2026年7月12日主日礼拝説教 聖書個所:ルカの福音書19:41~48 説教題:涙を流される主

2026712日主日礼拝説教

聖書個所:ルカの福音書194148

説教題:涙を流される主

序.キリストの憐み

私たちは、人から優しくしてもらえると嬉しいなぁと感じるものです。しかし「かわいそうに」とか「大丈夫ですか」と心配されたり、憐れまれたりすることには、時として居心地の悪さを覚えることがあります。助けてほしいときに助けてもらえるのはうれしいのに、心配や憐みというのは誰からされるのかというところに違いがあるかもしれません。

なぜでしょうか。それは、憐れまれるということが、自分の弱さや限界を知らされることになるからです。私たちは、自分で立っていたい、自分で何とかしたいと思います。また他者から見ても、自分が大丈夫であるように見えていてほしいと思っています。ですから、本当は助けが必要でも、「大丈夫です」と答えてしまうことがあります。

ところが、今日の箇所でイエス様はエルサレムをご覧になって涙を流されました。これはエルサレムとイスラエルにすむ人々が、神を拒み続けた結果、紀元七十年にローマ軍によって滅ぼされることになります。イエス様はそのことを知っておられて、涙されたのでしょう。しかしこれは彼らを見下した涙ではありません。愛する者を失いたくないと願う救い主の涙です。

 

皆さんは、あなたのために泣かれたという経験があるでしょうか。あなたを愛する人が、あなたの人生のために涙を流すという経験。キリストは、私たちが罪と滅びに進んでいくなら、同じように私たちのために涙を流される方なのです。その涙は決して愛されている心地よさだけではありません。その涙は、「あなたには私の救いが必要なのにどうしてそれを受け取らないのか。この恵みの中で生きようとしないのか」と私たちの心の課題を照らし出します。

キリストの憐れみは、本当の慰めであると同時に、自分の罪に振り回されている姿を認める痛みも伴っています。しかし、その痛みの先にこそ、本当の平安があります。今日は、涙を流される救い主が、どのようなお方であるかをご一緒に見ていきたいと思います。

 

1.涙を流しつつ裁きを告げる救い主(41–44節)

エルサレムは王であるイエス様のことを最初は歓迎しました。先週見た通りです。しかし、その喜びは長く続きませんでした。人々はイエス様を本当の救い主として受け入れようとはしなかったからです。そのことはこの後の十字架へ向かう一週間の旅路で判明していくことになります。

イエス様は都エルサレムをご覧になって泣きました。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら――。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」「やがて次のような時代がお前に来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」これは紀元70年に起きる第一次ユダヤ戦争と、その結果としてのエルサレム陥落を指しています。彼らが、救い主の訪れてくださっているその時を見失っていたからでした。ところで、その救い主が来てくれていた時。神の訪れの時。彼らが平和に向かう道を選ぶべきだったその時とはいつのことなのでしょう。まさに今この時、なのです。キリストがあなたの心に語り掛け、あなたの罪の問題をキリストにあって神にゆだね、神と和解して、神の愛の中を歩みだすとき。彼らにとってはまさに今がその時。そして私たちにも、神様が迫ってきて、あなたの人生の課題をキリストにあって委ねるようにと促してくださる時があります。それを拒み、今は忙しいですから、ほかのことも考えないといけませんからなどと後回しにするならば、その時を永遠に逃すこともあるのです。

ここで大切なのは、イエス様はひとの裁きと滅びを喜んでおられないということです。涙を流しながら裁きの日を嘆いているのです。神は罪を軽く扱われません。しかし同時に、罪人がその悲惨を味わい、苦しみの中に落ちていくことを憐れみ、胸を痛め、涙を流してくださるお方なのです。

私たちも、神様の警告を聞くとき、それは愛のない叱責ではなく、私たちを生かそうとする主の涙に満ちた呼びかけであることを覚えたいのです。

 

2.神殿(王宮)をきよめる王(45–46節)

続いてイエス様は神殿に入り、商売をしていた人々を追い出されました。「『わたしの家は祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」

神殿は礼拝のための場所であり、神と出会う場所でした。しかし、人々はいつしか利益や利便性を優先し、礼拝の中心を見失っていました。ただ、商売といっても、イスラエル人が神殿でいけにえを捧げるための鳥などを売ったり、イスラエルのお金で支払うための両替業を行ったりしていたようです。いわば礼拝のために必要な業務でもあったといえます。それをイエス様が批判されたというのは、そこにもやはり、神を礼拝するよりも利益や損得を優先し、地上のことを考える思いが見られたからかもしれません。一言で言うならば、礼拝の形式化、形骸化です。そうすることになっているからそうしているだけ。心が神様に献げられていない。神様とお話しするために、神様の声を聴くために、礼拝にいって自分自身を捧げたいという思いが見られない。

イエス様は王として、ご自分の家、神の家のあるべき姿を取り戻そうとされました。イエス様がエルサレム神殿に入るというのは、王様が王宮に入ってきたということなのです。それなのに商売人がはびこって、誰も王様との交わりを喜ばず、損得のことだけを考えて暮らしている。だからイエス様は商売人たちを追い出して一掃してしまったのでした。このことは、神殿の管理者や祭司長・律法学者たちの反感を買い、さらに彼らの敵意を買うこととなります。

この出来事は、私たちにも問いかけています。礼拝を捧げるとき、私たちの心は神様ご自身に向かっているでしょうか。神様を愛し、神様を喜び、神様に愛されていることを楽しむために、ここに座っているでしょうか。

例えば、私たちも人と会話していて、虚しい気持ちになることがあります。それは「心がここにない」会話です。営業トークとか、あるいは自分の話をしたいだけでこちらの人格を無視しているとか、会話に別の目的があってそこに誘導されているとか。それは話しても話しても虚しい。話すほどに虚しくなる会話です。私たちのささげる礼拝が、形だけのものではなく、心の対話を神様と一緒に楽しむ時間でありますように。

救い主イエス様は私たちを責めるためではなく、本当の礼拝へと回復するために、今日も私たちの心をきよめてくださいます。イエス様が商売人たちを追い出したように、私たちが心の中から、あるいは生活の中から追い出すべきものは何でしょうか。あなたが神様がおられる場所に、代わりにドーンと置いてしまっている別のものは何でしょうか。あなたと神様の親しい会話を、本質的にいつも邪魔しているものは何なのでしょう。それに気がついて、イエス様に取り除いてもらうように委ねていきましょう。

 

3.御言葉を教える教師(47–48節)

イエス様は神殿にやってきて、商売人を追い出されましたが、これを一般的に「宮きよめ」と呼びます。礼拝にふさわしくないものを外に追い出して、宮をきよめられたからです。

でもイエス様はふさわしくないものを取り除いただけではありません。毎日そこで教え続けられました。あるべきものがあるべき場所で、ふさわしく与えられるように。神様の愛が人々に語られ、人々が神様の愛の中で安らぎ、神のみ言葉が一人一人の生活の中で水路のように通っていて、生活を潤していくようにと。

神殿の中心は商売ではなく、神の言葉です。イエス様は、イスラエルの人々が神様の言葉を知っていたにもかかわらず、間違って理解していたことを嘆き、正しい神の教えを解き明かし続けました。それもエルサレムに入ってから毎日でした。イエス様は、父なる神様の愛の御心を一番よく知るみ言葉の教師として人々に聖書を教えてくださったのでした。

しかし、その言葉に対する反応は二つに分かれました。民衆の中にはイエス様の力ある言葉に熱心に聞き入った者たちがいたはずです。しかし祭司長や律法学者たちはイエス様を殺そうとします。民衆がイエス様の言葉に惹かれていけばいくほど、ねたみと怒りを強くして、真実の言葉に耳をふさいでいったからでした。神の言葉は、今も人を二つに分けます。

私たちも毎週、御言葉を聞きます。聞くには聞くのです。でもただ聞くだけではなく、その言葉に心で耳を傾け、聞き取り、生き方の中に深く浸透させ、生活の中で従っていく者となりたいのです。福音の恵みは、私たちの心の仕組みの中に、物事のとらえ方の中に、人とのかかわり方の中にそそがれるべきいのちの力だからです。聞いても聞いただけというのは、水を注いだのに、それが生活の中に届けられていない状態です。救い主が門をたたいているのに、扉を閉ざして、ここの部屋には入らないでください。そこにも入らないでください。あなたの言葉を入れてしまうと、私の罪の問題が明らかになって恥ずかしいので、もっと後で来てくださいと拒んでいる状態です。

キリストはまさに、神が訪れたのに、私たちがこのキリストの恵みを心の中に受け入れ、生活の中に恵みが適用されないことを嘆いて涙されるのです。私たちは、自分のために涙を流すイエス様を見つめて、むしろなんで泣いているんですか、なんて呆然としているのかもしれません。聖霊なる神が、どうか私たちの心を打ち砕き、キリストの福音の恵み、悔い改めの実、聖霊の実りを実らせる人生へと導いてくださるように願います。

 

結び.イエス・キリストに憐れんでもらうことは心地いい

ルカ19章。最後の部分に描かれたイエス様はとても感情的なお姿でした。涙を流し、怒りを持って神殿をきよめ、熱心に御言葉を教えられました。そのすべては、人を遠ざけるためではなく、罪の悲惨さに苦しんでいる私たちをご自分のもとへ立ち返らせるためでした。

キリストに憐れんでいただくことは、本質的にはありがたいことなのです。一時的には決して気持ちのよいことではないこともあります。苦い薬を飲み、痛い治療や手術を経ることもあります。霊的に「私は、自分の人生にキリストの助けを必要としている」という事実を認める痛みがあります。自分の力だけで生きられると思いたいという小さなプライドはその事実の前で静かに砕かれる必要があります。

しかし、その痛みは絶望へ向かう痛みではありません。愛してくださる方の前で、自分を偽らなくていいんだとひざまずく、安心の痛みです。そして、その先には、自分の力では得られない平安があります。

エルサレムは、この救い主の涙を受け入れることができませんでした。むしろ哀れみを拒み、神の助けなど必要ないと思い込み、救い主を自分の世界から締め出そうとしました。

私たちはどうでしょうか。イエス・キリストは今日も、私たちを責めるためではなく、憐れみ、救うために近づいてくださいます。あなたの魂にイエス様は触れてくださっているのではないでしょうか。あなたの痛みに。イエス様の憐れみを受け取り、真の平和を与えてくださるキリストとともに歩み、平安の中に入っていきたいと思います。


2026712日主日礼拝説教

聖書個所:ルカの福音書194148

説教題:涙を流される主

序.キリストの憐み

1.涙を流しつつ裁きを告げる救い主(41–44節)

2.神殿(王宮)をきよめる王(45–46節)

3.御言葉を教える教師(47–48節)

結び.イエス・キリストに憐れんでもらうことは心地いい


Sermão do Culto Dominical de 12 de julho de 2026

Passagem bíblica: Evangelho de Lucas 19:41–48

Título do sermão: O Senhor que derrama lágrimas

Introdução. A compaixão de Cristo

É natural que nos sintamos felizes quando as pessoas são gentis conosco. No entanto, quando alguém demonstra preocupação dizendo “pobre de você” ou “você está bem?”, ou quando recebemos compaixão, às vezes podemos nos sentir um pouco desconfortáveis. Embora seja bom receber ajuda quando precisamos, talvez haja uma diferença dependendo de quem nos demonstra essa preocupação ou compaixão.

Por que será? É porque ser alvo de compaixão significa ser confrontado com nossas próprias fraquezas e limitações. Queremos nos manter de pé por conta própria, queremos dar um jeito sozinhos. Além disso, queremos que, aos olhos dos outros, pareça que estamos bem. Por isso, mesmo quando realmente precisamos de ajuda, às vezes acabamos respondendo: “Estou bem”.

No entanto, na passagem de hoje, Jesus olhou para Jerusalém e derramou lágrimas. Isso ocorreu porque o povo de Jerusalém e de Israel, por terem continuado a rejeitar a Deus, acabaria sendo destruído pelo exército romano no ano 70 d.C. Jesus sabia disso e, por isso, deve ter chorado. Mas essas não eram lágrimas de desprezo. Eram as lágrimas do Salvador, que não queria perder aqueles a quem amava.


Vocês já tiveram a experiência de alguém chorar por vocês? A experiência de alguém que os ama derramar lágrimas pela vida de vocês. Cristo é Aquele que, se seguirmos em direção ao pecado e à perdição, derramará lágrimas por nós da mesma forma. Essas lágrimas não são apenas o conforto de saber que somos amados. Elas iluminam o desafio em nossos corações, perguntando: “Você precisa da minha salvação, então por que não a aceita? Por que não tenta viver nessa graça?”.

A misericórdia de Cristo é um verdadeiro consolo, mas, ao mesmo tempo, traz consigo a dor de reconhecer que estamos sendo dominados pelos nossos próprios pecados. No entanto, é justamente além dessa dor que se encontra a verdadeira paz. Hoje, gostaria que examinássemos juntos que tipo de pessoa é esse Salvador que derrama lágrimas.


1. O Salvador que anuncia o julgamento enquanto derrama lágrimas (versículos 41–44)

Jerusalém inicialmente acolheu Jesus, o Rei. Como vimos na semana passada. No entanto, essa alegria não durou muito. Isso porque o povo não quis aceitar Jesus como o verdadeiro Salvador. Esse fato ficaria evidente na jornada de uma semana que se seguiria, rumo à cruz.

Jesus olhou para a cidade de Jerusalém e chorou: “Se ao menos hoje você tivesse conhecido o caminho da paz... Mas agora isso está oculto aos seus olhos.” “Chegará para você o tempo em que Os inimigos erguerão trincheiras contra ti, cercar-te-ão, atacar-te-ão por todos os lados e te esmagarão, a ti e aos teus filhos que estão dentro de ti. Não deixarão em ti uma pedra sobre a outra. Isso acontecerá porque não reconheceste o tempo em que Deus te visitou.” Isso se refere à Primeira Guerra Judaica, ocorrida no ano 70 d.C., e à consequente queda de Jerusalém. Isso aconteceu porque eles perderam de vista o momento em que o Salvador estava vindo. A propósito, quando esse Salvador veio. O momento da visita de Deus. Quando seria o momento em que eles deveriam ter escolhido o caminho da paz? É exatamente agora, neste momento. É quando Cristo fala ao seu coração, quando você entrega a questão do seu pecado a Deus por meio de Cristo, se reconcilia com Deus e começa a caminhar no amor de Deus. Para eles, esse momento é exatamente agora. E também para nós há momentos em que Deus se aproxima e nos exorta a entregar os desafios da nossa vida a Cristo. Se recusarmos isso e adiarmos para depois, dizendo que estamos ocupados agora ou que precisamos pensar em outras coisas, podemos acabar perdendo esse momento para sempre.

O importante aqui é que Jesus não se alegra com o julgamento e a perdição das pessoas. Ele chora e lamenta o dia do julgamento. Deus não trata o pecado com leveza. Mas, ao mesmo tempo, Ele é Aquele que tem compaixão, sente dor no coração e derrama lágrimas ao ver o pecador provar essa miséria e afundar no sofrimento.

Nós também, ao ouvirmos as advertências de Deus, devemos lembrar que não se trata de uma repreensão sem amor, mas de um chamado cheio de lágrimas do Senhor, que busca nos dar vida.


2. O Rei que purifica o templo (palácio real) (versículos 45–46)

Em seguida, Jesus entrou no templo e expulsou as pessoas que ali negociavam. “Está escrito: ‘Minha casa deve ser uma casa de oração’. Mas vocês a transformaram em ‘covil de ladrões’.”

O templo era um local de adoração e de encontro com Deus. No entanto, com o passar do tempo, as pessoas passaram a priorizar o lucro e a conveniência, perdendo de vista o sentido central da adoração. No entanto, mesmo tratando-se de comércio, parece que os israelitas vendiam aves e outros animais para a oferta de sacrifícios no templo, além de realizarem atividades de câmbio para que os pagamentos fossem feitos com a moeda de Israel. Pode-se dizer que, de certa forma, eram atividades necessárias para a adoração. O fato de Jesus ter criticado isso talvez se deva a que, mesmo ali, era possível perceber uma mentalidade que priorizava o lucro e o ganho em detrimento da adoração a Deus, concentrando-se nas coisas terrenas. Em poucas palavras, trata-se da formalização e da vacuidade do culto. Faziam aquilo apenas porque era o que se esperava deles. O coração não estava dedicado a Deus. Não se via o desejo de ir ao culto para conversar com Deus, para ouvir a voz de Deus e para se entregar a Ele.

Jesus, como Rei, procurou restaurar a forma como sua casa, a casa de Deus, deveria ser. A entrada de Jesus no Templo de Jerusalém significava que o Rei havia entrado em seu palácio. No entanto, os comerciantes se proliferavam, e ninguém se alegrava com a comunhão com o rei, vivendo apenas pensando em ganhos e perdas. Por isso, Jesus expulsou os comerciantes e os eliminou de uma vez por todas. Isso despertou a antipatia dos administradores do templo, dos sumos sacerdotes e dos doutores da lei, além de gerar ainda mais hostilidade da parte deles.

Esse acontecimento também nos interpela. Quando oferecemos adoração, será que nosso coração está voltado para o próprio Deus? Estamos sentados aqui para amar a Deus, para nos alegrarmos n’Ele e para desfrutar do fato de sermos amados por Ele?

Por exemplo, às vezes, quando conversamos com alguém, podemos nos sentir vazios. Trata-se de uma conversa em que “o coração não está presente”. Seja um discurso de vendas, seja alguém que só quer falar de si mesmo e ignora a nossa personalidade, ou ainda uma conversa com outro objetivo, para o qual estamos sendo conduzidos. É uma conversa que, por mais que falemos, permanece vazia. É uma conversa que se torna cada vez mais vazia à medida que falamos. Que o culto que oferecemos não seja apenas uma formalidade, mas um momento em que desfrutamos de um diálogo do coração com Deus.

O Salvador Jesus purifica nossos corações hoje, não para nos culpar, mas para nos restaurar à verdadeira adoração. Assim como Jesus expulsou os mercadores, o que devemos expulsar do nosso coração ou da nossa vida? O que você tem colocado com força no lugar onde Deus deveria estar? O que é que, em essência, está sempre atrapalhando sua conversa íntima com Deus? Perceba isso e entregue a Jesus para que Ele remova.


3. O mestre que ensina a Palavra (versículos 47–48)

Jesus veio ao templo e expulsou os comerciantes; isso é geralmente chamado de “purificação do templo”. Ele purificou o templo ao expulsar para fora aquilo que não era adequado à adoração.

Mas Jesus não se limitou a remover o que era inadequado. Ele continuou a ensinar ali todos os dias. Para que o que deve estar no lugar certo fosse oferecido de maneira adequada. Para que o amor de Deus fosse proclamado às pessoas, para que elas encontrassem paz nesse amor, e para que a Palavra de Deus fluísse como um canal na vida de cada um, regando-a.

O centro do templo não é o comércio, mas a Palavra de Deus. Jesus lamentava que o povo de Israel, apesar de conhecer a Palavra de Deus, a interpretasse erroneamente, e continuava a explicar os ensinamentos corretos de Deus. E isso acontecia todos os dias desde que entrou em Jerusalém. Jesus ensinava as Escrituras ao povo como o mestre da Palavra que melhor conhecia a vontade amorosa de Deus Pai.

No entanto, as reações àquela palavra se dividiram em duas. Entre a multidão, certamente havia aqueles que ouviam com entusiasmo as palavras poderosas de Jesus. Porém, os sumos sacerdotes e os doutores da lei tentavam matá-lo. Isso porque, quanto mais a multidão se sentia atraída pelas palavras de Jesus, mais intensos se tornavam a inveja e a ira deles, levando-os a fechar os ouvidos à palavra da verdade. A palavra de Deus ainda hoje divide as pessoas em dois grupos.

Nós também ouvimos a Palavra todas as semanas. Ouvimos, sim. Mas não queremos apenas ouvir; queremos dar ouvidos com o coração a essas palavras, compreendê-las, deixá-las penetrar profundamente em nosso modo de viver e nos tornar pessoas que as seguem no dia a dia. Pois a graça do Evangelho é a força da vida que deve ser derramada no funcionamento de nosso coração, na maneira como percebemos as coisas e na forma como nos relacionamos com as pessoas. Ouvir sem mais nada é como derramar água sem que ela chegue à nossa vida. É como se, mesmo com o Salvador batendo à porta, fechássemos a porta e disséssemos: “Não entre nesta sala. Não entre ali também. Se deixar suas palavras entrarem, o problema do meu pecado ficará evidente e eu ficarei envergonhado; por isso, volte mais tarde.”

Cristo, precisamente porque Deus nos visitou, chora de tristeza ao ver que não aceitamos essa graça de Cristo em nosso coração e que ela não é aplicada em nossa vida. Ao contemplarmos Jesus derramando lágrimas por nós, talvez fiquemos perplexos, perguntando: “Por que você está chorando?”. Oro para que Deus, o Espírito Santo, quebre nossos corações e nos conduza a uma vida que produza a graça do Evangelho de Cristo, os frutos do arrependimento e os frutos do Espírito Santo.


Conclusão. É reconfortante receber a misericórdia de Jesus Cristo

Lucas, capítulo 19. A imagem de Jesus retratada na parte final era muito emotiva. Ele derramou lágrimas, purificou o templo com ira e ensinou a Palavra com fervor. Tudo isso não foi para afastar as pessoas, mas para nos trazer de volta a Ele, que sofremos com a tragédia do pecado.

Receber a misericórdia de Cristo é, em essência, algo para se agradecer. Por vezes, isso pode não ser nada agradável no momento. Às vezes, precisamos tomar remédios amargos ou passar por tratamentos e cirurgias dolorosas. Há a dor de reconhecer espiritualmente o fato de que “preciso da ajuda de Cristo na minha vida”. Aquele pequeno orgulho de querer acreditar que podemos viver apenas com nossas próprias forças precisa ser silenciosamente quebrado diante desse fato.

No entanto, essa dor não é uma dor que nos leva ao desespero. É uma dor tranquilizadora, na qual nos ajoelhamos diante daquele que nos ama, sabendo que não precisamos fingir quem não somos. E, além disso, há uma paz que não podemos alcançar com nossas próprias forças.

Jerusalém não conseguiu aceitar as lágrimas desse Salvador. Pelo contrário, rejeitou a misericórdia, convenceu-se de que não precisava da ajuda de Deus e tentou excluir o Salvador de seu mundo.

E nós, como estamos? Jesus Cristo, ainda hoje, aproxima-se de nós não para nos acusar, mas para ter misericórdia e nos salvar. Será que Jesus não está tocando sua alma neste momento? À sua dor. Gostaria de receber a misericórdia de Jesus, caminhar em direção a Cristo, que nos concede a verdadeira paz, e entrar na paz. Sermão do culto dominical de 12 de julho de 2026

Passagem bíblica: Evangelho de Lucas 19:41–48

Título da pregação: O Senhor que derrama lágrimas

Introdução. A misericórdia de Cristo

1. O Salvador que anuncia o julgamento enquanto derrama lágrimas (versículos 41–44)

2. O Rei que purifica o templo (palácio real) (versículos 45–46)

3. O Mestre que ensina a Palavra (versículos 47–48)

Conclusão. É reconfortante receber a misericórdia de Jesus Cristo