2024年11月10日成長感謝礼拝説教 エペソ人への手紙6:1~4

 20241110日成長感謝礼拝説教

エペソ人への手紙6:1~4

『主にあって、子どもたちよ、父たちよ。』

序.子どもとして親として

 本日は成長感謝礼拝です。神様がこの知多シオン・キリスト教会に子どもたちの存在を与えてくださっていることに感謝したいと思います。また彼らの成長のために必要なものを神様が備えてくださり、これからも心と体を育んでくださることを祈り願いたいと思います。

 今日はこの日の説教のためにエペソ書の6章を選びました。この個所は前後の文脈の中で、いくつかの対比的な関係性がどのような点に特に留意して育む必要上がるかを列挙している個所です。直前の5章はよく結婚式で読まれる個所でもありますが、夫と妻の関係性を教えています。5:33「あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」これに続くのが今日の個所で子どもたちと両親の関係です。そのあとには5節から奴隷と主人の関係性に触れていきます。聖書は、私たちが神様の言葉に従う時に、実際にはどのような点に注意して実践されるべきであるかについてもガイドを与えてくれています。「隣人を愛するべきだ」ということを知っていれば、その知識があるだけで愛する人になれるわけではありません。ある種の関係には、独特の注意が必要であり、特別な配慮が必要となります。今日は特に両親と子供たちという点に着目して神様の視点を学びたいと思います。また、これを単に「子育て」という視点だけで見るのではなく、すべての命あるものが持っている「親子」という関係性がどのようなものとして神様から私たちに与えられているのかを改めて考え直したいと思います。誰も、親を持たずに生まれた人はいません。生まれたからには親がいます。自分の親との関係、また自分の子どもとの関係を神様の御前に喜ばれるものに作り替えていくための指針を学ぶことができたらと思います。

1.子どもたちが両親に従うこと

・神様の創造された好ましい秩序

 まず確認する原則は、子どもたちが両親に従うということです。神様は「これは正しいこと」とし、さらに「あなたの父と母を敬え」という戒めには祝福の約束が伴っていることもパウロは強調しています。「子どもが両親に従うのは正しいことであり、父と母を敬うことは神様の祝福が伴う」。これは、夫と妻が互いに愛し合うことは正しいことであり、それは神様の喜ばれることであるというのと同じくらい、適切なものです。神様が親と子の関係をそのようにあるべきものとしてお造りになったからです。

 親子の関係を考えるとき、まず神様がこのような関係をどのようなものとして創造されたのか、はじめられたのかを考えましょう。子どもは両親の考え方や生き方、お互いのかかわり方や暮らし方を通して、この世界がどのような場所であり、人と人がどのように愛し合って生きていくのかを学ぶようにされました。

 聖書が「従いなさい」というまでもなく、子どもの生活のほとんどの部分は両親に従うことで成り立っています。その生活全体が両親にかかっており、両親に依存しています。そして、もし両親が神様に望まれるようなやり方で子どもたちを愛し育てていくなら、子どもたちのうちにも従うことを喜ぶ感覚も同時に育っていきます。「父と母を敬え」という命令は、命令されたから敬えるという種類のものではありません。しかし、かつては小さな子どもであった存在として、皆さんも両親を敬いたいという心を自分の深い感情として持っていたことを自覚しているのではないでしょうか。子どもは親を尊敬したい、愛したい、愛されたい、従いたいという思いを持っています。もちろん、子どものうちにも自己中心な罪の性質がありますから、その思いは多分にわがままであり、「自分が思うような理想の親であってほしい」という要素も含まれています。しかし、そのような罪の要素が混じっているにしても、子どもの心のうちには親に従うことの喜びや平安、親を心から尊敬して生きていくことができる幸福というものを感じらえるように、神様はお造りになっています。

 そのようなことを考えるとき、従われる存在としての親の責務と影響力は大変大きなものとなります。イエス・キリストは父なる神様のことを「父」という呼び名で呼ばれました。このことは、愛し愛される関係において、親と子の関係が非常に重要なパターンであることを示しています。最も理想的な父と子の関係は、父なる神様と子なるキリストの愛と従順の関係に現れているといえるでしょう。

・両親にも罪があるという課題

 しかし、実際の両親には、罪の問題がはらんでいます。どんなに頑張っても、親の愛には欠けているところがあります。知識において、忍耐において、情緒において、一貫性において、柔軟性において、様々な面で欠けがあります。それはどの親もそうです。それでは、罪の問題を抱えている両親に従うという時、この聖書の言葉はどんな時でもあらゆる事柄において、両親の言うことに絶対に服従しなくてはならないということなのでしょうか。当然、そうではない場合があることを考える必要があります。この6:1の言葉は、これだけを切り取って「神様がこう言っているのだから、お前は両親の命令に絶対服従すべきだ」と指導するための言葉ではありません。直前の夫と妻についての愛し合うことや敬うことの関係性は、その模範として、キリストが教会を愛し、教会がキリストに従うようにというものがあるのです。すなわち、この言葉の背景には、神様が私を愛してくださったようにとか、私が神様に従うように、という信仰の生き方があるからです。これと同様に、子どもたちが両親に従うのは、すべての人が神様に従うことがふさわしいように、主にあって両親に従うことは神様に喜ばれることだから、です。もし両親が神様の前に喜ばれないこと、間違ったこと、自分勝手で、罪に進むようなことを命じたとしたならば、その子どもは主にあって、両親に従うことを拒否しなくてはなりません。

・信仰によって「親を敬う」生き方に取り組めるという希望

 また、自分の両親が、クリスチャンであるかないかにかかわらず、はなはだしく神様の御心から離れた育て方や生き方をする親であった場合、この言葉は大きな束縛のように感じるかもしれません。しかし、この言葉をそのように読むべきではないということをお話ししたいと思います。皆さんにとって、「復讐してはいけません」とか「あなたの敵を愛しなさい」とかいった聖書の言葉は、あなたの自由を取り上げる束縛として聞こえるでしょうか。そうではないと思います。(そうではないといいと願います。)私たちの罪の性質は、放っておくと罪には罪でやり返せ。敵対的な奴には敵対心でやり返せと促します。そうして、罪のそそのかすままに自由にふるまった結果どうなるかといえば、争いと分裂と孤独と虚しさに陥るのです。罪というのは、自分のやりたいようにやった結果として自分が願っていないようなところにたどり着かせる力なのです。だから、聖書は生まれながらの人間のことを「罪の奴隷」と表現するのです。最終的には、望まない不幸せにたどり着く生き方しかできない哀れな存在だからです。しかし、親がどのような人であれ、神の子どもとされた子どもたちは、このような「やられたらやり返すしかない生き方」から救い出されたものたちなのです。自分が罪の奴隷であるだけでなく、両親も罪の奴隷としての弱さと苦しみを抱えた人であることを理解できる存在となったのです。そのようにして、子どもとして信仰を受けた人は、子でありながらより成熟した視点で両親を見つめ、憐れみと同情をもって親のことを見ることができるようになります。これは、一見すると非常に困難な考えのように思われますが、実際には希望であり救いでもあるのです。神様の命令は、私たちを束縛するものではありません。その意味と価値を理解して、自分で選び取って進んでいくならば、そこには自由があり喜びがあり、平安があります。罪びととしての親を受け入れるというのは大変な労苦ですが、しかしそこには人としての深い成熟があり、またそこにしか和解の道筋は通っていないのではないでしょうか。苦しい束縛としての命令ではなく、希望の筋道としての神様の言葉を心にとめることができれば幸いです。

2.父たちよ(親たちよ)

・怒らせてはいけません:ひとりの人格的存在として個人の感情と選択を尊重する

 そして重要なもう一つの命令は4節です。「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」この短い言葉は、子どもを育てる際の非常に重要なバランス感覚が両親に要求されていることをはっきりと示しています。

第一に「自分の子どもたちを怒らせてはいけません」という言葉は、教育が子どもの感情面、人格面での配慮を常に必要としていることを確認させています。これは、子どもが怒ったらその教育は間違っているなどと極端にとるべきではありません。そうではなく、子どもが怒りを爆発させて叫び散らしたり泣きはらしたりするような、過酷な教え方をしてはいけないということです。あるいは、子どもが怒りをため込んで、憎しみで心を満たしてしまうような、無配慮なことをしてはいけないということです。今、自分の子どもを育てながら、子どもという存在はなんとか弱くて、その命は親に依存していることだろうと実感しています。肉体的にも精神的にも金銭的にも時間的にも、あらゆる領域で子どもは親に頼っています。もし親が子供にご飯を与えなければ、子どもにとっては世界から食べ物が消えたのと同じことになります。親は、幼い子供にとっては世界そのものです。ですから、親は子どもに不安や恐怖、拒絶や孤独を与えないように、最大限配慮する必要があります。

また、「怒らせない」という言葉には、子どもをひとりの人格的存在として尊重するという意味が含まれています。過剰に心配するあまり、子どもが自分で選び取る機会を奪ったり、先回りしてお世話したりすることも子どもを苦しめます。一方で、なんでもやりたいようにやらせて、子どもの人生なのだから私は知りませんと放置するのも違います。子どもは、親の都合で振り回される存在ではありませんが、さりとて一人で生きていける独立した存在でもありません。人格的交わりというのは、常に変化していくその人の心と体を、お互いに大切に取り扱うということです。子ども怒らせないということの積極的な言いかえは、子どもをひとりの人格的存在として愛するとういことです。子どもの肉体的・精神的な欲求に応えつつ、一貫性と柔軟性をもって愛を示すこと。それは、私たちが「互いに愛し合いなさい」という神様の命令を実践するときと全く同じやり方です。しゃくし定規に、これをやっていれば愛していることになる、というものはありません。

・主の「教育と訓戒」は必要

そして同時に「主の教育と訓戒によって育てる」という必要を、聖書は確実に教えています。聖書は全体として、人間に教育と訓戒が必要であることを明白に教えています。とりわけ「訓戒」という言葉にはあまりいい印象を持たないひとも多いのではないかと思います。訓戒が必要か否かというテーマについては、私たちはその時代の文化に非常に大きな影響を受けています。家庭における教育、学校における教育、その理解と実践には各々の時代において、大きな幅があります。それはまるで大きな振り子のように揺れていて、ある時代には厳しい訓戒が有益だと謳われ、その後の時代には自由と共感が謳われ、それに続いて再び効果的な指導の必要が模索されていきます。どの時代にも、前の時代の実践に対する反省があり、それを踏まえたうえでかえってその逆の極端に走ってしまうという傾向があります。聖書が教えているのは、確かにその両極端に走ることがないようにと言う適切なアドバイスを保っています。すなわち、「自分たちの子どもたちを怒らせてはいけません。」と「むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」という二つの指針です。神様の言葉に心から従って生きる生き方を教えるためには、放っておけばいい、本人がやりたいと思った時だけ進めればいい、つまり教育や訓戒は必要がないという考えは間違っています。すべての人の心は、子どもも大人も罪につながれており、放置しておけば勝手に神様の方に向かうということはないからです。むしろ、あなたがキリストにつながれた親であるなら、あなたの子どもたちは「主の教育と訓戒によって育てられる」という恵みを受けるように、神様が祝福しようとしておられるのです。その祝福を、親が勝手に奪い取ってはいけません。

しかし同時に、この教育と訓戒は、子ども自身の人格を無視し、感情を踏みにじり、強制的な命令によって無理やりなにかを叩きこむということとは全く違います。あるいは、子どもたちに神様を信じさせなくてはいけないということとも違っています。私たちは、大人であれ子供であれ、どんな人にでも、神様を信じる信仰を強制することは出来ません。その素晴らしさを伝え、共に神様を見上げる生き方へと招くことは出来ますが、信仰を強制することは出来ません。信仰の強制は、聖書が教えていないことです。コリント人への手紙第二214にはこうあります。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することが出来ないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」

・神が御民を愛しつつ忍耐(譲歩)してくださったように、子どもを愛しつつ忍耐する

それでは、どのようにして、クリスチャンの親は主の教育と訓戒によって子どもたちを育てることが出来るのでしょうか。それは、神様が神の民を扱ってくださったように、私たちも自分たちの子どもを取り扱うということです。それは子どもが親の教える訓戒や指導を拒みはねつけたとしても、親がそれに感情的になり、激しく攻撃したりせず、むしろその心の動きを忍耐強く理解しながら関わり続けることではないでしょうか。親が親である故に、そのような反応に対して悲しんでいること、残念に思っていることを伝えるのは間違っていないでしょう。しかし、子どもの人格と個人の決断に対する尊重は、親が立ち入ってはならない領域であることも覚えておく必要があります。神様でさえ、私たちが自分のタイミングで神様のもとに立ち返る時を待ってくださっているのですから、私たちもそれを学ぶ必要があります。

むすび.親との関係、子どもとの関係を、御霊の実がみのる関係にする

以上、エペソ書6章から、主の喜ばれる両親と子どものあり方について見てきました。私たちは主にあって一人一人がこれらの祝福をもたらす神様の言葉に従っていきたいと思います。何よりも、これらの戒めの中心は愛する事であり、同時に自分も相手も罪による歪みがあるという自覚が大切です。夫と妻が愛し合うのと同様に、子が親に従い、親が子を怒らせずに主の教育と訓戒によって育てるということも、神様の愛を受けながら、両方が少しずつ成熟していくことが求められる取り組みです。神様の言葉は、私たちのあらゆる関係が、御霊の実をみのらせるものになるようにと導く指針であることを確認し、それぞれに与えられている親子関係に取り組んでいきたいと思います。

 

 

2024年11月10日成長感謝礼拝説教

エペソ人への手紙6:1~4

『主にあって、子どもたちよ、父たちよ。』

序.子どもとして親として

1.子どもたちが両親に従うこと

・神様の創造された好ましい秩序

・両親にも罪があるという課題

・信仰によって「親を敬う」生き方に取り組めるという希望

2.父たちよ(親たちよ)

・怒らせてはいけません:ひとりの人格的存在として個人の感情と選択を尊重する

・主の「教育と訓戒」は必要

・神が御民を愛しつつ忍耐(譲歩)してくださったように、子どもを愛しつつ忍耐する

むすび.親との関係、子どもとの関係を、御霊の実がみのる関係にする

 

10 de novembro de 2024 Sermão do Culto de Ação de Graças pelo Crescimento

Efésios 6:1-4.

“No Senhor, filhos, pais”.

Introdução. Como filhos, como pais.

Hoje é um culto de ação de graças pelo crescimento. Queremos agradecer a Deus pela presença de crianças aqui na Igreja de Cristo de Chita Zion. Também oramos e esperamos que Deus providencie o que elas precisam para seu crescimento e continue a nutrir suas mentes e corpos.

Escolhi o capítulo 6 do livro de Efésios para o sermão deste dia. Essa passagem lista vários relacionamentos contrastantes que precisam ser nutridos com atenção especial no contexto dos capítulos anterior e posterior. O capítulo 5, que é frequentemente lido em casamentos, ensina o relacionamento entre maridos e esposas: 5:33 “Cada um de vocês ame a sua mulher como a si mesmo. Mulheres, honrem seus próprios maridos”. A isso se segue a passagem de hoje sobre o relacionamento entre os filhos e seus pais. Segue-se o versículo 5, que aborda o relacionamento entre escravos e senhores. A Bíblia também nos dá um guia sobre o que devemos fazer na prática quando obedecemos à palavra de Deus. O fato de sabermos que “devemos amar o nosso próximo” não nos faz amar as pessoas em virtude desse conhecimento. Certos relacionamentos requerem atenção exclusiva e cuidados especiais. Hoje, gostaria de estudar a perspectiva de Deus, especialmente em termos de pais e filhos. Também queremos analisar isso não apenas sob a perspectiva da “paternidade”, mas também reconsiderar o que Deus nos deu em termos do relacionamento entre pais e filhos, que todos os seres vivos têm. Ninguém nasce sem pais. Nós temos pais porque nascemos. Espero que possamos aprender diretrizes para refazer nosso relacionamento com nossos próprios pais e com nossos próprios filhos, transformando-os em algo agradável a Deus.

1. obediência dos filhos a seus pais

A ordem favorável criada por Deus.

O primeiro princípio a ser identificado é que os filhos obedecem aos pais. Deus diz que “isso é certo”, e Paulo também enfatiza que o mandamento de “honrar seu pai e sua mãe” é acompanhado pela promessa de bênção. É justo que os filhos obedeçam a seus pais, e a bênção de Deus acompanha o fato de honrar pai e mãe. Isso é tão pertinente quanto é correto que maridos e esposas se amem, o que é agradável a Deus. Isso se deve ao fato de Deus ter criado o relacionamento entre pais e filhos para ser assim.

Quando consideramos o relacionamento entre pais e filhos, devemos primeiro considerar como Deus criou e iniciou esse tipo de relacionamento. As crianças foram criadas para aprender como é o mundo e como as pessoas amam e convivem umas com as outras por meio da maneira como seus pais pensam e vivem, como se relacionam e como vivem.

A maior parte da vida de uma criança consiste em obedecer a seus pais, mesmo que a Bíblia não diga “obedecer”. Toda a vida delas depende dos pais e elas são dependentes deles. E se os pais amarem e nutrirem seus filhos da maneira que Deus deseja, ao mesmo tempo, desenvolverão neles um senso de alegria na obediência. O mandamento de “honrar pai e mãe” não é o tipo de mandamento que se pode honrar pelo fato de ter sido ordenado. Entretanto, como seres que já foram crianças pequenas, vocês provavelmente estão cientes de seus próprios sentimentos profundos de querer honrar seus pais. As crianças querem honrar, amar, ser amadas e obedecer a seus pais. É claro que também há uma natureza pecaminosa egocêntrica na criança, portanto, o desejo é provavelmente egoísta e inclui um elemento de “quero que eles sejam o pai ideal que acho que deveriam ser”. Entretanto, mesmo com esses elementos de pecado misturados, Deus criou a criança para sentir em seu coração a alegria e a paz da obediência aos pais e a felicidade de viver uma vida de respeito sincero por eles.

Nesse sentido, a responsabilidade e a influência dos pais como seguidores são de grande importância. Jesus Cristo se referiu a Deus, o Pai, com o nome de “Pai”. Isso mostra que o relacionamento entre pais e filhos é um padrão muito importante no relacionamento de amar e ser amado. O relacionamento ideal entre pai e filho se manifesta no relacionamento de amor e obediência entre Deus, o Pai, e Cristo, o Filho.

...o desafio de que os pais também têm pecado.

Entretanto, na realidade, os pais têm o problema do pecado. Não importa o quanto tentem, sempre há uma falta de amor paternal. Há falta de conhecimento, de paciência, de emoção, de consistência, de flexibilidade, em muitos aspectos. Isso é verdade para todos os pais. Então, quando se trata de seguir os pais com problemas de pecado, essa linguagem bíblica significa que devemos obedecê-los absolutamente em todas as questões, o tempo todo? É claro que precisamos considerar que esse pode não ser o caso. As palavras de 6:1 não devem ser tomadas isoladamente e usadas para nos instruir que devemos obedecer absolutamente às ordens de nossos pais porque Deus assim o diz. O relacionamento de amar e honrar um ao outro em relação ao marido e à esposa imediatamente anterior é um relacionamento em que o exemplo é que Cristo ame a igreja e que a igreja obedeça a Cristo. Em outras palavras, isso ocorre porque por trás dessas palavras há uma vida de fé, como Deus me amou ou como eu Lhe obedeci. Da mesma forma, os filhos obedecem aos pais porque é agradável a Deus obedecê-los no Senhor, assim como é conveniente que todas as pessoas obedeçam a Deus. Se os pais ordenarem algo que não agrada a Deus, que é errado, egoísta e leva ao pecado, então o filho deve se recusar a obedecer aos pais no Senhor.

∙ Esperar que eles possam se esforçar para viver uma vida que “honre seus pais” por meio da fé.

Se os pais de alguém, cristãos ou não, estavam muito distantes da vontade de Deus em sua educação e modo de vida, essas palavras podem parecer um grande constrangimento. Entretanto, quero lhe dizer que essas palavras não devem ser lidas dessa forma. Palavras bíblicas como “Não se vingue” ou “Ame seus inimigos” soam para você como uma escravidão que tira sua liberdade? Acho que não. (Espero que não.) Nossa natureza pecaminosa é pecar de volta contra o pecado se o deixarmos passar. Ela nos incita a reagir com hostilidade contra o hostil. E assim, o que acontece quando nos comportamos livremente sob o comando do pecado é que caímos em conflitos, divisões, solidão e vazio. O pecado é a força que nos leva a fazer o que queremos fazer e, como resultado, acabamos onde não queremos estar. É por isso que a Bíblia descreve os seres humanos nascidos de novo como “escravos do pecado”. Isso se deve ao fato de ele ser um ser miserável que só pode viver de uma forma que, em última análise, o leva a uma infelicidade indesejada. No entanto, as crianças que se tornaram filhos de Deus, independentemente de como sejam seus pais, são aquelas que foram resgatadas desse tipo de vida em que não têm escolha a não ser revidar quando são espancadas. Eles se tornaram seres que entendem que não são apenas escravos do pecado, mas que seus pais também são escravos do pecado, fracos e sofredores. Dessa forma, aqueles que receberam a fé quando crianças são capazes de olhar para seus pais de uma perspectiva mais madura e vê-los com compaixão e simpatia, mesmo sendo crianças. Essa pode parecer uma ideia muito difícil à primeira vista, mas é de fato esperança e salvação. Os mandamentos de Deus não nos prendem. Se entendermos seu significado e valor e optarmos por seguir em frente e fazer isso por nós mesmos, haverá liberdade, alegria e paz. Aceitar nossos pais como pecadores é um trabalho árduo, mas há um profundo amadurecimento como seres humanos, e somente aí podemos encontrar o caminho para a reconciliação. Seria bom se pudéssemos levar a palavra de Deus a sério, não como uma ordem ou uma escravidão dolorosa, mas como um caminho de esperança.

2. Pais.Não ofender: respeitar os sentimentos e as escolhas do indivíduo como um ser pessoal.

Outro mandamento importante é o versículo 4. “Pais. Não provoquem seus filhos à ira. Pelo contrário, criem-nos com o ensino e a admoestação do Senhor”. Essas breves palavras deixam claro que é necessário um ato de equilíbrio muito importante por parte dos pais ao educarem seus filhos.

Em primeiro lugar, a frase “não deixem seus filhos com raiva” confirma que a educação sempre exige a consideração dos aspectos emocionais e pessoais da criança. Isso não deve ser levado ao extremo, como se a educação estivesse errada se a criança ficar com raiva. Em vez disso, significa que não devem ser usados métodos de ensino severos, nos quais a criança explode de raiva, grita e chora. Ou que não devemos fazer nada sem consideração que leve a criança a guardar sua raiva e encher seu coração de ódio. Agora, ao criar meus próprios filhos, percebo como eles são fracos e como suas vidas devem ser dependentes dos pais. Fisicamente, mentalmente, financeiramente, em termos de tempo, a criança é dependente dos pais em todas as áreas. Se os pais não alimentam seus filhos, para eles é como se o alimento tivesse desaparecido do mundo. Os pais são o próprio mundo para uma criança pequena. Portanto, os pais precisam tomar o máximo de cuidado para não dar aos filhos ansiedade, medo, rejeição ou solidão.

O termo “não ofender” também implica respeito pela criança como um ser individual. Preocupar-se excessivamente, privar as crianças da oportunidade de fazer suas próprias escolhas ou cuidar delas antes do tempo também pode causar angústia. Por outro lado, deixar a criança fazer o que quiser e dizer que é a vida dela e que eu não sei nada sobre isso também é diferente. As crianças não são seres que devem ser empurrados de acordo com a conveniência dos pais, mas também não são seres independentes que podem viver por conta própria. O companheirismo de personalidade significa tratar com cuidado as mentes e os corpos em constante mudança uns dos outros. Uma alternativa positiva para não ofender a criança é amá-la como um ser individual. Isso significa demonstrar amor com consistência e flexibilidade e, ao mesmo tempo, atender às necessidades físicas e emocionais da criança. Essa é exatamente a mesma maneira pela qual praticamos o mandamento de Deus de “amar uns aos outros”. Não há nenhum shakshuka que diga que, se você fizer isso, estará amando.

O “ensino e a admoestação” do Senhor são necessários.

Ao mesmo tempo, a Bíblia certamente ensina a necessidade de “criação por meio do ensino e da admoestação do Senhor”. A Bíblia como um todo ensina claramente que o homem precisa de educação e admoestação. Muitas pessoas podem não ter uma boa impressão da palavra “preceito” em particular. Quanto à questão de os preceitos serem ou não necessários, somos muito influenciados pela cultura da época. Há uma grande variação na compreensão e na prática da educação em casa e na escola em cada período. Ela oscila como um grande pêndulo, com uma era anunciando os benefícios da admoestação estrita, uma era posterior anunciando a liberdade e a empatia, seguida novamente por uma busca pela necessidade de um ensino eficaz. Em cada época, há uma reflexão sobre as práticas da época anterior e, à luz disso, há uma tendência de ir para o extremo oposto. O que a Bíblia ensina certamente mantém o conselho adequado para não correr para esses extremos. A saber: “Não provoquem seus filhos à ira”. e “Antes, criem-nos pelo ensino e admoestação do Senhor”. Essas são duas diretrizes. É errado pensar que, para ensiná-los a viver uma vida que siga sinceramente a palavra de Deus, eles devem ser deixados sozinhos e só proceder quando quiserem, ou seja, não há necessidade de ensino e admoestação. Isso se deve ao fato de que o coração de cada pessoa, criança ou adulto, está ligado ao pecado e não se voltará para Deus por si mesmo se for deixado sozinho. Em vez disso, se você for um pai conectado a Cristo, Deus abençoará seus filhos para que eles recebam a bênção de serem “criados na instrução e nos preceitos do Senhor”. Os pais não devem tirar essa bênção deles por conta própria.

Ao mesmo tempo, porém, essa educação e admoestação é bem diferente de ignorar a própria personalidade da criança, pisar em seus sentimentos e forçá-la a fazer algo por meio de comandos coercitivos. Também não é o mesmo que dizer que as crianças devem ser obrigadas a acreditar em Deus. Não podemos forçar ninguém, adulto ou criança, a ter fé em Deus. Podemos dizer a eles como isso é maravilhoso e convidá-los para um modo de vida em que olhamos para Deus juntos, mas não podemos forçá-los a acreditar. A força de ensino da fé é o que a Bíblia não ensina. Coríntios 2:14 diz. “Nenhum homem aceita, por natureza, que pertence ao Espírito de Deus. Para ele, isso é loucura e não pode entendê-las. Porque a pertença ao Espírito é julgada pelo Espírito”.

∙ Assim como Deus tem sido paciente (concedente) ao amar Seu povo, nós também seremos pacientes ao amar nossos filhos.

Como, então, os pais cristãos podem criar seus filhos pela educação e admoestação do Senhor? Isso significa que tratamos nossos filhos como Deus tratou Seu povo. Isso significa que, quando os filhos rejeitarem e rejeitarem o ensino e a instrução de seus pais, os pais não se apegam emocionalmente a eles e os atacam violentamente, mas continuam a se relacionar com eles com paciência e compreensão dos movimentos de seus corações. Não seria errado que os pais, sendo pais, expressassem sua tristeza e decepção com tal reação. Entretanto, também precisamos nos lembrar de que o respeito pela personalidade e pelas decisões pessoais da criança é uma área em que os pais não devem entrar. Até mesmo Deus espera que nos voltemos para Ele em nosso próprio tempo, e precisamos aprender a fazer isso.

Musubi.com. Faça de seu relacionamento com os pais e de seu relacionamento com os filhos um relacionamento em que o fruto do Espírito possa ser visto.

Vimos em Efésios 6 como o Senhor se agrada de pais e filhos. Queremos que cada um de nós no Senhor siga a palavra de Deus que traz essas bênçãos. Acima de tudo, é importante perceber que o centro desses mandamentos é amar e, ao mesmo tempo, estar ciente de que tanto você quanto a outra pessoa têm distorções causadas pelo pecado. Assim como os maridos e as esposas se amam, os filhos obedecem aos pais e os pais nutrem os filhos por meio da educação e dos preceitos do Senhor sem ofendê-los, uma iniciativa que exige que ambos amadureçam gradualmente enquanto recebem o amor de Deus. Trabalharemos no relacionamento pai-filho que é dado a cada um de nós, confirmando que a palavra de Deus é o princípio orientador de que todos os nossos relacionamentos devem produzir o fruto do Espírito.

Sermão para o Culto de Ação de Graças pelo Crescimento, 10 de novembro de 2024.

Efésios 6:1-4.

“No Senhor, filhos, pais”.

Introdução . Como filhos e como pais.

1. A obediência dos filhos aos pais.

A ordem favorável criada por Deus.

O desafio de que os pais também são culpados.

Esperança de que, por meio da fé, possamos trabalhar em prol de uma vida que “honre nossos pais”.

2. pais (pais)

Não se ofenda: respeite os sentimentos e as escolhas do indivíduo como um ser pessoal.

O “ensino e a admoestação” do Senhor são necessários.

Amem seus filhos e sejam pacientes com eles, assim como Deus amou Seu povo e foi paciente com eles.

Conclusão. Faça do relacionamento com os pais e com os filhos um relacionamento em que o fruto do Espírito possa ser visto.