2026年6月7日主日礼拝説教 ルカの福音書19:1~10 説教題:キリストを家に迎える

202667日主日礼拝説教

ルカの福音書19110

説教題:キリストを家に迎える

序.忙しさの中で神を生活から追い出している

みなさんは、「忙しく生きているうちに、本当に大切なものを見失っているのではないか」と感じたことはないでしょうか。忙しいという漢字は、りっしんべんに亡くなると書きます。忙しいと心を見失い、自分が何のために生きているのかを忘れやすくなる、と言われたりします。

現代の生活は、あれをするべきだ、これもした方がいい、時間があるならこれも、休みの日にはあそこに行こう、体力があるならこれも、お金に余裕があるならあれもと、心を埋め尽くすものであふれています。

特別に何か欲深いこととか悪いことをしているわけではない。でも気付くと、神様のことを考えている時間がない。自分の魂の渇きを感じる暇もない。そのようなことが、私たちにもあります。

今日の箇所に登場するザアカイも、ある意味で「忙しく成功していた人」でした。彼は取税人のかしらでした。エリコという物流の多い町で徴税組織を束ねる管理職をしていたので裕福でした。一方で、同国民から税を巻き上げ、支配国であるローマに献納する仕事ゆえに人々から嫌われ、孤独の中にいた人物でもありました。

そんな彼が、イエスがどんな方か見ようとして、走って出て行きます。すると驚くべきことに、イエス様の方が彼を見つけ、その名を呼び、彼の家に入って行き食事を共にされました。今日、この箇所から、「キリストを家に迎えるとはどういうことか」をご一緒に見ていきたいと思います。

 

1.求めるザアカイと、近づいてくださるイエス様

最初に描かれているのは、イエスを見ようとするザアカイです。彼は背が低く、群衆のために見ることができませんでした。そこで先回りしていちじく桑の木に登ります。

この姿は、どこか滑稽にも見えます。彼は社会的には成功者です。取税人組織の長であり、裕福でもある。しかしその人物が、木に登ってまでイエスを見ようとしている。必死さ。盲目の人が「主よ、憐れんでください!」と叫んだ記事を先に読みましたが、ここにも必死にイエス様に何かを見出そうとするひとを見ることが出来ます。ここには、彼の内側の渇きが表れています。

彼は、お金や地位だけでは満たされないものを抱えていたのではないでしょうか。このような話を単純化せずに、今までの人生で、自分はいったい何が自分の心を満たすものと考えて追い求めてきただろうかと振り返ってみて欲しいのです。

私たちも同じではないでしょうか。私たちは日々忙しく生きています。しかしその中で、「本当に価値あるものを見たい」という渇きを抱えることがあります。あるいは、忙しい忙しいといっている状況の中に、人生を浸してしまっているかもしれません。

 

ここで目を留めたいのは、ザアカイがイエスを見ようと必死でいちじく桑の木に登り、目を凝らしていた時、実はイエスの方が彼を見ておられた、ということです。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。』」

 あれもこれも手にしていたザアカイ。もちろん思い通りにならないこともいろいろあったでしょう。何か、埋まることのない心の欠けを満たしてくれるものを探していたからこそ木にまで登ったのではないでしょうか。そこまでして自分の魂の渇きを行動に移した彼のところに、イエス様はまさにこの時とばかりに近づいて来てくださったのでした。イエス様は「ザアカイ」と彼の名を呼び、さらには「あなたの家に泊まることにしている」と言います。イエス様はたまたま思いついて、目のあった彼を選んだのではありません。神の御心として、ザアカイを知っておられ、わたしはあなたの家に行くと言われたのです。

 神様が人の心に働きかけるのはこのような側面があります。人はそれがいつ、どのようにして起きるのか知りません。たださ迷うようにして、神を知らない暮らしの中を歩いています。しかし、神様のご計画の中で、その人の飢え渇きと神の招きが出会うのです。

 ザアカイは、人々から「あの人は罪びとのところに行って客となった」と文句を言われるような、嫌われ者でした。しかしイエスは、このような失われた者を避けられませんでした。それどころか、ザアカイが「イエスを見たい」と思うタイミングをとらえて、本当はイエスの方が彼の魂を探しておられたのです。

私たちも、自分が神を求めたのだ。今も自分で努力して神を信じる生き方を選び取っていると思うことがあります。しかしその前に、キリストの方が私たちの渇いた魂を見つめ、名を呼び、あなたの心の中に私を入れてくれないかと近づいておられるのではないでしょうか。

 

2.神に受け入れられて、悔い改めを告白するザアカイ

さて、ザアカイは喜んでイエスを迎え入れます。当時、イスラエルの文化において食事を共にするというのは「あなたを大切な仲間として受け入れる」という意味を持っていました。嫌われ者のザアカイは、イスラエルにおいて誰にも招かれず、また招いても誰も来てくれない生活だったことでしょう。そのようなザアカイの家に、イエス様が入ってくださった。彼はイエス様の声に応えて、自分の家の扉を開き、迎え入れたのでした。

 読者にはこの家に迎え入れてともに食事するということの意味合いがいまいちわからないので、なぜ突然ザアカイが8節で変化するのかを理解できません。しかしここで起きているのは、ザアカイの魂がイエス・キリストの愛に触れ、交わりの中で心が開かれ、神に受け入れられたことで、新しく作り替えられるという出来事だったのです。ザアカイとイエス様がどんな話をしたのか、興味が湧きますけれども聖書には詳しく記されていません。でもザアカイは確かにこの時、神と出会い、自分が神に背を向けて生きてきたことに気が付き、人生の方向転換を経験したのでした。

 彼の変化は如実に現れました。ザアカイは立ち上がって言います。8節「主よ、ご覧ください。財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

これは単なる感情的反省ではありません。彼は自分のこれまでの人生で犯してきた罪を具体的に認め、償おうと決意したのです。

また四倍の返済とは、出エジプト記22章を見ると、旧約律法における盗みの償いに近い内容です。盗んだ場合には四倍で償うようにと書かれてあります。つまり彼は「私は不正をしてきました」それに対しては四倍で返済しますと認めたのです。彼の悔い改めの実りをここに見ることが出来ます。

 

心に留めたいのは、ザアカイは「神に受け入れられるために変わった」のではなく、イエス・キリストの愛に触れ、「神に受け入れられたから変えられた」ということです。神様が私を愛している。自分の数々の過ちと失敗と、積み重ねられたたくさんの言い訳をもご存じの上で、神様は私を愛していてくれる。この福音の体験が、彼の生き方を方向転換させたのでした。

福音は「まず自分をきれいにしてから来なさい」ではありません。キリストが入って来られる時、人は変えられていくのです。その変化は、ザアカイにとっては、彼の金銭感覚、生き方、価値観そのものの変化であり、彼は変えられた新しい人生を歩むことをここに宣言したのでした。キリストを心に迎えるとは、人生の中心が変わることなのです。

 

3.「救いがこの家に来た」――失われた者を探して救うために

 すべての人の救いがこのように劇的であるわけではありません。また劇的な告白をしたからと言って、それが継続的な変化となるためには環境も変える必要があるかもしれません。しかし、全体として、救われるというのは神に愛されていることが分かり、その人の人生全体が罪の支配から御霊の支配に移されることなのです。ザアカイの人生もこれから紆余曲折があったことでしょうが、それでも彼の人生にはいつも御霊によってキリストがともに歩んでくださるようになったのです。

 

最後に、イエスはこう言われます。9節「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」ザアカイと言う名前。ヘブル語では「清い人」「義人」という言いの名前でした。そんな名前を付けてもらった彼が、取税人のかしらとして生計を立て、人々からは「罪人」とみられている。そのようなザアカイのところに、時至って、イエス様が「この人もアブラハムの子だ」、救われるべき神の子どもだと言われたのでした。

そしてイエス様はこの出来事全体をこうまとめられました。「人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」罪の中で神から遠く離れて暮らしていたザアカイを、キリストは探し出されたのでした。

これこそ、今日の私たちへの福音ではないでしょうか。私たちは、表面的には何の問題もなく生活しているように見えて、神様との交わりを後回しにしていないでしょうか。忙しさに飲み込まれ、本当には神から離れていることがあります。

しかしキリストは、そのような私たちを探しておられます。そして、「今日、あなたの家に泊まることにしている」。あなたの家の扉を開けて、一緒に食事をしてくれないかと語っておられるのです。

 

結び.救い主を心にお迎えする―救い主に受け入れてもらう人生

ザアカイは、一面ではたくさんのものに恵まれていながら、他方では大きな虚しさを抱えて生きていました。彼はその魂の問題を抱えながら、イエスを見よう、出て行きました。そしてその時、イエスの方が彼を見つけ、家に入り、彼を変えられたのです。

今日も私たちの救い主は、失われた者を探しておられます。この救いは、人生の中心そのものを変え、新しい生き方を始める決意を促します。

「今日、救いがこの家に来た。」人の心に渇きを自覚させ、神の愛によって人生を生まれかわらせる救い主との出会い。この御言葉にある恵みが私たち自身の現実となりますように。また、飢え渇いているひとを、キリストのところに導くものとして、私たち自身の生き方が用いられていきますように。

 

祈り

天のお父様。私たちは忙しさの中であなたを後回しにし、自分の思いや不安に支配されてしまう弱いものです。しかし、イエス様がザアカイを探しだされたように、私たちのさまよう心を見つけ出し、名前を呼び、近づいてくださることを感謝します。私たちの家に、心に、あなたをお迎えして、霊的な交わりを楽しむものとしてください。

 外側だけでなく、生き方の中心そのものを変えて、継続的にあなたとの交わりの中で生きるものとしてください。

 失われた者を探して救うために来られたイエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン


Sermão do Culto Dominical de 7 de junho de 2026

Evangelho de Lucas 19:1-10

Título do sermão: Receber Cristo em casa

Introdução: Estamos afastando Deus de nossas vidas em meio à correria

Vocês já sentiram que, “ao vivermos tão ocupados, talvez estejamos perdendo de vista o que é realmente importante”? A palavra “ocupado” (busy) em japonês é escrita com o radical “coração” (心) e a parte que significa “morrer” (亡). Diz-se que, quando estamos ocupados, perdemos o foco do coração e ficamos propensos a esquecer para que estamos vivendo.

A vida moderna está repleta de coisas que ocupam nossa mente: “Devo fazer isso”, “É melhor fazer aquilo”, “Se tiver tempo, faça também isto”, “No dia de folga, vamos lá”, “Se tiver energia, faça também isto”, “Se tiver dinheiro sobrando, compre aquilo”.

Não é que estejamos fazendo algo particularmente ganancioso ou errado. Mas, quando percebemos, não temos tempo para pensar em Deus. Não temos tempo nem para sentir a sede da nossa alma. Isso acontece conosco também.

Zaqueu, que aparece na passagem de hoje, era, em certo sentido, “uma pessoa ocupada e bem-sucedida”. Ele era o chefe dos publicanos. Era rico porque ocupava um cargo de gestão, liderando a organização tributária em Érico, uma cidade com grande movimento comercial. Por outro lado, por causa de seu trabalho de cobrar impostos de seus compatriotas e entregá-los ao império romano, ele era odiado pelas pessoas e vivia em solidão.

Mesmo assim, ele saiu correndo para ver quem era Jesus. Surpreendentemente, foi Jesus quem o encontrou, chamou-o pelo nome, entrou em sua casa e comeu com ele. Hoje, a partir desta passagem, gostaria de refletirmos juntos sobre “o que significa receber Cristo em casa”.


1. Zaqueu, que busca, e Jesus, que se aproxima

A primeira imagem retratada é a de Zaqueu tentando ver Jesus. Ele era baixo e não conseguia enxergar por causa da multidão. Por isso, antecipou-se e subiu em uma figueira.

Essa cena parece, de certa forma, cômica. Ele é um homem de sucesso na sociedade. É chefe da organização dos publicanos e também rico. No entanto, essa pessoa está tentando ver Jesus a ponto de subir em uma árvore. Desespero. Lemos anteriormente a história do cego que clamou: “Senhor, tem misericórdia de mim!”, e aqui também podemos ver alguém tentando desesperadamente encontrar algo em Jesus. Aqui se manifesta a sede que há dentro dele.

Será que ele não carregava algo que não podia ser saciado apenas com dinheiro ou posição social? Gostaria que, sem simplificar essa história, vocês refletissem sobre o que, até agora, consideraram capaz de preencher seus corações e o que têm buscado na vida.

Não somos nós também assim? Vivemos nossos dias atarefados. No entanto, em meio a isso, às vezes nutrimos uma sede de “ver algo que realmente tenha valor”. Ou talvez estejamos mergulhados na vida, em meio a uma situação em que só falamos de como estamos ocupados.


O que quero destacar aqui é que, quando Zaqueu subiu desesperadamente na figueira para ver Jesus e fixava os olhos nele, na verdade era Jesus quem o estava vendo. Versículo 5: “Quando Jesus chegou àquele lugar, olhou para cima e disse a ele: ‘Zaqueu, desça depressa, pois hoje vou ficar na sua casa’”.

Zaqueu, que tinha tantas coisas nas mãos. É claro que muitas coisas não saíram como ele queria. Não foi justamente porque ele estava procurando algo que preenchesse aquele vazio insaciável em seu coração que ele subiu até na árvore? Foi justamente nesse momento, quando ele chegou a esse ponto de transformar a sede de sua alma em ação, que Jesus se aproximou dele. Jesus chamou-o pelo nome, “Zaqueu”, e disse ainda: “Decidi passar a noite na sua casa”. Jesus não escolheu Zaqueu por acaso, ao cruzar o olhar com ele. Conhecendo Zaqueu como parte da vontade de Deus, Ele disse: “Eu irei à sua casa”.

 É assim que Deus age no coração das pessoas. Ninguém sabe quando nem como isso vai acontecer. Vivemos vagando, sem conhecer a Deus. Mas, nos planos de Deus, a fome e a sede de cada um se encontram com o chamado de Deus.

Zaqueu era um homem odiado, a ponto de as pessoas reclamarem: “Aquele foi até a casa de um pecador e se hospedou lá”. Mas Jesus não podia evitar esses perdidos. Pelo contrário, aproveitando o momento em que Zaqueu pensou “Quero ver Jesus”, na verdade era Jesus quem estava buscando a alma dele.

Nós também pensamos: “Fui eu quem buscou a Deus”. Às vezes, achamos que, até hoje, estamos escolhendo um modo de vida de fé por nosso próprio esforço. Mas, antes disso, não será que Cristo está olhando para nossa alma sedenta, chamando nosso nome e se aproximando, perguntando: “Você não me deixaria entrar no seu coração?”


2. Zaqueu, aceito por Deus, confessa seu arrependimento

Zaqueu, então, recebe Jesus com alegria. Naquela época, na cultura de Israel, compartilhar uma refeição significava “aceitar você como um companheiro importante”. Zaqueu, que era odiado, provavelmente levava uma vida em que ninguém o convidava em Israel, e mesmo que ele convidasse alguém, ninguém iria. Foi na casa de um Zaqueu assim que Jesus entrou. Ele respondeu à voz de Jesus, abriu a porta de sua casa e O recebeu.

 Como o leitor não compreende bem o significado de ser recebido nessa casa para compartilhar uma refeição, não consegue entender por que Zaqueu muda repentinamente no versículo 8. No entanto, o que está ocorrendo aqui é o fato de a alma de Zaqueu ter sido tocada pelo amor de Jesus Cristo, de seu coração ter se aberto na comunhão e de ele ter sido aceito por Deus, sendo assim transformado de novo. Ficamos curiosos para saber que tipo de conversa Zaqueu e Jesus tiveram, mas a Bíblia não registra isso em detalhes. Contudo, Zaqueu certamente encontrou Deus naquele momento, percebeu que vinha vivendo de costas para Deus e experimentou uma mudança radical em sua vida.

 Sua mudança se manifestou de forma evidente. Zaqueu se levantou e disse, no versículo 8: “Senhor, olha aqui: darei metade dos meus bens aos pobres; e, se tiver extorquido algo de alguém, devolverei quatro vezes mais.”

Isso não é apenas um arrependimento emocional. Ele reconheceu concretamente os pecados que havia cometido ao longo de sua vida e decidiu repará-los.

Além disso, a restituição em quatro vezes, conforme visto em Êxodo 22, é semelhante à compensação por roubo prevista na lei do Antigo Testamento. Está escrito que, em caso de roubo, deve-se restituir quatro vezes o valor. Em outras palavras, ele reconheceu: “Eu cometi injustiça” e, em resposta a isso, prometeu restituir quatro vezes o valor. Podemos ver aqui o fruto de seu arrependimento.


O que devemos ter em mente é que Zaqueu não “mudou para ser aceito por Deus”, mas sim que, ao entrar em contato com o amor de Jesus Cristo, “foi transformado porque foi aceito por Deus”. Deus me ama. Mesmo sabendo de todos os meus erros e falhas, e das inúmeras desculpas que acumulei, Deus continua me amando. Foi essa experiência do Evangelho que mudou o rumo de sua vida.

O Evangelho não diz: “Primeiro purifique-se e depois venha”. Quando Cristo entra em nossa vida, a pessoa é transformada. Para Zaqueu, essa transformação consistiu em uma mudança em sua relação com o dinheiro, em seu modo de vida e em seus próprios valores, e ele declarou ali mesmo que iria trilhar uma nova vida, transformada. Receber Cristo no coração significa que o centro da vida muda.


3. “A salvação chegou a esta casa” — para buscar e salvar os que estavam perdidos

Nem toda salvação é tão dramática assim. Além disso, mesmo que alguém faça uma confissão dramática, talvez seja necessário mudar o ambiente para que isso se transforme em uma mudança contínua. No entanto, de modo geral, ser salvo significa compreender que se é amado por Deus e que toda a vida dessa pessoa passa do domínio do pecado para o domínio do Espírito Santo. A vida de Zaqueu certamente teve seus altos e baixos a partir de então, mas, mesmo assim, Cristo passou a caminhar com ele em sua vida, sempre guiado pelo Espírito Santo.


Por fim, Jesus diz o seguinte. Versículo 9: “Hoje a salvação chegou a esta casa. Pois também este homem é filho de Abraão.” O nome Zaqueu. Em hebraico, era um nome que significava “pessoa pura” ou “justo”. Ele, que recebeu tal nome, ganhava a vida como chefe dos publicanos e era visto pelas pessoas como um “pecador”. Foi a esse Zaqueu que, no tempo certo, Jesus disse: “Este também é filho de Abraão”, ou seja, um filho de Deus que deveria ser salvo.

E Jesus resumiu todo esse acontecimento da seguinte forma: “O Filho do Homem veio para buscar e salvar o que estava perdido.” Cristo encontrou Zaqueu, que vivia distante de Deus, mergulhado no pecado.

Não é este, precisamente, o evangelho para nós hoje? Por mais que pareça que vivemos sem problemas aparentes, não será que estamos deixando de lado a comunhão com Deus? Às vezes, somos engolidos pela correria e, na verdade, estamos distantes de Deus.

No entanto, Cristo está procurando por nós, que somos assim. E Ele diz: “Hoje vou ficar na sua casa”. Ele está nos convidando a abrir a porta de nossa casa e a compartilhar uma refeição com Ele.


Conclusão. Acolher o Salvador no coração — uma vida aceita pelo Salvador

Zaqueu, por um lado, era abençoado com muitas coisas, mas, por outro, vivia com um grande vazio. Carregando esse problema em sua alma, ele saiu para ver Jesus. E, naquele momento, foi Jesus quem o encontrou, entrou em sua casa e o transformou.

Ainda hoje, nosso Salvador está procurando os que se perderam. Essa salvação transforma o próprio centro da vida e nos leva a tomar a decisão de começar um novo modo de viver.

“Hoje a salvação chegou a esta casa.” O encontro com o Salvador, que faz com que a pessoa perceba a sede em seu coração e renasça para a vida pelo amor de Deus. Que a graça contida nesta Palavra se torne nossa própria realidade. Além disso, que nosso próprio modo de vida seja usado para conduzir aqueles que têm fome e sede até Cristo.


Oração

Pai celestial. Somos fracos, e em meio à agitação do dia a dia acabamos deixando-Te em segundo plano, dominados por nossos próprios pensamentos e ansiedades. No entanto, agradecemos por, assim como Jesus encontrou Zaqueu, Tu encontrares nossos corações errantes, chamares nossos nomes e Te aproximares de nós. Faça com que possamos recebê-Lo em nossa casa e em nosso coração, para desfrutar da comunhão espiritual.

Faça com que não apenas mudemos externamente, mas transformemos o próprio centro de nossa vida, para que vivamos continuamente em comunhão com o Senhor.

Oramos em nome de Jesus Cristo, que veio para buscar e salvar os que estavam perdidos.

Amém