城のための相棒として選ばれたのでした。

 どうしてでしょうか。それは第一に旧約聖書の預言の成就だったからです。ゼカリヤ99にその来るべき救い主の預言の言葉があります。「娘シオンよ。大いに喜べ。娘エルサレムよ。喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って、雌ろばの子である、ろばに乗って。」まさに、これなのです。神様が備えてくださった私たちの救い主。すべての悩み苦しみ、罪からくるあらゆる悲惨の根源に、解決をもたらす真の王。それは子ろばにのって都に入ってくる、柔和で謙遜で、実に王様らしくない姿でやってくる、罪からの贖い主なのです。

 イエス様は、これから起こるすべてのことをご存じの上でエルサレムに入ってこられるのです。パリサイ人・律法学者たちのねたみと違法な裁判。弟子たちの裏切り。むち打ち。十字架。贖いの死。それでも一歩も後退することなく、十字架への道を子ろばに乗って進んでくださるのです。父なる神の御心に従い、私たちを罪から救うために、この道を選び取ってくださるのです。

 私たちには人生の様々な課題があります。その課題が願ったとおりに速やかに解決することを願います。しかし、多くの深刻な課題は、その根源にある罪の性質に、キリストにある赦しと愛と聖めの恵みがたっぷりと注がれる必要があるのです。私たちが経験する様々な葛藤や悩みや悲しみの根源には、神様を信頼できないこと、そして人と愛し合えないことという罪の本質が横たわっているからです。あなたが人生で必要としているのは、わかりやすい特効薬などではなく、子ろばに乗って十字架にかかり、父なる神の愛を揺らがないものとしてくださったイエス・キリストとのつながりではありませんか。キリストがあなたのために十字架にかかり、義認と聖化と栄化の恵みを獲得し、あなたと繋がってくださっていることが、あなた自身の魂の飢え渇きと結びついているでしょうか。

 

2.柔和で謙遜な王が子ろばに乗って十字架に進まれる

 エルサレムに入っていくイエス様のお姿を思い描いてみましょう。小さな子ろばに乗ったイエス様。二人の弟子が自分の上着をロバの背中にかけてくれたので、その上に座っておられます。イエス様が進んでいくと、人々が道に自分の上着を敷いてくれたので、その上をろばが歩いていきます。二つ目のポイントは、十字架の待つエルサレムに、ろばで向かうイエス様のお姿です。

 軍馬ではなく子ろば。豪華な装備ではなく、ひとのかけてくれた上着に乗って。イエス様の戦いは剣ではなく、十字架によって行われます。王でありながら、民のために命をささげます。こんな王様は、人間の歴史の中にはいません。だから私たちは、この不思議なお方を見て驚きます。そして、本当にこの十字架に向かっていく王様が、私の抱えている課題にどうやって光を当ててくれるのか、わからないことがあるのです。でも、この柔和で謙遜なイエス・キリストのうちに私たちの救いがあるのです。

 そして神であるお方が、罪びとを神の子どもとするために人となって十字架にかかる。十字架こそ、神の愛が最もはっきり示された場所なのです。私たちが生活の悩み苦しみに痛んでいるその真ん中に、十字架からあふれ流れる神の愛は何をもたらしているでしょうか。私たちは、そのただ中で、神の恵みを受け取ろうとしているでしょうか。受け取ることを願っているでしょうか。受け取れていないなら、そのように受け取ることを妨げているものはなんなのでしょうか。

 キリストにあるお父さんの愛を受け取ること。それを妨げているものを取り除くためには、自分自身の様々な頑なさや高慢さが打ち砕かれることが必要かもしれません。ザアカイがイエス様を家の食卓に招いたように、私たちもイエス様をお迎えすべきところに入れるためには閉ざした扉を開ける必要があるのではないでしょうか。

 

3.王を迎える者と拒む者

 そして最後、三つ目の場面は人々の反応です。ここには二種類の反応がありました。

 イエス様についてきた大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美しました。神に栄光あれ、と。人々は出来事の意味を分かっていなかったかもしれませんが、それでも喜びに満ちて救い主を賛美したのでした。

 一方でパリサイ人たちは、群衆の中からこう叫びました。「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と。これに対して、イエス様は珍しい回答をされます。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」救い主が救われるべき人の罪を償うために十字架に進まれる。その時に弟子たちが主を賛美するのは当たり前ではないか。彼らの賛美を止めるなら、ほかの被造物が賛美をするだろう。それほどのことが今あなたがたの目の前で進行していることにどうして気がつかないのか、ということでした。

 霊的な目が開かれていないと、神であるお方が人となり、ろばの子に乗って十字架にかかろうとしてくださっているということの信じられないへりくだりと犠牲と愛の深さが分からない。喜ぶことも感動することも感謝もできない。むしろ、あのうるさい賛美の声をやめさせろと怒りがわいてくるのでした。しかし、こんな人々の反応にあってもイエス様はその歩みを止めずに、進み続けてくださるのでした。

 私たちはどうでしょう。キリストのへりくだった深い愛を、私に注がれている愛として受け取っているでしょうか。体験しているでしょうか。それが自分の抱えている課題の中に注がれているでしょうか。

 

結び.十字架に進んでくださる愛の王にゆだねて歩む

 イエス・キリストは、私たちを神と和解させ、罪の問題を解決することで、決して失われることのない深い平安を与えるために来てくださいました。キリストを信じるというのは、昔々あるところにキリストが本当にいました、ということを信じるという、そんな小さなものではありません。神が、あなたを愛する自分の子どもとして生かすために、キリストを遣わしてあなたの罪の罰を代わりに引き受けさせたのです。信じるとは、そのことはあなたの人生の重要な信念になるということです。この贖い主イエス・キリストが、私たちの王となってくださったのです。愛によって救い、愛によって導き、愛によって収めてくださる、全知全能の神である王です。だから私たちはこの王様にすべての課題を委ねて、安心して歩み続けることができるのです。キリストはあなたの罪のために、十字架へと向かってくださったからです。信じられないほどやさしく、理解できないほどにへりくだった王様。私たちの救い主イエス・キリストを喜び、この方の愛の支配の中を歩んでまいりましょう。

 

祈り

天の父なる神様。私たちのために十字架への道を進んでくださった主イエス・キリストの大きな愛を感謝いたします。

この柔和な王を信頼し、喜んで心にお迎えし、その愛の支配の中を歩む者としてください。私たちの王、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

202675日主日礼拝説教

聖書個所:ルカの福音書192840

説教題:私たちのために十字架に向かわれる主

序.私の期待と、神が用意される救い

1.「主がお入り用なのです」―父の御心に従って、子ろばを用意された

2.柔和で謙遜な王が子ろばに乗って十字架に進まれる

3.王を迎える者と拒む者

結び.十字架に進んでくださる愛の王にゆだねて歩む


Sermão do Culto Dominical de 5 de julho de 2026

Passagem bíblica: Evangelho de Lucas 19:28–40

Título do sermão: O Senhor que se dirige à cruz por nós

Introdução. Minhas expectativas e a salvação que Deus nos prepara

 Na passagem de hoje, Jesus finalmente entra na capital, Jerusalém. As multidões que até então haviam visto e ouvido as palavras poderosas e os milagres de Jesus pensavam: pareciam esperar que “o Salvador prometido finalmente entrasse na cidade de Jerusalém e se tornasse o novo rei de Israel. Algo grandioso iria acontecer, Jerusalém se tornaria um Estado independente e a vida deles mudaria completamente”. Lucas 19:11 descreve essa situação: “Pois Jesus estava próximo de Jerusalém, e as pessoas pensavam que o Reino de Deus iria se manifestar imediatamente.”

 Para nós, talvez seja difícil compreender essa sensação de “ter expectativas em relação a um novo rei”. Na verdade, no Japão, não será que há mais pessoas que nutrem resignação ou aversão do que aquelas que depositam esperanças em um novo governo ou na política?


 No entanto, tanto o povo de Israel quanto nós, que vivemos no Japão contemporâneo, compartilhamos os mesmos anseios no fundo do coração. Ao longo da vida, buscamos segurança, alegria, saúde física, relações calorosas com as pessoas e estabilidade financeira. Desejamos que as disputas, a dor e a tristeza desapareçam, que as doenças sejam curadas, que sejamos libertos da pobreza e que nossas ansiedades e preocupações sejam resolvidas.

 Para o povo de Israel na época do Novo Testamento, essa esperança se traduzia na expectativa de que Jesus fosse um salvador político. Mesmo que não depositemos esperanças na política, o que pedimos a Deus é muito semelhante.


 De fato, Jesus conhece nossas angústias, sofrimentos, conflitos e tristezas, e lida com essa dor de maneiras misteriosas. No entanto, muitas vezes isso não acontece da maneira que desejamos. Foi assim também no caso desse povo de Israel. Eles desejavam que Jesus Cristo se tornasse rei do Estado de Israel na terra, a fim de resolver os sofrimentos de suas vidas. Mas, na realidade, o caminho foi totalmente diferente. Surpreendentemente, foi o caminho de Jesus ser crucificado e morto.


 Aqui está a discrepância entre a maneira como esperamos que as coisas aconteçam e o caminho de salvação que Deus planejou e executou. O foco da mensagem de hoje está exatamente nisso. Nosso Salvador é, na verdade, o Rei que se dirige à morte na cruz para resolver todas as dores que carregamos. Que tipo de expectativa você tem em relação a esse Jesus Cristo? Será que você consegue depositar a confiança adequada nesse Rei que procura nos salvar expiando nossos pecados na cruz? Gostaria que refletíssemos juntos sobre isso.


1. “É para o Senhor” — Preparando o jumentinho, em obediência à vontade do Pai

 Vamos examinar, em ordem, três acontecimentos marcantes. O primeiro é a cena em que Jesus prepara um jumentinho para entrar em Jerusalém. Jesus enviou os discípulos a uma aldeia próxima e ordenou que trouxessem o jumentinho que estava amarrado ali. Lucas 19:30: “Ide à aldeia ali adiante. Ao entrardes nela, encontrareis um jumentinho amarrado, no qual ainda ninguém montou. Desamarrai-o e trazei-o. Se alguém vos perguntar: ‘Por que o desamarram?’, dizei: ‘O Senhor precisa dele’”. E, de fato, tudo aconteceu exatamente como Jesus havia dito.

 Sobre esse acontecimento misterioso, um exegeta levanta a possibilidade de que Jesus já tivesse se familiarizado com as pessoas daquela aldeia durante uma visita anterior e que elas estivessem preparadas para emprestar-lhe o jumentinho. É claro que essa possibilidade existe; e, se for esse o caso, mais do que uma cena misteriosa, isso significaria que Jesus havia preparado cuidadosamente tudo o que era necessário para sua entrada em Jerusalém. Ou, se não for esse o caso, por que os donos do jumentinho o emprestaram a Jesus tão prontamente?

 De qualquer forma, o importante é que Jesus decidiu, por conta própria, entrar em Jerusalém montado em um jumentinho e colocou esse plano em prática. Esse é um acontecimento impressionante. Normalmente, quando um rei retornava à capital, o chamado “desfile de triunfo” consistia em voltar acompanhado de espólios de guerra e muitos subordinados, em trajes de guerra. No entanto, a entrada de Jesus em Jerusalém como rei foi exatamente o oposto dessa imagem grandiosa. Não um cavalo, mas um jumento. E ainda por cima, um jumentinho. Comparado ao cavalo, ele é claramente menor, tem pernas curtas e anda devagar. Em inglês, a palavra “donkey” (jumento) chega a ter o significado de “tolo”, devido à sua natureza dócil e tranquila. Jesus escolheu exatamente esse jumentinho como seu companheiro para a entrada em Jerusalém.

 Por que será? Em primeiro lugar, porque isso era o cumprimento de uma profecia do Antigo Testamento. Em Zacarias 9:9, há a profecia sobre o futuro Salvador: “Alegra-te muito, filha de Sião! Grita de alegria, filha de Jerusalém! Eis que o teu rei vem a ti; ele é justo e vitorioso, manso e montado em um jumento, na cria de uma jumenta.” É exatamente isso. Nosso Salvador, preparado por Deus. O verdadeiro Rei que traz a solução para a raiz de todas as angústias, sofrimentos e todas as desgraças decorrentes do pecado. É o Redentor do pecado que entra na cidade montado em um jumentinho, com uma aparência mansa e humilde, que de fato não parece nada com a de um rei.

 Jesus entra em Jerusalém sabendo de tudo o que está prestes a acontecer. A inveja dos fariseus e dos doutores da lei e o julgamento ilegal. A traição dos discípulos. A flagelação. A cruz. A morte redentora. Mesmo assim, sem recuar nem um passo, Ele segue o caminho da cruz montado em um jumentinho. Obedecendo à vontade de Deus Pai, Ele escolheu esse caminho para nos salvar do pecado.

 Temos diversos desafios na vida. Desejamos que esses desafios sejam resolvidos rapidamente, conforme esperamos. No entanto, muitos desafios graves exigem que a natureza do pecado, que está na raiz deles, seja abundantemente banhada pelo perdão, pelo amor e pela graça santificadora que se encontram em Cristo. Isso porque, na raiz dos diversos conflitos, angústias e tristezas que vivenciamos, jaz a essência do pecado: a incapacidade de confiar em Deus e de amar o próximo. O que você precisa na vida não é um remédio milagroso fácil de entender, mas sim uma conexão com Jesus Cristo, que montou em um jumentinho, foi crucificado e tornou o amor de Deus Pai inabalável. O fato de Cristo ter sido crucificado por você, ter conquistado as graças da justificação, santificação e glorificação, e estar conectado a você — será que isso está ligado à fome e à sede da sua própria alma?


2. O Rei manso e humilde avança em direção à cruz montado em um jumentinho

 Vamos imaginar a imagem de Jesus entrando em Jerusalém. Jesus montado em um pequeno jumentinho. Dois discípulos colocaram suas próprias túnicas sobre o dorso do jumento, e Ele está sentado sobre elas. À medida que Jesus avança, as pessoas estendem suas próprias túnicas no caminho, e o jumento caminha sobre elas. O segundo ponto é a imagem de Jesus dirigindo-se, montado em um jumentinho, para Jerusalém, onde a cruz o aguarda.

 Não um cavalo de guerra, mas um jumentinho. Não com equipamento luxuoso, mas montado sobre as túnicas que as pessoas colocaram para ele. A batalha de Jesus não é travada com a espada, mas pela cruz. Apesar de ser rei, ele oferece sua vida pelo povo. Não há nenhum rei assim na história da humanidade. Por isso, ficamos surpresos ao contemplar essa figura misteriosa. E, às vezes, não sabemos como esse rei, que caminha de fato em direção à cruz, pode lançar luz sobre os desafios que enfrentamos. Mas é nesse Jesus Cristo, manso e humilde, que está a nossa salvação.

 E aquele que é Deus se fez homem e foi crucificado para transformar os pecadores em filhos de Deus. A cruz é, precisamente, o lugar onde o amor de Deus se manifestou com maior clareza. No meio das angústias e sofrimentos da nossa vida, o que traz o amor de Deus que transborda da cruz? Estaremos, bem no meio disso tudo, dispostos a receber a graça de Deus? Estamos desejando recebê-la? Se não estamos conseguindo recebê-la, o que está nos impedindo de fazê-lo?

 Receber o amor do Pai que está em Cristo. Para remover o que nos impede disso, talvez seja necessário que nossas próprias teimosias e orgulhos sejam quebrados. Assim como Zaqueu convidou Jesus para a mesa de sua casa, não será necessário abrir as portas fechadas para que possamos receber Jesus no lugar que Lhe é devido?


3. Aqueles que recebem o Rei e aqueles que o rejeitam

 E, por fim, a terceira cena é a reação das pessoas. Aqui, houve dois tipos de reação.

 Todos os muitos discípulos que acompanhavam Jesus, cheios de alegria por todos os milagres que haviam visto, louvaram a Deus em alta voz, dizendo: “Glória a Deus”. As pessoas talvez não compreendessem o significado dos acontecimentos, mas, mesmo assim, estavam cheias de alegria e louvaram o Salvador.

 Por outro lado, os fariseus gritaram de entre a multidão: “Mestre, repreenda seus discípulos”. Em resposta a isso, Jesus deu uma resposta inusitada: “Se estes se calarem, as pedras clamarão”. O Salvador caminha para a cruz a fim de expiar os pecados daqueles que devem ser salvos. Não é natural, então, que os discípulos louvem o Senhor nesse momento? Se impedissem o louvor deles, outras criaturas o fariam. O que Ele queria dizer era: como vocês não percebem que algo tão grandioso está acontecendo diante dos seus olhos neste momento?

 Se os olhos espirituais não estiverem abertos, não é possível compreender a humildade inacreditável, o sacrifício e a profundidade do amor de Deus, que se fez homem, montou num jumentinho e se dispôs a ser crucificado. Não conseguimos nos alegrar, nem nos emocionar, nem agradecer. Pelo contrário, sentíamos raiva e queríamos que aquelas vozes barulhentas de louvor se calassem. No entanto, mesmo diante dessa reação das pessoas, Jesus não interrompeu Seus passos e continuou avançando.

 E nós, como estamos? Estamos recebendo o amor profundo e humilde de Cristo como um amor derramado sobre nós? Estamos vivenciando isso? Esse amor está sendo derramado sobre os desafios que enfrentamos?


Conclusão: Caminhar confiando no Rei do Amor que avança rumo à cruz

 Jesus Cristo veio para nos reconciliar com Deus, resolver o problema do pecado e nos conceder uma paz profunda que jamais se perderá. Acreditar em Cristo não é algo tão insignificante quanto simplesmente acreditar que, há muito tempo, Cristo realmente existiu. Deus enviou Cristo para que Ele assumisse o castigo pelos seus pecados em seu lugar, a fim de que você pudesse viver como Seu filho amado. Acreditar significa que isso se tornará uma convicção fundamental em sua vida. Esse Redentor, Jesus Cristo, tornou-se nosso Rei. É um Rei que é Deus onisciente e onipotente, que nos salva pelo amor, nos guia pelo amor e nos acolhe pelo amor. Por isso, podemos entregar todos os nossos desafios a esse Rei e continuar caminhando com tranquilidade. Pois Cristo se dirigiu à cruz por causa dos seus pecados. Um Rei incrivelmente bondoso e tão humilde que ultrapassa nossa compreensão. Alegremo-nos em nosso Salvador, Jesus Cristo, e caminhemos sob o domínio do Seu amor.


Oração

Deus, nosso Pai celestial. Agradecemos pelo grande amor do Senhor Jesus Cristo, que trilhou o caminho da cruz por nós.

Faça com que confiemos neste Rei manso, que O recebamos com alegria em nossos corações e que caminhemos sob o domínio de Seu amor. Oramos em nome do nosso Rei, o Senhor Jesus Cristo. Amém.