2026年6月14日主日礼拝説教 ルカの福音書19:11~27 説教題:王を信頼して待ち望む私たちの生き方
2026年6月14日主日礼拝説教
ルカの福音書19:11~27
説教題:王を信頼して待ち望む私たちの生き方
序.オンリーワン?ナンバーワン?それとも別のなにか?
もう20年以上前の曲なりますが、SMAPの「世界に一つだけの花」という歌の歌詞に、こんなフレーズがありました。「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」。競わなくてもいい。誰かと比べなくても、あなたにはあなたにしかない価値があるのだ、と歌っています。確かに、私たち一人一人の存在そのものには価値があります。神様が造られた一人の人間として、私たちはかけがえのない存在です。
しかし一方で、私たちが生きる現実の社会では、どちらが優れているか、どちらが多いか、どちらが早いかと比べられ評価されるのも事実です。私たち自身もまた、そのような基準で自分自身の価値まで測ってしまいます。では、神様は私たちをどのような基準で見ておられるのでしょうか。
今日のたとえでは、王様が帰って来られ、しもべたちに問いかけます。「あなたに預けたものを、あなたはどう用いたのか」。これは、単純に「誰が一番大きな成果を出したか」という話なのでしょうか。それとも、評価を求めるのとは別の、どんな生き方を願っておられるのでしょうか。新鮮な心でイエス様の言葉を聞きたいと思います。
1.神の国は、すぐには来ない。しかし、王のようにやがて必ず帰ってくる
イエス様がこのたとえを語った理由は11節にあります。「人々が神の国はすぐに現れると思っていたから」。実際には、神の国はすぐには来ず、キリストが再び来られる日を待ち望んで過ごすことが必要でした。
またこの直前には、ザアカイの出来事がありました。人々から罪人として見られていたザアカイが、イエス様と出会って変えられました。「きょう、救いがこの家に来ました」
だからこそ、この出来事を見た人々は期待したのでしょう。「この方こそ王ではないか」
「いよいよ神の国が始まるのではないか」しかし、その期待は外れています。
イエス様は、今すぐに地上の王座につくために来られたのではありません。たとえの中の王は、王位を受けるために遠い国へ旅立ちます。そして、やがて帰って来ます。これは、十字架、復活、昇天を経て、再び来られるキリストのことを指し示しています。
つまりこの時代から今まで、キリストという王が不在なのではなく、帰って来られる王を待っている時代が続いているのです。その王を待つ時間に、王はしもべたちへ1ミナを預けたのでした。
王の帰りを待つ。私たちは目に見えない神様が、すぐ近くに感じられないからといって王様を忘れて過ごすのではありません。むしろ必ず王が帰ってくることを心に留めて暮らすしもべたちです。信頼とは何でしょう。それは、その人がそこにいない時でも相手のことを思って過ごすということではないでしょうか。そこにいないと油断して、相手を忘れたり、相手の陰口を言う人は信頼できません。私たちにも、イエス様の帰りを待つ態度があるだろうかとイエス様は問いかけています。
2.恵みを受けた者は、恵みによって生きる(ヨハネ15:4〜5)
さて、たとえの中で、王は10人のしもべにそれぞれ1ミナを渡しました。似たようなたとえ話がいくつかありますが、ここでは10人のしもべが同じだけのお金を預けられました。
ここで大切なのは、彼らが何をどれだけ持っているかではありません。この例えの中心は、すべての人が王の財産を預けられているということです。
私たちの時間、能力、出会い、与えられた役割、そもそも私たちの命そのものが、神様から与えられたものです。私の物と思っているものはすべて、神様から「委ねられたもの」ということが出来ます。委ねるとは、神様のものを預けられて、それを自分らしく活用するように期待されているということです。そのような視点で、今一度自分の歩んできた人生を振り返ってみましょう。私たちは、自分に与えられた命、時間、才能、人との出会い、家族、友人、神の家族。これらの恵みを、どのように用いて来たでしょうか。
最初のしもべは言いました。「ご主人様、あなた様の1ミナで10ミナをもうけました。」預けられたものを10倍にしたしもべ。二人目のしもべは同様に、5ミナをもうけました。それぞれが、それぞれに応じて王からの報いを受けます。私たちはそれを妬んだりする必要はなく、神様が適切に報いてくださることに信頼してただ忠実でいればそれでいいのでしょう。
目を留めたいのは、この二人の人がどちらも、別段自分の手柄を誇っているというよりも、「あなた様の1ミナで」と、すべての恵みの源が王様から来ていると理解している点です。
「あなたの1ミナで」ここに、王を信頼するしもべたちの姿があります。私たちは、神様に認められるために働くのではありません。すでに神様から恵みを受けているから、その恵みに応えて生きるのです。たくさんの報酬が欲しいから働くのではなく、愛してくれる主人の喜ぶ顔が見たいから、働きながら帰りを待つのです。
良い働きというものが、御霊の実であることを考えるとイエス様はこう言っておられます。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。…わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」(ヨハネ15:4〜5)
枝が実を結ぶのは、枝自身の力ではありません。木につながり、いのちを受けているからです。神様との関係を喜び、信頼して歩む時、恵みは私たちの人生に実を結びます。こんなに実をみのらせたと自分を誇るためではなく、神様こんなに身が実りましたと喜びを分かち合いたいから働くのです。私たちは枝。キリストに結び合わされた枝として、ゆたかな実りをもたらす生き方はどんなものだろうかと、今一度自分に与えられたものの用い方を考えてみましょう。
3.問題は能力でも努力でも結果でもなく、王をどう見て生きているか
一方、三番目のしもべは1ミナを布に包んでしまったままにしていました。そして言いました。「あなた様は預けなかったものを取り立てる、厳しい方ですから、恐ろしかったのです。」意外な反応でした。同じように、神様からの恵みを受け取り、神様が帰って来られるのを待っていたはずなのに、このしもべの心はとても冷え切っていました。
このしもべの問題は、単に働かなかったとか怠けていたということだけではありません。彼の本当の問題は主人という人を歪めて見ていたのです。
恵みを与えて、成長と成熟を期待してくれる主人のことを、失敗を責める恐ろしいひとだと冷たく見ていたのです。しかも、どうせもうけても主人に奪われるのだから、ただ終わりまでもっているだけでいいやと考えたのです。
しかし先のふたりのしもべたちは違いました。彼らは王を信頼しました。だから、預かったものを生かしました。私たちは、神様をどのようなお方として見ているでしょうか。与えてもいないものを搾取しようとする恐ろしい取り立て屋なのか。それとも、私たちに恵みを与え、共に歩み、成長を喜んでくださる方として見るのか。
直前のザアカイの変化が印象的でした。彼は変えられました。以前は、お金を自分のものとして握りしめていました。しかしイエス様に出会った後、財産を神様の前で用いるものへと変わりました。彼は、王を恐れるのではなく、王を喜ぶ者になったのです。
そう言う意味では、この例えはお金を稼ぐために一生懸命に働きなさいと言ってはいません。むしろすでに与えられているあなたの時間、才能、身体、いのちを、誰にために、何のために用いているかということではないでしょうか。
ところで、たとえ話には、そもそも王が国を治めるようになることに反対していた者たちもいました。王を拒む者たちには、彼ら自身が王から拒まれるという結末が待っています。そういう意味では、この三番目のしもべはとてももったいないひとでした。彼は王の帰りを待っていたのです。王が国を治めることを願っていた。それなのに、心の中では王のことを信頼せず、冷たい気持ちで過ごしていたのでした。そんなすごし方はもったいない!まさにそういう思いを引き出すために、イエス様はこの例えをはなされたのではないでしょうか。
結び.恵み豊かな王を信頼して働く
最後に王は言われました。「持っている者は、さらに与えられる。」これは、世の中のように、金持ちがさらに得をするという意味ではありません。
恵みを受けて神を愛するものはゆたかに働くものに変えられていくという神の国の世界です。王を信頼して生きる者は、さらに王の働きに加わるようになっていくのです。神の恵みは地上の富のように目に見えるものだけではありません。むしろそのような地上の富に心を奪われずに、神と人とを愛せる働きが増し加えられていくのです。
私たちは、ただ神の国を待つ者ではありません。帰って来られる王を信頼し、その王から預かった恵みを活用しながら生きる者です。
問われているのは、「あなたは他の人よりも大きなことをしたか」ではありません。むしろ「恵みを与えてくださった王を信頼して生きたか」です。
キリストにつながる者として、私たちはすでに恵みを受けています。だから恐れではなく、感謝によって。比較ではなく、信頼によって。やがて帰って来られる王様、イエス様を思って待ち焦がれつつ、今日自分に委ねられた一ミナを用いて歩んでいきましょう。
祈り
天のお父様。
私たちに命を与え、今日まで多くの恵みを委ねてくださっていることを感謝します。私たちが人と比べて自分の価値を測るのでなく、あなたに愛されていて、あなたから信頼され委ねられている者として歩むことが出来ますように。
王であるキリストを信頼し、恐れではなく、喜びをもって恵みを用いる歩みに進ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2026年6月14日主日礼拝説教
ルカの福音書19:11~27
説教題:王を信頼して待ち望む私たちの生き方
序.オンリーワン?ナンバーワン?それとも別のなにか?
1.神の国は、すぐには来ない。しかし、王のようにやがて必ず帰ってくる
2.恵みを受けた者は、恵みによって生きる(ヨハネ15:4〜5)
3.問題は能力でも努力でも結果でもなく、王をどう見て生きているか
結び.恵み豊かな王を信頼して働く
Sermão do Culto Dominical de 14 de junho de 2026
Evangelho de Lucas 19:11-27
Título do sermão: O nosso modo de vida enquanto aguardamos o Rei
Introdução. Único? Número um? Ou algo diferente?
Embora seja uma música de há mais de 20 anos, a letra da canção “Sekai ni Hitotsu Dake no Hana” (A única flor do mundo), do SMAP, continha esta frase: “Não precisa ser o número um, você já é um único e especial”. Não precisa competir. A música diz que, mesmo sem se comparar a ninguém, você tem um valor que só você possui. De fato, a própria existência de cada um de nós tem valor. Como seres humanos criados por Deus, somos seres insubstituíveis.
Por outro lado, porém, na sociedade real em que vivemos, é fato que somos comparados e avaliados em termos de quem é melhor, quem tem mais, quem é mais rápido. Nós mesmos também acabamos medindo nosso próprio valor com base nesses critérios. Então, com base em que critérios Deus nos vê?
Na parábola de hoje, o rei retorna e pergunta aos servos: “Como você administrou o que lhe confiei?”. Trata-se simplesmente de uma questão de “quem obteve os maiores resultados”? Ou será que Deus deseja um modo de vida diferente daquele que busca a avaliação? Gostaria de ouvir as palavras de Jesus com um coração renovado.
1. O Reino de Deus não virá imediatamente. Mas, assim como o rei, ele certamente voltará um dia
A razão pela qual Jesus contou essa parábola está no versículo 11: “porque as pessoas pensavam que o Reino de Deus iria aparecer imediatamente”. Na verdade, o Reino de Deus não viria imediatamente, e era necessário passar o tempo esperando ansiosamente pelo dia em que Cristo voltaria.
Além disso, pouco antes disso, ocorreu o episódio de Zaqueu. Zaqueu, que era visto pelas pessoas como um pecador, foi transformado ao encontrar Jesus. “Hoje a salvação chegou a esta casa.”
É por isso que as pessoas que testemunharam esse acontecimento devem ter ficado esperançosas. “Será que este homem não é o rei?”
“Será que o Reino de Deus finalmente está começando?” No entanto, essa expectativa se revelou equivocada.
Jesus não veio para assumir o trono na terra imediatamente. O rei da parábola parte para um país distante a fim de receber o trono. E, mais tarde, ele retorna. Isso aponta para Cristo, que voltará após passar pela cruz, pela ressurreição e pela ascensão.
Ou seja, desde aquela época até hoje, não é que o rei chamado Cristo esteja ausente, mas sim que continuamos vivendo em uma era de espera pelo rei que voltará. Durante esse tempo de espera pelo rei, ele confiou uma mina a seus servos.
Esperar pelo retorno do rei. Não vivemos esquecendo o rei só porque não conseguimos sentir a presença de Deus, que é invisível, bem perto de nós. Pelo contrário, somos servos que vivemos tendo em mente que o Rei certamente voltará. O que é confiança? Não será o fato de passarmos o tempo pensando na outra pessoa, mesmo quando ela não está presente? Não se pode confiar em alguém que, por achar que a outra pessoa não está presente, se descuida, esquece-a ou fala mal dela pelas costas. Jesus nos pergunta se temos a atitude de esperar pelo seu retorno.
2. Quem recebeu a graça vive pela graça (João 15:4-5)
Ora, na parábola, o rei entregou uma mina a cada um dos dez servos. Existem várias parábolas semelhantes, mas, neste caso, os dez servos receberam a mesma quantia em dinheiro.
O importante aqui não é o que eles possuem nem em que quantidade. O ponto central desta parábola é que todos receberam a propriedade do rei em custódia.
Nosso tempo, nossas habilidades, nossos encontros, os papéis que nos foram confiados e, acima de tudo, a própria vida que temos são dádivas de Deus. Tudo o que consideramos nosso pode ser visto como algo que nos foi “confiado” por Deus. Confiar significa que recebemos algo que pertence a Deus e que se espera que o utilizemos de acordo com nossa própria maneira de ser. Com essa perspectiva, vamos refletir mais uma vez sobre a vida que temos vivido até agora. A vida, o tempo, os talentos, os encontros com outras pessoas, a família, os amigos e a família de Deus que nos foram dados. Como temos usado essas bênçãos?
O primeiro servo disse: “Senhor, com a sua mina, ganhei dez minas”. Um servo que multiplicou por dez o que lhe foi confiado. O segundo servo, da mesma forma, ganhou cinco minas. Cada um receberá a recompensa do rei de acordo com o que fez. Não precisamos invejar isso; basta sermos fiéis, confiando que Deus nos recompensará adequadamente.
O que quero destacar é que, em vez de se gabarem de seus próprios méritos, ambos compreenderam que a fonte de todas as bênçãos vem do rei, dizendo: “Com a sua mina”.
“Com a sua mina”. Aqui está a imagem dos servos que confiam no rei. Não trabalhamos para sermos reconhecidos por Deus. Vivemos em resposta à graça que já recebemos Dele. Não trabalhamos porque queremos muitas recompensas, mas porque queremos ver o rosto feliz do nosso Senhor que nos ama; por isso, trabalhamos enquanto esperamos por sua volta.
Se pensarmos que o bom trabalho é fruto do Espírito Santo, Jesus diz o seguinte: “Permaneçam em mim, e eu permanecerei neles. (…) Sem mim, vocês não podem fazer nada.” (João 15:4-5)
O fruto que o ramo dá não vem da força do próprio ramo. É porque está ligado à árvore e recebe vida dela. Quando nos alegramos com o nosso relacionamento com Deus e caminhamos com confiança, a graça dá frutos em nossa vida. Trabalhamos não para nos vangloriarmos de ter produzido tantos frutos, mas porque queremos compartilhar a alegria de dizer a Deus: “Veja como a minha vida deu frutos”. Nós somos os ramos. Como ramos unidos a Cristo, vamos refletir mais uma vez sobre como usar o que nos foi dado, perguntando-nos: que tipo de vida nos trará uma colheita abundante?
3. O problema não é a capacidade, nem o esforço, nem o resultado, mas como vemos o rei e como vivemos
Por outro lado, o terceiro servo deixou a única mina embrulhada num pano. E disse: “Tive medo, pois o senhor é severo e cobra o que não depositou.” Foi uma reação inesperada. Da mesma forma, embora tivesse recebido a graça de Deus e devesse estar esperando o seu retorno, o coração desse servo estava completamente gelado.
O problema desse servo não era apenas o fato de ele não ter trabalhado ou de ter sido preguiçoso. Seu verdadeiro problema era que ele via o senhor de forma distorcida.
Ele via friamente o senhor, que lhe concedia graça e esperava seu crescimento e amadurecimento, como alguém terrível que o repreenderia por seus erros. Além disso, ele pensou: “De qualquer forma, mesmo que eu ganhe, o senhor vai tirar de mim, então basta apenas guardar até o fim”.
Mas os dois servos anteriores eram diferentes. Eles confiaram no rei. Por isso, fizeram render o que lhes foi confiado. Como é que nós vemos Deus? Como um cobrador assustador que tenta explorar o que nem sequer nos deu? Ou como alguém que nos concede graça, caminha conosco e se alegra com o nosso crescimento?
A transformação de Zaqueu, mencionada anteriormente, foi impressionante. Ele foi transformado. Antes, ele segurava o dinheiro com unhas e dentes, como se fosse seu. Mas, depois de encontrar Jesus, transformou sua riqueza em algo a ser usado diante de Deus. Ele deixou de temer o rei e passou a ser alguém que o alegrava.
Nesse sentido, essa parábola não está dizendo para trabalharmos arduamente apenas para ganhar dinheiro. Pelo contrário, não se trata de para quem e para que estamos usando o tempo, o talento, o corpo e a vida que já nos foram dados?
A propósito, na parábola, havia também aqueles que, desde o início, se opunham ao fato de o rei governar o reino. Para aqueles que rejeitam o rei, espera-se o desfecho de serem rejeitados pelo próprio rei. Nesse sentido, esse terceiro servo foi uma grande perda. Ele esperava o retorno do rei. Desejava que o rei governasse o reino. No entanto, no fundo do coração, não confiava no rei e vivia com um sentimento de frieza. Que desperdício de vida! Não foi justamente para despertar esse sentimento que Jesus contou essa parábola?
Conclusão. Trabalhar confiando no Rei cheio de graça
Por fim, o rei disse: “A quem tem, mais será dado.” Isso não significa que, como no mundo, os ricos ganham ainda mais.
Trata-se do mundo do Reino de Deus, onde aqueles que recebem a graça e amam a Deus são transformados em pessoas que trabalham com abundância. Quem vive confiando no rei passa a participar cada vez mais da obra do rei. A graça de Deus não se resume apenas ao que é visível, como as riquezas terrenas. Pelo contrário, sem nos deixarmos cegar por essas riquezas, nossa capacidade de amar a Deus e ao próximo vai se ampliando.
Não somos meros expectantes do Reino de Deus. Somos aqueles que confiam no Rei que voltará e vivem utilizando a graça que receberam Dele.
A questão não é: “Você fez algo maior do que os outros?”. Mas sim: “Você viveu confiando no Rei que lhe concedeu a graça?”.
Como pessoas ligadas a Cristo, já recebemos a graça. Portanto, não com medo, mas com gratidão. Não por comparação, mas por confiança. Pensando no Rei Jesus, que em breve voltará, e ansiando por sua vinda, vamos seguir em frente utilizando a mina que nos foi confiada hoje.
Oração
Pai celestial.
Agradecemos por nos dar a vida e por nos ter confiado tantas graças até hoje. Que possamos caminhar não medindo nosso valor em comparação com os outros, mas como pessoas amadas por Ti e nas quais Tu confias e a quem Tu confias.
Conceda-nos que, confiando em Cristo, o Rei, possamos avançar em uma caminhada que usa a graça com alegria, e não com medo.
Oramos em nome do Senhor Jesus Cristo. Amém
Sermão do Culto Dominical de 14 de junho de 2026
Evangelho de Lucas 19:11-27
Título da pregação: Nossa maneira de viver enquanto aguardamos o Rei
Introdução. Único? Número um? Ou algo diferente?
1. O Reino de Deus não virá imediatamente. Mas, como um Rei, Ele certamente voltará um dia
2. Quem recebe a graça vive pela graça (João 15:4-5)
3. A questão não é capacidade, esforço ou resultado, mas como vemos o Rei e como vivemos
Conclusão. Trabalhar confiando no Rei cheio de graça