2026年6月21日主日礼拝説教 ローマ人への手紙7:14~25 説教題:みじめさを抱えてキリストの恵みに立ち返る
2026年6月21日主日礼拝説教
ローマ人への手紙7:14~25
説教題:みじめさを抱えてキリストの恵みに立ち返る
序.神の恵みと私の努力のはざまで
福音の恵みと私たちの努力。しばしば、この二つのことが、私たちの頭と心で、うまく理解できなくなることがあります。福音の恵み。救いは徹頭徹尾、神の恵みです。そして救われたあとの聖化の歩みも、神の恵みです。生まれながらにして罪の病にかかっている私たちは、神の恵みがなければ罪を罪と認めることができません。その人が救われていないことは、自分が神の前に罪があると感じていないことで明らかになります。自分の罪を認めること、イエス・キリストに信頼すること、キリストにあって愛せる人に変わりたいと願うこと、実際に変わっていくこと、そして天の御国に入ること。そのすべては神様が贈り物として私たちに与えてくれるプレゼント、恵みです。
では私たちは救われて神の子どもとして成長していく歩みの中で努力する必要はないのでしょうか。神の恵みと私の努力は矛盾するように思われます。これは聖書自身がはっきりと教えています。その過程において、私たちは必ず努力することになります。例えばピリピ2:12~13「こういうわけですから、愛する者たち……恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」この個所は聖化のバランスをよく示しています。救われた人は、自分の人生において救いの恵みによる変化がより深く表れるように、救いの達成のために努力します。しかし、それは救われるための努力ではありません。救われた人が努力するのは、まさに救ってくださった神が、私たちの心に働きかけてくださり、変わりたいと願わせ、内面の変化と行動の変化を与えてくださるからなのです。神がまず私たちの中で働いてくださる。だからこそ救われた人は必ず神のみ心に沿って努力することへと向かうのです。ほかにも、愛と聖さ、忍耐と柔和を追い求めなさいと促す個所はたくさんあります。いったい誰が、何の努力もせず、葛藤もせずに、これらのみ言葉を実践できるでしょうか。確かに、恵みによって救われたひとの人生には、恵みに基づいた努力が生まれるのです。
ここまでは納得していただけると思います。しかし、いざこれを実践しようとすると、私たちはどちらかに傾いてしまうようです。ある人は、「救いは恵みで、聖化も恵みだ」と考えているうちに、聖書の言葉を実践するために努力することをないがしろにしてしまうことがあります。み言葉に従えなくても、神様は救ってくれているのでしょう。私が罪を犯しても、あなたは私を赦すべきでしょう。そうして、自分の罪の悲惨さに向き合わず、相手には赦しを要求し、神の恵みにあぐらをかいて、どこまでも自己正当化してしまうことがあります。
あるいは、逆もあります。救われた恵みがあるのは理解していても、どこかで今のままの自分ではダメだと感じている。変わらないと神様に愛されていないと思ってしまう。自分に厳しくする。そしてほかの兄弟姉妹にも厳しくしてしまう。神様の恵みを喜び楽しむというよりも、まるで救われるためには正しく生き続けなくてはならないと思っているかのような、強迫的な焦りを覚えてしまう。どちらも、神の愛と恵みによって生かされて、成長・成熟していく、バランスの良い関係から外れてしまっています。
パウロはこのローマ7章の後半で、「キリストの恵みに頼らないで、自分を聖くしようとする生き方の苦しみ」を描いています。キリストの恵みに頼ること。そしてその恵みによって、自分自身を変えていただくこと。今一度、この恵みによって努力するという聖化の歩みを学びたいと思います。
1.自分の力で聖くなろうとする苦しみ
今日読んだ箇所が、救われた後の経験について語っているのか、救われる前の経験について語っているのか、については信頼できる改革派神学の立場に立つ注解者たちのなかにも意見が分かれています。それぞれの立場に妥当性があり、それぞれに筋が通った説明ができます。私としては、そのどちらを取るかというよりも、聖書そのものの自然な流れにそって、この個所を「キリストの恵みに頼らないで、自分を聖くしようとする生き方」を描いていると読みたいと思います。救われていない人はもちろんキリストの恵みに頼ることができません。また、救われた人でも、キリストの恵みに頼らなければ自分自身の力だけで自分を変えることはできないからです。つまり、どちらの立場の人に対しても、今日の個所は等しく普遍的なメッセージを伝えています。キリストの恵みがなければ私たち自身のうちには救われるべき要素はなく、恵みによらなければ私たちは罪の性質から離れることはできないということです。
皆さんは、自分のなかに罪の性質がしみついているということをよく自覚するタイプでしょうか。それとも、あまり認めないタイプでしょうか。これには信仰とは別に、性格的なものもあると思います。
有名な話ですが、宗教改革者であったルターは、修道士時代に自分自身の罪の意識に深く悩んだ人でした。彼は非常に真剣に神に仕えようとして、断食、祈り、罪の告白などさまざまな修練に励みました。しかしそんな彼が直面したのは、罪の悔い改めをしたその瞬間に、まだ告白していない罪があるのではないか、自分でも気づいていない罪があるのではないかと不安に襲われるという状況でした。まじめな人、真剣な人、努力する人、完璧を目指す人。確かにこういう傾向のある人は、ルターほどではないにしても似たような経験や感覚をもったことがあるでしょう。
私たちが真実に自分の心の在り方を点検するなら、私たちの心には赦さない心、罪を認めない心、他者を責める心、神を忘れて自分の願いを優先したい心、他者よりも自分を優先したい心。そちらに傾く思いや言葉や行動が次々に湧いてくるのに気が付くでしょう。パウロはこのような自覚を次のように表現しました。15節「私には自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」私たちは神の言葉である律法に従いたいと願います。神を愛し人を愛せる人になりたいと思います。頭ではそれを理解していて、心でもそれを願っている。それなのに、結果として私たちの人生には、赦さない心、苦々しい思い、争いと仲たがいが生まれてしまう。自分の中で矛盾が起きているという現実があるのです。
自分の心に言い訳をしないなら、このみ言葉に胸を刺されない人は一人もいないでしょう。言っていることとやっていることが矛盾している。それだけではありません。やりたいと願っていることと、実際にやっていることが矛盾しているのです。もはや、正しい自己認識ができていない。愛せる人になりたいですと願いながら、まさに同時進行で、あの人は赦せないと思っている。そういう自己矛盾があることに気が付けるでしょうか。そういう自分の醜さに真正面するなら、本当に私たちは自分の罪というものに対して無力、無策。どうしようもないのだということが心底実感されるのです。
まさに21節の状況です。善を行いたいと願っている。その私に悪が存在する。そういう原理、そういう力、そういう仕組みが働いているという現実です。パウロは、こういう描写をして、自分が悪いのではなくて、私の中の悪が問題なのだと責任転嫁をしているのではありません。私の中に住み着いている罪と悪の力は、もはや分離不可能なほどに私自身と結びついているといっているのです。聖書に従って生きていきたいと願いと、それに反して生きていきたいという罪の力が、まさに日々霊的な格闘を繰り広げている、と。そして多くの場合、私たちは本当はしたくないはずの悪を行ってしまう。愛し合いたいといいながら、悪いのはあの人なのですと言って別れてしまう。赦しあいたいと願いながら、もう赦せないと怒りを抱いてしまう。
2.私自身の罪と無力を知って、キリストに向かう
こうして、聖書の言葉を実践しようと努力するすべての人が口にするだろう言葉が24節です。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
パウロは、かつてキリストに出会う前の自分の生き方を思い出していたのかもしれません。あるいは、その後も、自分自身の努力で愛を実践しようとしたときの苦しみを告白したのかもしれません。パウロもこのような告白をしていたのだという事実は、実際私たちの深い慰めではないでしょうか。努力をしたら悩まない人になれるのではない。ものすごく強い信仰があれば、罪を一切おかさない人間に変われるというのではない。まさに神に従おう真剣に願ったからこそ、このような痛みと悲しみを経験するのです。
もしここで話が終わるならクリスチャンの人生は苦痛に満ちたものに終わってしまいます。しかし、感謝なことにそうではありませんでした。まさに自分自身の中には、自分を罪から離れさせ、聖くする力はないと絶望したところでパウロは25節を挿入したのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と。私たちは、自分を滅びから救うことも、また罪の歩みから救い出すこともできません。できると思ってやってみればすぐにわかることです。自分をだましているだけで、本当に私たちの中から真実な愛は生まれないのです。唯一の望みは、イエス・キリストにある赦しと、父なる神の愛と、聖霊なる神の恵みによって御霊の実が私たちの中に与えられていくことなのです。
3.キリストにある恵みのなかで努力する
最後に、実践的なことをお話しして終わりにしたいと思います。それは、キリストの恵みに頼らない努力と、キリストの恵みに頼った努力は、現実的に何が違うのか、ということです。最初に原則となるみ言葉を確認しておきます。それはローマ書1:17「義人は信仰によって生きる」です。義人は努力によって生きるではありません。神のみ言葉によって正しくいきたい、愛する人になりたいと願う人は必ず努力します。努力しなければ、罪びとが正しい生き方を実践することはできないからです。しかし、努力するたびに何度も帰ってくる事実が、私は愛を選べないこと、感じ方にも考え方にも歪みと問題があること。そしてこんな私を、キリストは愛し、赦し、忍耐して、神の子としてともに歩み続けてくださるという信仰なのです。
私たちは自分の罪のしつこさに絶望しますが、その度に、それを上回る神の愛のしつこさに救われるのです。罪を悲しむことは、自分の知恵を超えた、神様の不思議な義認と聖化の恵みの中に自分自身をお委ねすることへと向かわせるのです。だから、罪を犯し続ける自分のみじめさを告白することと、キリストにあって神の愛と赦しと聖化の恵みに感謝をささげることは、いつもクリスチャンの歩みにおいてセットなのです。
結び.恵みの中で罪を悔い改め、キリストに立ち返り続ける歩み
このような事柄は、知識として知ることであると同時に、御霊によってただ信仰の経験によって獲得される真理です。聖霊の恵みの中で、私たちは聖書に従いたいと願い、真剣に努力します。また恵みの中で罪に直面し、自分に絶望し、キリストの絶対的な赦しが本当に必要であることを確信します。そしてこの神の恵みと愛に感謝し、信頼することによって慰められ、励まされて、少しずつ神の言葉の力を体験し、愛することや聖く生きることにおいて変えられていくのです。徹頭徹尾、私たちを内側から作り変えるのは、神の恵みであり、キリストに頼る信仰であり、こんな罪深い私を神が愛してくださっているという感謝の応答なのです。
キリストの恵みによって、救われ、努力し、悔い改め、愛の人へと変えられていく人生。そのような真実な神様との関係を楽しみ、深めていく歩みを今週も進めてまいりましょう。
祈り
父なる神様。私たちは、自分の力で自分を変えようとしては倒れ、自分の罪深さに気づいては失望します。しかし、私たちの救いも、成長も、すべてはあなたの恵みの中にあることを感謝します。
自分の正しさではなくキリストの義により頼み、御霊の働きによって変えられていくことを経験させてください。その体験を、信仰によって見つめさせてください。罪を悲しむ時にも、そこからキリストの愛と赦しへ向かうことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
2026年6月21日主日礼拝説教
ローマ人への手紙7:14~25
説教題:みじめさを抱えてキリストの恵みに立ち返る
序.神の恵みと私の努力のはざまで
1.自分の力で聖くなろうとする苦しみ
2.私自身の罪と無力を知って、キリストに向かう
3.キリストにある恵みのなかで努力する
結び.恵みの中で罪を悔い改め、キリストに立ち返り続ける歩み
Sermão do Culto Dominical de 21 de junho de 2026
Epístola aos Romanos 7:14–25
Título do sermão: Retornando à graça de Cristo com nossa miséria
Introdução. Entre a graça de Deus e o meu esforço
A graça do Evangelho e nossos esforços. Muitas vezes, essas duas coisas se tornam difíceis de compreender em nossa mente e em nosso coração. A graça do Evangelho. A salvação é, do início ao fim, graça de Deus. E a caminhada de santificação após a salvação também é graça de Deus. Nós, que nascemos com a doença do pecado, não podemos reconhecer o pecado como tal sem a graça de Deus. O fato de uma pessoa não estar salva fica evidente quando ela não sente que está em pecado diante de Deus. Reconhecer os próprios pecados, confiar em Jesus Cristo, desejar tornar-se uma pessoa capaz de amar em Cristo, mudar de fato e entrar no Reino dos Céus. Tudo isso é um presente, uma graça que Deus nos concede.
Então, será que não precisamos nos esforçar nessa jornada em que somos salvos e crescemos como filhos de Deus? A graça de Deus e o meu esforço parecem contraditórios. Isso é o que a própria Bíblia ensina claramente. Nesse processo, nós inevitavelmente teremos que nos esforçar. Por exemplo, Filipenses 2:12–13: “Portanto, meus amados... trabalhem com temor e tremor pela sua salvação. Pois é Deus quem opera em vocês, tanto o querer como o realizar, segundo a sua boa vontade.” Essa passagem ilustra bem o equilíbrio da santificação. A pessoa salva se esforça para alcançar a salvação, a fim de que a transformação resultante da graça da salvação se manifeste mais profundamente em sua vida. No entanto, esse esforço não é para ser salva. A pessoa salva se esforça precisamente porque o próprio Deus, que a salvou, atua em nosso coração, despertando em nós o desejo de mudar e concedendo-nos transformação interior e mudança de comportamento. Deus é quem age primeiro em nós. É por isso que a pessoa salva inevitavelmente se orienta para o esforço de acordo com a vontade de Deus. Além disso, há muitos trechos que nos exortam a buscar o amor, a santidade, a paciência e a mansidão. Afinal, quem seria capaz de colocar essas palavras em prática sem nenhum esforço e sem qualquer conflito interior? Certamente, na vida daquele que foi salvo pela graça, surge um esforço baseado na graça.
Acho que até aqui vocês concordam. No entanto, quando tentamos colocar isso em prática, parece que acabamos nos inclinando para um dos lados. Algumas pessoas, ao pensarem que “a salvação é pela graça e a santificação também é pela graça”, acabam negligenciando o esforço necessário para colocar em prática as palavras da Bíblia. “Mesmo que eu não obedeça à Palavra, Deus vai me salvar, não é? Mesmo que eu peque, você deve me perdoar.” Assim, sem encarar a gravidade de seus próprios pecados, exigem perdão do outro, acomodam-se na graça de Deus e acabam se justificando indefinidamente.
Ou pode acontecer o contrário. Mesmo compreendendo que a salvação é uma graça, em algum lugar sentimos que, do jeito que estamos, não somos bons o suficiente. Acabamos achando que, se não mudarmos, Deus não nos ama. Somos severos conosco mesmos. E acabamos sendo severos também com os outros irmãos e irmãs. Em vez de nos alegrarmos e desfrutarmos da graça de Deus, sentimos uma ansiedade compulsiva, como se, para sermos salvos, tivéssemos que continuar vivendo de maneira correta. Em ambos os casos, estamos nos afastando de uma relação equilibrada, na qual somos sustentados pelo amor e pela graça de Deus e crescemos e amadurecemos.
Paulo, na segunda metade do capítulo 7 de Romanos, descreve “o sofrimento de uma vida em que se tenta santificar-se sem confiar na graça de Cristo”. Confiar na graça de Cristo. E, por meio dessa graça, permitir que Ele nos transforme. Gostaria de aprender, mais uma vez, essa jornada de santificação que consiste em nos esforçarmos por meio dessa graça.
1. O sofrimento de tentar tornar-se santo por meio de suas próprias forças
Quanto à questão de saber se a passagem lida hoje fala da experiência após a salvação ou da experiência antes da salvação, há divergências de opinião mesmo entre os exegetas que defendem posições teológicas reformadas confiáveis. Cada posição tem sua validade e pode oferecer uma explicação coerente. Pela minha parte, em vez de escolher uma das duas opções, prefiro interpretar esta passagem, seguindo o fluxo natural da própria Bíblia, como uma descrição de “um modo de vida em que se tenta tornar-se santo sem confiar na graça de Cristo”. É claro que quem não é salvo não pode confiar na graça de Cristo. Além disso, mesmo quem já foi salvo não consegue transformar-se por suas próprias forças se não confiar na graça de Cristo. Em outras palavras, a passagem de hoje transmite uma mensagem igualmente universal para pessoas de ambas as posições. Isso significa que, sem a graça de Cristo, não há em nós nenhum elemento que nos torne dignos de salvação e que, sem a graça, não podemos nos afastar da natureza pecaminosa.
Vocês são do tipo que tem plena consciência de que a natureza pecaminosa está arraigada em vocês? Ou são do tipo que não gosta muito de admitir isso? Acho que, além da fé, isso também tem a ver com a personalidade.
É uma história famosa: Lutero, o reformador, era alguém que, durante seu período como monge, sofria profundamente com a consciência de seus próprios pecados. Ele se empenhava com grande seriedade em servir a Deus, dedicando-se a várias práticas de ascetismo, como jejum, oração e confissão de pecados. No entanto, mesmo alguém como ele se deparava com a seguinte situação: no exato momento em que se arrependia de um pecado, era tomado pela ansiedade de que talvez houvesse algum pecado que ainda não tivesse confessado, ou algum pecado do qual nem mesmo tivesse consciência. Pessoas sérias, dedicadas, esforçadas e que buscam a perfeição. Certamente, quem tem essa tendência já passou por experiências ou sensações semelhantes, mesmo que não na mesma intensidade que Lutero.
Se examinarmos com sinceridade o estado de nosso coração, perceberemos que nele há uma disposição para não perdoar, para não reconhecer o pecado, para culpar os outros, para esquecer Deus e priorizar nossos próprios desejos, e para nos colocar à frente dos outros. Perceberemos que pensamentos, palavras e ações que se inclinam para esse lado surgem continuamente. Paulo expressou essa autoconsciência da seguinte maneira: Versículo 15: “Não compreendo o que faço; pois não faço o que quero, mas faço o que odeio.” Desejamos obedecer à Lei, que é a Palavra de Deus. Queremos ser pessoas capazes de amar a Deus e ao próximo. Entendemos isso com a razão e também o desejamos no coração. No entanto, o resultado é que, em nossa vida, surgem um coração que não perdoa, sentimentos amargos, disputas e desentendimentos. A realidade é que existe uma contradição dentro de nós.
Se não dermos desculpas a nós mesmos, não haverá ninguém cujo coração não seja tocado por esta palavra. O que dizemos e o que fazemos estão em contradição. E não é só isso. O que desejamos fazer e o que realmente fazemos também estão em contradição. Já não conseguimos ter uma autoconcepção correta. Enquanto desejamos “querer ser alguém capaz de amar”, ao mesmo tempo pensamos: “Não consigo perdoar aquela pessoa”. Será que conseguimos perceber essa contradição interior? Se encararmos de frente essa nossa feiura, perceberemos do fundo do coração que somos realmente impotentes e desamparados diante do nosso próprio pecado. Não há nada que possamos fazer.
É exatamente a situação descrita no versículo 21. Desejamos praticar o bem. Mas, dentro de mim, existe o mal. Essa é a realidade: esse princípio, essa força, esse mecanismo está em ação. Ao fazer essa descrição, Paulo não está transferindo a culpa, dizendo que o problema não é ele, mas o mal que há dentro dele. Ele está afirmando que o poder do pecado e do mal que habita em mim está tão intimamente ligado a mim mesmo que já se tornou inseparável. O desejo de viver de acordo com a Bíblia e a força do pecado, que quer que eu viva de maneira contrária a isso, travam diariamente uma verdadeira luta espiritual. E, na maioria das vezes, acabamos cometendo o mal que, na verdade, não deveríamos cometer. Dizemos que queremos amar uns aos outros, mas acabamos nos separando, alegando que a culpa é da outra pessoa. Desejamos perdoar uns aos outros, mas acabamos guardando raiva, dizendo que não conseguimos mais perdoar.
2. Reconhecer meu próprio pecado e minha impotência, e voltar-me para Cristo
Assim, o versículo 24 contém as palavras que provavelmente toda pessoa que se esforça para colocar em prática as palavras da Bíblia diria: “Que misérimo sou eu! Quem me livrará deste corpo de morte?”
Talvez Paulo estivesse relembrando o modo como vivia antes de encontrar Cristo. Ou talvez estivesse confessando o sofrimento que sentiu ao tentar, mesmo depois disso, praticar o amor por meio de seus próprios esforços. O fato de Paulo ter feito essa confissão não é, na verdade, um profundo consolo para nós? Não é que, se nos esforçarmos, nos tornaremos pessoas sem angústias. Não é que, se tivermos uma fé extremamente forte, nos tornaremos seres humanos que não cometem nenhum pecado. É justamente por desejarmos sinceramente seguir a Deus que passamos por essa dor e essa tristeza.
Se a história terminasse aqui, a vida do cristão acabaria sendo repleta de sofrimento. No entanto, felizmente, não foi assim. Justamente quando se desesperou, reconhecendo que não havia em si mesmo força para se afastar do pecado e se tornar santo, Paulo inseriu o versículo 25: “Damos graças a Deus por meio de nosso Senhor Jesus Cristo”. Não podemos nos salvar da perdição, nem nos livrar de uma vida de pecado. Se pensarmos que podemos e tentarmos, perceberemos isso imediatamente. Estamos apenas nos enganando, pois o amor verdadeiro não nasce de dentro de nós. Nossa única esperança está no perdão em Jesus Cristo, no amor de Deus Pai e na graça do Espírito Santo, por meio dos quais os frutos do Espírito são concedidos a nós.
3. Esforçar-se na graça em Cristo
Por fim, gostaria de encerrar com uma reflexão prática. Trata-se de qual é, na realidade, a diferença entre o esforço que não se apóia na graça de Cristo e aquele que se apóia nela. Primeiro, vamos confirmar a palavra de Deus que serve de princípio. É Romanos 1:17: “O justo viverá pela fé”. O justo não vive pelo esforço. Quem deseja viver de maneira correta segundo a Palavra de Deus e tornar-se uma pessoa capaz de amar certamente se esforçará. Isso porque, sem esforço, um pecador não consegue praticar uma vida justa. No entanto, há um fato que se repete sempre que me esforço: eu sou incapaz de escolher o amor, e tanto a minha maneira de sentir quanto a de pensar apresentam distorções e problemas. E é nessa fé que Cristo ama, perdoa e tem paciência com alguém como eu, continuando a caminhar ao meu lado como filho de Deus.
Nós nos desesperamos com a persistência do nosso pecado, mas, a cada vez, somos salvos pela persistência do amor de Deus, que supera essa persistência. Lamentar o pecado nos leva a nos entregar à graça misteriosa da justificação e da santificação de Deus, que ultrapassa nossa própria sabedoria. Por isso, confessar a nossa miséria por continuarmos pecando e dar graças a Cristo pela graça do amor, do perdão e da santificação de Deus são sempre aspectos indissociáveis na caminhada cristã.
Conclusão. A caminhada de arrependimento dos pecados na graça e de retorno contínuo a Cristo
Essas questões são, ao mesmo tempo, conhecimento intelectual e verdades adquiridas pelo Espírito Santo exclusivamente por meio da experiência da fé. Na graça do Espírito Santo, desejamos seguir a Bíblia e nos esforçamos sinceramente para isso. Além disso, na graça, enfrentamos o pecado, desesperamo-nos de nós mesmos e nos convencemos de que o perdão absoluto de Cristo é realmente necessário. E, ao agradecer e confiar nessa graça e nesse amor de Deus, somos consolados e encorajados, experimentando pouco a pouco o poder da Palavra de Deus e sendo transformados no que diz respeito a amar e a viver de maneira santa. Do início ao fim, o que nos transforma por dentro é a graça de Deus, a fé que confia em Cristo e a resposta de gratidão por Deus amar alguém tão pecador como eu.
Uma vida em que, pela graça de Cristo, somos salvos, nos esforçamos, nos arrependemos e somos transformados em pessoas de amor. Vamos continuar, também nesta semana, nossa jornada desfrutando e aprofundando esse relacionamento verdadeiro com Deus.
Oração
Deus Pai. Quando tentamos mudar a nós mesmos com nossas próprias forças, acabamos fracassando; e, ao percebermos a profundidade de nossos pecados, ficamos desanimados. No entanto, agradecemos porque tanto a nossa salvação quanto o nosso crescimento estão, em sua totalidade, na Tua graça.
Permita-nos confiar não em nossa própria retidão, mas na justiça de Cristo, e que possamos experimentar a transformação por meio da ação do Espírito Santo. Permita-nos contemplar essa experiência pela fé. Que, mesmo quando lamentamos nossos pecados, possamos, a partir daí, nos voltar para o amor e o perdão de Cristo. Oramos em nome do Senhor Jesus Cristo.
Amém.
Sermão do Culto Dominical de 21 de junho de 2026
Epístola aos Romanos 7:14–25
Título da pregação: Retornando à graça de Cristo em meio à miséria
Introdução. Entre a graça de Deus e meus esforços
1. O sofrimento de tentar tornar-me santo por minhas próprias forças
2. Reconhecendo meu próprio pecado e minha impotência, volto-me para Cristo
3. Esforçar-me na graça que está em Cristo
Conclusão. Uma caminhada de arrependimento pelo pecado na graça e de retorno contínuo a Cristo