2024年6月9日主日礼拝説教 ルカの福音書7:36~50

202469日主日礼拝説教

聖書箇所: ルカの福音書73650

「多くの罪を赦されたので」

序.生活の中で、神に愛されていることに気が付くこと

 今私にはゼロ歳の息子がいます。子どもを育てながらよく観察していると、人間の心がどのようなことで悲しくなり、どのようなことで喜ぶのかについて深く考えさせられます。子育てを経験された方も、したことのない方も、子どもがどのような時に泣くか。どれくらい思いつくでしょうか。

 お腹が空いたとき、泣きます。おむつを替えて欲しい時、泣きます。暑い時、泣きます。眠たいのに眠れないとき、泣きます。夕方、泣きます。ほかにどんな時があるでしょう。みなさんの経験を聞いてみたいです。

 私が子育てをしながら、子どもがなく理由として興味深く感じたことが二つあります。ひとつは、子どもは親がそばにいないと泣きます。親がどれくらい近くにいる必要があるかは、成長とともに離れていきますが、我が家の場合、見えていても二メートルくらい離れると泣き始めます。人間の心というのは、いかに孤独に敏感なことでしょう。物理的に一緒に時間を過ごすことでしか埋められないものがあります。神様は、このように人間が互いに誰かの存在を必要とし、愛したり愛されたりしないと生きられないものとして心と体を作られたのです。

 もう一つは、退屈すると泣くということです。子どもはいろんなものに興味を持ちますが、すぐに飽きます。飽きてしまった子どもを無理やり押さえつけると激しく泣き始めます。興味を持つものは一人一人違っていますが、どんな子供にも気になるもの、興味がわくものがあって、好きになる対象があります。好きなものを楽しく触れ続けていると、遊びが学びになり、それが得意になっていきます。神様は、一人一人に独自の好奇心をお与えになり、この世界の中で何かの役割を果たすようになるための心を備えてくださいました。もし赤ちゃんが何にも興味を持たず、何の好奇心もなかったら、誰も学習せず、何もできないままになってしまったことでしょう。私たちの心には、この世界にある何かに興味を持ち、それを学び、楽しむという力が与えられています。

 人に愛され、人を愛すること。またこの世界にあるものに関心を持ち、学び、役に立つ人になること。どんな人にも、神様の素晴らしい知恵は溢れるほどに注がれているんだなと驚いています。自分自身が成長し、学習し、働き、生活しているその当たり前と思って過ごしてきた数十年の歩みが、なんと神様の知恵に満たされたものであったかと思うと不思議な思いになりました。

 私たちには、神様から当たり前のように差し出されているたくさんの愛と恵みと憐れみがあります。神様に愛されているということに目が開かれるというのは、私たちの心のあり方を変えられる経験です。恵みが恵みであったと分かること。自分には何もないと思い込んでいた人が、私を愛してくれているお方がいると気が付くことだからです。神様は様々な方法で、私たちへの愛を気づかせてくれるきっかけを用意してくださっています。今日私たちが読んだ個所では、名前も書かれていないある一人の女性が神様の愛に気づかされ、圧倒された様子を見ていきます。

 

1.パリサイ人シモンがイエスを自宅に招く:彼の心の問題

 その前に、もう一人、別の登場人物のことから見ていきます。彼はシモンという名前でパリサイ人でした。この人はイエス様の弟子のシモン・ペテロとは別人です。イエス様にしては珍しく、このパリサイ人シモンに招かれて彼の家で食事をしたのでした。パリサイ人は当時の聖書の専門家で、人々の神を愛し、神に従って生きるように教えていた人たちでした。多くのパリサイ人は急に人気を持ち出したイエスという新しい教師を快く思わず、ねたんだり憎んだり敵対視していました。しかしそんな中にも、このシモンのようにイエスに近づいてみたいと思う人物もいたようです。

 しかし、シモンはいったい何を目的としてイエス様を自宅に招いたのでしょうか。私がそのような疑問を持つのは、彼の態度が大切なお客を自宅に招いた人のもてなしではなかったようだったからです。シモンはイエス様と一緒に食事をしてほしいと招きました。しかし、後でイエス様が彼に言ったように、彼は招かれたイエス様の足を洗うことなく、歓迎の口づけもなく、もてなしとして頭にオリーブ油を塗ることもありませんでした。シモンの応対が、当時の一般的なもてなしから考えてどれくらい失礼なものであったのかは議論のある所なのですが、イエス様が言わんとしているのは、その対応には尊敬や愛がないということであるのは間違いないでしょう。シモンは、本当なら救い主が自分の家に来てくださったことを心から喜びながら、迎えるはずの人でした。しかし、彼はそうしませんでした。出来なかったのです。彼の目には、イエスという人物は興味の対象ではあっても、尊敬や愛の対象ではなかったからです。イエス様を本当の愛をもって迎えたひととしてはザアカイがいます。彼は自分の罪を救い主が赦してくださったことを心から喜びながら、取税人仲間とともにイエス様を自宅に招き、食事を楽しみました。シモンとイエス様の間にはそのような関係がなかったのです。どうしてでしょうか。

 イエス様が多くの個所でパリサイ人たちに指摘しているのは、彼らが自分の行いによって救われていると考えていたことです。自分の努力と自分の行いによって救われるべき存在であると考えていたことです。そのような彼らに、バプテスマのヨハネもイエス様も、自分の罪を悔い改めよと語ったのです。

 シモンの抱えていた問題は、二つのことが見えていなかったことです。一つは自分の心や行いや言葉が、どんなに罪と自己中心によって染まっているかということ。もう一つは、そのような問題を抱えた私たちをキリストは悔い改めとともに赦して、愛そうとしておられるかということ。シモンには見えていなかったのです。自分の罪に満ちた考え方、自分の抱えている問題、弱さ。そして神様の働きかけ、慰め、忍耐が。

 パリサイ人は、イエス様に難しい質問を投げかけて困らせようとすることがよくありました。あるいは、このシモンも同じようなことをしようとしたのかもしれません。つまり、「どうか一緒に食事に来てください」と招いておきながら、失礼な態度でイエス様を対応する。そうすれば、いつも偉そうに人々に教えているあのイエスも化けの皮がはがれて、怒りに任せて失言をするかもしれない、と。

 人間は神様を試そうとします。人間の問題は、神様に愛されていることが分からず、そして自分の罪の問題に無自覚であるということです。盲目なのに、盲目であることに気が付けません。神様が私たちの目を開いてくださるのはどんな方法なのでしょうか。神様の愛に気が付かせてくださるようにと、私たちは祈る必要があります。

 

2.ある「罪深い女」の涙:救い主イエス様との出会い

 さて、パリサイ人シモンがイエス様にその高慢で曇った目を開けられる瞬間は、急に訪れました。そこに一人の女性が現れたからでした。彼女は、シモンによってこの宴に招かれた正式な客ではありませんでした。むしろ、パイリサイ人シモンが絶対に食事に招かないような女性でした。聖書が「罪深い女」と表現しているのは、彼女が売春婦として知られていたからでした。彼女は何のためにここにやって来たのでしょうか。737にはこう書かれてあります。「すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきた。」おそらく彼女は、噂の有名な先生がこの街にやってきていると聞いて、それでやって来たのでしょう。娯楽の少ない時代でしたから、街に有名人がやってくるなら少し見に行ってみようというのは一般的な反応だったことでしょう。彼女が持ってきた香油はイエス様へのささやかな贈り物だったはずです。目立たないようにそっと家の中に入り、贈り物をわたし、この有名な先生に少しだけ気に留めてもらえたら、とそんなことを考えていたのでしょうか。

 しかし、彼女はそこで溢れるほどに涙を流し、その涙でイエス様の足を濡らし、自らの髪の毛で拭い、足に口づけして、その足に香油を塗ったのでした。何か唐突な出来事で、読者は驚きます。彼女がシモンの家に入った時には、そのような大胆な行動にでるつもりではなかったのではないでしょうか。なぜなら、彼女は町の人なら知らない人はいない「罪深い女(売春婦)」だったからでした。それが、イエス様のそばで時を過ごし、彼の話している言葉を聞いているうちに彼女はイエス様の言葉に応答せずにはいられないという気持ちになったのでした。それは何年も福音を聞きながら反応しなかった人が、ある日神様の愛と赦しに気が付いて、洗礼を受けたいのですと告白する日のようなできごとではなかったでしょうか。彼女はもはや人目もはばかる余裕もなく、この偉大な預言者イエス様への思いを表さずにはいられなかったのでした。彼女の涙は自分の罪の問題を悔い改める涙であり、注がれた香油は神様への愛の証だったことでしょう。キリストとの出会いが、彼女の心を新しく作り替えた瞬間だったのではないでしょうか。神様の愛と赦しによってあふれ出した彼女の涙は、シモンが洗わなかったイエス様の足を洗い、さらには自らの髪の毛で拭われ、香り豊かな香油によって飾られたのでした。部屋の中は彼女の注いだ香油の香ばしい香りでいっぱいになったことでしょう。

 

 ここに大きな対比が生まれます。自分のような人間は神様に愛されるにふさわしくない人間だと思っていた彼女の目が開かれ、大胆に神様に近づく人となりました。一方でパイリサイ人のシモンは、そんな彼女の姿を見て軽蔑し、それだけでなく罪深い女にされるがままのイエス様のことをも試すように見つめているのでした。なぜなら、自分は正しい人間なので、神の愛と赦しが必要だとは考えていなかったからです。シモンは心の中でこう思っていました。「この人がもし預言者だったら、自分に触っている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」。これが彼の抱えていた罪の性質の表れでした。自己正当化と他者の軽蔑です。彼は、神様の前に心から悔い改めて涙を流す人を見て、こんな冷たい思いを抱いていたのでした。シモンは、これまでどんな挑発にも動じなかったイエス様にやきもきしながら過ごしていたので、この女性の登場に新しいチャンスを見出したのでしょう。この女がどんな女性であるか、預言者イエス先生は見破れるかどうか、お手並み拝見と行きましょう、と。

 

3.神に罪を赦されているから、神を愛して生きる

 イエス様はシモンがそんなことを考えていたその瞬間に、彼に力強く詰め寄ったのでした。「シモン、あなたに言いたいことがあります。」イエス様にこう詰め寄られて、どきりとしたのではないでしょうか。

 イエス様はシンプルなたとえ話を話されました。五百デナリを借りた人と、五十デナリを借りた人がいました。1デナリは当時の一日分の賃金とありますので、計算しやすくするため500万円と50万円と読み替えてみましょう。500万円借りた人も50万円借りた人も、どちらも借りたお金を返すことが出来なかったところ、金貸しは二人の借金を帳消しにしてあげた。それではどちらの人が、この赦してくれた金貸しを多くあいするか、と。

 聖書学者のシモンはこういった論理的な質問には正確に答えないわけにはいきません。500万円と50万円、どちらの人がより多く金貸しを愛するか。それは当然500万円赦された人です。つまり、たくさん赦してもらった人が、たくさん愛するでしょう、と。この彼自身の答えが彼の抱えていた心の問題を明らかにしていきます。

 イエス様は言われました。「その通りだよ、シモン。あなたの判断は正しい」。こうして、「より赦されたものがより多く愛する」という原則に照らして、このパリサイ人シモンの自分を正しいと思っている振る舞いと、この女性の素直な悔い改めと感謝の行為とを考えるように促したのでした。4450節をもう一度読みます。「それから彼女の方を向き、シモンに言われた。『この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来た時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足を濡らし、自分の髪の毛で拭ってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女はわたしが入って来た時から、私の足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれました。ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ないものは、愛することも少ないのです。』そして彼女に、『あなたの罪は赦されています』と言われた。すると、ともに食卓についていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。『罪を赦すことさえするこの人はいったい誰なのか。』イエスは彼女に言われた『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。』」

 シモンは、悔い改めと感謝の涙を流して感極まっている彼女を軽蔑していたかもしれません。汚れた女が涙を流して喜んでいる。それで何になるのか、と。しかし、イエス様は彼の霊の目をこじ開けようとしました。彼女がどうしてこれほどに喜び、私への尊敬と愛を示してくれているかが分かりますか。彼女の多くの罪が今確かに神によって赦されているからです。注意したいのは、彼女の行いが彼女を救ったのではありません。そうではなく、彼女のこのような愛の行為は、彼女が確かに神に救われているということを証しているということです。その点を間違わないように、イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのだよ」と教えられたのでした。彼女はこれから、罪の悔い改めにふさわしい、新しい生き方を神様とともに始めていくことになります。

 対照的なのはこのシモンです。救い主イエス・キリストを自分の家にお招きしたのに、その心には真実な喜びも、感謝も愛も尊敬もありませんでした。むしろ、神の力を試してみようと心の中で計算していました。なんと空しい時間でしょうか。彼は、罪を悔い改めて神様に応答する女性を見ても、ただ静かに軽蔑するだけでした。シモンには、「多く赦された者は多く愛する」という真理の逆が当てはまります。「赦されることの少ないものは、愛することも少ないのです」。

彼に赦される必要がなかったというのではありません。彼は、神様の前に自分の罪を認めることが出来ていなかったのです。自分のこれまでの生き方を誇り、自分の努力でプライドを固め、自分で自分は正しいと思っていました。それゆえに、自分の罪を神様の前に差し出して悔い改めることが出来ていませんでした。イエス様は単純な真理を示されました。あなたが私を愛していない理由は明らかです。あなたは自分が正しいと思っていて、神の赦しを受け取っていないからです、と。

むすび.キリストの赦しと愛に気が付き、神を愛して生きる人に

 イエス様は、私たちが見るこの世界を、私たちと同じようには見ていないということが分かります。人々はいかにも正しいパリサイ人のシモンの外側を見、そして罪深い女として知られていた彼女を皆が遠目に見ていたことでしょう。しかし、イエス様は彼女こそ罪赦された神の子どもであり、シモンの方が目の見えていない盲目の罪人だと言われたのです。イエス様が今私たち一人一人の前に来られたなら、私たちのことをどのようにみられるでしょうか。

 今日の個所の出来事は、パリサイ人が極悪人で、この女性が善人だったという話ではありません。シモンも女性も、そしてここにいる私たち一人ひとりも、みんなが神様に罪という大借金を赦されなければどうしようもない存在なのです。イエス様はパリサイ人だからというので彼の罪を赦したのでなく、また彼女が罪深い仕事についていたということで彼女を拒絶したのでもありません。キリストは、すべての人の心のうちに罪の問題を見出されます。私たちの抱えている自己正当化、他者を見下げる心、愛そうとしても愛せない苦しみ、正しく生きられない悲しみを見つめておられます。そして、罪を悔い改めたその人の心を内側から作り変えて、神とともに、神を愛して生きる人生へと招こうとしておられるのです。

 私たちに必要なのは、その問題を一つずつ神様に委ねていくことではないでしょうか。神様との関係も、人との関係も、自己正当化を捨て、自分の問題を謙遜に差し出していくことのほかにはありません。そしてどんなに醜い罪の心を持っていても、キリストは大きな心で罪を赦してくださり、そして私たちの心を豊かな愛で満たしてくださるのです。多くを赦された者は、多く愛するようになるからです。神様の前に自分の虚しさ、足りなさ、愛のなさを告白しながら、その悔い改めを通して愛する者に変えられていく恵みを、ともに受け取りたいと思います。

 

202469日主日礼拝説教

聖書箇所: ルカの福音書73650

「多くの罪を赦されたので」

序.生活の中で、神に愛されていることに気が付くこと

1.パリサイ人シモンがイエスを自宅に招く:彼の心の問題

2.ある「罪深い女」の涙:救い主イエス様との出会い

3.神に罪を赦されているから、神を愛して生きる

むすび.キリストの赦しと愛に気が付き、神を愛して生きる人に

 

 

Sermão de Adoração Dominical, 9 de junho de 2024

Escritura: 7:36-50 Lucas 7:50

Porque eu lhes perdoei muitos pecados”.

Introdução. Perceber que Deus o ama na vida.

 Agora tenho um filho de zero ano de idade. Ao observar atentamente a criação de meu filho, sou levado a pensar profundamente sobre as coisas que deixam o coração humano triste e as que o deixam feliz. Quer você tenha criado filhos ou não, quando é que as crianças choram? O quanto você consegue pensar?

 Elas choram quando estão com fome. Choram quando precisam trocar a fralda. Quando está quente, elas choram. Choram quando querem dormir, mas não conseguem. Chora à noite. Em que outros momentos ela chora? Gostaria de saber de suas experiências.

 Enquanto eu criava meus filhos, havia duas coisas que eu achava interessantes para explicar por que eles não tinham filhos. Uma delas é que as crianças choram quando os pais não estão por perto. A proximidade dos pais é determinada pela distância que eles têm à medida que crescem, mas, em nossa família, eles começam a chorar quando estão a cerca de dois metros de distância, mesmo que possam vê-los. Como a mente humana é sensível à solidão. Há coisas que só podem ser preenchidas quando passamos tempo juntos fisicamente. Deus criou a mente e o corpo dessa forma, como algo que não pode viver sem que os seres humanos precisem de alguém para estar uns com os outros, para amar e ser amados.

 Outra coisa é que choramos quando estamos entediados. As crianças se interessam por muitas coisas, mas logo ficam entediadas. Se uma criança que está entediada for contida à força, ela começará a chorar violentamente. Cada criança se interessa por coisas diferentes, mas toda criança tem coisas que a interessam, coisas que a interessam e objetos de que gosta. Se elas continuarem a ser expostas às coisas de que gostam de forma divertida, a brincadeira se transforma em aprendizado e elas se tornam boas nisso. Deus deu a cada um de nós uma curiosidade única e equipou nossas mentes para nos tornarmos algo neste mundo. Se um bebê não tivesse interesse em nada, não tivesse curiosidade sobre nada, ninguém teria aprendido ou seria capaz de fazer nada. Nossas mentes receberam o poder de se interessar por algo neste mundo, de aprender sobre isso e de desfrutar disso.

 Para amar e ser amado pelos outros. E para nos interessarmos, aprendermos e sermos úteis para o que existe neste mundo. Fico impressionado com o fato de a maravilhosa sabedoria de Deus ser derramada em abundância para todas as pessoas. Fico impressionado com o fato de que as décadas que passei crescendo, aprendendo, trabalhando e vivendo, tendo isso como certo, foram repletas da sabedoria de Deus.

 Temos tanto amor, graça e misericórdia que Deus nos oferece como algo natural. Ter nossos olhos abertos para o fato de que Deus nos ama é uma experiência que muda nossa maneira de ser. Ver que a graça era graça. É perceber que existe Alguém que me ama, quando eu achava que não tinha nada. Deus nos dá a oportunidade de perceber seu amor por nós de muitas maneiras diferentes. Na passagem que lemos hoje, vemos como uma mulher, cujo nome não é mencionado, tomou conhecimento do amor de Deus e ficou impressionada.

 

1. o fariseu Simão convida Jesus para entrar em sua casa: o problema de seu coração.

 Antes de começarmos, vamos dar uma olhada em outro personagem. Seu nome era Simão e ele era fariseu. Esse homem é diferente de Simão Pedro, um discípulo de Jesus. De forma incomum para Jesus, ele foi convidado por esse Simão, o fariseu, para jantar em sua casa. Os fariseus eram os especialistas bíblicos da época, que ensinavam as pessoas a amar e viver de acordo com Deus. Muitos fariseus não estavam satisfeitos com o novo mestre, Jesus, que de repente havia se tornado muito popular, e tinham inveja, ódio e hostilidade contra ele. No entanto, havia alguns entre eles que, como Simão, queriam se aproximar de Jesus.

 Mas qual era o propósito de Simão ao convidar Jesus para sua casa? Faço essa pergunta porque sua atitude não parecia ser a de alguém que convida um hóspede importante para sua casa. Simão convidou Jesus para comer com ele. Mas, como Jesus lhe disse mais tarde, ele não lavou os pés de Jesus quando o convidou, nem lhe deu um beijo de boas-vindas, nem ungiu sua cabeça com azeite de oliva como um gesto de hospitalidade. Até que ponto a recepção de Simão foi rude, considerando a hospitalidade geral da época, é uma questão de debate, mas o que Jesus certamente está tentando dizer é que não houve respeito ou amor em sua resposta. Simão era um homem que, na verdade, deveria ter recebido o Salvador em sua casa com alegria genuína. Mas ele não o fez. Ele não podia. Porque, aos seus olhos, a pessoa de Jesus era um objeto de interesse, mas não de respeito ou amor. Uma pessoa que recebeu Jesus com verdadeiro amor foi Zaqueu. Ele e seus companheiros cobradores de impostos convidaram Jesus para sua casa e desfrutaram de uma refeição juntos, regozijando-se com o perdão do Salvador para seus pecados. Não houve tal relacionamento entre Simão e Jesus. Por que isso acontece?

 Jesus aponta para os fariseus em muitos lugares que eles pensavam que eram salvos por suas próprias obras. Eles achavam que deveriam ser salvos por seus próprios esforços e obras. Para eles, tanto João Batista quanto Jesus lhes disseram para se arrependerem de seus pecados.

 O problema que Simão tinha era que ele não enxergava duas coisas. Uma delas era o quanto seu coração, seus atos e suas palavras estavam manchados pelo pecado e pelo egocentrismo. A segunda é se Cristo está disposto a perdoar e a nos amar com arrependimento, mesmo que tenhamos esses problemas. Simão não viu isso. Sua própria maneira pecaminosa de pensar, seus próprios problemas e fraquezas. E a obra, o conforto e a paciência de Deus.

 Os fariseus sempre tentavam constranger Jesus fazendo-lhe perguntas difíceis. Ou talvez esse Simão tenha tentado fazer o mesmo. Em outras palavras, ele convidava Jesus para vir e comer com ele, mas depois respondia a ele de maneira rude. Então, aquele Jesus, que está sempre ensinando as pessoas de forma grandiosa, poderia perder o disfarce e falar coisas sem sentido com raiva.

 O homem tenta testar Deus. O problema do homem é que ele não sabe que Deus o ama e não está ciente de seu problema com o pecado. Somos cegos, mas não nos damos conta de que somos cegos. De que forma Deus pode abrir nossos olhos? Precisamos orar para que Deus nos torne conscientes de Seu amor.

 

2. As lágrimas de uma “mulher pecadora”: um encontro com Jesus, o Salvador.

 Agora, o momento em que Simão, o fariseu, teve seus olhos orgulhosos e nublados abertos por Jesus aconteceu de repente. Foi porque uma mulher apareceu para ele. Ela não era uma convidada oficial de Simão para esse banquete. Em vez disso, ela era o tipo de mulher que Simão, o fariseu, jamais convidaria para uma refeição. A Bíblia a descreve como uma “mulher pecadora” porque era conhecida como prostituta. Lemos em 7:37 que ela veio aqui para quê. "E eis que havia na cidade uma mulher pecadora. Havia naquela cidade uma mulher pecadora, que sabia que Jesus estava à mesa na casa de um fariseu, e trouxe um frasco de gesso com óleo perfumado." Talvez ela tenha ouvido falar que o famoso mestre estava chegando à cidade, e por isso veio. Era uma época em que o entretenimento era escasso, portanto, uma reação comum teria sido ir dar uma olhada se uma pessoa famosa estava chegando à cidade. O óleo perfumado que ela trouxe teria sido um pequeno presente para Jesus. Eu me pergunto se ela estava pensando que poderia entrar discreta e silenciosamente na casa, dar o presente e esperar que esse famoso professor prestasse um pouco de atenção nela.

 

 Mas ali ela chorou até transbordar lágrimas, molhou os pés de Jesus com elas, enxugou-os com seus próprios cabelos, beijou seus pés e os ungiu com óleo perfumado. Trata-se de um acontecimento abrupto, que surpreende o leitor. Quando ela entrou na casa de Simão, provavelmente não tinha a intenção de dar um passo tão ousado. Porque ela era uma “mulher pecadora” (prostituta) que não era estranha à cidade. Mas, ao passar um tempo com Jesus e ouvir as palavras que ele dizia, ela se sentiu compelida a responder às palavras dele. Foi como o dia em que alguém que tinha ouvido o evangelho por anos, mas não tinha respondido, um dia percebeu o amor e o perdão de Deus e confessou que queria ser batizada. Ela não podia mais se dar ao luxo de ficar isolada e não pôde deixar de expressar seus sentimentos por esse grande profeta Jesus. Suas lágrimas teriam sido lágrimas de arrependimento por seu problema com o pecado, e o óleo perfumado com o qual ela foi ungida teria sido um sinal de seu amor por Deus. O encontro com Cristo deve ter sido o momento que renovou seu coração. Suas lágrimas, transbordando com o amor e o perdão de Deus, lavaram os pés de Jesus, que Simão não havia lavado, e foram até mesmo enxugados com seus próprios cabelos, que foram então adornados com óleo perfumado. A sala teria se enchido com o cheiro do óleo perfumado que ela derramou.

 

 Aqui surge um grande contraste. Seus olhos se abriram e ela se tornou uma pessoa que se aproximava de Deus com ousadia, quando pensava que pessoas como ela não eram dignas de serem amadas por Deus. Simão, o fariseu, por outro lado, olha para ela e a despreza, e não apenas isso, ele também olha para Jesus como se o estivesse testando, como se ele fosse uma mulher pecadora. Ele não achava que precisava do amor e do perdão de Deus, porque era um homem justo. Simão estava pensando em seu coração. Se esse homem fosse um profeta, saberia quem e que tipo de mulher o está tocando. Essa mulher é pecadora". Essa era uma expressão da natureza pecaminosa que ele carregava. É a autojustificação e o desprezo pelos outros. Ele tinha esse sentimento frio quando via alguém que se arrependia sinceramente e chorava diante de Deus. Simão deve ter visto uma nova oportunidade na aparição dessa mulher, pois ele havia passado o tempo todo com inveja de Jesus, que até então não havia se comovido com nenhuma provocação. Vamos ver se o profeta Jesus consegue descobrir que tipo de mulher ela é, pensou ele.

 

3. vivendo em amor com Deus porque Deus perdoou seus pecados

 No exato momento em que Simão estava pensando nisso, Jesus se aproximou dele com força. Simão, tenho algo a lhe dizer. Você deve ter ficado emocionado ao ser confrontado por Jesus dessa maneira.

 Jesus contou uma parábola simples. Um homem pediu emprestado 500 denários e outro 50 denários. 1 denário era o salário de um dia naquela época, portanto, para facilitar o cálculo, vamos ler 5 milhões e 500.000 ienes. perdoou as dívidas de ambos. A questão então é: qual deles amará mais o agiota por tê-lo perdoado?

 O estudioso bíblico Simon não pode deixar de responder corretamente a essa pergunta lógica: qual pessoa amaria mais o agiota, cinco milhões de ienes ou meio milhão de ienes? É claro que é a pessoa que recebeu o perdão de cinco milhões. Em outras palavras, a pessoa que foi muito perdoada amará muito, disse ele. Sua própria resposta revela o problema cardíaco que ele tinha.

 Jesus disse. "Está certo, Simão. Seu julgamento é correto". Assim, à luz do princípio de que quem é mais perdoado ama mais, ele pediu a esse fariseu Simão que considerasse seu comportamento justo e o ato honesto de arrependimento e ação de graças da mulher. "Então, voltando-se para ela, disse a Simão "Você viu este homem? Quando entrei em sua casa, você não me deu água para lavar os pés, mas ela molhou meus pés com suas lágrimas e os enxugou com seus cabelos. O senhor não me beijou na boca, mas ela não parou de beijar os meus pés desde o momento em que entrei. Vocês não ungiram a minha cabeça com azeite de oliva, mas ela ungiu os meus pés com óleo perfumado. Portanto, eu lhes digo. Ela foi perdoada de muitos pecados. Porque muito amou. Porque o pouco perdoado é também pouco amado". E ele lhe disse: “Seus pecados estão perdoados”. Então os que estavam juntos à mesa começaram a dizer entre si Quem é este homem que até perdoa pecados? Jesus disse a ela: 'Sua fé a salvou. Vá em paz.

 Simão pode ter desprezado a mulher, que foi levada às lágrimas de arrependimento e ação de graças. A mulher impura está chorando e se alegrando. De que adiantaria isso, ele se perguntava. Mas Jesus tentou abrir os olhos de seu espírito. Está vendo por que ela está tão alegre e demonstra tanto respeito e amor por mim? Porque seus muitos pecados estão agora certamente perdoados por Deus. É importante observar que não foram seus atos que a salvaram. Em vez disso, são esses atos de amor que atestam que ela é de fato salva por Deus. Não se engane, Jesus lhe ensinou que “sua fé o salvou”. Ela agora começará um novo estilo de vida com Deus, digno de arrependimento pelo pecado.

 Em contraste com isso está Simão. Ele convidou o Salvador Jesus Cristo para sua casa, mas não havia verdadeira alegria, gratidão, amor ou respeito em seu coração. Em vez disso, ele estava calculando em seu coração para testar o poder de Deus. Que tempo vazio! Quando ele viu uma mulher se arrependendo de seus pecados e respondendo a Deus, ele só pôde desprezá-la silenciosamente. O oposto da verdade se aplica a Simão: “Quem muito perdoa, muito ama”. Aquele que perdoa pouco, ama pouco.

Isso não quer dizer que ele não precisasse ser perdoado. É que ele não havia reconhecido seus pecados diante de Deus. Ele se orgulhava da maneira como tinha vivido sua vida até então, fortaleceu seu orgulho com seus próprios esforços e achava que estava certo. Portanto, ele não conseguia apresentar seus pecados a Deus e se arrepender deles. Jesus me mostrou uma verdade simples: Eu não sou escravo de vocês. A razão pela qual vocês não Me amam é óbvia. Você acha que é justo e não recebeu o perdão de Deus.

Conclusão. Para aqueles que compreendem o perdão e o amor de Cristo e vivem em amor com Deus.

 Está claro que Jesus não vê este mundo como nós o vemos. Como as pessoas teriam olhado para fora de Simão, o fariseu justo, e como todos teriam olhado para ela à distância, pois ela era conhecida como uma mulher pecadora. Mas Jesus disse que ela era a filha de Deus cujos pecados foram perdoados, e que Simão era o pecador cego que estava cego. Se Jesus viesse a cada um de nós agora, como ele nos veria?

 Os eventos da passagem de hoje não se referem ao fariseu como um vilão diabólico e a essa mulher como uma boa pessoa. Simão, a mulher e cada um de nós aqui estamos todos desamparados sem o perdão de Deus da grande dívida do pecado. Jesus não perdoou seus pecados porque ele era fariseu, nem a rejeitou porque ela tinha um emprego pecaminoso. Cristo vê o problema do pecado no coração de cada pessoa. Ele vê a autojustificação que carregamos, o desprezo pelos outros, a dor de tentar amar, mas não amar, a tristeza de não viver corretamente. Ele quer remodelar o coração da pessoa que se arrependeu do pecado por dentro e convidá-la a viver com Deus e a amá-Lo.

 O que precisamos fazer é entregar os problemas a Deus, um por um. Em nosso relacionamento com Deus e com os outros, não há mais nada a fazer a não ser abandonar a autojustificação e oferecer humildemente nossos problemas. E não importa o quão feio seja nosso coração pecaminoso, Cristo perdoa nossos pecados com um grande coração e depois enche nosso coração com amor abundante. Pois aquele que muito perdoou, muito amará. Queremos receber juntos a graça de sermos transformados naqueles que amam por meio de seu arrependimento, confessando nosso vazio, nossa carência e nossa falta de amor diante de Deus.

 

Sermão de adoração de domingo, 9 de junho de 2024

Escritura: 7:36-50 Lucas 7:36

Porque eu lhes perdoei muitos pecados”.

Introdução. Percebendo que Deus nos ama em nossas vidas.

1. O fariseu Simão convida Jesus para entrar em sua casa: o problema de seu coração.

2. as lágrimas de uma “mulher pecadora”: o encontro com Jesus, o Salvador

3Viver em amor com Deus porque Deus perdoou seus pecados

Conclusão . Uma pessoa percebe o perdão e o amor de Cristo e vive em amor com Deus