2026年6月28日主日礼拝説教 聖書個所:ローマ人への手紙8:1~4 説教題:キリスト・イエスにある私たち
2026年6月28日主日礼拝説教
聖書個所:ローマ人への手紙8:1~4
説教題:キリスト・イエスにある私たち
序.あなたはキリストとどんな関係に生きている?
最初の一節はこう書いています。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
救われてクリスチャンとなった人なら、「そうか、私は罪が赦されているので、もはや罪に定められることはない。だから天国に行ける。あぁ良かった」と思ってよいところです。しかし、救いを受け取っている私たちの心に、果たしてこの「罪に定められることが決してない」という事実が、どれほどありがたくあたたかいものとして届いていることでしょうか。
ある牧師先生が、救われる前の、礼拝の印象について、「やたらと、毎週毎週、私たちは罪びとだ、罪びとだ」と言ってくると不思議に思っていたと話してくれたことがあります。確かにその通りですね。あまりに罪びと、罪びと、罪、罪と指摘されるので、「私はそんなに悪い人間ではないと思うけどなぁ」と思うこともあるかもしれません。いわゆる悪いこと、犯罪をしようと企んでいる人はおそらくいないのではないでしょうか。
でもどうでしょう。だからといって、それで自分の人生に問題がないと心から思えるでしょうか。自分の心の性質に罪の問題がなく、自分の人生には神様の力によって介入していただく必要は何もないと思えるでしょうか。もし、本当の本当に、自分の人生にも心にもなんの問題もないと思えるのなら、残念ながらと言いますか、その人はいまだ聖霊によって新しく生まれる経験をしていない人です。聖霊によって新しく生まれるまでは、誰も自分の中にある罪の問題に悩むことができないからです。
私たちは自分の人生の課題から目を背けて生きることもできます。目をそらし、心をそらし、仕事と娯楽で人生を満たしながら、忙しい忙しいと騙し騙し時間を過ごすこともできます。けれども、私たちは自分の罪の課題を考えないようにすることで、果たしてそれで自由になれているのでしょうか。むしろ先送りにした分、問題が深刻になっているのではないでしょうか。
2節にはこう書かれています。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」聖書が私たち自身の罪の問題を突き付けるのは、決して私たちを罪の話で責めて悩ませたいのではありません。むしろいのちの御霊の力によって、罪の支配から解放するためなのです。そしてこの恵みは、救われたその時だけでなく、キリストともに歩むその途上においても繰り返し経験することなのです。これこそ、霊的にキリストと結ばれることによる、義認と聖化と栄化の恵みなのです。
1.キリストにある者が罪に定められることは決してない(義認)
救われて「キリストにある者」とされた私たちは、決して罪に定められることはありません。先週のローマ7:25「私は本当にみじめな人間です。」とは一転して平安と喜びに満ちた宣言です。どうして私たちはいまだ罪から離れられないものであるにもかかわらず、罪に定められないのでしょうか。
それこそ8:2にあるように、もはや私たちは罪と死の律法によっては裁かれず、いのちの御霊の律法によって生きるものとされたからです。これは神様と私たちの関係が、質的に変わったことを表しています。「罪に定められない」という表現は、法律的な言い回しです。断罪の判決を受けることがないのです。なぜ断罪されないのでしょう。それはキリストが神の民の罪を十字架で代わりに支払ってくださって、私たちを神の子どもとしてくださったからです。それゆえ私たちはもはや神の家族なので、律法によって罪に定められることがなくなったのです。
この感覚が分かっていただけるでしょうか。私たちが神様に背を向けたままで、罪の奴隷と生きていた時、私たちを裁くのは律法でした。私たちが自分の問題からどんなに目を背けようとも、律法の基準は私たちの罪を指摘して断罪しました。しかし、罪の償いが支払われて、神様が私たちを買い戻し、奴隷から神の子どもとして養子縁組してくださったので、もはや法律が私たちを裁くことがなくなったのです。
一般の法律でも、他人の物を盗んだらその人は法律によって裁かれますが、親のものを子どもが盗んだ場合には刑事罰の対象とはなりません。もちろん、親に対する子どもの罪も償われる必要がありますが、それは親子の愛情と信頼と教育の一環の中で果たされていくものです。もしあなたがキリストにあって神の子どもとされたのなら、あなたはもう神様の家族となっているので、律法によって断罪する領域から外れているのです。あなたはもう神の子どもとして愛されているからです。私たちが救われてのちに犯す罪は、神様が愛して赦して自分の子どもとしてくださったうえで、そのお父さんに対して犯す罪なのです。それはもう二度と、外に追い出され、裁判にかけられる恐れを抱くことのない状態です。確かに私たちの罪は愛してくれるお父さんを悲しませますが、それで私たちの立場が変わるということはないのです。
私たちがどんなに罪深かったとしても、決して二度と、罪に定められることはない。そのことの確かさが3節によって確認することができます。「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。」すなわち、神は私たちの罪を償って、滅びから救ってくださったということです。律法は私たちを断罪しますが、救うことはできません。それゆえ神は私たちを罪の裁きから贖いだすために救い主を送ってくださったのです。ローマ8:3「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」神であるキリストが人となり、その人間性において罪の処罰をすべて引き受けてくださったのです。私たちが裁かれるなら自分で犯した罪のために裁かれます。しかしキリストは肉体を取られましたが、罪を犯すことはありませんでした。「罪深い肉と同じような形で」と書かれているのは、「同じ形」ではなく「同じような形」と書かれているところに意味があります。キリストが罪深い私たち人間と同じ肉体を持ってくださったけれども、しかしキリストは罪を犯されないきよいささげものとなってくださったことを表しています。無限で永遠の聖なる神のいのちの捧げものは、無限で永遠の価値があります。私たちのどんな罪深さよりも強力で有効で圧倒的なのがキリストの贖いの恵みなのです。
罪に定められないというのは、天のお父さんの愛から離されることがないということ。神の子どもとして愛される関係性が絶対に絶たれないということ。私と神様の間にある関係は、律法による裁きではなく、二度と断罪されることのない親子の家族関係なのです。なんという安心でしょうか。私たちの悲しみは、愛するお父さんに対して罪を犯してしまう悲しみであって、決して断罪される悲しみではないのです。だからこそ私たちの罪の悔い改めには慰めがあり、希望があり、平安があるのです。赦されているものとして立ち返ることができるのです。そこにはまたお父さんの愛の中で安心して暮らせるというすがすがしさが回復されるのです。
2.神がキリストを遣わして罪を償ってくださったのは、御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるため(聖化)
しかし、どんな罪も赦されるという父なる神の愛を信頼できたうえで、それでも変わらずに私たちが罪を犯し続けるとしたらそれは悲しいことではないでしょうか。キリストの救いは、キリストを信じますといえば罪を犯し放題というお気楽なものなのでしょうか。
決してそのようなものではありません。パウロもまさに同じ批判を受けました。どんな罪でも赦されるというのが福音なら、それは人間の罪を助長するのではないか、と。ローマ6:15です。「では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みのもとにあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。」そんなことはないのです。なぜでしょうか。その理由がローマ8:4に書かれています。「それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」これは救われた人が体験する聖化の歩みを表現しています。神の子どもとされた人は、罪の奴隷から御霊に従って歩むことをはじめ、その人生において律法が要求していたことを満たしていくというのです。重要なのはこの前後の文脈を正しく読み進めることです。4節の「それは」とは何でしょうか。直前の3節から続いているのです。3節が語っているのは、神がキリストを罪のきよめのために遣わして、私たちの罪を処罰してくださったということです。このこと、つまり神がキリストにおいて私たちの罪を処罰したのは、何のためであったか。それは、御霊に従って歩み始めた私たちのうちに律法の要求が満たされていくためだと言っているのです。ですから、これらはすべて神の救いの御業なのです。神はキリストによって、あなたを二度と罪に定められることのない義認の立場に置いてくださいました。それだけでなく、義認の土台の上で、神はあなたを新しい生き方へと作り変えているという宣言なのです。ここで重要なのは、聖化は義と認められるための条件ではなくて、むしろ神が私たちを義と認めてくださった目的なのです。神は私たちをキリストにあって義と認め、神の子どもとし、聖い歩みへと進ませてくださるのです。義認と聖化は区別されるものですが、決して切り離されることはありません。義と認められた人には必ず聖化が始まります。
感謝なことは、聖化の歩みも、神の恵みだということです。これは私たちが神様の恵みから切り離されたところで、孤独に必死に自力で努力しなければならないという道ではありません。そうではなく、神が罪に定めないと宣言した我が子たちを、御霊によって少しずつキリストに似たものへと変えていく過程なのです。この神の恵みに満たされながら、私たちは努力していくのです。だから、疲れた人も、諦めている人も、また罪から目を背けてきた人も、まず聞くべき言葉は「今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」なのです。神はすでに、あなたをわが子として受け入れてくださったのです。だから、御霊によって歩み始めることができるのです。何度失敗しても、どんな醜態を曝け出しても、いつでもキリストの恵みの中で悔い改め、へりくだり、休むことができるのです。聖化は、神に愛されるための努力ではないのです。神に愛され、罪に定められないものとなった安心の中で、御霊が私たちの内側から始めてくださる新しい生き方です。今日の個所、ローマ8:1~4は、聖化を生み出す福音の力を憐み深く語ってくれているのです。
むすび.キリストはあなたのものであり、あなたはキリストのもの
今日確認したいことは、最も肝心なのはあなたが「キリスト・イエスにある者」とされているということです。神であり人であるイエス・キリストの贖いが、本当にあなた自身のものであるならば、「キリストはあなたのものであり、あなたはキリストのもの」です。その人は神の子どもであり、二度と罪に定められず、いのちの御霊の力によって生まれ変わっており、神によって律法を満たす生き方へと導かれ続けるのです。その歩みは、神が天の御国に入る時に必ず完成してくださいます。
クリスチャンは、自分自身についてのこの霊的事実を確信しましょう。確信が、私たちを新しい生き方へと導いてくれるからです。救いの主体はいつも神ご自身です。神が御子を遣わした。神が私たちの罪を処罰してくださった。神は私たちを罪に定めない。この神が、私たちを御霊によって歩ませるのです。私たちはキリスト・イエスにあるもの。だから、義認の恵みの土台の上で、御霊によって聖化の道を歩み、必ず栄化の恵みに至るのです。新しい一週間を、この信仰の確信とともに歩むなら、先週とどんな違いがもたらされることでしょう。神様の恵みに期待して、この確信を握りしめて歩みだしましょう。
「私たちは御霊によって新しく生まれ、罪の奴隷から神の子どもという霊的立場に移されました。罪の残存はなお生活の全領域に及んでおり、栄化に至るまで罪と戦い続けます。しかし、生活全体は御霊の支配のもとに置かれ、全領域において義認の恵みに支えられながら、御霊による聖化の恵みを受け、変えられ続けます。キリスト・イエスにある神の子どもが罪に定められることは決してありません。」
2026年6月28日主日礼拝説教
聖書個所:ローマ人への手紙8:1~4
説教題:キリスト・イエスにある私たち
序.あなたは、キリストを必要としている?
1.キリストにある者が罪に定められることは決してない(義認)
2.神がキリストを遣わして罪を償ってくださったのは、御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるため(聖化)
むすび.キリストはあなたのものであり、あなたはキリストのもの
Sermão do Culto Dominical de 28 de junho de 2026
Passagem bíblica: Carta aos Romanos 8:1–4
Título do sermão: Nós, em Cristo Jesus
Introdução. Que tipo de relação você mantém com Cristo?
O primeiro versículo diz o seguinte: “Portanto, agora, ninguém que está em Cristo Jesus será condenado.”
Quem foi salvo e se tornou cristão poderia pensar: “Então, como meus pecados foram perdoados, não serei mais condenado pelo pecado. Por isso, poderei ir para o céu. Ah, que alívio!”. No entanto, será que esse fato de “nunca mais ser condenado pelo pecado” realmente chega ao nosso coração — nós que recebemos a salvação — como algo de verdadeiramente gratificante e reconfortante?
Certa vez, um pastor me contou que, antes de ser salvo, achava estranho que, semana após semana, durante os cultos, repetissem incessantemente: “Somos pecadores, somos pecadores”. É verdade, não é mesmo? Por sermos constantemente apontados como pecadores, pecadores, pecado, pecado, talvez possamos pensar: “Mas eu não acho que seja uma pessoa tão má assim”. Provavelmente, ninguém está planejando cometer o que chamamos de coisas ruins ou crimes.
Mas e então? Será que, por causa disso, você consegue acreditar de verdade que não há nenhum problema em sua vida? Será que consegue acreditar que não há o problema do pecado na natureza do seu coração e que não há necessidade alguma de Deus intervir em sua vida por meio do Seu poder? Se você realmente, de verdade, acredita que não há nenhum problema em sua vida nem em seu coração, então, infelizmente, essa pessoa ainda não passou pela experiência de nascer de novo pelo Espírito Santo. Pois, até nascer de novo pelo Espírito Santo, ninguém consegue se angustiar com o problema do pecado que existe dentro de si.
Podemos viver desviando o olhar dos desafios da nossa vida. Podemos desviar o olhar, desviar o coração, preencher a vida com trabalho e lazer, e passar o tempo nos enganando, dizendo que estamos ocupadíssimos. No entanto, ao evitar pensar nos nossos problemas relacionados ao pecado, será que realmente estamos nos tornando livres? Pelo contrário, não será que, quanto mais adiamos, mais graves os problemas se tornam?
No versículo 2 está escrito: “Pois a lei do Espírito da vida em Cristo Jesus te libertou da lei do pecado e da morte.” A Bíblia nos confronta com o problema do nosso próprio pecado, não para nos culpar ou nos atormentar com essa questão. Pelo contrário, é para nos libertar do domínio do pecado pelo poder do Espírito da vida. E essa graça é algo que experimentamos repetidamente, não apenas no momento da salvação, mas também ao longo da jornada em que caminhamos com Cristo. Essa é, precisamente, a graça da justificação, da santificação e da glorificação que advém da união espiritual com Cristo.
1. Quem está em Cristo nunca será condenado pelo pecado (justificação)
Nós, que fomos salvos e tornados “pessoas em Cristo”, nunca seremos condenados pelo pecado. Em contraste com a frase de Romanos 7:25 da semana passada — “Que homem miserável sou eu!” —, esta é uma declaração repleta de paz e alegria. Por que, apesar de ainda não termos nos libertado do pecado, não somos condenados por ele?
É precisamente porque, como diz Romanos 8:2, já não somos julgados pela lei do pecado e da morte, mas fomos constituídos para viver pela lei do Espírito da vida. Isso demonstra que a relação entre Deus e nós mudou qualitativamente. A expressão “não somos condenados” é uma formulação jurídica. Isso significa que não recebemos sentença de condenação. Por que não somos condenados? Porque Cristo pagou pelo pecado do povo de Deus na cruz em nosso lugar e nos tornou filhos de Deus. Portanto, como agora fazemos parte da família de Deus, não somos mais condenados pela lei.
Será que vocês conseguem compreender essa sensação? Quando vivíamos de costas para Deus, como escravos do pecado, era a Lei que nos julgava. Por mais que tentássemos desviar o olhar de nossos próprios problemas, os padrões da Lei apontavam nossos pecados e nos condenavam. No entanto, como o preço do pecado foi pago, Deus nos resgatou e nos adotou como filhos de Deus, tirando-nos da escravidão; por isso, a Lei não nos julga mais.
Mesmo na legislação civil, quem rouba o bem alheio é julgado pela lei, mas quando um filho rouba algo dos pais, isso não é passível de punição criminal. É claro que o pecado do filho para com os pais também precisa ser reparado, mas isso se dá no âmbito do amor, da confiança e da educação entre pais e filhos. Se você se tornou filho de Deus em Cristo, já faz parte da família de Deus e, portanto, está fora do âmbito da condenação pela Lei. Isso porque você já é amado como filho de Deus. Os pecados que cometemos após sermos salvos são pecados cometidos contra o Pai, que nos amou, nos perdoou e nos tornou seus filhos. Trata-se de uma situação em que não precisamos mais temer ser expulsos nem ser levados a julgamento. É verdade que nossos pecados entristecem o Pai que nos ama, mas isso não altera nossa posição.
Por mais pecadores que tenhamos sido, nunca mais seremos condenados pelo pecado. A certeza disso pode ser confirmada no versículo 3: “O que a carne, por sua fraqueza, não podia cumprir, Deus o fez.” Ou seja, Deus expiou nossos pecados e nos salvou da perdição. A Lei nos condena, mas não pode nos salvar. Por isso, Deus enviou o Salvador para nos resgatar do julgamento do pecado. Romanos 8:3: “Deus enviou o seu Filho, na semelhança da carne pecaminosa, para a expiação do pecado, a fim de punir o pecado na carne.” Cristo, que é Deus, tornou-se homem e, em sua humanidade, assumiu toda a punição pelo pecado. Se formos julgados, seremos julgados pelos pecados que cometemos. No entanto, embora Cristo tenha assumido a carne, ele não cometeu pecado. O fato de estar escrito “na forma semelhante à da carne pecaminosa” tem um significado importante, pois não diz “na mesma forma”, mas “na forma semelhante”. Isso expressa que, embora Cristo tenha assumido a mesma carne que nós, seres humanos pecadores, Ele se tornou uma oferta pura, que não cometeu pecado. A oferta da vida do Deus santo, infinito e eterno, tem um valor infinito e eterno. A graça redentora de Cristo é mais poderosa, eficaz e avassaladora do que qualquer profundidade do nosso pecado.
Não ser condenado pelo pecado significa que nunca seremos separados do amor do Pai celestial. Significa que a relação de amor como filhos de Deus nunca será rompida. A relação entre mim e Deus não é um julgamento baseado na lei, mas uma relação familiar entre pai e filho, na qual nunca mais serei condenado. Que grande tranquilidade! Nossa tristeza é a tristeza de pecar contra o Pai que amamos, e nunca a tristeza de sermos condenados. É por isso que o arrependimento de nossos pecados traz consolo, esperança e paz. Podemos voltar a Ele como pessoas perdoadas. Ali, recuperamos a sensação revigorante de poder viver em segurança no amor do Pai.
2. Deus enviou Cristo para expiar nossos pecados a fim de que as exigências da Lei fossem cumpridas em nós, que caminhamos segundo o Espírito (santificação)
No entanto, se, mesmo confiando no amor de Deus Pai, que perdoa todos os pecados, continuarmos a pecar sem mudar, isso não seria algo triste? A salvação em Cristo seria algo tão fácil assim, do tipo “basta dizer que acredita em Cristo para poder pecar à vontade”?
De forma alguma é assim. Paulo também recebeu exatamente a mesma crítica: se o evangelho diz que qualquer pecado é perdoado, isso não estaria incentivando o pecado humano? Veja Romanos 6:15: “Então, o que dizer? Por estarmos sob a graça e não sob a lei, vamos pecar? De modo algum.” Não é assim. Por quê? A razão está escrita em Romanos 8:4. “Isso é para que as exigências da Lei sejam cumpridas em nós, que não andamos segundo a carne, mas segundo o Espírito.” Isso expressa a caminhada de santificação que a pessoa salva experimenta. Quem se tornou filho de Deus deixa de ser escravo do pecado e começa a andar segundo o Espírito, cumprindo, ao longo de sua vida, o que a Lei exigia. O importante é ler corretamente o contexto antes e depois desse versículo. O que significa o “isso” do versículo 4? É uma continuação do versículo 3, imediatamente anterior. O versículo 3 fala de como Deus enviou Cristo para a purificação do pecado, punindo nossos pecados. Para que serviu isso, ou seja, o fato de Deus ter punido nossos pecados em Cristo? O texto afirma que foi para que as exigências da Lei fossem cumpridas em nós, que começamos a andar segundo o Espírito. Portanto, tudo isso é obra da salvação de Deus. Por meio de Cristo, Deus colocou você em uma posição de justificação, na qual nunca mais será condenado pelo pecado. Além disso, trata-se de uma declaração de que, com base nessa justificação, Deus está transformando você para um novo modo de vida. O importante aqui é que a santificação não é uma condição para sermos reconhecidos como justos, mas sim o propósito pelo qual Deus nos reconheceu como justos. Deus nos reconhece como justos em Cristo, nos torna filhos de Deus e nos conduz a uma vida santa. A justificação e a santificação são conceitos distintos, mas nunca podem ser separados. Para quem é reconhecido como justo, a santificação certamente terá início.
O que é motivo de gratidão é que a jornada da santificação também é uma graça de Deus. Não se trata de um caminho em que, separados da graça de Deus, tenhamos de nos esforçar desesperadamente por conta própria, em solidão. Pelo contrário, é o processo pelo qual Deus, por meio do Espírito Santo, transforma gradualmente Seus filhos — aqueles que Ele declarou não serem condenados pelo pecado — à semelhança de Cristo. É assim que nos esforçamos, cheios dessa graça de Deus. Portanto, tanto para quem está cansado, quanto para quem desistiu, ou ainda para quem tem evitado encarar o pecado, a primeira palavra que deve ouvir é: “Agora, ninguém que está em Cristo Jesus será condenado”. Deus já o aceitou como seu filho. Por isso, você pode começar a caminhar pelo Espírito. Não importa quantas vezes você falhe, nem quais que sejam as vergonhas que exponha, a qualquer momento você pode se arrepender, se humilhar e descansar na graça de Cristo. A santificação não é um esforço para ser amado por Deus. É um novo modo de vida que o Espírito inicia dentro de nós, na segurança de já sermos amados por Deus e de não sermos condenados pelo pecado. A passagem de hoje, Romanos 8:1–4, fala com misericórdia sobre o poder do Evangelho que gera a santificação.
Conclusão. Cristo é seu, e você pertence a Cristo
O que queremos reafirmar hoje é que o mais importante é que você é considerado “alguém que está em Cristo Jesus”. Se a redenção de Jesus Cristo, que é Deus e homem, é realmente sua, então “Cristo é seu, e você pertence a Cristo”. Essa pessoa é filha de Deus, nunca mais será condenada pelo pecado, renasceu pelo poder do Espírito da Vida e continua sendo guiada por Deus para uma vida que cumpre a Lei. Essa caminhada será certamente consumada por Deus quando entrarmos no Reino dos Céus.
Que os cristãos tenham certeza dessa realidade espiritual a respeito de si mesmos. Pois é essa convicção que nos conduz a um novo modo de vida. O sujeito da salvação é sempre o próprio Deus. Deus enviou o Seu Filho. Deus puniu nossos pecados. Deus não nos condena pelo pecado. É esse Deus que nos faz caminhar pelo Espírito. Nós pertencemos a Cristo Jesus. Portanto, sobre o alicerce da graça da justificação, caminhamos pela via da santificação pelo Espírito e certamente chegaremos à graça da glorificação. Se caminharmos nesta nova semana com essa convicção de fé, que diferença isso trará em relação à semana passada! Esperando na graça de Deus, partamos caminhando com essa convicção firmemente em nossas mãos.
“Fomos renascidos pelo Espírito e transferidos da condição de escravos do pecado para a posição espiritual de filhos de Deus. Os resquícios do pecado ainda se estendem por todas as áreas da vida, e continuaremos lutando contra o pecado até chegarmos à glorificação. Toda a nossa vida está sob o domínio do Espírito Santo e, apoiados pela graça da justificação em todas as áreas, recebemos a graça da santificação pelo Espírito Santo e continuamos a ser transformados. Um filho de Deus em Cristo Jesus nunca será condenado pelo pecado.”
Sermão do Culto Dominical de 28 de junho de 2026
Passagem bíblica: Carta aos Romanos 8:1–4
Título da pregação: Nós, em Cristo Jesus
Introdução. Você precisa de Cristo?
1. Quem está em Cristo nunca será condenado pelo pecado (justificação)
2. Deus enviou Cristo para expiar o pecado a fim de que as exigências da Lei fossem cumpridas em nós, que andamos segundo o Espírito (santificação)
Conclusão. Cristo é seu, e você pertence a Cristo